番外編: 続・この映画の原作がすごい!(下)

「ペーパームーン」のイラスト(ライアン・オニールとテイタム・オニール)

"はじめにことばがあった。ことばは神とともにあり、ことばは神だった"(ことばを"原作"に、神を"紙"に脳内変換してくださいませ)――というわけで、そもそもそれなしにはどんな傑作映画も生まれるはずのなかった(むろん原作のある場合ですよ)"作品の原点"に対する深いリスペクトと愛を込め、前回の「番外編: この映画の原作がすごい(上)」に続き、残り25冊の紹介です。

その面白さにハズレなし、といっていい映画の原作は、それを読むこと自体に悦びがあるだけでなく、私にとっては、お気に入りの映画のエキスをとことん絞りつくす、お手軽な絞り器の役目を果たしてくれるものだったりもします。原作と見比べる(読み比べる)ことによって、その作品世界に対する新発見があったり、理解が深まったり(原作を読んで初めて、あっそうだったの!?と思ったことは数知れず)、またその脚色の手法や切り口、あるいはその度合いに独創的な飛躍や工夫が仄見えたりもして、多少大げさに言えば、創造というマジックの舞台裏を、ちらりと垣間見る興奮を味わわせてくれたりもします。

ちなみに、そんな角度から観る醍醐味を、これまでにもっとも味わわせてくれた作品が、黒澤明の「用心棒」(1961)とコーエン兄弟の「ミラーズ・クロッシング」(1990)。奇しくもどちらもノン・クレジットながら、その元ネタとなった作品は"一読瞭然"、ともにダシール・ハメットの「血の収穫」「ガラスの鍵」

"百名の監督がいれば、同一の本から百の異なった映画が出来上がる"(by ジャン=ジャック・アノー)

というわけで、着眼点が異なれば、同じ原作からこうも異なる味わいの作品(しかもどちらも傑作)が生まれるものか、と観るたび読むたび、感嘆することしきりなのです。

...とまあ、余計なことを書き出すときりがなくなるのでこのくらいにして、それでは後半の25冊、いってみよーっ!



続・この映画の原作がすごい!(た行~わ行)



太平洋ひとりぼっち原作名: 太平洋ひとりぼっち
著者名: 堀江謙一
映画化作品: 「太平洋ひとりぼっち」(1963年 監督:市川崑)


なるべくお近づきになりたくない、利己的人間の典型のようにも思える著者の(あくまで本書のみの印象ですよ)、しかしそんな人間だからこそ成し遂げることができたともいえる、日本人初の単独ヨット無寄航太平洋横断をめぐる破天荒な航海記。

絶海を渡る3ヶ月余の孤独な冒険航海そのものの面白さもさることながら、果たして本人がどこまで自覚した上で綴ったのかがわからない(とはいえ仮に自覚していたとしても、おそらくちっとも気にしなかったであろう)、その胸のうち(人間性)をストレートに晒しまくった文章が、最高です。要するに、関わればきっとイヤな思いをするであろう、しかし火の手の届かぬ対岸から無責任に眺めるぶんには抜群に興味深い、一癖も二癖もある人物の人間観察が面白い本です。

世間体を一切気にしない、この手の正直過ぎるにもほどがある本は滅多にお目にかかれるものではなく(なぜなら自伝めいた本を出すほどに成功した人間は普通、多少なりとも己を飾るものだから)、私の読書暦の中でも、そんな貴重な味わいを持った"稀覯本"(意味が違うか?)は、ほんの数えるほどです(ちなみにその頂点を極めた二冊が、矢沢永吉の「成りあがり―矢沢永吉激論集」、そして横山やすしの「まいど!横山です ど根性漫才記」)。

いかなる神の差配か、後年、著者の宿敵となった某都知事の弟が主役を演じた映画は、未見。




タッポーチョ 太平洋の奇跡 「敵ながら天晴」玉砕の島サイパンで本当にあった感動の物語 (祥伝社黄金文庫)原作名: タッポーチョ 太平洋の奇跡
著者名: ドン・ジョーンズ
映画化作品: 「太平洋の奇跡-フォックスと呼ばれた男-」(2011年 平山秀幸)


太平洋戦争末期、サイパン島の玉砕戦とその後の米軍による大掃討作戦を生き残り、タッポーチョ山周辺数キロメートル四方のジャングルに潜みながらゲリラ戦を展開した、大場栄大尉率いる敗残兵数十名と民間人たちの1年数ヶ月にわたる戦いと逃亡の日々を描いたノンフィクション・ノベル。サイパンに従軍していた元米軍兵士の著者が、大場大尉自らの検証のもとに綴った、"敵の眼で書かれたわれわれの戦いの記録"(巻頭に掲載の大場栄氏本人の寄稿より)です。

大場大尉を"敵ながら天晴れ"な"ヒーロー"として捉え、そしてそんな日本人がかつていたことを日本の"無知な若者たち"にも知らしめたいという、いかにもアメリカ人的な価値観と押し付けがましさが少々煩わしくもあり、またその目論見の露骨さと素人作家の稚拙さゆえ、ノンフィクション・ノベルの出来栄えとしては、小説部分(であることがわかってしまう)が致命的に安かったりもするのですが、とはいえ圧倒的兵力を誇る米軍の目を欺き活動し続けた大場隊をめぐる、政治的、思想的な思惑とは一切無縁の戦記(あるいはサバイバル・ストーリー)としての新鮮さと面白さもまた、元敵兵の手になるからこそといえるかもしれません。

そもそも標題の映画が公開され、本作の存在を知ったのですが、映画自体は未見。




丹下左膳(一) 乾雲坤竜の巻 (光文社文庫)原作名: 丹下左膳
著者名: 林不忘
映画化作品: 「新版大岡政談」(1928年 監督:伊藤大輔) ほか


いわゆる大衆文学の呼び名が相応しい、波乱万丈、有為転変、痛快無比の娯楽活劇時代小説。昨年、山中貞雄の「丹下左膳餘話 百萬兩の壺」(1935)を再見した際、たまたま本屋の棚に並んだ本作の文庫が目に留まり、大して期待もせずに読み始めたところ、まさに一読、巻を措く能わずの面白さ。一晩二晩三日三晩と、物語の世界にどっぷり浸る悦びを堪能させてもらいました。「乾雲坤竜の巻」「こけ猿の巻」「日光の巻」の全三巻のうち、隻眼隻手のニヒルな怪剣客、丹下左膳が押しも押されぬ主人公に据わるのは、実は第二巻から(そもそも第一巻の新聞連載時のタイトルは「新版大岡政談・鈴川源十郎の巻」だった)。そして丹下左膳の性格も、第一巻と第二巻ではがらりと様変わりしてしまっていたりします。

新聞連載中から複数の制作会社によって競作された山のような映画化作品をめぐる、今となってはこんがらがった釣り糸のようなややこしさを紐解いてみた、興味のない人にとってはホントに興味ないであろう記事はこちら → 「丹下左膳餘話 百萬兩の壺」




Dance_with_Wolves原作名: ダンス・ウィズ・ウルヴズ ※絶版
著者名: マイケル・ブレイク
映画化作品: 「ダンス・ウィズ・ウルブズ」(1990年 監督:ケビン・コスナー)


ケビン・コスナーの十年来の友人だった、マイケル・ブレイクの処女作。失われゆくフロンティアを舞台に、フロンティアに憧れたひとりの白人が平原インディアンの部族と出遭い、絆を深め、やがて自らもまたフロンティアの一部となっていく姿を、フロンティアを失った現代人の郷愁を込めて綴った、美しくも哀しい物語。本末転倒な言い方ですが、本作の映画化作品、「ダンス・ウィズ・ウルブズ」(1990)に感じる美しさが、そっくりそのまま文字で表現されているといっていい小説です。

学生の頃に観て、やたらと感銘を受けた映画の世界が、いったいどこまでリアリズムに裏打ちされたものだったのか(要するに、この映画に対する私自身の感動が、どこまで歴史の実像に対するものだったのか、あるいは虚構に対するものだったのか)、長年気になっていたのですが(日本人からすれば、パラレルワールドの御伽噺としか思えなかった「ラスト・サムライ」(2003)を観て以来、その欲求はますます強くなっていた)、ようやく今年になっていろいろ調べてみる中で、原作も手に取ってみた次第。せっかくいろいろ調べたので、映画の感想記事も全面的に書き直しました → 「ダンス・ウィズ・ウルブズ」




釣りキチ三平(1) (講談社漫画文庫)原作名: 釣りキチ三平
著者名: 矢口高雄
映画化作品: 「釣りキチ三平」(2009年 監督:滝田洋二郎)


永久不滅、完全無欠のフィッシング・バイブル。といっても、これを読んでも釣技が上達したりするようなことはなく、釣り人にとって、そんなことよりもっと大切な何か、いわば釣心を教えてくれるマンガです。単行本にして全六十七冊、これほど釣りの魅力と醍醐味を全方位的に描ききった作品は、小説、映画を含めてほかになく、釣り好きの琴線を掻き鳴らさずにはおかない、その数々のドラマと精緻に描画された詩情溢れる自然風景は、何百回の味読・鑑賞に耐えるものばかりです(いまだ絶賛愛読中)。

私がこのマンガから受けた影響の大きさには計り知れないものがあって、日本各地はおろか、メキシコくんだりまで釣りに行くような人間になってしまったのは、遥々カナダやハワイに遠征した三平や魚紳さんの背中を追いかける気持ちが心のどこかにあったから。いや、そもそもこのマンガがなければ、ここまで釣りが好きになっていなかったのかもしれません。

連載が終わってしまったときは、ホント悲しかったものですが、二十年の時を経て、まさかの復活(「平成版 釣りキチ三平」)を遂げました。昨年、WOWOWでつい観てしまった映画は、ロケーションが素晴らしい。以上!




Tinker_Tailor_Soldier_Spy原作名: ティンカー、テイラー、ソルジャー、スパイ ※絶版
著者名: ジョン・ル・カレ
映画化作品: Tinker, Tailor, Soldier, Spy(2011年公開予定)


上篇の「囮弁護士」に続き、映画化されていない作品をもう一作。といってもこちらは既に撮影が終了し、本年中には(少なくとも本国イギリスとアメリカでは)めでたく公開されそうです(IMDbより)。スパイ・スリラーの巨匠、ジョン・ル・カレの最高傑作、"スマイリー三部作"の第一作で、私のスパイ小説オール・タイム・ベスト・スリーの一冊でもあります(ちなみにあと二冊は、ジョン・ガードナーの「マエストロ」とロス・トーマスの「黄昏にマックの店で」)。

英国諜報部の中枢に潜む、ソビエトの二重スパイは誰か――。裏切り者が誰であってもおかしくない状況下、政府から密かに調査を依頼された元諜報部員、ジョージ・スマイリーは、膨大な過去の記録を紐解き、関係者にインタビューを重ね、証拠の欠片をこつこつ拾い集めながら、徐々に真相へと迫っていきます。薄皮を一枚一枚、用心深く積み重ねたかのようなプロットを、陰影の濃い人間模様でしっとりコーティングした、分厚いにもほどがある、スリリングで、しかしとことん静謐な物語は、クライマックスに至って、読者にある種の注意力と読解力を要求し、下手に速読すれば、紙背に潜む真相を、つい見過ごしてしまうことにもなりかねません。これこそまさに、じっくり読むべき小説の典型なのであり、こんな"ことば"で構築された大伽藍のような物語を、映画はどう映像化したのか、そのスタッフィングがめちゃくちゃ期待できるだけに(監督はトーマス・アルフレッドソン、スマイリー役はゲイリー・オールドマン、そしてどうやらスマイリーの元同僚で、奥さんの浮気相手にコリン・ファース)、久しぶりに映画館に足を運んでみたい一本なのです。




鉄塔 武蔵野線 (ソフトバンク文庫 キ 1-1)原作名: 鉄塔 武蔵野線
著者名: 銀林みのる
映画化作品: 「鉄塔 武蔵野線」(1997年 監督:長尾直樹)


広い世の中、こんなフェチもいる、という鉄塔マニアによる鉄塔マニアのための"鉄塔小説"(©荒俣宏)。幼い頃から鉄塔が好きで好きで堪らないひとりの小学生が、埼玉の日高市から東京の保谷市(現西東京市)へと延びる送電線、"武蔵野線"を繋ぐ全九十基の鉄塔を、さまざまな障害を乗り越えながら、ひとつひとつ訪ね歩いていく、夏休みの冒険をビビッドなタッチで紡いだロード・ノベルです。

私の手元にある、"完全版"と銘打たれた文庫には、B4サイズの"武蔵野線"の地図が織り込まれ、さらにはご丁寧なことに、すべての鉄塔の写真が一枚どころか一基につき五枚も(!)掲載されています。そんな、鉄塔好きでなければとても付き合いきれない本書の世界に(碍子の形や送電線の垂れ下がり具合にいちいちうっとりしたりがっかりできる人間が、果たしてこの世に何人いるのか?)、ノーマルな私が、なぜこうも強く惹きつけられてしまうのかといえば、それは、あくまでも本人の決めたルールに従い、ひたすら送電線を辿っていく少年の姿に幼い頃の自分自身を見て、懐かしく、甘酸っぱい気分に包まれてしまうからです(おそらく、この本に夢中になる誰もがそう)。そう、この川はどこへ流れてゆくのだろう、この道はどこまで続いているのだろう、そんな思いに胸をわくわくさせながら、徒歩や自転車で遠出した、遠い日の冒険のときめきを鮮やかに甦らせてくれる、いわばタイム・カプセルのような本なのですね(しかも"武蔵野線"のルートの一部が、私の少年時代の行動範囲と重なっていたりするのでなおさら)。

私たちの世代には、"ちびノリダー"として記憶されている伊藤淳史主演の映画については、いずれ記事にしたいと思います。




デルスウ・ウザーラ―沿海州探検行 (東洋文庫 (55))原作名: デルスウ・ウザーラ―沿海州探検行
著者名: アルセーニエフ
映画化作品: 「デルス・ウザーラ」(1975年 監督:黒澤明)


ロシアの探検家、ウエ・カー・アルセーニエフによる、学術調査を目的とした極東ロシア沿海州地方をめぐる、三度目(1907年)の探検旅行の記録。デルスウ・ウザーラとは、道なきタイガ(シベリア地方の針葉樹林)で探検隊の道案内を務めたゴリド族(ナナイ族とも呼ばれるツングース系の少数民族)の初老の猟師の名前です。その目的ゆえ、やや単調でもある探検行と自然観察の記録そのもの以上に、自然と調和して生きる"原始の人"デルスウの姿、そしてその生き方と考え方が強く印象に残る本書のタイトルに、その名が冠せられているのは、まったくもってむべなるかなです。

探検を終えたアルセーニエフは、視力が衰え、狩りのできなくなったデルスウを、よかれと思ってハバロフスクの街へと連れ帰り、自宅に同居させます。しかしデルスウは、時を置かずして塞ぎこむようになり、やがて家を飛び出すと、その二週間後、街外れの森の中で、他殺体となって発見されます。文明人の軽率な親切心が招いたと言っては言いすぎながら、そのあまりに哀れをもよおす最期には、現代文明の進歩・発展の前に、いずれは消滅せざるをえない、デルスウ・ウザーラ的なるすべてのものの末路が巧まずして暗示されているかのようであり、フロンティアの消滅前夜を描いた「ダンス・ウィズ・ウルヴズ」に一脈通じる喪失感といっていい、およそ探検記と名の付く書物にあらざる深い余韻を残します。

本作の映画化作品は、いわずとしれた黒澤明の「デルス・ウザーラ」(1975)。とはいえ二部構成の映画のうち、本書にあたる部分は後半のみで、デルスとアルセーニエフが初めて出会い、ハンカ湖へと旅する(そして遭難しかかる)前半部分の原作は、同著者による1902年(第一回目)と1906年(第二回目)の調査旅行の記録、「ウスリー探検記」。要するに、デルスウについての物語としては、本書はほとんど続編みたいなものなのですね(今でも新刊の入手が可能な本書と違い、満鉄調査部第三調査室翻訳による昭和16年発行、定価1円50銭の「ウスリー探検記」は、とうに絶版。しかしありがたいことに、近所の図書館にありました。旧仮名遣いで実に読みづらかったりもするのですが、内容の面白さに、そのうちそんなことはちっとも気にならなくなります)。

ちなみにアルセーニエフは、デルスの見事な森のトラッカー(追跡者)ぶりを目の当たりにし、"思はず米作家フェニモア・クーパの物語の主人公を思ひ浮かべずにはゐられなかつた"と記しています。"フェニモア・クーパの物語の主人公"とは、「モヒカン族の最後」に登場する、モヒカン族の若き酋長アンカスや白人猟師ホークアイのことでしょう(この本も、のちほどご紹介)。

映画は、原作のデルスの存在感と自然の懐深さを見事に映像化しています。冒頭、デルスの埋葬地が森林開発によって一変してしまった情景を付け加えることで、前述の"喪失感"を増幅させていたりもして、強く心に残る映画です。外国が舞台となった外人だらけの作品であるせいか、それともスタッフが異なるせいか、良くも悪くもクロサワ映画らしさ(はったりの強さとか、こってり感と言ってもいい)のあまり感じられない、無色透明な感じのする作品です。




現代語訳 南総里見八犬伝 上 (河出文庫)原作名: 南総里見八犬伝
著者名: 曲亭馬琴
映画化作品: 「里見八犬傳」(1954年 監督:河野寿一) ほか


全9集98巻、106冊からなる、わが国最長の"伝奇小説"にしてその元祖(いや、もしかすると「帝都物語」の方が長いかも...)。古文の素養がないため、例によって現代語訳で読みました。私が読んだのは、自身も小説家である白井喬二訳による、前半部をほぼ全訳した"抄訳"(河出文庫版)。なにせ抄訳なので、以前の記事では気が引けてリストから外したのですが、でも無類に面白いので、まあいいかということで(完訳の現代語訳が他社から二種刊行されているものの、ひとつは途中で翻訳途絶、そしてもうひとつは絶版、超高価)。

時は室町時代、安房の国を舞台に、傾城の悪女、玉梓(たまずさ)に呪いをかけられ、飼犬の八房(やつふさ)とともに山に籠もった城主里見義実の娘、伏姫(ふせひめ)の自害と同時に関八州の各地へ飛散した、仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌の文字を浮かべた数珠の珠。これををそれぞれ懐に収めた八人の犬士たちが、数奇な運命と不思議な因縁に導かれるようにして里見家に集い、やがてお家に仇なす関東管領と周辺諸侯の連合軍と合戦し見事勝利を収めるという、(読む前から)なんとなく耳に馴染みのある物語。

私の読んだ抄訳は、八犬士が集結する"小団円"まで(第1回~第127回 全127回)に約,1050ページを費やしているにもかかわらず、その後の"大団円"まで(第128回~第180回 全53回)が、ほんの100ページ弱。端折るにもほどがある端折りっぷりなのですが(たとえば「七人の侍」(1954)で、前半1時間30分を費やして描かれる侍集めの一幕のあと、2時間にわたる野武士との合戦が、ほんの15分程度に短縮されてしまったようなもの)、まあそれだけ、「八犬伝」は前半の面白さが飛びぬけている、ということなのでしょう。実際、紆余曲折の転々流転を繰り返した挙句、"八犬士"がようやくひとところに集結した時点の満足感と満腹感はかなりのもので、確かにもういいやこれで、と思ってしまいました。

これまで数作作られている映画は、いずれも未見。映画よりも、NHKの大河ドラマのように、1年くらいかけて、だらだらやるのが相応しいボリュームではあります。




にあんちゃん (角川文庫)原作名: にあんちゃん
著者名: 安本末子
映画化作品: 「にあんちゃん」(1959年 監督:今村昌平)


両親を亡くした四人の兄弟が、戦後の佐賀の炭鉱町で肩を寄せ合うようにして生きる日々のつれづれを、当時10歳だった末妹が、10歳の感性でもってありのままに綴った、そもそも公表される予定ではなかった日記(一部、次兄の"にあんちゃん"の日記が差し挟まれる)。貧困のどん底で喘ぐ、とある一家の記録であると同時に、戦後の地方社会の世相が巧まずして写りこんだ、見事な時代のスナップでもあります。

一家の稼ぎ頭だった父が死に、ほどなく長兄が炭鉱を解雇され、やがて社宅を追い出され、果てはやむなく一家離散、と立て続けの苦難に見舞われる中、貧乏に苦しみながらも、へこたれることも捩じくれることもない少女の、"いろんな目に出あっても、ちゃんと、喜ぶべきを喜び、悲しむべきを悲しむ純真な心"(長兄のまえがきより)、そして悲惨な境遇下にあっても、そんなまっすぐな心を育む、兄弟同士の温かい思いやりと絆が、強く胸を打ちます。

本作の映画化作品、今村昌平監督の「にあんちゃん」(1959)は、当たり前ながらも今村印のエロさとグロさはどこにもなく、とはいえその反骨精神のエキスは次兄の"にあんちゃん"の中にいきいきと息づいて、(これも当たり前ながら、末妹が世界の中心にある)原作に比べ、より「にあんちゃん」のタイトルが相応しい、少年のエネルギッシュな負けじ魂が印象的な作品です。




ハツカネズミと人間 (新潮文庫)原作名: 二十日鼠と人間
著者名: ジョン・スタインベック
映画化作品: 「二十日鼠と人間」(1992年 監督:ゲイリー・シニーズ) ほか


"だがネズミよ、おまえ一人だけではない、見込みどおりにならないことを身をもって知るものは。ネズミや人間の用意周到な計画("The best laid schemes of Mice and Men")もうまくいかないことが多く、約束された喜びの代わりに、悲しみと苦しみの中に放り出されるのだ"(山田修訳、「ロバート・バーンズ詩集」収録の「ネズミに寄せて、巣の中のネズミを鋤で掘り起こした際に、」より抜粋)――18世紀半ばのスコットランドの詩人、ロバート・バーンズの詩の一節からそのタイトル("Of Mice and Men")を借りた(新潮文庫版のあとがきより)、南カリフォルニアの農場を渡り歩く、見た目も性格も異なる二人の季節労働者、いつか自分の農場を持つことを夢見るジョージと知恵遅れの大男レニーの奇妙な友情とその悲劇的な顛末を、場面を限定する戯曲のスタイルで描いた中篇小説。

悪気のないレニーによって握り潰されるネズミのように、抗うことのできない、理不尽かつ気まぐれな巨大な力(現実とも運命ともいっていい)によって、その夢もろとも捻り潰される二人の労働者の姿に浮かび上がる、虚無的とすらいえる圧倒的な無力感は、奇しくもロバート・バーンズの詩の主題を敷衍したかのようでもあり、また不確実性のいや増す今日において、ますます真理の後光を帯びて見えたりもします。

たまたま標題の映画が公開された頃に読んだ(ほとんど読み飛ばした)のですが、昨年、ようやく映画を観たついでに久しぶりに再読しました。映画はとことん原作に忠実で、なんといってもジョージ役のゲイリー・シニーズとレニー役のジョン・マルコヴィッチの原作のイメージどおりの佇まいが素晴らしい。




八百万の死にざま (ハヤカワ・ミステリ文庫)原作名: 八百万の死にざま
著者名: ローレンス・ブロック
映画化作品: 「800万の死にざま」(1986年 監督:ハル・アシュビー)


1976年に第一作が上梓されて以来35年、今年、6年ぶりに新作が刊行された、アル中探偵マット・スカダーを主人公に据えた哀愁度高めのハード・ボイルド、"マット・スカダー・シリーズ"の第五作目。ちなみにタイトルにある"八百万"とは、当時のニューヨークの人口のこと。本作は、現時点で全17冊に及ぶシリーズの重要な転換点となった作品であり、またこのシリーズに漂う気分(=哀愁です、言うまでもなく)をもっともよく伝えている一冊でもあります。

そもそもシリーズ五作目とは知らず、真っ先に読んでしまい、お陰で第一作目から順を追って読めば味わえたであろう、本作のラスト一行に待ち受ける、あまりに大きなカタルシス(事件の謎解きとは関係ありません)を味わい損ないました(邦訳は、本書がシリーズ中で一番早く、ハヤカワ・ミステリ・ポケット・ブック版の裏表紙にある内容紹介には、"...ニューヨーク派の気鋭作家が描きあげた新・ハードボイルド第一弾"などと、罪作りな嘘惹句が堂々と書かれていたりする)。

私にとって本シリーズを読む喜びは、謎解きのケレン味うんぬんよりも(といってもケレン味爆発の作品もある)、大都会ニューヨークを生きる主人公の孤独と諦念に彩られた人生をしみじみ玩味するところにあって(その意味で、AA(アルコール中毒者自主治療協会)の集会に通いながらも酒を断ち切れない本作のマットの弱さは、実に素晴らしい)、それゆえ滑り出した筆に加速度がつきすぎて止まらなくなったかのごとく、回を重ねるごとに、ただ一方的に好転していく(つまり現実感が薄れていく)マットの人生に鼻白んでもいたのですが、amazon.comのレビューを見る限り、本国での評判がすこぶるよい新作は、どうやら本作前後に起きた過去の事件を回想するという趣向らしい(なるほどその手があったか!)。いや、これは今から邦訳版の刊行が待ち遠しくて仕方ありません。

ジェフ・ブリッジス主演の映画は未見なのですが...ちょっとイメージが違うんですよねぇ。




First_Blood原作名: 一人だけの軍隊 ※絶版
著者名: デイヴィッド・マレル
映画化作品: 「ランボー」(1982年 監督:テッド・コッチェフ)


"They drew first blood, not me"("先に手を出してきたのはヤツらだ、オレじゃない"――映画「ランボー」のセリフより)というわけで、本作の原題は映画と同様、"First Blood"。この物語のテーマと肌触りを込めた、そのタイトルの意味するところを、簡潔な日本語でぴたりと表現するのは確かに至難の業だとは思うのですが(「この邦題がすごい!」の記事参照)、いくらなんでも「一人だけの軍隊」という邦題は、いかがなものか(いや、ぶっちゃけそんな感じではあるんですけど)。

ベトナム戦争の英雄として帰還しながら、社会に適応できない元グリーン・ベレー(特殊部隊)の流れ者(ランボー)が、中西部のとある排他的な田舎町の警察署長に理不尽な扱いを受けたことをきっかけとして、これまた理不尽すぎる闘争本能を爆発させ、警察官を殺害して山中へと逃げ込むと、圧倒的多数の追っ手と犬を相手にゲリラ戦の特殊技能を駆使して死闘を繰り広げるという、バイオレンス・アクション・サバイバル小説です。プライベートに鬱屈を抱えている、田舎町の閉鎖性を象徴するかのような警察署長と、超人的な生存能力の使いどころのない社会に自ら"居場所"を作り出すかのごとく、山と田舎町を"戦場"に変えていくランボー、どちらが"先に仕掛けた"(="draw first blood")とも言いきれないところがミソで、二人は狩るものと狩られるものの立場を何度も入れ替えながら、闘争心に我を忘れたかのごとく戦いをエスカレートさせ、血みどろのクライマックスへと突き進んでいきます。

ランボーを演じたスタローンの肉体とアクションの圧倒的説得力、そして原作に描かれた警察署長の人物を深彫りするエピソードをすべて省いてなお、その佇まいがすべてを物語っているかのようなブライアン・デネヒーの存在感が素晴らしい映画もまた、二重丸。北西部の国境地帯に広がる暗い森(原作は中西部)の中で繰り広げられるオトナのかくれんぼ(いや、おにごっこか?)には、何度観てもわくわくさせられます。




白夜行 (集英社文庫)原作名: 白夜行
著者名: 東野圭吾
映画化作品: 「白夜行」(2011年 監督:深川栄洋) ほか


生真面目な本格ミステリを糞真面目に書き続ける生一本な推理作家、という本格ミステリ好き(私)にとっては好ましくあっても、どこか読後の印象の薄かった著者が、突如自棄を起こしたかのような「怪笑小説」「毒笑小説」で意外すぎる一面を披露したかと思いきや、夾雑物を一切排した本格ミステリというジャンルの純粋結晶のような「どちらかが彼女を殺した」を書き、果ては自己破壊衝動に駆られたようなジャンル殺しの傑作「名探偵の掟」を経て、それまでのイメージをまったく裏切る「秘密」で人間を描く膂力を存分に見せつけたその翌年、世に送り出したのが本作、著者畢竟の大作ともいうべき「白夜行」。心に闇を抱えた人間の孤独と凍りついた魂の彷徨の軌跡を、圧倒的な語りの技巧と筆力でもって描ききった、その乳白色の薄暮の中を手探りで進むような読中感が、まさに"白夜行"のタイトルに相応しい、正直、ミステリというレッテルを貼るのも気が引ける(そう、たとえばドストエフスキーの「罪と罰」をミステリと呼ぶのが躊躇われるように)、打ちのめされるような読後感の超弩級ミステリです。

こんなものを読まされてしまうと、たとえば「容疑者Xの献身」のようなトリックを核とした、いかにもミステリらしいミステリは、もはや物足りないものでしかなく(要するに、私自身の嗜好もかなり経年変化した)、またいつか、本作あるいは本作の姉妹編ともいえる「幻夜」のような作品の読めることを切に願うばかりです。




Paper_Moon原作名: ペーパームーン ※絶版
著者名: ジョー・ディヴィット・ブラウン
映画化作品: 「ペーパームーン」(1973年 監督:ピーター・ボグダノヴィッチ)


大恐慌時代の南部を旅して回るペテン師と彼を父親と信じる(信じたがっている)少女、二人の気ままないかさま旅の日々を、長じた少女の郷愁が滲む回想形式で綴ったコン・ゲーム小説。本国での再刊時に、映画と同名のタイトルに改題された(そもそものタイトルは主人公の女の子の名前、"Addie Pray")、しかし"Paper Moon"というタイトルのヒントになった挿入歌が流れるはずもなければ(なにせ本ですから)、"紙の月"が登場するフェスティバルの一場面があるわけでもない(映画のオリジナル)、小説だけ読んだ人にはいったいなんのことやらさっぱりわからないであろうタイトルの小説です。

要するに、今となっては映画を観た人御用達の本ということなのでしょうが(実際、小説だけを読んで映画を観たことのない人が果たしてどれほどいるのか?とは思う)、とはいえ映画の従属物として埋没させておくには勿体ない、ロード・ノベルの傑作です。映画は、父娘の人間関係に焦点を絞った(そしてそれが大成功している)ペーソス味の強い作品ですが、全編を通じて少女が厄介払いされる気配が皆無の原作に、映画のラストのような、お涙頂戴はありません。二人の距離感は、最後の最後まで、どちらかといえば父娘というより相棒なのであり、だらだら続く詐欺旅行を通じて描かれる、バラエティ豊かな信用詐欺の手口そのものが読みどころともなった、見方によっては一種の情報小説ともとれる一冊です(映画に描かれるペテンのエピソードは、ほんのさわり。ちなみに「スティング」(1973)の冒頭で披露されるペテンも、彼らの十八番だったりします)。




River_Runs_through_It原作名: マクリーンの川 ※絶版
著者名: ノーマン・マクリーン
映画化作品: 「リバー・ランズ・スルー・イット」(1992年 ロバート・レッドフォード)


「人生の物語は、書物よりも川に似ている...」(本書より)――大自然の懐に抱かれたモンタナ西部の町を舞台に、謹厳実直な牧師を父に持つ二人の兄弟の絆と家族愛、そして歳月の移ろいを、彼らの人生と分かちがたく結ばれたフライ・フィッシングに込めて描いた、釣り人の端くれ(しかも兄弟持ち)ならイヤでも郷愁を誘われずにいられない、ただひたすらにビューティフルな物語。その淡々とした、多分に内省的な文章のそこかしこにそこはかとない哀しみと諦念が滲むのは、そもそも本書が、70歳を過ぎた著者が、若くして亡くなった弟の思い出をもとに綴った、いわば(最後まで理解することのできなかった)弟に対する積年の思いの総決算ともいうべき、自伝的色彩の濃い小説だからです(ゆえに邦題は、"マクリーンの川"。どうかとは思いますが)。

一昨年、「リバー・ランズ・スルー・イット」(1992)の記事を書いた際に原作のあったことを知り、遅ればせながら手に取りました(ちなみに原作の原題は、映画のタイトルと同じ)。当たり前ながら、映画においては全面的に映像に託されていた(そしてデフォルメされてもいた)釣りの技、そして釣り人の心情が、原作では、よりテクニカルかつ繊細に表現されていて、釣り人として、映画に倍する共感と好感を覚えずにいられません。ちなみに映画のエピソードは、それなりに脚色が施されていて、特に兄弟の違いを鮮やかに際立たせる、激流のカヌー下りの一幕が原作になかったことには驚きました。ま、映画は映画でやっぱり素晴らしいのです!




The_Last_of_the_Mohicans原作名: モヒカン族の最後 ※絶版
著者名: ジェイムズ・フェニモア・クーパー
映画化作品: 「ラスト・オブ・モヒカン」(1992年 監督:マイケル・マン)


18世紀末のフレンチ・インディアン戦争(インディアンの各部族をそれぞれ味方につけたイギリスとフランスによる、北アメリカ・オハイオ川流域の領有権を巡る植民地戦争)を背景に、陥落したイギリス軍の砦から、フランスに与するヒューロン族の戦士マグアによって拉致された司令官の娘二人を救出せんとする、モヒカン族の若き戦士アンカスとその父親チンガチック、そして文明社会に背を向けて生きる白人猟師、ホークアイの決死の追跡行と壮絶な戦いを、自然と調和して生きるインディアンたちに対する深い共感を込めて描いた、アメリカ文学の古典。19世紀初頭のロシアの探検家、アルセーニエフが、シベリア・タイガの猟師、デルス・ウザーラの見事な森の賢者ぶりを目の当たりにして、この本のことを頭に思い浮かべたように(「ウスリー探検記」)、道なき道に残る僅かな痕跡をたよりに獲物の足跡を辿るインディアンたちの鮮やかなトラッカー(追跡者)ぶりが、強く印象に残る一冊です。

19世紀なかばの大平原を舞台にした「ダンス・ウィズ・ウルブズ」が、フロンティアの黄昏を描いた物語だとすれば、本作は、その終わりの始まりを描いた物語といっていいかもしれません(言うまでもなく、フロンティアは東から徐々に侵食されていった)。アンカスとマグア、仇敵同士の勝者なき最期は、森林インディアンの最後を象徴するものであると同時に、やがて北米大陸の先住民族すべてに訪れる最後を予見したものでもあります(本書の刊行時期は、「ダンス・ウィズ・ウルブズ」に描かれた時代のおよそ40年前、いまだ平原インディアンが自由を謳歌していた1826年のこと)。

主人公を、アンカスから白人のホークアイに変更し、メロドラマ風にかなり脚色された映画は、壮大な砦のセットとロケーション、そして荘厳な音楽が素晴らしい(PRIDE時代のヒクソン・グレイシーの入場曲。どうでもいいですね)。




野性の呼び声 (光文社古典新訳文庫)原作名: 野生の呼び声
著者名: ジャック・ロンドン
映画化作品: 「野性の叫び」(1972年 監督:ケン・アナキン) ほか


上篇の「自由への逃亡」に続き、犬を描いた作品をもうひとつ。カリフォルニアの裕福な家庭の飼い犬として、何不自由ない暮らしを送っていた雑種の大型犬バックが、数奇な運命を経て、アメリカ最後のフロンティアとも呼ばれるカナダ・アラスカ国境地帯の凍てつく大地で使役される橇犬となり、弱肉強食の掟が支配する苛酷な自然環境を生き抜くうちに、次第に己の中に眠る太古の野獣の血を目覚めさせていくという、とことんマッチョでハードボイルドな物語(何度も翻訳されていて、「荒野の呼び声」「野生の叫び」という邦題の付けられた本もある)。野性に目覚めるにつれ、いつしか人間の友として平和に暮らしていた(飼い馴らされていた)時代を忘れ去っていくバックの先祖返りっぷりが、犬好きの文明人としては、ちょっと悲しい。

ちなみに「この映画の原作がすごい(海外篇)」で取り上げた、ジョン・クラワカーのノンフィクション「荒野へ」「イントゥ・ザ・ワイルド」(2007)の原作)の主人公である放浪好きの青年が、そもそもアラスカに憧れを抱くようになったきっかけが、本書をはじめとするジャック・ロンドンの自然(荒野)礼賛小説。青年の惨めすぎる最期が、著者が本書の中で侮蔑を込めて描いた、荒野の素人――バックの三番目の所有者となった、青臭くて"場違いな若造"ハルと仲間たちの愚かな最期に重なって見えるのが、なんとも哀れだったりします。




山猫 (岩波文庫)原作名: 山猫
著者名: ジュゼッペ・トマージ・ディ・ランペドゥーサ
映画化作品: 「山猫」(1963年 監督:ルキノ・ヴィスコンティ)


犬とくればお次はむろん猫、というわけで、ヴィスコンティの「山猫」(1963)の原作、「山猫」。シチリア最高の名門貴族が、近代イタリア統一(1861年)を契機とする時代の趨勢に押し流され、続く半世紀のあいだに熟れ過ぎた果実がゆっくり腐るように没落していく過程を、倦怠感たっぷりの筆致で綴った、静かなる"滅亡"の物語。主人公のモデルは、シチリア貴族の末裔である著者の曾祖父とされています。

これ、思えばここ5年くらいの間に読んだ"本"の中で、もっとも面白かった一冊かもしれません。なぜ"物語"でなく"本"なのかといえば、時代に抗うすべのない主人公の、"威厳のあるひ弱さ"とでもいうべき、諦念に彩られたメンタリティの襞の襞まで描写し尽したかのような、ヴィスコンティの映画に負けない香気を放つ小説自体の読み応えもさることながら、本書の刊行直後に亡くなった訳者(小林惺)による解説(訳者あとがき)が、素晴らしく充実したものだったからです(イタリア語の原書の初翻訳である、2008年刊行の岩波文庫版)。作品自体についての解説は言うを俟たず、簡潔にして的を得た物語の舞台とその歴史的背景の説明が、世界史に疎い私にとっては実にありがたいもので、本作だけでなく、たとえば「ゴッドファーザー」(1972)の世界を通奏低音のように彩るシチリア人気質というものに対する理解が、ちょっぴり深まったような気がするほどです。

ちなみに映画は、ドン・ファブリーツィオ(バート・ランカスター)が、そう遠くない自らの死を想う場面で締めくくられますが、原作ではその最期と、さらにはタンクレーディー(アラン・ドロン)とアンジェリカ(クラウディア・カルディナーレ)の(なんとなく想像できる)その後が描かれています。




行きずりの街 (新潮文庫)原作名: 行きずりの街
著者名: 志水辰夫
映画化作品: 「行きずりの街」(2010年 監督:阪本順治)


かつて、教え子とのスキャンダルによって都内の名門校を追放され、郷里に戻って塾を経営していた元高校教師の主人公が、久しぶりに上京し、バブル真っ只中の東京で、音信不通となった塾の教え子の行方を捜して回るうち、その失踪事件と自身の過去に繋がりのあったことを知り、やがて屈辱と挫折感にまみれた過去と対峙し、落とし前をつける羽目になるという、中高年のとば口にさしかかった四十路男の通過儀礼を描いた物語。

「飢えて狼」「裂けて海峡」そして「背いて故郷」と、抜群に面白くはありながらも、スタイリッシュというにはあまりにキザ過ぎる文体(俗に"シミタツ節"などと呼ばれています)ともあいまって、どこかいびつさを感じさせもした作風の著者が、突如、遥か宇宙のシミタツ・ワールドから大気圏に降りてきたような気にさせられた、これまた著者の持ち味ともいえる、破綻すれすれのドライブ感(読んでいてドキドキするのです、最後まで破綻しないだろうかと)に乏しい、あまりのまとまりのよさが、かえって物足りなく思えてしまったりもした、本質的には恋愛小説ともいうべき、ハードボイルドのふりをしたウェットな小説です(褒めてるのか?)。

本作を読んだのは二十歳前半の頃で、主人公の、人(特に女性)に対する真摯な姿勢が強く印象に残ったものですが、改めて読みなおしてみると(古本屋でたった105円で売っていたのでつい買ってしまった)、それが酸いも甘いも経験した中年男ならではの余裕とずるさにほかならないものであることが、今となっては、よ~くわかってしまったりもします。ちなみに次作の「帰りなん、いざ」もまた、本作に似た味わいの傑作で、この先ずっとこんな感じか?と思っていたら、そのうち冒険小説やハードボイルドをまったく書かなくなってしまいました。残念!




文庫 新版 指輪物語 全10巻セット (評論社文庫)原作名: 指輪物語
著者名: J・R・R・トールキン
映画化作品: 「ロード・オブ・ザ・リング」(2001年 監督:ピーター・ジャクソン)


まさしく"造物主"と呼ぶに相応しい著者が創り出した、広大無辺にもほどがある空想世界、"中つ国"を舞台に、世界を支配する魔力を秘めた指輪を手にした主人公が、数奇な運命のもと、指輪を永遠に葬り去る宿命を背負い、仲間とともに遥か彼方の"滅びの山"を目指して旅する、長大な物語(文庫本で全9冊+追補編)。言わずと知れたファンタジーの最高峰、と言いつつ昨年初めて読みました。

公開時に観た映画は、そのアメイジングにもほどがある数々の映像に感銘を受けはしたものの、物語自体の世界には浸りきることができなかったというか、途中でロビーに煙草を吸いに出てしまったりとロクな観客ではなかったのですが(そもそもファンタジーがあまり好きではない。とはいえなぜか三作とも映画館で観た)、それから何年も経ったあとで、ふと気が向いて図書館で借りてきた小説は、読み始めたが最後、その苦難に満ちた冒険譚としてのあまりの面白さに、ページを捲る手がとまらなくなってしまいました。ときどき地図で、主人公たちの居場所を確認したりしながら読んだせいか、きれぎれのスペクタクルな映像ばかりが強く印象に残る映画には希薄だった、ロード・ムービーらしさ(つまりロード・ノベルらしさ)が色濃く感じられ、クライマックスに至っては、ほとんど「西遊記」に匹敵するといっていい、到彼岸の圧倒的カタルシスを味わわせてもらいました。

先のゴールデン・ウィークに、ビデオで映画を観直したのですが、頭の中に小説(と地図)の記憶が残っていたせいか、場面(点)と場面(点)が線で繋がって、最初のときよりも遥かに面白かったと同時に、原作の破天荒なイマジネーションがいかに見事に映像化されていたのかということを、今更ながらに思い知りました。いや、やっぱすごいですこの映画、と言っておきましょう。




妖怪ハンター 地の巻 (集英社文庫)原作名: 妖怪ハンター
著者名: 諸星大二郎
映画化作品: 「奇談」(2005年 監督:小松隆志)


この世のものならぬ異形の(不定形な)モノを描かせたら右に出る者なし、御大手塚治虫をして"星野(之宣)さんや大友(克洋)さんの絵だったら僕は描ける。でも諸星さんのは描けない"と言わしめた、諸星大二郎の代表作のひとつ(別名"稗田礼二郎シリーズ")。日本各地に伝わる神話・伝説・伝承・説話あるいは遺跡・遺物にまつわる謎をベースにした、奇天烈にもほどがある超自然的幻想譚を、これ以上ないくらいに相応しい不確かな描画・描線でもって表現した、文字通り、想像を絶する異界風景の広がるオカルト伝奇マンガです。

特に標題映画(未見)の原作でもある短編、「生命の木」のクライマックスの描画のとんでもない異様さ(怖いというわけではない)といったら、もう夢に出てくるほどにトラウマティック。最近は、新刊マンガを読むこともめっきりなくなってしまいましたが、この人の作品(と「平成版 釣りキチ三平」)だけは別で、特に11年の中断を経て、2008年にめでたく再開された「西遊妖猿伝」は、たとえまた中断するようなことになろうとも(きっとされる。そしてまた何年も待たされる)、一生食らいついて離れない覚悟です。




ロケットボーイズ〈上〉原作名: ロケット・ボーイズ
著者名: ホーマー・ヒッカム・ジュニア
映画化作品: 「遠い空の向こうに」(1999年 監督:ジョー・ジョンストン)


時は1950年代の終わり、ウェスト・バージニアの盛期を過ぎた炭鉱町を舞台に、ソビエトの打ち上げた世界初の人工衛星、スプートニクに触発された高校生が仲間とともにロケットづくりに挑戦し、幾多の困難と挫折を乗り越え、夢に向かって成長していく姿を描いた"自伝小説"。上編で紹介した「ザ・ライト・スタッフ」の時代から遡ること数年、"アメリカ宇宙計画史の彼方に燦然と輝く一等星のような余談"とでも位置づけたくなる一冊です(なんだそりゃ)。

昨年本作の映画化作品「遠い空の向こうに」(1999)を観て初めて本書の存在を知り、さっそく手に取りました。こんな素晴らしい作品があったのか(しかも実話かよ)と胸が熱くなった映画は、青春ドラマとしていくらなんでも出来すぎのようにすら思えたものですが、さすがにところどころ、脚色されてはいたものの(おそらくいちばん大きな映画の"嘘"は、主人公が炭鉱で働くエピソード)、そのほとんどが、ほぼ原作のまま。しかも、映画では省略されてしまった、もったいないほどドラマティックなエピソードが多々あったりもして(たとえば大統領選の遊説に隣町を訪問中のジョン・F・ケネディ(のちに"アポロ計画"を推進した人です、言うまでもなく)と、アメリカの宇宙計画について会話を交わしたりしている)、まったく羨ましいほどに完璧な青春っぷりなのです。

本書のエピローグでは、のちにNASAのエンジニアとなった著者が、科学フェアの優勝メダルを友人の宇宙飛行士に託し、スペースシャトルで宇宙へと運んでもらったことが綴られていて、そのメダルを託された宇宙飛行士というのが、日本人としては実に嬉しいことに、土井隆雄さん。ホント、最後の最後まで、本書の感動させる力は完璧なのですね。

「わたしはあなたにその本をあげるだけ。なかに書いてあることを学ぶ勇気は、あなたがもたなければならないのよ」と、本書の扉にライリー先生のことばが掲げられているのですが、この本こそまさに、そんなことばとともに若い人に贈りたくなる一冊です。




Wyatt_Earp_Frontier_Marshal原作名: ワイアット・アープ伝 真説・荒野の決闘 ※絶版
著者名: スチュアート・N. レーク
映画化作品: 「荒野の決闘」(1946年 監督:ジョン・フォード) ほか


西部開拓史上もっとも名高い伝説の保安官、ワイアット・アープの生涯を、当時の新聞記事や法廷資料、そして数多くの生き証人と晩年のアープ本人へのインタビューをもとに綴った、のちのアープ英雄神話のきっかけともなった伝記。

一読、いかに面白くても所詮は現実感の薄いファンタジーとしか思えなかった西部劇の世界が、突如リアルな色彩を帯びて見えるようになった、西部劇に対する脳内イメージを一新させてくれた一冊です。アープは西部開拓史の研究対象となっていて、この本に書かれた彼の人となりとその経歴が必ずしも正しくないことは、いまや周知の事実だったりするのですが(津神久三著「ワイアット・アープ伝」に詳しい)、そんなことよりむしろ、フロンティアの時代を生きた当事者たちの証言に滲む、西部劇が描くところの無法者の闊歩する町の現実感に、激しく興奮せずにはいられません。

そもそも本書に興味を持ったきっかけは、(本書の著者名が原作者としてクレジットされている)ジョン・フォードの「荒野の決闘」(1946)が、いったいどこまで史実に即していたのかを知りたかったからなのですが、どうやら、"ワイアット・アープがツームストーンのOKコラルで撃ち合いをした"ということ以外、そのほとんどすべてが創作だったようです。「荒野の決闘」は、正確には本書の映画化作品というより、本書を原作とした"Frontier Marshal"(1939 日本未公開)のリメイクであり(ちなみに「荒野の決闘」には、"Frontier Marshal"の脚本家名もクレジットされている)、そのあらすじをみる限り(IMDb)、そもそも"Frontier Marshal"の段階で既に、本書の内容とほとんど関係のない、御伽噺に仕立て上げられていたようです。そしてそんな映画の設定を一部引継ぎつつ、牧歌的なフォーク・ソング("Oh My Darling, Clementine")の空気を絡めて作られたのが「荒野の決闘」だった――というわけで、要するに、史実をかなり脚色した伝記が、さらに脚色されて映画となり(ちなみに1934年には、本書をもとに「国境守備隊」という、これまたまったく異なる内容の映画も作られている)、そしてその作品が、またもや脚色されて傑作映画が生まれ、それから数十年後、遥か極東の島国の高校生(私)がその映画の内容をたわいもなく信じ、胸をときめかせてしまった――とまあ、伝説だとか神話というものは、こうして形づくられていくのだなあと妙に感心してしまったりもします。

ところで本書は、今回紹介している本の中でももっとも高価な一冊で、といってもその定価は360円(1962年発行第二版)、つまり古書価が高いのです。ちなみにアマゾンに出品されている本書の今日現在の最低価格は、9,000円。とても手が出ないと諦めていたのですが、昨年、運よく3,000円で入手できました(まあ、これが妥当な価格でしょう)。




笑う警官 (角川文庫 赤 520-2)原作名: 笑う警官
著者名: ペール・ヴァールー&マイ・シューヴァル
映画化作品: 「マシンガン・パニック」(1976年 スチュアート・ローゼンバーグ)


スウェーデンの作家夫妻、ペール・ヴァールー&マイ・シューヴァルの手になる警察小説、"マルティン・ベック・シリーズ"全十作のうちの第四作目(ちなみに本作以外のシリーズ作品は、すべて絶版)。かつて私がミステリに夢中だった頃、"傑作ミステリ・ベスト100"みたいな企画があると、必ずといっていいほどリスト・アップされていた作品です。

ベトナム反戦デモの嵐が吹き荒れたとある晩秋の深夜、ストックホルムの街外れで運転手と乗客の射殺死体を満載した路線バスが見つかり、一報を受けて現場に急行した殺人課主任警視ベックは、犠牲者の中に、自分の部下がいたことを知ります。乗客たちは偶然バスに乗り合わせた者ばかりで、事件は異常者による犯行との見方が次第に有力になっていく中、死んだ部下の生前の足取りを追っていたベックの前に、意外な事実が浮かび上がってきて...とまあ、ケレン味のある事件とそのナゾ解きが魅力の本格ミステリのですが、とはいえ本書最大の味わいどころは、"マルティン・ベックの日常や彼の追う事件を通じて前後十年間にわたるスウェーデン社会の変遷を描く"(本書あとがきより)という著者の目論見どおり、あまり馴染みのない北欧都市の情景、風土、文化、社会風俗、そしてそこに暮らす人々の、西欧人とはまた微妙に異なる息遣いのエキゾチシズムにあるといっていいでしょう。

つい最近まで、映画化されていたことを知らなかったのですが、監督がスチュアート・ローゼンバーグとあれば期待大...とはいえサンフランシスコが舞台とあっては正直、魅力半減だったりもします。


*       *       *

というわけで、以上25冊、いずれも掛け値なしの絶品ばかりですが、それにつけても驚かされるのは、翻訳モノが絶版(あるいは品切重版未定)だらけということ。ちなみに今回取り上げた海外作品29冊のうち、実にその半分以上の16冊が絶版(なお二年前の記事で取り上げた60冊は、そのうち20冊が絶版)。昨今は、やたらと古本が入手しやすくなったので、いち読者としては嘆く必要もないといえばないのですが(逆に、それも出版即品切れを煽る一因か?)、いいのでしょうか、そんなことで。



この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
http://cinema200.blog90.fc2.com/tb.php/119-092a36fd

トラックバック

コメント

[C806] たくさんありますね!

「釣りキチ三平」は子供の頃にアニメを観てたけど、意外と長かったんですね。(全67巻!?)
釣りをしたことがないくせに妙に釣りに惹かれるのは、このアニメのせいだったか~。

「ペーパームーン」とか「丹下左膳」とか「白夜行」も読んでみたいですけど、一番興味をそそられたのは「ロケット・ボーイズ」かな。最近、BSプレミアムで朝7時からやってる「宇宙からウェイクアップコール」という5分番組を毎日見ていて、子供の頃に観てたらぜったい宇宙飛行士目指してたなぁとしみじみ思ってます(笑)
  • 2011-06-24 15:02
  • 宵乃
  • URL
  • 編集

[C807] うぁ~読み応えがありそうだー

まずこの『ペーパームーン』のオニール親子に、
うぁ~懐かしい!・・・と、母親の形見の品をつけて
鏡の前でシナを作る少女の様子が眼に浮かんできました。

ー"創造"というマジックの舞台裏をちらりと覗き見させてもらったような興奮ー
Mardiさんがおっしゃるように原作と映画の比較の最大の楽しみではないかと想います。


さてこれからがんばって読むぞー・・・笑


  • 2011-06-24 16:07
  • ヘルブラウ
  • URL
  • 編集

[C808] >宵乃さん

宵乃さんの釣りに対する興味の原点も三平でしたか!(笑)そういえば私も観てました、アニメの三平。面白かったですね~。これ観て釣り好きになった人も多いでしょうね。

「ペーパームーン」もいまやけっこういい古書価になってしまいました。再刊してしかるべき一冊だと思うんですけど、売れないんでしょうね~、きっと。。。

「ロケット・ボーイズ」はご存知のとおり映画も素晴らしかったですが、原作もホント面白くて一気読みでした。私ももし中学生くらいから人生やり直せるなら間違いなく宇宙飛行士を目指します(笑)。でも戦闘機乗りが宇宙飛行士への近道だった「ライト・スタッフ」の時代と違って、いまや間口が広がったぶん、かえってどうすれば宇宙飛行士になれるのかよくわからなかったりするんですよね。。。

[C809] >ヘルブラウさん

鏡の前でシナを作る少女、、、
お父さん(?)の気を惹きたくて一生懸命なんですよね~。そんな少女のいじらしさがいちばんの見所でしたね。この映画は原作のクライマックスともいえる後ろ半分(大仕掛けのペテンが展開する)をものの見事にばっさりカットしてて、なるほど確かに男と少女の関係性を中心に描こうと思えば後半は邪魔でしかないよな~と思ったりします。おっしゃるとおり、そんなことをつらつら考えるのが楽しいんですよね~。

なんだかんだで今回がこれまででいちばん長い記事になってしまいました。どうぞ適当に読み飛ばしのほど。。。(笑)

[C813]

こんにちは。

小説を最近読まなくなりました。
もっぱら・・映画ですませていますので
想像力にかけるかも知れません。
幼少の頃・・にあんちゃんを観ました。
長門裕之だと・・後で知りました。
懐かしいですねぇ。   (papa)

今回はチョット(実はだいぶ)めげました。(笑)
最近目が・・・どうも・・・。
本からは離れてしまいましたが記事は
読ませて頂きます。(mama)



  • 2011-07-03 04:07
  • harunayamanekoーpapa&mama
  • URL
  • 編集

[C814] 管理人のみ閲覧できます

このコメントは管理人のみ閲覧できます

[C815] >harunayamanekoーpapa&mamaさん

こんにちは!

>papaさん
私も近頃めっきり本を読む時間が短くなってしまいましたが、でもそれ以上に映画を見てなくて、、、ここ数ヶ月、毎月ビデオで3、4本ほどです(泣)。せめてこの倍くらいは見たいな~と思っています。

「にあんちゃん」、もしかしてリアルタイムでご覧になられてるのですね!"時代"が色濃く滲んでいる映画ですが、でもこの映画の感動はいつの時代になってもきっと色褪せないように思います。私は長門裕之が津川雅彦のお兄さんだということを、つい数年前になって初めて知りました(笑)。

>mamaさん
わわ、ホントにすみません!この記事はいくらなんでも長くなりすぎてしまいました。さらに何回かに分ければよかったと反省してます。今後はせめてこの記事の半分を上限に、、、と思ってますので、どうかお見限りにならないでくださいませ。。。

[C816]

こんにちは~♪
鉄塔 武蔵野線 ずい分、前になりますが、テレビで
観ました。妙に忘れられない映画です。山に登ると
よく、鉄塔を見るじゃないですか。そうすると、あの時の
少年の汗や息遣い、暑い日差しなどを思い出すんですよね。私は、オホーツク海の見える所で育ったんですが、海沿いをずーっと、歩いて、歩いて遠くまで行ったことがあります。
子どもの時間だったんですね。
偶然なんですが、その時、小学生だったうちの子どももいっしょに見ていたんですが、彼も、その映画覚えていて、「あの時の子どもは伊藤淳史なんだってよ!」って
ひと月ほど前に教えてもらったばかりです。
原作本があったとは知りませんでした。
もう一度、観たい映画の一本です。紹介してくださってありがとうございます。
  • 2011-07-06 17:12
  • おりんこ
  • URL
  • 編集

[C817] >おりんこさん

こんばんわ、
映画原作の記事も読んでくださったんですね、ありがとうございます!

この映画、ホント心を掴まれますよね~。山登りの鉄塔、、、はは、お気持ちわかります(笑)。あれ、正直無粋な眺めでもあるんですけど、でも山奥であればあるほど、あんなところによく建てたな~と感心してしまったりもするんですよね。。。

おりんこさんも子どものころ"冒険"に出ましたか!(笑)。この映画を観たら、きっと誰もが自分の"鉄塔武蔵野線"や"オホーツクの海辺の道"を思い出さずにはいられないんでしょうね。。。だからぐっと心を掴まれずにはいられないんだと思います。

1ヵ月前というと、ちょうどこの記事を書きはじめた頃です。。。ホント偶然ですね。ところで息子さん、この映画を観て、自分も鉄塔を辿る!なんて言い出しませんでしたか?(いやそんなわけないか。笑)。それにしても、"ちびノリダー"も子役から見事に味のある俳優になりましたね~(もちろん吉岡くんほどではないにしろ。笑)。

ではでは、またこちらからもお邪魔させていただきますね。
ありがとうございました!

[C818]

mardigrasさん、こんにちは~♪
携帯、見つかって良かった~~のかな?微妙ですね(笑)

一か月前に、この記事を書かれたんですか。ほんと偶然ですね。
残念ながら、私は伊藤淳司さんの作品は「鉄塔 武蔵野線」しか、知らないようです。でも、顔と名前は知っていたので、CMとか、何かで見たことがあるんでしょうね。
眼の力が強い青年。そんな印象です。

我が息子が鉄塔を巡る冒険をしたかどうかは謎ですが、鉄塔を昇っている姿をよく見ました(笑)危険なので
真似しないでくださいってやつです。

2,3歳の頃から親の山歩きに付き合わされているので
恐怖、不安はたっぷり経験済み。ひとり冒険はあまり、しなかったかもしれません。

私のブログはonly吉岡なので、退屈ですよ~
お気持ちだけで、充分、感謝です。

また、遊びに来ます。
  • 2011-07-07 11:27
  • おりんこ
  • URL
  • 編集

[C819] >おりんこさん

こんばんわ~!

ありがとうございます、携帯はデータ保管サービスに加入してなかったので、、、まあとにかく見つかってよかったです。 もう7、8年も使ってたので、どうせ買い替え時だったと一生懸命自分を納得させているところです(泣)。

記事は1ヶ月前からだらだら2週間以上かけて書いてました(笑)。最近はこんな感じなので、めっきり更新回数が減ってしまってます。。。 伊藤淳史は私もCMと「チーム・バチスタの栄光」(テレビドラマの方)くらいしか知らないんですが、、、おっしゃるとおり、あの思いつめたような眼が「鉄塔~」でも印象的でしたね~。ちなみに「チーム・バチスタの栄光」の原作も今回載せようかと思ったのですが、結局落選させてしまいました。。。

わはは、鉄塔登ってましたか!(笑)私は近所の火の見櫓によく登ってた覚えがありますね~。少年が高いところに昇りたがるのはもう何かしらの本能でしょう、きっと。2、3才から山登りに連れて行ってもらっているのはうらやましいですね!本人は覚えてなくても、きっと何かが心に刷り込まれていることと思います。それにしても、ときどき小さいお子さん連れの登山者を見かけますが、こっちはザックだけでもいっぱいいっぱいなのに...とその"登山力"の凄さにいつも感服してしまいます。おりんこさんもそんなおひとりだったのですね~。

>私のブログはonly吉岡なので、、、
いえいえ退屈だなんてとんでもない、山の写真も素敵ですし、そのうちじっくり過去の記事も読ませていただきたいと思ってます!

[C820] 二十日鼠と人間

mardigrasさん、こんばんは~
スタインベック好きです。「二十日鼠と人間」の小説を読み、DVDかビデオか忘れましたが、借りて観た記憶があります。スタインベックのファンになるきっかけの本と映画でした。
それから、有名な「怒りのぶどう」を読みました。「怒りのぶどう」はごろんと横になって読んでいたのに最後の場面になって、つい正座をして、読み終えました。涙はらはらの衝撃の最後でした。図書館でビデオを借りましたが*最後の大事な場面が映画では描かれていなくて残念な思いを残す作品でした。
埃の被った文庫本「二十日鼠と人間」、もう一度、読み直しています。
映画ももう一度、観たいです。
mardigrasさんのブログを発見できて、良かったです。
もっと深く潜ってみようって気になります。
ありがとうございました。

  • 2011-07-10 22:24
  • おりんこ
  • URL
  • 編集

[C821] >おりんこさん

こんにちは、
おお、おりんこさんもスタインベックお好きなんですね~!

実は「怒りの葡萄」とどちらを記事にするか迷ったんですが、たまたま昨年、「二十日鼠と人間」を再読したのでこっちにしたんですよ。「怒りの葡萄」もとことんキビしい、読み手をかなり消耗させずにはおかない物語でしたね。。。おりんこさんが最後に正座してしまったお気持ち、なんとなくわかります。映画を先に観ていたこともあって、私もあの結末には驚かされると同時に激しく打ちのめされてしまった覚えがあります。映画を初めて観たときはあの締めくくりに仄かな希望を感じて救われた思いがしたものですが、小説のラストを知ってからは、いざ再見しても彼らを待ち受ける運命がチラついて、かなり印象が変わってしまいました。

コメントをいただいて、逆に私は「怒りの葡萄」を再読、再見したくなりました(笑)。
私もおりんこさんに発見していただいて嬉しいです!
  • 2011-07-11 13:04
  • Mardigras
  • URL
  • 編集

[C822] 二十日鼠と人間

Mardigrasさん、こんにちは♪

「怒りの葡萄」は あの最後のシーンのために、
ジョード一家の 過酷で不条理極まりない長い旅が
あったのではないかと思ったものです。おかみさんが
好きでした。折れて、踏みつけにされても、絶望の淵に置かれようと、家族のために自分のためにご飯を作り、言葉を発し、生きることを決して諦めない、あのおかみさん、魅力がありました。そして、最後のシーン、おかみさんと娘さんの行為の中にこそ、救いがあるのだと、感じました。今、読んだら、また、違った気持ちになるのかもしれません。

Mardigrasさんの感想を是非、読んでみたいです。
いつか、お願いします!!


長くなりそうです。ごめんなさい。

「二十日鼠と人間」読み終わりました。驚いたことに
内容のほとんどを忘れていました。
でも、縁があって、再び手に取ることができて、本当に良かったって思っています。

20代後半でしたが、カトマンズに2か月ほど家を借りて住んでいたことがあります。旅の途中のことですが。
街に出るためにいつも通るチベット人村に、傷ついた犬がいました。喧嘩でもしたのか、頭から血を流していました。、皮が剥がれて、足を引きずり、いかにも辛そうでした。車に追い立てられ、民家の軒下で休むも、また、追い立てられ、気の毒な犬でした。
用事が終わった帰り道で、突然、犬の悲鳴が聴こえました。道路近くの原っぱの人だかり。白人が大きな石を頭の上にかざし、何度も打ち下ろす姿がありました。あの傷ついた犬に石を打ちつけていたのです。いつか犬の悲鳴も、聞こえなくなりました。
白人は、犬の虐待をしていたのではなく、痛い思いをするよりは死んだ方がいいだろうとの判断でそうしたのだと思うのですが、ああ、これが西洋近代合理主義の成れの果ての姿かと・・・何とも言えず、暗い気持ちになったものです。
誰にも、あの犬の運命を決定する権利はないと思うし、彼は彼の現在を受け入れて生きていく以外道はなかったはずなのに、人間が決定権をもっているはずはないと
思いました。今も、忘れられない事件として、残っています。
「二十日鼠と人間」も重なるシーンがあり、この本の大切なテーマになっていると思いました。
傷ついたキャンディじいさんの気持に寄り添えたのは
ジョージと発達遅滞のレニーだけだった。その
レニーもまた、蔑視にさらされ、厄介者として、抹殺される運命をたどっていきます。
強者と弱者、成功者とそうでない者との分断された社会の縮図が痛みといっしょに伝わってきます。
いらない命、捨て置いてもいい命など、ないのだと。
生きていくことこそ大切だと 当たり前のことを教えられた気がします。
長くなり過ぎました。ごめんなさい。
  • 2011-07-12 17:13
  • おりんこ
  • URL
  • 編集

[C823] >おりんこさん

こんにちは、

「怒りの葡萄」、、、おっしゃるとおり、私もあのお母さんの大きさが強く印象に残りました。映画のお母さんもイメージどおりでした。小説のラスト・シーン、私も再読したらまた印象が変わるかもしれないのですが、高校生だった当時の私にはとても"救い"があるようには思えなくて、でも物理的に生命を紡ぎ繋いでゆく存在としての女性の強さ、逞しさみたいなものを感じた覚えがあります。そのうちいつか、紹介済みの作家のその他のオモシロ原作本をまとめた記事を書きたいと思っていますので、そのときはきっと「怒りの葡萄」についても書きますね。

「二十日鼠と人間」、読了されたんですね!自分の記事が再読のきっかけになったなんて、なんだかとても嬉しいです。カトマンズの思い出を書いてくださって、ありがとうございます。いろいろと考えさせられてしまいました。

勝手な憶測ですが、犬に石を振り下ろした白人は、石を振り下ろしながら、自分のことを"強い心"の持ち主だと信じ込んでいたような気がしてなりません。とはいえ彼にキャンディやジョージの身を引き裂かれるような苦悩と葛藤があったはずもなく、つまるところ、彼の行為は傷ついた犬の悲惨な姿を目にすることに耐えられなくなった、強いどころか"弱い人間"のそれだったように思います。「二十日鼠と人間」についていえば、私には正直、ジョージのしたことが果たして正しかったのか、間違っていたのか、に答を出すことができずにいます。。。ただひたすら、そんな状況をもたらす社会の残酷さ、そんな状況に陥ることのありうる人生の厳しさ、そしてそんな救いのなさを容赦なく描き出すスタインベックに打ちのめされるばかりです。

それにしても、キレイなものや見たいものやだけでなく、汚いのや見たくないものもまた見えてしまうのが旅なんだということを、おりんこさんのコメントを読ませていただいて、改めて思っています。そしてそうやって、家にいては見ることのできない何かをもろもろひっくるめて見てこそ旅なのだと思います。おりんこさんは、いい旅をされたんだな~と羨ましいです。山好きの憧れ、私もいつか一度はカトマンズ、そしてトレッキング、と夢見ています。

貴重な旅の思い出をシェアしてくださって嬉しかったです。
ありがとうございました!
  • 2011-07-13 14:44
  • Mardigras
  • URL
  • 編集

[C826] 管理人のみ閲覧できます

このコメントは管理人のみ閲覧できます

コメントの投稿

コメントの投稿
管理者にだけ表示を許可する

管理人: mardigras
ジョウビタキ
 

Latest comments

openclose

Index

邦画の紹介
椿三十郎
七人の侍
用心棒
ツィゴイネルワイゼン
遙かなる山の呼び声
復讐するは我にあり
砂の女
男はつらいよ 寅次郎恋歌
男はつらいよ 寅次郎忘れな草
男はつらいよ 寅次郎相合い傘
男はつらいよ 寅次郎ハイビスカスの花
武蔵野夫人
仁義なき戦い
麻雀放浪記
幸福の黄色いハンカチ
悪魔の手毬唄
夜叉
丹下左膳餘話 百萬兩の壺
姿三四郎
劔岳 点の記
影武者
洋画の紹介
第三の男
ブレードランナー
ゴッドファーザーPARTII
羊たちの沈黙
ミッドナイト・ラン
スカーフェイス
ビッグ・ウェンズデー
ゴッドファーザー
駅馬車
荒野の決闘
ダンス・ウィズ・ウルブズ
燃えよドラゴン
スパルタンX
ターミネーター2
パルプ・フィクション
アパートの鍵貸します
引き裂かれたカーテン
めまい
夜の大捜査線
地獄の黙示録 特別完全版
サンセット大通り
モーターサイクル・ダイアリーズ
8 1/2
真夜中のカーボーイ
スティング
プラトーン
ダイ・ハード
赤ちゃんに乾杯!
太陽がいっぱい
マルホランド・ドライブ
薔薇の名前
リバー・ランズ・スルー・イット
ルートヴィヒ
M★A★S★H マッシュ
バック・トゥ・ザ・フューチャー
タクシードライバー
エンゼル・ハート
バグダッド・カフェ 完全版
未来世紀ブラジル
明日に向って撃て!
恐怖の報酬
レスラー

キル・ビルVol.2
2001年宇宙の旅
ブリキの太鼓
ジュラシック・パーク
十二人の怒れる男
ゲッタウェイ
ミシシッピー・バーニング
ベルリン・天使の詩
裏切りのサーカス
ブラック・レイン
アマデウス
遠い空の向こうに
カプリコン・1
その他映画関連
いとしの映画音楽
この邦題がすごい!
この映画の原作がすごい!(海外編)
この映画の原作がすごい!(国内編)
あの映画のコレが食べたい!
2010年イラスト・カレンダー
「ツィゴイネルワイゼン」を訪ねて
2011年イラスト・カレンダー
続・この映画の原作がすごい!(上)
続・この映画の原作がすごい!(下)
シネマ・イラストレイテッド in TSUTAYA
「劔岳 点の記」を訪ねて
その後のシネマ・イラストレイテッド in TSUTAYA
「夜叉」を訪ねて
「ツィゴイネルワイゼン」を訪ねて(その2)
2014年イラスト・カレンダー
「砂の女」を訪ねて
「悪魔の手毬唄」を訪ねて
「武蔵野夫人」を訪ねて
「岳 -ガク-」を訪ねて
「ゼロの焦点」を訪ねて
「男はつらいよ 寅次郎相合い傘」を訪ねて
「遥かなる山の呼び声」を訪ねて
「幸福の黄色いハンカチ」を訪ねて
「ミッション:インポッシブル/ローグ・ネイション」を訪ねて
「裏切りのサーカス」を訪ねて

Add to rss reader

feed-icon-14x14RSSフィードの表示


人気ブログランキングにほんブログ村 ブログランキング