男なら、パーティの引き際を心得ておかないとな

クランクアップの便りを耳にしてから早一年、トーマス・アルフレッドソン監督の「裏切りのサーカス」が、本邦でもめでたく公開されました。ゴールデンウィークに新宿武蔵野館で鑑賞してきましたので、なにはともあれ感想を。思えば映画館で映画を観るのは、正月休みの「ミッション・インポッシブル ゴーストプロトコル」(2011)以来。とはいえ先日、長年の念願だったテオ・アンゲロプロスの「旅芸人の記録」(1975)を観てきたりもして、自分の中でなんとなく、映画館で映画を観よう!という気運が高まっている今日この頃です。
原作「ティンカー、テイラー、ソルジャー、スパイ」について
「裏切りのサーカス」の原作は、スパイ小説の巨匠、ジョン・ル・カレの1974年の代表作、「ティンカー、テイラー、ソルジャー、スパイ」。東西冷戦時代を背景に、英国諜報部の伝説的スパイ、ジョージ・スマイリーの最晩年の活躍を描いた、「スクールボーイ閣下」、「スマイリーと仲間たち」と続く、いわゆる"スマイリー三部作"の第一作目にあたる作品です。
"英国諜報部の中枢に潜むソビエトの二重スパイは誰か――。裏切り者が誰であってもおかしくない状況下、政府から密かに調査を依頼された元諜報員、ジョージ・スマイリーは、膨大な過去の記録を紐解き、関係者にインタビューを重ね、証拠の欠片をこつこつ拾い集めながら、徐々に真相へと迫っていきます。薄皮(=伏線)を一枚一枚、用心深く積み重ねたプロットを、陰影の濃い人間模様で分厚くコーティングした、スリリングで、しかしとことん静謐な物語は、読者に集中力と読解力を要求し、下手に速読すれば、紙背に潜む(=事件の背後にある)真相を、つい見過ごしてしまうことにもなりかねません。これぞまさに、行きつ戻りつしながらじっくり読むべき小説の典型なのであり、こんな"ことば"で構築された大伽藍のような物語を、映画はどう映像化したのか、そのキャスティングがめちゃくちゃ期待できるだけに、久しぶりに映画館に足を運んでみたい一本です"
というのは、今から一年前、「続・この映画の原作がすごい!」という記事に書いたことですが――では実際に映画を観た感想はといえば、これが期待を遥かに上回る、実に満足のいくものでした。
裏切りのタイトル(以下ネタバレ)
「ティンカー(鋳掛屋)、テイラー(仕立屋)、ソルジャー(兵隊)、セイラー(水兵)。アレリンがティンカーで、ヘイドンがテイラー。ブランドはソルジャーだ。セイラーは紛らわしいからやめておこう。エスタヘイエスはリッチマン(金持ち)というよりプアマン(貧乏人)だな。スマイリーはベガマン(乞食)にしよう」
ティンカー、テイラー、ソルジャー...とは、ソビエトの二重スパイ("もぐら")の可能性がある諜報部の上層部メンバーひとりひとりに対し、組織のリーダーであるコントロール(ジョン・ハート)が、密かに名付けた符牒です。それは、"Tinker, Tailor, Soldier, Sailor, Rich Man, Poor Man, Beggar Man, Thief."と続く、"マザーグース"の一篇にちなむ暗号名であり、言うまでもなく、原作のタイトル「ティンカー、テイラー、ソルジャー、スパイ」は、この暗号名が基になっています。
映画の原題もまた、小説のタイトルそのままです。粋で優雅で洒落ていて、しかも一目でスパイ物であることがわかり、そしてそれがどんな意味なのかを考えずにはいられない、謎めいた、これほどエスピオナージュにふさわしいタイトルも稀だと思うのですが、それがなにゆえ、「裏切りのサーカス」という邦題になってしまったのか。英文音読みそのまま、意味不明なカタカナの邦題が無神経に幅を利かせる昨今、これこそ原題のままにしておくべきタイトルを改変してしまうとは、二重に意味不明なことではあります。
ちなみに"サーカス"とは、その所在地(ロンドン、ケンブリッジ・サーカス)にちなむスパイ組織の通称。とはいえ、"サーカス"と聞いて条件反射的に頭に浮かんでくるのは、やっぱりあの"サーカス"だったりするわけで、「裏切りのサーカス」と言われてもしっくりこないというか、団長を裏切るピエロの姿が目に浮かんでしまうというか、妙に力強いミスリーディング力があって、こうして記事を書いている今も、違和感を拭いきれずにいます。
テキストの持つ味わいを、映像で再構築した「裏切りのサーカス」
"一度目は、あなたを欺く。二度目、真実が見える"というのは、映画館入場の際にもらったチラシに書かれていた、本作のキャッチコピー。この映画、プロモーションのユニークな試みとして、半券を持参すれば、2回目以降の鑑賞が1,000円になるという割引キャンペーンを実施しています。すなわち売り手サイドは、「裏切りのサーカス」という映画が、一回観ただけではよくわからない作品であるということを認めている、という以上に、その不利を逆手にとって、セールストークにしているのですね。
そして実際に映画を観てみると、錯綜する人間関係と複雑にもほどがあるプロット――サーカスに潜むKGBの二重スパイ(ソビエトにとっての情報提供者)が、KGB内部に偽の二重スパイ(英国にとっての情報提供者)の存在をでっちあげ、この人物を通じてソビエトの機密情報を入手するふりをして、その実、英国の機密情報をソビエトに流出させるという構図――のややこしさは言うまでもなく、わかりやすい表現をあえて排した、鑑賞者に積極的な想像力を要求する微妙な場面や表現が、いやさらに言えば、一度観ただけでは気づくはずもない、不親切かつさりげないにもほどがある映像が、もう映画の冒頭から、そこかしこに散りばめられていることに気がつきます(私がなぜそれに気づいたかといえば、そう、それは先日、二度目の鑑賞をしてきたから)。
たとえば冒頭、作戦失敗によって失脚したコントロールと、その道連れとなって引退を余儀なくされるナンバーツー、ドラマの主人公であるスマイリー(ゲイリー・オールドマン)が、サーカスを去っていく場面。二人の姿を呆然と見送る諜報部員たちの中に、スマイリーの補佐として準主役を務めるピーター・ギラム(ベネディクト・カンバーバッチ)と並び、ドラマの中盤以降で重要な役割を演じることになる、コニー・サックス(キャシー・バーク)とジェリー・ウェスタビー(スティーヴン・グレアム)の姿があったりするのですが、それぞれを演じる俳優たちに馴染みがない限り、その(セリフのない)初登場の場面が記憶に残ることは、まずないといっていいでしょう。
あるいは、こちらもドラマの冒頭、妻が絶賛家出中の孤独な自宅の居間で、壁に飾られた抽象画を、無表情でじっと見つめるスマイリーの後姿を捉えた、さりげないショット。のちに、その絵が実は、スマイリーの仕事仲間であり、妻の浮気相手でもあるビル・ヘイドン(コリン・ファース)からの妻への贈り物だったことがわかるのですが(つまりここに至って初めて、絵を眺めていたスマイリーの心情がわかる)、よほど注意深い観客でない限り、ドラマの前半にスマイリーがその絵を眺めていた場面のあったことなど、すっかり忘れてしまっているに違いないのです(私のことです)。
また、スマイリーの密命を受けたギラムが、サーカスの保管庫から、密かに過去の当直日誌を持ち出そうとする場面。偽装工作のため、保管庫にいるギラム宛てに自動車工場から掛けられた電話の背後に、ラジオから流れる歌謡曲が聴こえます。保管庫から抜け出したギラムは、それからしばらくして、その曲を口ずさむロイ・ブランド(キーラン・ハインズ)――サーカスのトップ4の一人であり、"もぐら"の候補者である――と行き交います。ここで暗示されるのは、つまりブランドによる盗聴の可能性であり、それに気づいたギラムの動揺が、その微かな表情の動きに見て取れるのですが――ブランドは果たして本当にギラムの電話を盗聴していたのか、それともハミングは単なる偶然に過ぎなかったのか、それがドラマの中で説明されることはなく、ギラムの疑心は疑心のままに放っておかれます。
とまあ、そのポジティブなわかりにくさ――稚拙さではない、いわば計算されたわかりにくさは、まさしく、ページを行きつ戻りつしつつ、張りめぐらされた伏線とさりげない描写の巧妙さを熟読玩味しながら(あるいは再読し)、スマイリーの思考の足跡を辿るところに醍醐味があるといっていい、原作の持ち味そのものであり、斯様にそのわかりにくさを映像的に再現しえていることをもって、「裏切りのサーカス」は、少なくとも原作ファンにとって、幸せな映画といえるのではないでしょうか。
二度見を推奨するこの映画の(開き直りにも思える)プロモーションは、実は、原作の本質をずばり突いた、まこと理にかなったものであり、さらに言えば、「裏切りのサーカス」は映画館で観るよりも、むしろビデオで行きつ戻りつしながら鑑賞するのがふさわしい作品なのではないか――そんなことを思ったりもします。
原作からの改変、あるいは映画は原作をいかに畳んだのか
言うまでもなく、原作と映画には多くの違いがあります。たとえば冒頭、コントロールの密命を受けたジム・プリドー(マーク・ストロング)が敵の罠に落ちる作戦失敗の舞台が、チェコからハンガリーになっていること。あるいは続編「スクールボーイ閣下」において、主役を務めることになるジェリー・ウェスタビーが、なぜか別の登場人物の役割(作戦当夜の当直)を割り振られていること。あるいは現地工作員であるリッキー・ター(トム・ハーディ)の活動の舞台が、香港からイスタンブールになっていたり、また密かに帰国したリッキーの接触相手が、直属の上司のギラムではなく、官僚のオリバー・レイコン(サイモン・マクバーニー)になっていたこと。
いや、そもそも原作において、その得体の知れなさに嫌悪感を催さずにはいられない、ある種の化け物だったリッキー・ターのキャラクターが、映画においては裏表のない、純粋まっすぐな"愛の人"になっていたり、そして驚いたことに、女性との交際に悩みごとを抱えていたギラムが、映画ではゲイになっていたこと。
――とまあ、その設定変更の必要性がよく理解できないものもあれば、また逆に、その狙いがわかりすぎるくらいによくわかるものもあるのですが――いずれにしろ、文庫本にして600ページを越えるテキストを、ほんの2時間強の映画として成立させるために行われた省略、改変、あるいは新たに付け加えられた場面の数々、すなわち原作の空気を敷衍して再構築された映画のプロットは、素晴らしいのひとことに尽きます。
たとえば原作において、ことばで延々と語られる、事件をめぐるスマイリーの孤独な思索の過程と決断、そして浮気性の妻アンとの関係をめぐる苦悩を、映画は、老体のスマイリーが、沼だか池だかでほかの老人に混じり、ひとりたんたんと、いかにも老人くさいスピードでのろのろと泳ぐ場面に象徴してみせます(同様の場面が何度か繰り返され、泳ぐ=思索の時間という記号化がなされている)。
あるいはクライマックスで、スマイリーが、罠に掛かりつつある"もぐら"を、セーフ・ハウスの暗闇の中でただ一人、待ち受ける場面。原作は、スマイリーの脳裏を過るさまざまな思いを描くために、かなりの枚数を費やしていますが、映画はその内面心理を、そっとポケットから取り出したミントを口にするという、らしくないからこそ尋常ならざる緊張が強く滲む、自然でさりげない、ワン・アクションに凝縮しています。
またなんといっても、ドラマを通じて極度に抑制された登場人物たちの感情を、ここぞとばかりにまとめて解き放つ、パーティーの回想というアイデアが、実に素晴らしい。ほかの場面における俳優たちの芝居が、まるでポーカーフェイスを競っているかのごとく、ことごとくストイックなものであるだけに、登場人物たちのまとう秘密のベールを一枚また一枚と剥ぎとっていくかのような、ドラマのここぞというところで三度リフレインされるパーティーの暴露的な解放感は、ことのほか際立っています。
たとえば、老害一歩手前の存在であることを裏書きするかのごとく、傍若無人に振舞うコントロール。その一方で、生来の小者っぷりを嫌というほど露呈してみせるコントロールの後釜、パーシー・アレリン(トビー・ジョーンズ)。そして、パーティ会場の外の暗闇に、仕事仲間でありライバルでもあるビル・ヘイドンと乳繰り合う妻、アンの姿を目撃し、人知れず、絶望に顔をゆがめるスマイリーと、パーティも終わりに近づいた頃、会場の端と端にお互いの姿を見つけ、無防備にもほどがある素の感情を剥き出しにした、思わず見ているこっちがどぎまぎしてしまうような恋人目線で見つめあう、ビル・ヘイドンとジム・プリドー。
この映画を通じて、ほとんど唯一といっていい表情らしい表情を浮かべるスマイリーの映像も強く印象に残るものですが、なんといっても、ビルとジムの二人の関係を一目瞭然で晒してみせる、後者の映像の衝撃度はすさまじい(原作では、その可能性が関係者の口からさりげなく語られる)。なぜならその映像こそが、ドラマの謎を解く鍵ともなっているからです。
KGBに捕縛されたジムは、なぜ殺されることなく英国へと帰ってくることができたのか。そしてそんな計らいをすることができたのは(その動機を持っていたのは)、いったい誰なのか。ここまで、それとはわからずに"もぐら"の正体を仄めかしていたピースが、突如、この場面をきっかけとしてぱたぱたと嵌り、ラストでビルを殺害するジムの心理を含め、事件の全貌が、すとんと観客の腑に落ちる、という仕掛けになっているのですね。
* * *
スマイリーとアン、リッキーとソビエトの諜報部員であるイリーナ(スヴェトラーナ・コドチェンコワ)、そしてビルとジム。原作にあった、ギラムとその彼女をめぐるエピソードが省略されてはいるものの、映画は、リッキーのイリーナに対する想いをよりピュアでストレートなものに書き換え、またジムとビルの関係を、(文字ではなし得ない)衝撃的なビジュアルでもって表現し、結果として、原作よりも遥かに愛の気分を色濃く漂わせています。原作は、あくまでエスピオナージュと呼ぶのがふさわしい作品でしたが、映画はむしろ、ラブ・ストーリーといった方が似つかわしい...二度目に観終わった時、ふとそんなことを思ってしまいました。
姿をみせない宿敵のカーラ、そして妻のアン
とまあ、映画がそのテキストをいかに映像へと"翻訳"してみせたのかという点で、むむと唸らされた場面は枚挙にいとまがありませんが、その最たるものが、なんといってもスマイリーの妻、アンをめぐる演出。"背が高く、わがままで、無上に美しく、本質的に他の男の女である女"(原作より)――原作をいくら読んでも具体的なイメージの湧いてこない、年齢不詳の"幻の女"をいったいどんな女優が演じるのだろう、というのは、この作品の映画化を知って以来のひとつの興味でもあったわけですが――。
そもそも、原作においてもその横顔のはっきりしない、スマイリーの生涯の宿敵であるKGBの大物、カーラの相貌がスクリーンに映し出されることがないというのは、当然そうあるべきという思いとともに、想像通りの展開だったわけですが、同時にスマイリーの浮気性の妻、アンの貌もまたスクリーンに映し出さない演出には、まったくもって意表を突かれました。そして、どうやら最後までアンをまともに見せるつもりがないということが明らかになるにつれ、いや、確かにそうあるべきだよな!と心の中で快哉を叫んでしまいました。なぜなら原作において、アンもまた、カーラと同様、その内面がまったく描写されない存在として、現在進行形の物語の中に登場することが一切ない、スマイリーをはじめとする第三者の思考や会話の中で、その輪郭が語られるにすぎない人物だったからです。
ちなみに三部作の最終話「スマイリーと仲間たち」のクライマックスにおいて、カーラはついに実体を伴った存在として、スマイリーたちの前に姿を現します。その一方、アンはとうとう最後の最後まで、現在進行形の物語に姿を見せることがなく(変わらずアンを愛し続けながら、スマイリーの日常生活における彼女の不在は続く)、読者にとって、掴みどころのない存在のままに終わります。その意味で、アンは読者にとって、いやおそらくスマイリーにとっても、カーラ以上に謎なのであり、映画においてカーラの貌が晒されない以上、アンの貌もまた当然晒されるべきものではなかった、と、その発想と演出の冴えに、深く頷いてしまいました。
スマイリーにハッピーエンドは許されるのか
本作のラスト、作戦本部のホテルを引き払って久しぶりに帰宅したスマイリーは、自宅の居間にアンの後姿を見つけます。そして、サーカスに復帰したスマイリーは、かつてコントロールが座っていた椅子に腰掛けると、指を組みあわせ、静かで控えめな、しかし自信に満ちた表情で、いまや自分のものとなった会議室を見まわします。こうして、映画は、公私ともに幸福を取り戻したスマイリーの満ち足りた姿でもって締めくくられるわけですが、そこに、復権かなったエリートが人知れず浮かべる、してやったりとでもいった素の感情をちらりと垣間見て、最後の最後で冷や水を浴びせかけられたような気持ちになってしまったのは、果たして私だけでしょうか。
"彼はジョージにいってやりたかった。ところが、大将、じっさいに借りを払うのは、いつもおれたちとはちがうあわれな連中なんだぜ"(「スクールボーイ閣下」より、ジェリー・ウェスタビーのセリフ)
上級職員のスマイリーが、功なり、幸せを手にする一方で、現場工作員のリッキー・ターは、愛した女を永遠に失い、またジム・プリドーは、涙を流しながら、かつて愛した男をその手で葬り去ります。そんな悲喜こもごものすべてを十把ひとからげに包み込み、まとめてどこかへ押し流していく、フリオ・イグレシアスの歌うLa Mer(これが残念なことにサントラに入っていない)の哀しくも陽気な高揚感が圧倒的なわけですが――果たしてスマイリーひとりがこのままハッピーエンドで終わることを許されるのか、それとも再び玉座から引きずりおろされるときがくるのか、(そしてカーラとの闘いに落とし前をつけるときがくるのか、)それはいうまでもなく、ひとえに続編が映画化されるかどうかにかかっているのであります。
「裏切りのサーカス」のロケ地を訪れてきました→こちらの記事
裏切りのスパイ (原題: Tinker Tailor Soldier Spy)
制作国: イギリス、フランス
公開: 2011年
監督: トーマス・アルフレッドソン
製作総指揮: ピーター・モーガン/ライザ・チェイシン/ロン・ハルパーン/デブラ・ヘイワード/ジョン・ル・カレ/ダグラス・アーバンスキー
制作: ティム・ビーヴァン/エリック・フェルナー/ロビン・スロヴォ
脚本: ブリジット・オコナー/ピーター・ストローハン
原作: 「ティンカー、テイラー、ソルジャー、スパイ」(ジョン・ル・カレ)
出演: ゲイリー・オールドマン/コリン・ファース/トム・ハーディ/ジョン・ハート/トビー・ジョーンズ/マーク・ストロング/ベネディクト・カンバーバッチ/キーラン・ハインズ
音楽: アルベルト・イグレシアス
撮影: ホイテ・ヴァン・ホイテマ
編集: ディノ・ヨンサーテル
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男なら、パーティの引き際くらい心得ているべきだクランクアップの便りを耳にしてから早一年、トーマス・
なぜかその前にMardiさんのところをクリックしてしまいましたら、
なんと更新の記事がぁ~、この映画のことはまだ知りませんが、
『旅芸人の記録』のことが冒頭にあり、あの最後のいかにも舞台の幕が
下りていくように拍手で死の旅出を見送るシーンに涙を流したことを思い出してしまいました。
明日は家でのお遊びの日で準備があるので今夜はこれで失礼おばぁ~・・・Www~