「武蔵野夫人」を訪ねて

「武蔵野夫人」のイラスト(轟夕起子)

前、「武蔵野夫人」(1951)の記事の終わりに、いずれ近いうちにロケ地と原作の舞台紹介を、なんてことを書いたのですが、なかなかその気になれず、あっという間に4年の月日が流れてしまいました。その間、新たにゆかりの地を訪ねたり、またそれまで不明だったロケ地が判明したりもして、そんなわけで足掛け5年、訪れた年も季節もてんでばらばらではありますが、かなりコンプリートになったのではないかと思う(とはいえそのニーズはどこにもないとも思う)、「武蔵野夫人」のコラージュ的ロケ地(舞台)訪問の記録でございます。


武蔵野の今

"僕は自分で限界を定めた一種の武蔵野を有している"と、国木田独歩の友人が「武蔵野」の中で主張していたように、私にも、それがあります。武蔵野の一角に生まれ育ち、そしていまも武蔵野に暮らす私の武蔵野は、「武蔵野夫人」の舞台である武蔵野――新潮版の文庫本の冒頭に掲げられた地図に描かれたエリアとかなりの部分で重なっていて、それゆえこの映画と小説には、初めて映画を観た高校生の頃から、一方ならぬ深い思い入れがあります。

「武蔵野夫人の舞台とロケ地

とはいえそんな武蔵野も、"逞しい力で生まれ変わろうとしている東京の街”、と映画に予見されていたとおり、無秩序な開発の波に洗われて、年々、それらしさが消えゆく一方です。いまや、映画の撮影された1950年代の武蔵野の風景が、そっくりそのまま「面」として残っているような場所は、緑が積極的に保全されている大きな公園を除けば、ほとんどなくなってしまいました。

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武蔵野の緑が今も残る代表的な公園のひとつ、井の頭恩賜公園。 2013年5月撮影

武蔵野の匂いを留めた、武蔵野らしい武蔵野は、もはや大海に浮かぶ離れ小島のようです。そしてそんな「点」でしかない武蔵野も、いつのまにか樹が伐られ、整地され、ふと気がつけば、ぴかぴかした建売住宅がぎゅっと立ち並んでいたりします。

「でも、武蔵野ってそんな美しいとこあるの?第一、武蔵野ってあンのかしら。いま、東京都の街になってンじゃないの?どこにあるの?」

映画の中で、富子(轟夕起子)が、武蔵野に対する憧憬を語る勉(片山明彦)をからかうように口にする、そんなプラグマティックなひとことは、その製作から半世紀以上の歳月を経て、こうしてすっかり現実のものとなった感があります。武蔵野の大地の化身ともいうべき主人公の道子(田中絹代)は、変わりゆく武蔵野を肯定し(つまりは自己否定し)、ノスタルジーにひたる勉の目を未来に向けさせようとしますが、とはいえ道子も、かくも容赦のない都市の蚕食を見越していたわけではないでしょう。

果たして今の武蔵野に、国木田独歩や大岡昇平がわざわざその名を冠した書物を著したほどの、特別な何かが残っているのかどうか。かつての武蔵野を知らない人の目に、今の武蔵野は、単なる「東京都の街」でしかないのではないか。独歩が云うところの"林と野とがかくも能く入り乱れて、生活と自然とがこのように密接している"武蔵野は、もはや、永遠に失われてしまったのではないか――なんてことを思いつつ、それでも私の目に映る、小説と映画に描かれた武蔵野の今に残る欠片を拾い集めながら、物語の筋に従って、順繰りに紹介してみたいと思います。


「はけ」と呼ばれる場所

分寺崖線は、立川から国分寺、世田谷を経て大田区に至るまでの約30kmにわたって続く、古代の多摩川の浸食によってできた、最大高低差約20mの段丘崖です。この崖地形のことを、小金井あたりでは、古くから「はけ」と呼び習わしています。大岡昌平は作品の中で、「はけ」の場所を"中央線国分寺駅と小金井(武蔵小金井)駅の中間"、と記しましたが、実際に「はけ」として認識されているエリアは、崖線下を並行して流れる野川沿いに、武蔵小金井からもう少し東へ行ったあたりまでを含みます(小金井市観光協会サイト参照)。

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"中央線国分寺駅と小金井駅の中間、線路から平坦な畠中の道を二丁南へ行くと、道は突然下りとなる"(原作より) 2015年4月撮影

今でも、崖下の砂礫層から清冽な地下水がこんこんと湧く、この「はけ」と呼ばれる場所は、宅地化が進みにくい斜面地という独特の地形や、近隣に野川公園や武蔵野公園といった保全緑地、それに国際基督教大学の雑木林が残されていることもあって、他のエリアに比べればまだ、人の生活と自然が混然となった、「武蔵野夫人」の残像ともいうべき往時の気配がかろうじて漂っている場所です。

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"土地の人はなぜそこが「はけ」と呼ばれるかを知らない"(原作より) 2015年4月撮影

原作の中で、道子とその夫、秋山(森雅之)が暮らす、宮地家の屋敷のモデルになったと思しき場所が、いまも、この地に残っています。切り立った崖の裾を縫うようにして延びる、「はけの道」と呼ばれる細道(原作では下道と記されている)沿いにひっそりと建つ美術館、「はけの森美術館」(旧中村研一記念美術館)に隣接した緑地――かつて大正から昭和にかけて活動していた洋画家、中村研一の自宅兼アトリエ跡が、それです。

先に記したとおり、大岡昌平はこの家のある場所を、武蔵小金井駅と国分寺駅の中間あたりから南へ坂を下ったところにあると記しましたが、実際のところ、この緑地は、それよりもやや東にずれた、武蔵小金井駅と東小金井駅の中間あたりにあります。

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"つまりこれは近ごろとみにこの辺に増えた都会人の住宅の一つであって、道行く人はこの垣の中に、かつてこの土地の繁栄の条件であった湧水があろうなどとは思わない"(原作より) 2011年6月撮影

高樹に囲まれ、好天の昼なお薄暗い庭の真ん中に音もなく湧く泉水は、屋敷脇の細い水路を経て、野川へと注ぎ込んでいます。鬱蒼とした庭は斜面をすっぽり取り込んでいて、裏手には、崖上の木戸へと続く、急な階段が設けられています。なるほどこのあたりの情景は、原作に描かれていた宮地家のイメージ通りといっていいものです。

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"上道には小さな木戸が開いているだけで、老人は勉を含めてあらゆる訪問客にそこから入るのを許さなかった"(原作より) 2015年4月撮影

戦争が終わり、戦地から命からがら復員した大岡昌平は、妻子とともに昭和23年1月から10月までの間、この旧中村研一宅からほど近い、友人の美術評論家、富永次郎(詩人、富永太郎の弟)宅に寄寓していました。「武蔵野夫人」が発表されたのは、その2年後のことです(2004年5月26日付朝日新聞 むさしの版「大岡昌平(中央線の詩 第5部慕情・小金井:1)」より)。

今は更地となり、門構えだけが残る富永邸の脇に、上道(連雀通り)と下道(ハケの道)を繋ぐ、ムジナ坂と呼ばれる急坂があります。小金井周辺の崖線には、このムジナ坂と同じく、かつては農道として利用されていた、斜度のきつい、まるで異界へと延びる回廊のような、昼なお薄暗い坂道が、ところどころにあります。原作の中で、勉がたびたび往来する坂道のモデルは、旧中村研一宅脇の細道にあらず、大岡昌平が日々往来していたであろう、このムジナ坂だったのかもしれません。

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"「はけ」の窪地は鳥や蝶の通り路であるとともに、人間の道でもあった。農民の作った古い道が片側の赤土を削り、宮地家の敷地に沿って野川の流域まで下りていた。その道を駈けるように降りながら、勉はオナガの大群が杉の梢を騒がして渡る音を聞いた"(原作より) 2015年4月撮影


馬事公苑

まあ、「はけ」とは斯様に「崖」のある風景と切っても切り離せない地形であるにもかかわらず、映画はその地形的特徴をずばっと無視して、平地に舞台を設定しています。とはいえ、まあそれでもいいかと許せるのは、映画に描かれた、庭に清らかな泉の湧く、広々と開放的な宮地家の風情が、とても美しいものだからです。いやそもそも、私が高校生の頃、何の気なしに深夜テレビで観たこの映画に強く惹かれた理由は、この、庭に湧水のある、いかにも武蔵野らしい、涼しげな屋敷の情景にありました。

この屋敷が一体どこで撮影されたのか、長い間わからなかったのですが(そして調べようがないとあきらめていたのですが)、2年ほど前、プロデューサーを務めた児井英夫の自伝に、それが映画のためのオープンセットだったこと、そしてそのセットの組まれたロケ地が、撮影所のあった砧からほど近い、世田谷の馬事公苑だったと記されているのを見つけました。

「世田谷の馬事公苑に、実物の豪邸そのままのロケ・セットを三杯つくって撮影した。馬事公苑には緑豊かな大樹が生い茂り、セットではとても出せない武蔵野さながらの自然があって、特に夜間撮影では素晴らしいムードが醸し出された」(児井英夫著「伝・日本映画の黄金時代」より)

とまあ、これだけの記述でしかないので、セットの組まれた場所が、広大な馬事公苑の中のどこだったのかを特定することはできませんが、公苑の中には、「武蔵野自然林」と名付けられた雑木林があって、もしかすると、映画はこの一角で撮られたのかもしれません。この雑木林もまた、すっかり都市化されてしまった街中に今もぽつりと残る、武蔵野の離れ小島です。

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"僕ね、戦地で何度も武蔵野の夢を見たんですよ。素朴な美しい、緑の武蔵野..."(映画より) 2014年1月撮影


野川

画でも小説でも、「武蔵野夫人」のもっとも清冽で美しい場面といえば、道子が勉を「恋人」として強く意識するようになる、のどかな田園を縫って流れる野川を遡り、やがて恋ヶ窪へと行きつく、むっとする草いきれと土の臭いが感じられるような、暑い昼下がりの散策の情景です。

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"「はけ」の前面で野川は約一間の幅でほとんど橋もない田中の小川であったが、水はやはり幅不相応に豊富であった"(原作より) 2011年6月撮影

勉と道子が歩いた、小金井から国分寺にかけての現在の野川は、護岸を無機質なコンクリートによって固められ、その川筋は、可能な限りに真っ直ぐ改修されてしまっています。川岸の左右には住宅がぎっしり建ち並び、そこには大岡昌平が眺めていたであろう、当時の面影はありません。それでも高木の生い茂る武蔵野公園・野川公園あたりまで下れば、川面にはカルガモの親子が浮かび、ときにはカワセミが碧い軌跡を描いて飛翔する、のどかな親水公園の風景が広がります。

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"野川はつまり古代多摩川が武蔵野におき忘れた数多い名残川の一つである。段丘は三鷹、深大寺、調布を経て喜多見の上で多摩川の流域に出、それから下は直接神奈川の多摩丘陵と対しつつ蜿蜒六郷に至っている"(原作より) 2011年6月撮影

この、武蔵野公園あたりから眺める崖は、一様に濃い緑に覆われて、小説に描かれた往時の「はけ」はかくや、と思わせる風情があります。

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"樹の多いこの斜面でも一際高く聳える欅や樫の大木は古代武蔵原生林の名残りであるが、「はけ」の長作の家もそういう欅の一本を持っていて、遠くからでもすぐわかる"(原作より) 2013年5月撮影


貫井神社

画では省略されていますが、小説では、道子と勉はその水源を目指す探索行の途上で、湧泉のある神社に立ち寄ります。このモデルと思しき神社が、JR武蔵小金井駅と国分寺駅のちょうど中間にある、天正八年(1590年)創建、市杵島姫命と大己貴命を祀る、貫井神社。

「はけ」の断崖を背にした神社の境内には満々と水を湛えた大きな池があり、社殿の脇の崖からちょろちょろと湧きだした清水が、細い溝を伝って池へと注ぎこんでいます。

「小金井という地名は、正平7/観応2(1352)年、閏2 月20 日に足利尊氏と新田勢が戦った古戦場・金井原(今の小金井市南部・前原町周辺)にその語源があるという説や、「はけ」上では水が乏しくて人が住めなかったのに、「はけ」の近くでは湧水があって黄金に匹敵するため黄金井(こがねい)と呼ばれていたとか、府中の金井家の分家ができて小金井と呼ばれたなど、語源にはさまざまな説があります。現在の貫井神社の湧水があたたかくて「温井(ぬくい)」と呼ばれて重宝がられていたように、どうやら「黄金に値する水が出る」黄金井が転じて、小金井になったという説が有力のようです」(みんなで考える小金井の環境マガジン「くるりん・ぱ」#7 2008.03 「特集:小金井と地下水―黄金の水を次の世代に伝えるために」より)

とまあ、小金井の地名の由来には諸説あるようですが、こうして実際に、今なお枯れることなく、こんこんと湧き出る豊富な泉水をあちこちで目にすると、確かに黄金井が転じたという説に与したくなります。

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"水の源を訪ねて神社の奥まで進んだ。流れは崖に馬蹄形に囲まれた拝殿の裏までたどれた。そこは「はけ」の湧泉と同じく、草の生えた崖の黒土が敷地の平面と交わるところから、一面に水が這い出るように湧いて、拝殿の縁の下まで拡がり、両側の低い崖に沿って、自然に溝を作って流れ落ちていた"(原作より) 2015年4月撮影


恋ヶ窪

作において、野川の源流を辿る二人は、やがて線路に行きあたり、その土手を越えたところに水源の池を見つけます。水田で畑仕事をしていた農夫から、あたりの地名が「恋ヶ窪」であると訊いた道子は、"自分がここに、つまり恋に捉えられた"ことを知っておびえます。

線路を越えたところにある野川の水源は、日立製作所中央研究所の敷地内にある大池ですが、これとは別に、西にさらに300mばかり行ったところに、姿見の池と呼ばれる小さな湧水池があります。国分寺市のホームページによれば、この姿見の池こそ、恋ヶ窪という地名の由来であり、鎌倉時代の武将、畠山重忠を慕った傾城、夙妻太夫が悲恋に身を投げたとされる、「武蔵野夫人」にも登場する池だと記されています。もっとも本来あった池は、昭和四十年代に埋め立てられてしまい、今ある池は、平成十年度に環境庁及び東京都の井戸・湧水復活再生事業費補助を受けて再整備されたものです。

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"道子は膝の力を失った。その名は前に勉から聞いたことがある。「恋」とは宛字らしかったが、伝説によればここは昔有名な鎌倉武士と傾城の伝説のあるところであり、傾城は西国に戦いに行った男を慕ってこの池に身を投げている。「恋」こそ今まで彼女の避けていた言葉であった"(原作より) 2011年6月撮影

小説の展開をドラマチックにするため、大岡昌平はおそらく意図的に、野川の水源と姿見の池を混同させたのでしょうが、いずれにせよ、当時、作家の目に映っていたであろう風景は、今のそれとはまったく異なるものだったのでしょう。


落合川

画で日傘を差した田中絹代と片山明彦が歩く、周囲に水田と森の広がる、谷戸のようにも見える場所は、いったい野川のどのあたりだったのだろう、と常々思っていたのですが、4年前、「武蔵野夫人」の記事を書いたときにいろいろ調べるうち、映画のロケ地がそもそも野川ではなかったことを知って、びっくり仰天しました。ではそのロケ地がどこだったのかといえば―。

「豊かなわき水がある場所に神社があった。何度か通っていると、宮司が声をかけてきた。「「武蔵野夫人」の映画を知ってますか。ここで撮ったんですよ。言われてみると、映画の面影があった。撮影当時、大岡が小説で描写した野川の姿はまだ残っていたはずだ。それでも、落合川の方がイメージに合うとスタッフは考えたらしい」(2004年6月1日付朝日新聞 むさしの版「崖線:4(中央線の詩 第5部慕情・小金井:5)」より)

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"ねえ、今度ここら一度、歩いてみない"(映画より) 2015年4月撮影

落合川とは、東京西部の東久留米市を流れる、落合川のことです。

武蔵野台地の中央に位置する東久留米は、都市化の波に洗われながらも、それでも小金井あたりの中央線沿線に比べて、都心からの距離がやや遠いぶん、開発を逃れた緑地や田畑が多く残る、武蔵野の気配がより色濃い場所です。

市の西部を源流として、市内を横断し、やがて埼玉県新座市との境で黒目川と合流する全長3.5kmの落合川は、市内のそこかしこに涵養する湧水を集めて流れる、まさに清流と呼ぶのがふさわしい、きらきら光る水底とゆらゆら揺れる水草の眺めに心が洗われる、透明度の高い川です。

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"ほら、聴こえるだろ、あの音。しゅるしゅっていう音"(映画より) 2015年4月撮影

落合川の左右の岸辺には、野川と同じく、新興住宅や集合住宅が数珠つなぎで軒を連ねています。それでも周囲を見渡せば、鎮守の森や畑や屋敷林のある農家が点在し、そのローカルな風情と土の匂いに、映画の時代のそこはかとない残り香を嗅ぎ取ることができます。なるほど、「武蔵野夫人」のロケ地は、落合川だったのか――。

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"ねえ、ここいら子供の時分、あんたがうちへ来ると、一緒に花の採取や蝉採りに来たわね"(映画より) 2015年4月撮影

このあたりは小金井と並び、湧水の多い場所として知られており、中でも落合川とその主要な源泉のひとつである南沢湧水群は、東京都で唯一、2008年に環境省が選定した「平成の名水100選」に選ばれています。

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"たくさんの水が、この武蔵野全体の地下にあるなんて、信じられないな"(映画より) 2015年4月撮影

章頭の新聞記事にある神社とは、中流域の南沢地区にある、南沢氷川神社のことです。この神社に隣接して、落合川にそそぐ4か所の湧水をもつ、雑木林と竹林の保全緑地が広がっています。ちなみにこの水源緑地は、これまで紹介してきたはけの森美術館、野川公園、貫井神社、そして姿見の池と並び、東京都によって「東京の名湧水57選」にも名を連ねています。「武蔵野夫人」を訪ねるそぞろ歩きは、つまるところ、武蔵野の湧水を訪ねるそぞろ歩きでもあります。

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"武蔵野...素朴で、荒々しいようで、そのくせ優しくて、自由で、奔放で、のびのびと生きている"(映画より) 2015年4月撮影

「落合川も、都市化の影響で川は汚染され、緑も減少し生物たちも棲めないという苦難の時代がありました。しかし、それを救ったのは行政と協働した多くの市民のボランティア活動です。雑木林や野草の管理保全、ホタルの生息環境の整備、落合川の清掃や環境保全など、いずれも市民が自主的に参加し、清流を取り戻して来ました」とは、南沢緑地に掲げられた看板に記されていたことです。

落合川もまた、野川と同じく、ほぼ全区間に改修工事の手が入った、かつて開発によって一度は破壊され、そして再生された、いわば都市の蓋の下に囲われ者となった自然です。鳥かごの中の鳥と同じく、人が面倒を見るのをやめればあっという間に息絶えてしまう、荒々しいところなどこれっぽっちもない、か弱い自然です。私が落合川を歩いた日、ボランティアと思しき数組の親子連れが、川の流れを遡りながら、中腰で、水の中のゴミを拾い集めていました。"生活と自然がこのように密接した武蔵野"の風景は、もはや、こうした心ある人々の努力なくして、生き延びることの叶わないものなのかもしれません。


多磨霊園

画の中で道子がたびたび訪れ、その墓前で呻吟する、亡き父母の墓所は、小説では、「多磨墓地」と記されています(映画のロケ地は不明)。「多磨墓地」とは、日本初の公園墓地である、現在の多磨霊園のことです。(昭和10年改称。ということは、小説執筆時には既に、多磨霊園となっていたはず)。武蔵野らしい広葉樹の雑木林が園内のあちこちに点在する多磨霊園は、公園墓地の名にふさわしく、春は桜の名所として知られ、また四季を通じて様々な野鳥を観察することのできる、このあたりでは野川と並ぶ、バードウォッチングの好ポイントでもあります(私のホームグラウンドのひとつ)。

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"大野の家から野川越えて、両親と二人の兄の霊の眠る多磨墓地へ急ぐ時、道子がはっきり自殺の決心をしていたかどうかは明瞭ではない"(原作より) 2015年6月撮影


村山貯水池(狭山丘陵)

子と勉が嵐に遭遇する、村山貯水池(多摩湖)を中心とする狭山緑地は、多摩川以東の都下では、もっともまとまった緑の残っている場所です。映画が、実際に多摩湖をロケ地として撮影されたものであることは、一目瞭然です。なぜならここは、私が生まれ育った故郷であり、文字通りの遊び場だったからで、ほんの数カットの映像にせよ、見間違いようがないからです。もっとも私が子供だったころと比べれば、ザリガニのいる沼は埋め立てられ、カブトムシやクワガタの集まる樹は容赦なく切り倒され、原っぱからトンボやバッタはいつの間にか姿を消し、つまり見かけは昔とあまり変わらないようでいて、実は本当の自然は、ずいぶんとスポイルされてしまっています。

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"丘の頂上からのみ成る低い岸の緑を映して、水深八十尺の静かな水が緑に拡がっていた。小じんまりした異様な円屋根を持った取水塔が水中に突き出ていた"(原作より) 2012年2月撮影

「はけ」のある小金井から狭山丘陵へは、国分寺から西武多摩湖線で、20分弱の距離です。原作刊行当時、終着駅の西武遊園地駅は狭山公園前駅という名称で、駅舎は現在の場所よりも数百m南へ下った、堰堤のすぐ近くにあったようです。

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"電車が国分寺駅を出てしまうと、道子はほっとした安堵感が胸を領するのを覚えた"(原作より) 2011年8月撮影

映画の中で村山貯水池を訪れた道子と勉は、胸騒ぎのする巻雲が渦巻く広大な空の下、湖畔から延びる鳥の嘴のような岬でしばし身を休めます。ターナーの絵のように美しいこの映像は、その雷光の煌めき方からして書割ではないかと思われますが、しかしこの岬と似た地形が、実際の湖にもあります。

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"この狭山丘陵は、昔の多摩川の三角州なんだよ。それがいまや隆起して、海抜150mの丘陵になってるんだ"(映画より) 2011年8月撮影

原作において、主人公の二人は湖畔を逍遥するうちに、夏嵐に遭遇します。二人は慌てて湖畔の茶屋に駆け込み、ぼろ傘を買い求めると、ますます勢いを増す台風に帰宅を諦め、茶屋の若者(映画ではお婆さん)に教えてもらったホテルへと向かいます。

湖畔の茶屋は、おそらくこんな佇まいだったに違いないと思わせる、私が子供のころから(ということは少なくとももう40年以上)、堰堤の袂で営業している、トタン囲いの小さな茶店がこちら。

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"横なぐりの濃い雨が急に襲って来た。二人は急いで長い堰堤を渡り、袂の茶屋に駆け込んだ"(原作より) 2011年8月撮影

二人が一夜を過ごすホテルのモデルになったと思われる、当時、湖畔に建っていた、西武鉄道経営の「多摩湖ホテル」はとうの昔に取り壊されてなく、今は、そこから300mばかり西へ行った湖岸に、こちらも西武鉄道の経営になる中国割烹旅館「掬水亭」があります。在りし日の「多摩湖ホテル」は、ネットで見つけた写真を見ると三階建てだったようですが、「掬水亭」は六階建て。高さもボリュームも異なりますが、おそらく当時も、堰堤からホテルの姿が見えたことでしょう。

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"南の谷を埋めた村山貯水池は、昭和初期の銀座文化にとって手ごろな遠出の場所であった。湖畔の同伴ホテルはその需要を満たすために生まれたものであるが、むろん戦争中からさびれて、和洋折衷の異様な建物をいたずらに荒廃させているだけである"(原作より) 2015年5月撮影

台風一過の朝、ホテルで葛藤の一夜を過ごした道子と勉が、ばらばらの心でそぞろ歩く、多摩湖西岸の草っぺりは、子供の頃に私がよく遊んだ場所です。堰堤の草つきの斜面を段ボールに座って滑り降りたり、原っぱでバッタやトンボを捕まえたり、あるいは有刺鉄線を潜り抜けて森の中に分け入り、落ち葉の上をちょろちょろ流れる清水にカエルの卵を見つけたり、カブトムシやクワガタを探したり。この森を抜けた狭山丘陵の麓に、私の実家はあります。

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"秋山は、帰っているでしょうか。帰っていなければいいんだけど"(映画より) 2011年8月撮影

昔の多摩湖の堰堤下は、写真のようなフェンスなどなく、今よりもはるかに開放的で、飼い馴らされていない自然がわずかながらも残る(もっとも多摩湖自体が人工湖ではありますが)、確かに危険なところはあるけれど、しかし子供の冒険心を満足させてくれる、そんな場所でした。「素朴な美しい、緑の武蔵野」という勉のノスタルジーはつまるところ、そっくりそのまま、私のノスタルジーでもあります。


将軍塚(八国山)

作で、道子が父母の墓前で自殺を決意していたその時、勉は叶わぬ恋に懊悩しながら、道子との思い出の地である狭山丘陵をひとり再訪していました。

狭山丘陵の東端、多摩湖の東に、八国山緑地と呼ばれる細長く小高い森があります。この森の麓には、「となりのトトロ」(1988)で、主人公のサツキとメイの母親が入院していた「七国山病院」のモデルになったと思われる、かつて結核療養のサナトリウムだった病院があります。映画の中で、お父さんとサツキとメイが、自転車に三人乗りしながら、斜面の樹の間から病院を見下ろす場面の雑木林が、つまり八国山緑地というわけです。

八国山の名は、上野、下野、常陸、安房、相模、駿河、信濃、甲斐の八カ国の山々が眺望できたことに由来する、と言われています。このあたりは、鎌倉時代の古戦場といわれ、山頂には、源氏の武将・新田義貞の武蔵野征討を偲ぶ将軍塚が建立されています。(HP「狭山丘陵の都立公園へきてみて!」より)

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"勉は歩き出した。「将軍塚」から村山貯水池へ連なる丘の稜線を伝う小径には樹は少なく、低い叢が両側を麓まで蔽っていた"(原作より) 2011年8月撮影

原作の中で、勉は小高い丘から武蔵野の眺望を得ようとして八国山へと足を延ばしますが、樹木にさえぎられて望みを果たすことができません。勉は狭山丘陵を独り逍遥しながら、変わりつつある武蔵野を思い、自分もまた力強く変わらねばならぬことを思います。そうして彼はその足で「はけ」を訪ね、ヴェランダに佇む道子の姿を物陰から目に焼き付けると、声を掛けずにその場をあとにします。ところがまさにその時、道子は毒を呷っていたのでした。

勉が狭山丘陵を再訪するエピソードは、小説だけのものです。映画は代わりに、道子が死んだのち、変わりゆく武蔵野を肯定し、勉に変わらなくてはいけないと説く道子の遺言(つまり原作における勉の決心は、映画において、道子の思いへと書き換えられている)を反芻しながら、戦火による残骸と思しき廃墟が残る小高い丘に登り、風に吹かれながら、開発によって無機質な都会に生まれ変わりつつある、武蔵野の街を見下ろす勉の姿を捉え、幕を閉じます。この風景が、果たしてどこで撮影されたものだったのか、映像にちらりと映るいくつかのランドマークを手掛かりに探しているのですが、いまだ見つけることができません。


おまけ

画「武蔵野夫人」には、ほんの数えるほどですが、都会で撮影された映像もあります。そのうちのひとつ、秋山が奉職する大学の外観に使われたのが、白金にある、東京大学医科学研究所本館。勉を訪ねた富子が、勉に会えず、ばったり秋山に出くわす大学のキャンパスの後景に、かつて東京帝国大学総長を務めた建築家、内田祥三が設計した、このゴシック建築の建物が映ります。

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"ほーう、あんな若造にあなたでも何か頼むことがあるのかな。おかしいなぁ"(映画より) 2013年3月撮影

手に手を取って出奔した秋山と富子。道子の土地家屋の権利書を持ち出したものの、思い通りに売りさばくことができず、ヤケ酒を呷ってへべれけとなった二人が喧嘩別れする場面の背後には、巨大な船を模した、けばけばしいネオンまたたくキャバレーがあります。この店は、かつて銀座8丁目の土橋交差点にあったグランドキャバレー、「ショウボート」。

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"いやよ。汽車になんか乗らないわ"(映画より) 2015年6月撮影

今、このキャバレーの跡地にはリクルートのビルが建ち、そしてそのすぐ脇には東京高速道路の高架が横切り(1959年開通)、映画に記録された、どこか地方都市めいて見えた、広々とした街路の面影はありません。武蔵野だけでなく、武蔵野を呑みこんだ都会もまた、半世紀を経て、その姿を大きく変えたということでしょう。さて、東京は、そして武蔵野は、この先どう変わっていくのやら。



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コメント

[C1150] ご無沙汰しております

久しぶりにブログを丁寧に読んだみたいで、とても爽快な気分です。

記事を読んで写真を観ていくうちに映画『武蔵野夫人』のロケ地を半世紀すでに超えた時間をさかのぼって実際に訪れたような錯覚を覚え、ひょっとするとMardiさんが感じたかもしれない充足感さえ感受できたような気がしましたのよっ、

映画を独自のイラストと共に丁寧に紹介する貴重なブログを読めて感謝しています。

『隣のトトロ』のお母さんが入院していた八国山病院の八国山という名称の由来など初めて知り、1951年生まれのとっくに半世紀を生きた者でもまだまだ世の中は捨てた物ではないなどと興味がわいております。 笑










  • 2015-10-10 05:07
  • ヘルブラウ
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  • 編集

[C1151] >ヘルブラウさん

こんばんわ、こんなマイナーネタの記事を読んでいただいてありがとうございます!マイナーネタではありますが、足掛け5年を掛けた記事なので、共感までしていただいて感激です。
今年の夏は子供と一緒に武蔵野のあちこちをカブトムシやクワガタを探してほっつき歩いたこともあり、武蔵野のよさを再発見した気がします。最近は週末になると多摩川べりをサイクリングしたりして、これまであまり縁のなかった武蔵野の南の境をふらふらさまよっています。
次もまた映画のロケ地に関係する記事の予定です。いつアップできるかわかりませんが、、、また気が向いたらぜひお立ち寄りくださいませ!
  • 2015-10-14 00:16
  • Mardigras
  • URL
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[C1159] 映画「武蔵野夫人」を見ました

先日映画「武蔵野夫人」を見てきました。映画を見るとロケ地が気になるので、さっそくインターネットで調べてみると、Mardigrasさんのブログにぶつかりました。ロケ地について良く分かり、また楽しく読むことができました。私は八国山の埼玉県側の麓に住んでいるのでなおさら興味が湧きました。そこで二つほどお分かりでしたら教えていただきたいのです。一つは、小説には八国山の場面がありますが、映画にはなかったと思いますが正しいでしょうか。二つ目は、Mardigrasさんのこのブログの「この狭山丘陵は、昔の多摩川の三角州なんだよ。・・・」の解説の付いた写真はどこから撮った写真なのでしょうか。こんもりとした島のような半島のような景色が映画でも出てきたと思うのですが、狭山湖を巡って探しても見つかりません。ぜひ教えてください。

[C1160] >北条秋風さん

こんにちは、コメントありがとうございます。
将軍塚の場面はおっしゃる通り、映画にはありませんでしたね。映画のエンディングでどこかの丘の上から勉が街を眺めてる場面が、その代わりだったと思います。多摩湖の写真は、東村山側の堰堤の北側(西武遊園地側)の始まりあたりから写したものです。映画の場面は、この風景を湖の反対側の湖岸(少なくとも今は立入禁止ですが)から撮ったのかなと思ってたのですが、映画を何度か観なおした末、ひょっとするとセットだったのかも、という気がしています。
実家を離れて暮らしてずいぶん経ちますが、多摩湖の風景が近くにある生活は、とても豊かだったな~と思います。お近くに住んでいらっしゃる北条秋風さんが羨ましいです。
  • 2017-02-08 23:23
  • Mardigras
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[C1161] 返信ありがとうございます。

多摩湖の写真の件ですが、色々と多摩湖についてPCで探していたら下記のブログが見つかりました。鵜のフン害で切られた木のことが出ていてその写真がMardigrasさんの写真に似ています。今探しても東村山側の堰堤の北側からはそれらしい島と木は見当たらないので、この記事の島とMardigrasさんの写真の島は同じような気がします。そしてここが映画のロケの場所であることを私は願っています。
http://www.geocities.jp/akutamako/5-totoro.html

[C1162] >北条秋風さん

そうです、この写真の島です!樹が伐られてしまってたのですね。写真撮ったあとも、何度も湖を訪れてますが、そのことに、まったく気づいてませんでした。。また近いうちに実家へ行くので、その時にでも私も確認しに行ってみようと思います。島は、いずれ減水すれば姿を現すと思います。

興味のある人はまずいないだろうな~と思いながらこの記事を書いた記憶があります。コメントいただけて、とてもうれしかったです。
  • 2017-02-11 01:54
  • Mardigras
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