「こわいでしたねサヨナラ篇」に教わったこと

作家の吉行淳之介が、各界の著名人と"恐怖"をテーマにあれこれ語り合う、「恐怖対談」という軽妙洒脱な対談集がありました。その中に、映画評論家の淀川長治をゲストに迎えた「こわいでしたねサヨナラ篇」と題する回があって、話題はもちろん、映画にまつわるあれこれ。大して長いものではないのですが、これがめっぽう面白かった。高校生の頃、どこかの映画雑誌に転載されていたこの対談を図書館で読んだのですが、その内容にあまりに感銘を受けてしまい、わざわざコピーをとって家に持ち帰り、しばらく保存しておいたものです。その後、「恐怖対談」の本自体を入手したのでコピーはどこかにいってしまったのですが、思えばあれが、私が初めて読んだ映画についての論評らしき論評だったかもしれません。
淀川さんの教えてくれたこと(以下ネタバレ)
で、この「こわいでしたねサヨナラ篇」の何がそんなに面白かったのかというと、それが、ルネ・クレマンの「太陽がいっぱい」(1960)をめぐる議論。いろんな映画についてあれこれ語っているうち、「太陽がいっぱい」のラストがコワい、という話になり、するととつぜん淀川さんが、この映画はホモセクシャルを描いた映画第一号だ、と言い出すのですね。それを聞いたホストの吉行淳之介と同席していた和田誠はひっくり返り、色をなして反論するのですが、ところが淀川さんは、いかにも映画評論家らしく、映画の中のいくつかの場面を取り上げながら、この二人を"映画文法的"に論駁していくのです。
最終的に、作家とイラストレーターは、その説得力と迫力ある"映画文法的"という一言の前に説伏させられてしまうのですが、理屈で納得しても感覚では受け入れがたいらしく、なんだか妙に据わりの悪いまま、対談は締めくくられます。そしてこれを読んだ私の感想も、吉行・和田ご両人とほとんど同じで、淀川さんのおっしゃることは、なるほどもっともらしく聴こえるし、同意を求められれば頷かざるを得ない気もするのだけれども、でもやっぱり心の中ではどうしてもそう思えない、とまあそんなところ。
たとえばアラン・ドロン演じるトムが、モーリス・ロネ演じるフィリップを船上で刺殺した直後、遠景に白いヨットが一艘ぽつりと浮かんでいるカットがほんの一瞬差し挟まれるのですが、淀川さんはそのヨットを指して、これは"映画文法的"に、いま刺し殺したばかりのフィリップの亡霊を暗示するものだ、などとおっしゃっています。
また旅行先のローマから、モンジベロ(架空の町)に帰ってきた二人が渡し舟を降りる場面があり、淀川さんはその様子を指して、主従関係にあるはずの二人が同時に下船するのは"映画文法的に"ありえない、従であるトムが先に降りてロープを舫うなりしなければならないのであり、それを並んで下船させているということは、すなわち二人の立場が平等である=恋愛関係を暗示している、とまあ、そんなこともおっしゃっています。
"映画文法的に"、などと淀川さんのような大御所に言われてしまうと、いやそれは違う、などと誰も反駁できるはずもなく、もう畏まるしかないわけですが...でも、ねえ(たとえば白いヨット、私が観る限り、単にトムが殺しの現場を目撃されなかったかどうか、あたりを見回して確認したら、遠くにヨットが一艘浮かんでいるだけなのでホッとした、としか思えない)。
とはいえ、高校生の頃の私にとって、「太陽がいっぱい」=同性愛説が正しいのか正しくないのかは、実はどうでもいい、とはいわないまでも二の次で、それより何より感銘を受けたのが、この映画を観て同性愛説を導き出してしまうような、映像の一コマ一コマにこだわる淀川さんの映画鑑賞のスタンス。それまで映画といえば、単に目の前に展開するストーリーを追いかけて満足していただけに、この、一見何気ないようなカットやシーンを見逃すことなく、それらを積極的に解釈して意味づけしようとする、いわば映画の行間を読むかのような淀川さんの姿勢に、えっ、映画ってそうやって観るものだったの!?と、カルチャー・ショックにも似た驚きを覚えてしまったのですね。
それまで考えたこともなかったのですが、確かに、慎重かつ意図的に編集されているはずの映画の映像に、意味のないカットやシーンがあるはずもなく(ただし、モノによってはとうぜん、それが編集者や監督のひとりよがりである可能性もあり、淀川さんも、ルネ・クレマンが監督だからこそ、とおっしゃっている)、要するに映画というのは、単に表面上のストーリーに身を委ねるだけでは味わい尽くすことのできない、ひとつひとつの場面の意味をしっかり考えながら観るべき(そしてその方がより深く楽しめる)ものだということを教えてもらった気がするのです。
そして同時に、もし本当に、淀川さんのおっしゃるような解釈のための文法、いわば"映画のイコノグラフィー"とでもいうべき作り手と鑑賞巧者の共通理解に基づくヒントのようなものが存在するのだとすれば、ひょっとすると自分は、映画というメディアのもつ滋養のかなりの部分をそれと知らぬまま、未消化にやり過ごしてきてしまったのかも、そんなことを思わされてしまったものです。
それにしても、撮影技術を意味する映画技法とはまた別に、より絵画的な意味で、XXは△△を意味する、みたいな"文法"、あるいは図像学的な約束が、本当に存在するものなのでしょうか。それとも、淀川さんの意味するところは、そんな体系的に整理できるコードなのではなく、映画(特に映像ですべてを理解しなくてはならない無声映画あたり)を山ほど観て初めて感得されるようなもの、あるいはご本人が普遍的な共通理解だと思い込んでいるだけで、その実、淀川さん個人のセンスや嗜好に基づく感覚的なもの(妄想)に過ぎなかったりするのでしょうか。
そのあたりのことを解説してくれるテキストにめぐりあったことがなく、いまだにナゾはナゾのままなのですが、それでもこの対談を読んで以降、かなり注意して映像を眺めるようになり、訳の解らないシーンがあったりすると、スルーせずに、あれはどういう意味なんだろう、などと少しは妄想してみるようになりました。要するに、ひとつの作品をより深く、違ったアングルから味わおうという、映画に対する貪欲な気持ちが生まれたような気がします。振り返ってみれば、好きな作品を何度も繰り返し観る癖がついたのも、もしかすると、この対談を読んだことあたりがきっかけだったのかもしれません。
「太陽がいっぱい」(原作)について
とまあ、作品自体とまったく関係のない話をつらつら書いてしまいましたが、はっきりいって「太陽がいっぱい」は、別に映像のウラを読んだりせずとも、表面上のドラマを追いかけ、美しい音楽に耳を傾けながら、スクリーンに映し出されるティレニア海やナポリの風光明媚な映像をうっとり眺めているだけで、理屈ぬきに面白い映画です。
物語のスタイルは、いわゆる倒叙モノと呼ばれるサスペンス。主人公であるトム・リプリーの犯罪とその隠蔽工作が彼の視点で描かれていくのですが、中盤以降はスリルの連続で、特に、完全犯罪を成し遂げたと確信したトムが、天国の絶頂から一瞬で地獄に突き落とされるラストの演出――燦燦と日の降り注ぐビーチで寛ぐトムと、死骸の絡みついたヨットの陸揚げを交互に映すモンタージュの切れ味は、倒叙モノのエンディングとして、ほかに類をみない強烈な余韻を残します。
原作は、パトリシア・ハイスミスの「太陽がいっぱい」。映画のおおよそのプロットやキャラクター造形は、原作にかなり忠実でありながら、しかし驚くべきことに、映画史上に残るあのエンディング、実はハイスミスの小説には存在しません。原作におけるトム・リプリーは、綱渡りの隠蔽工作に運も味方して、とうとうその犯罪が露見することなくまんまと逃げおおせ、しかも続編では裕福なフランス人女性と結婚し、新たな犯罪に手を染めながらも、のらりくらりと自由気ままで優雅な生活を送っているのですから、これはもう、映画とは100%逆の結末といってもいいかもしれません。
卑劣で小賢しく、また哀れをもよおすほどにコンプレックスの塊である(そして常に悪運が味方する)トム・リプリーという人物は、読者(私)にとってあまり感情移入できるキャラクターではありません。そしてそんな人物の複雑な心理をじっくりねっとり描写していく、ハイスミス独特の奇妙な舌触りは確かに癖になる味わいではあるものの、しかし全五冊(「太陽がいっぱい」、「贋作者」、「アメリカの友人」、「リプリーをまねた少年」、「死者と踊るリプリー」)を通じ、彼がついに罰せられることなく終わるそのストーリー・ラインは、お世辞にも読後感がよいとはいえません。むろん、それがハイスミスの狙いであることは十分解っているのですが、しかし"勧善懲悪"で締めくくられる映画の強烈無比なカタルシスにより魅力を感じるというか、この作品に限っては、(珍しくも)映画が原作を凌駕しているように思えるのですね。
結末以外にも、原作と映画では、物語の導入部の語り口に大きな違いがあります。原作ではその冒頭、かなりのページを費やして(全体の5分の1ほど)、トムのアメリカでの嘘で塗り固められた生活と、渡欧してフィリップ(原作ではディッキー)に接近し、友人付き合い(というより主人と下僕)を始めるまでの経緯がじっくりと描かれますが、映画ではそれがバッサリ切り落とされています。以前、原作を読んだ後に改めて映画を観て、その省略がいかに大胆なものだったかを知って驚いたものですが、それでもその後のドラマ展開にまったく齟齬の生じないところが、これぞまさに映画的で素晴らしい。原作では、アメリカでの生活描写やその言動を通じ、トムの育ちの悪さや賤しい性根が浮かび上がってくるのですが、映画はそんなエピソードを一切抜きにして、冒頭のたった10分間、フィリップとともにローマを遊び歩くトムの表情、しぐさやその振る舞い、それにフィリップとのさり気ない会話によって、トム・リプリーという人物の人となりと、彼とフィリップが知り合った経緯を、簡潔かつ自然に説明してしきってしまうのですね 。
アラン・ドロンの醸し出す"賤しさ"
それにしても、アラン・ドロンのトム・リプリーは、観れば観るほど嵌り役に思えます。ギリシャ彫刻のように整った顔立ちであるにもかかわらず、育ちの悪さ、劣等感、浅ましさ、厚かましさをごたまぜにした卑しい雰囲気をそこはかとなく漂わせていて、絶品としか言いようがありません。

モノでも女性でもフィリップの所有物を無暗に欲しがり(惚れてるから?)、フィリップに追い払われるまで、彼と恋人のマージのツー・ショットに図々しく寄り添ってみたり(嫉妬?)、船室のフィリップとマルジュのラブ・シーンを覗き見してみたり(まさに"ピーピング・トム")、といった、その下衆っぷりを物語るエピソードの秀逸さもさることながら、それを表現するアラン・ドロンの演技と佇まいが素晴らしい。鏡に向かってフィリップの真似をする陶酔しきった表情。フィリップに対する下僕というよりほとんど飼い犬のような上目遣い。あるいは下賤な雰囲気漂うタバコの咥え方。また自分の魅力を100%理解しきっている計算高さそうな流し目(ラスト間近、マージを口説き落とす場面の説得力たるや凄い)。はては笑うと覗く前歯の間のほんの微かな隙間にさえ、"お里の知れる感じ"がヤニのようにこびりついているのです。
「太陽がいっぱい」の二度目の映画化作品、「リプリー」について
原作の二度目の映画化作品である「リプリー」(1999)は、その公開時、「太陽がいっぱい」よりも原作に忠実だと喧伝されていた記憶がありますが、果たしてそうでしょうか。確かに、トムを演じるマット・デイモンや、マージを演じるグウィネス・パルトロウの見た目は、アラン・ドロンやマリー・ラフォレのそれよりも原作のイメージに近く(なにせアメリカ人だから。ただしジュード・ロウとモーリス・ロネはいい勝負)、また冒頭部分も原作通りに映像化されていて、さらにはフィリップ(「リプリー」ではディッキー)の殺害方法や、トムが逃げおおせるオチも原作どおりなのですが、しかし「太陽がいっぱい」とはまた違ったアングルで、改変されている部分がけっこうあったりするのですね。
たとえば、フィリップ(ディッキー)殺害の動機と経緯。原作や「太陽がいっぱい」では、トムの強欲と厚かましい疎外感がその動機であり、殺人は冷静に計画されたものでした。一方、「リプリー」における殺人は、ディッキーの悪罵をきっかけに沸き起こった衝動的な怒りと(見捨てられるという)切羽詰った感情に身を任せた突発的なものとして、まるで男と女の痴話喧嘩の果ての殺人のように描かれています(ただしどちらの作品も、トムの捩くれた"変身願望"がその動機の底流にある)。
また原作では、トムはゲイだと思われることを極端に嫌っており、よって彼が男と寝るような描写も一切ありませんが、しかし「リプリー」のトムはあからさまなバイ・セクシュアルで、また実際、ディッキーに対する思慕を仄めかすような行動に及んだり、はては犯罪隠匿のために平気で男と寝たりしています(相手の男は原作には登場せず、これもまた原作からの大きな変更)。
そしてオチについても、トムの犯罪が露見せず、まんまと逃げおおせてしまうところは確かに原作どおりなのですが、マージが直感でトムの犯罪を見抜いたり、はたまたアメリカに帰国する船上でトムが新たな殺人を犯したりと、そのディテールはかなり大きくアレンジされています。
斯様に「太陽がいっぱい」と「リプリー」は、どちらが原作により忠実ということはなく、ひとつの小説を同程度に、ただしそれぞれ異なったアプローチでもって脚色した作品、といっていいように思います。いずれにしても、原作に忠実だろうがそうでなかろうが、出来上がった映画が面白ければそれで一向に構わないわけですが、「リプリー」の方が原作に忠実、なんて言われていたのがずっと引っ掛かっていたこともあり、ついつい比べてしまった次第。
で、「リプリー」の感想はというと、興味深く観たことは観たのですが、全体的に平板な印象で、その面白さは物語の筋それ以上でも以下でもないという感じ。「太陽がいっぱい」という作品が醸し出す格調のような何か、何度も繰り返し味わいたくなるような何か、というものを見つけることはできず、おっ、と身を乗り出したり、感情を揺さぶられたりすることのほとんどないままに、なんとなく受身で観終わってしまった、といったところです。しかしそれにしても、「リプリー」のトムが同性愛者として描かれていたことには、かなりドキッとしたものです。やはり「太陽がいっぱい」についての淀川さんの主張は正しくて、「リプリー」は、私あたりではなかなか気づくことのできない、微妙で繊細な趣向を目一杯膨らましたものだったのではなかったのかと。
ちなみに、リプリー・シリーズ第三作目である「アメリカの友人」が、ヴィム・ヴェンダースによって1977年に映画化されています。未見なのですが、こちらでトム・リプリーを演じているのはデニス・ホッパー。ホッパーのトム、というのもちょっと想像の埒外ではありますが、いかがなものか、いずれ観てみたいと思います。
「太陽がいっぱい」の印象的ないくつかの場面について
初めてこの映画を観たのは小学生の頃だったと思うのですが、「太陽がいっぱい」というユニークなタイトルや、そして一度聴いたら忘れられないニーノ・ロータの名曲(「道」(1954)のDVDに収録のノートによると、ニーノ・ロータ本人曰く、この映画の作曲はやっつけ仕事だったとのことで、思い入れはまったくないそうです。えっ!?)ともあいまって、紺碧の海と白亜の家並みの美しい映像が、子供ながらに強く印象に残ったものです。
のちに再見したときに、そうそう、こんなシーンもあったっけ!と古い記憶が甦ってきた場面がいくつかあります。エンディングは言わずもがな、同じくらいによく覚えていたのが、フィリップ殺害後、トムがフィリップに成りすますべく、ホテルの部屋でパスポートを偽造し、プロジェクタに大写しにしたフィリップの署名を上からなぞって練習する場面。冷静に考えると、わざわざサインを大写しにする必要があるのか?という気もしないではないのですが、咥えタバコでシャツをはだけたアラン・ドロンが、壁に留めた模造紙にシャーッ、シャーッとペンを走らせるビジュアルはケレン味たっぷりで、いかにも映画的な楽しさとダイナミズムの詰まった名場面です。
トムのなりすましを察したフィリップの友人のマイルズを、トムが始末するエピソードもまた、うっすらと記憶に残っていたものです。アパートの部屋で待ち伏せしていたトムが、部屋に入ってきたマイルズの頭を置物で一撃すると(愛する男をナイフで刺殺したのとは対照的、と淀川さんはおっしゃてます)、その勢いで、マイルズの手にしていた買い物袋が床に飛び散ります。ごろごろ転がる野菜と一緒に羽を毟られたチキンがくたっと床にへばりつき、そのへたり具合がなんとも気色悪いのですが、死体となってくたりとしたマイルズが、このチキンにそっくりで、思わずぞっとさせられます。そしてその夜、酔っ払いを介抱するふりをしながら、トムは死体を屋外へと運ぼうとします。死体が生きているように見せかけるため、トムはマイルズの死体に火のついたタバコを咥えさせたり、話しかけてみたり、そんなちょっとした工夫もまた面白い。
それから今回改めて観て、初めて気ついたことがあります。船上でのフィリップ殺害のあと、それまで穏やかだった海が突然荒れだして、トムがうねる波間に放り出されてしまう場面があります。単に、殺人直後の殺伐とした雰囲気を醸し出すための演出くらいに思っていたのですが、よく考えたらこれ、エンディングの伏線になっているのですね。海が荒れたからこそ、フィリップの死骸をくるんだ袋を縛っていたロープがスクリューに絡みついてしまったわけで(死んでも離れられない二人、と淀川さんはおっしゃってました)、観れば観るほど、計算し尽くされた映画だなあという思いが強くなるのです。
太陽がいっぱい(原題: Plein soleil)
製作国: フランス/イタリア
公開: 1960年
監督: ルネ・クレマン
製作: ロベール・アキム
脚本: ポール・ジェゴフ/ルネ・クレマン
原作: パトリシア・ハイスミス(「太陽がいっぱい」*河出文庫版。角川文庫版は「リプリー」)
出演: アラン・ドロン/マリー・ラフォレ/モーリス・ロネ
音楽: ニーノ・ロータ
撮影: アンリ・ドカエ
美術: ポール・ベルトラン
編集: フランソワーズ・ジャヴェ
ロケ地: イスキア島、ナポリ、ローマ
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管理人: mardigras

お久しぶりです。フライフィッシングに一度はイングランドに行って見たいと思っている飛行機嫌いです。(……。)
ドロンの表情が見事に再現されているイラストはホントいいですね。
映画を絵画的に観る人もいれば、私みたいに心情的に見る人間もいるから面白いんですね。
と言うのも、この映画、ニーノ・ロータのスコアが無かったら、これ程の名作と言われたかどうか。
ドロンの感情表現をニーノ・ロータが演じてしまった?ぐらいのスコアが絶妙です。
ハイスミスの原作は読んだ事がありませんが、映画として完全に一人歩きしていますよね。
淀川さんの解説はいつも凡人の視点とは違い、そう言う見方があるんだ、といつも感心させられました。
Mardigrasさんも、かなり映画が好きな事が当然ながら文章から分かって感心させられます。
私は、ラストの希望と絶望が、ドロンの心情とは全く関係ないところで展開して行くあのシーンが忘れられません。
『リプリー』は……、マット・デイモンが主役をした時点でだめでした。どうせならジュード・ロウがリプリーを演じた方が良かったのでは……。