桶屋!棺桶二つ...いや、たぶん三つだ!! 黒 澤明の「用心棒」 。「椿三十郎」 に勝るとも劣らない、"超弩級"のオモシロ"痛快娯楽時代劇"です。そもそも「用心棒」(1961)あっての「椿三十郎」(1962)...なので本末転倒この上ない言い草なのですが(このあとの感想のすべてがそう)、でもまあ「椿三十郎」を先に観てしまったのでお許しを。この映画、これまで10回近くは観てますが、しかし上には上がいるもので、「ボディーガード」 (1992)の主人公、フランクは62回も観たと言っていました。とはいえこの「用心棒にもいろいろある。雇った方で用心しなきゃならねえ用心棒だってあらぁ」 の三十郎、あまり要人警護の参考にはならないと思うんですよねぇ... 似て非なる「用心棒」と「椿三十郎」 「 椿三十郎」と「用心棒」、どちらの作品も、どこからもとなくふらりと現れた"三十郎"こと名なしの風来坊(三船敏郎)が、たまたまめぐり合わせた争いごとに首を突っ込み、首尾よく解決して(さんざん暴れて)またいずこへともなく去っていく、という骨格を持ったドラマです(むろん「椿三十郎」が「用心棒」のそれを踏襲したわけですね)。超人的主人公による胸のすく立ち廻り、ユーモアのある機知に富んだ筋立て、とまあ、両作品の面白さと快感のツボは共通で、またその筋運びのテンポやリズムも、(1)冒頭で圧倒的な強さを披露した三十郎が (2)腕力とペテンでもって悪人どもを翻弄しつつ (3)善人に足を引っ張られたりしながら (4)一度はとっ捕まってしまい (5)しかし機転を利かせて脱出すると (6)強敵を倒して大団円、とほとんど重なっていたりもするのですが、しかしその肉付けと装いは、まったくの別物です。 椿が画面からはみ出さんばかりに咲き乱れ、野にヒバリが囀っていた「椿三十郎」に、片や凍てつくからっ風に砂埃が舞い上がり、棺桶作りの槌音が響く「用心棒」。凄絶な立ち廻りがあるにもかかわらず、全体としては軽妙洒脱な印象の残る「椿三十郎」に、ギャグ満載でありながら、全編に殺伐とした雰囲気の立ちこめる「用心棒」。同じモノクロ作品でありながら、どことなく華やいだ紅白の色合いを感じさせる「椿三十郎」に、黒白そのものといった感じの「用心棒」...とまあ、「椿三十郎」に比べて「用心棒」の風合いはなにからなにまで反対で、「椿三十郎」ってもしかして「用心棒」のセルフパロディだったの?と言いたくなるくらい、初めて観たときは驚いてしまったものです。血腥い「用心棒」 冒 頭、冠雪した山並みを背景に、すっかり葉の落ちきった桑畑のど真ん中の辻で、棒っ切れを放り投げて行き先を決めた三十郎が、くっと肩をひと揺すりして歩き出すオープニング――。さえざえとした冬の空気の冷たさと匂いまでもが伝わってくる、「用心棒」が「椿三十郎」と地続きであることを強く感じさせる、いかにも三十郎、な気分のすがすがしい幕開けです。しかし、そんなのどかな雰囲気もここまで。からっ風の吹き荒ぶ人気のない宿場の往来に足を踏み入れた三十郎の目の前を、人間の手首を口に咥えた野良犬がとことこと横切っていくショッキングな場面を皮切りに、ドラマは一気に血腥いものへと変化していきます。 物語の舞台は、博打打ちの縄張り争いに利権が絡み、勢力を二分しての対立が続く上州、馬目の宿。博徒に肩入れする町の実力者、悪党のお先棒を担ぐ十手持ち、袖の下を受け取る見回り役人、そして血の匂いを嗅いで集まってきた、有象無象の無宿に兇状持ち...と、悪徳と暴力が支配する無法地帯に、「この町は気に入った、腰を据えるぞ」 と居座りを決めこんだ三十郎は、やがて水を得た魚のように狭い宿場を縦横無尽に泳ぎ回り、口八丁手八丁でもって屍体の山をばったばったと築き上げていきます。 腕をぼとりと斬り落とされて泣き叫ぶチンピラ、胸から血を噴水のように吹きあげて斃れる無法者、誘拐、放火、裏切り、騙し討ち、果ては拷問されて自らも血みどろのぐにょぐにょになった三十郎に、最後は血だまりの中でおぼれるように死んでいく敵役の卯之助(仲代達矢)...とまあ、まるで犬の咥えた手首がその予告ででもあったかのように、全編にわたって血の匂いがむんむんと漂う非情な暴力描写のオンパレード。 「用心棒」の三十郎に、「椿三十郎」の三十郎が垣間見せていた、遠慮だとか居心地の悪さはこれっぽっちもありません。「この町にはたたっ斬った方がいいような奴しかいねぇ!」 と、嬉々として修羅場を駆け回り、敵対する博徒の群れをかちあわせて火の見櫓に登り、そのへっぴり腰のおしくら饅頭を心から面白おかしそうに見物するこの映画の三十郎の、悪党どもが束になってもかなわないとんでもないたちの悪さこそ、まさに「椿三十郎」で評されていたところの"抜き身" の"バケモノ" の本領発揮といった感じなのです。クレジットにない原作、「血の収穫」 「 おれは笑った。ポイズンヴィルはいよいよ鍋の蓋の下で煮えかえって来たらしい」 (ダシール・ハメット「血の収穫」)「なあおやじ、この宿場はまた、この鍋の中みたいにぐつぐつ煮えてきたぜ」 (黒澤明「用心棒」) 「用心棒」のシチュエーションや舞台設定が西部劇を意識したものであることは、ラストの決闘や砂塵の舞う宿場町の様子をはじめ、卯之助のピストルや(埃避けのバンダナみたいな)マフラーといった小道具に明らかです。しかし、作品全体に漂う血生臭く殺伐とした空気には、実はまた別の元ネタがあります。「用心棒」は建前上、オリジナル脚本(菊島隆三&黒澤明)ということになっており、タイトルバックに原作のクレジットはありません。しかし黒澤監督本人が、「ほんとは断らなければいけないぐらい使っているよね」 と認めているように(「黒澤明語る」 (聞き手:原田眞人)より)、その骨格の礎となった元ネタは、ダシール・ハメットの書いたハードボイルドの古典、「血の収穫」 。 ギャングが三つ巴、四つ巴の縄張り争いを繰り広げ、無法地帯と化したモンタナ州の鉱山町"ポイズンビル"を訪れたサンフランシスコの探偵が、殺人事件を捜査するうちに、腐敗しきった町の毒気にあてられたかのように暴走し、敵対する勢力同士をけしかけ、殺し合わせ、死体の山を累々と築き上げていく...というのが「血の収穫」の筋立て。「用心棒」は、この複雑な長編小説の"うまみ"を絞りに絞って抽出し(シチュエーションを思い切り単純化するとともに、ミステリの要素を一切排除)、西部劇の風味を加えて(そもそも「血の収穫」の元となったハメット自身の中編小説「新任保安官」 が西部劇仕立てだったりします)時代劇に練りなおしたかのような作品であり、「椿三十郎」のどこかのほほんとしたすっとぼけた味が山本周五郎の原作の味わいそのものであったように、「用心棒」の破壊的で殺伐とした空気もまた、「血の収穫」が醸し出している味わいそのものといってよいでしょう。「原作の姿かたちなんてまったく要らない。欲しいのは生き血だけ」 (「複眼の映像 私と黒澤明」 橋本忍著より) 黒澤明と何度もコンビを組んだ脚本家の橋本忍が、原作の料理法についてそんなことを述べています。実際のところ、「用心棒」は(「椿三十郎」の「日日平安」 がそうであったように)「血の収穫」の原型をほとんど留めていませんが、しかしそれでも、この映画を観て「血の収穫」のことが直感的に頭に浮かんでくるのは、まさしく橋本忍の言うところの"生き血"が注ぎ込まれているからかもしれません。「血の収穫」の名なしのオプと「用心棒」の三十郎 三 十郎のキャラクターが、「七人の侍」 (1954)の侍たちを混ぜこぜにしたかのような超人(バケモノ)であり、また「椿三十郎」においてはさらに、原作の主人公、菅田平野のDNAがちょっぴり混ざったかのようだ、と「椿三十郎」の記事に書きましたが、実はもうひとり、三十郎がその血を受け継いだ人物がいます。それが「血の収穫」の主人公、コンチネンタル探偵社(ハメットがかつて働いていたピンカートン探偵社がそのモデル)から派遣されてやってきた、"ハンターとかハントとかハンチントンとかいい加減な名" を名乗る、コンチネンタル・オプこと"名なしのオプ(探偵)" 。 喜怒哀楽をあらわにし、捻くれた人情家でもある"ワルにみせるのが好きなだけらしい" 三十郎は、感情を高ぶらせることがなく、また情に流されることのないドライ一辺倒な名なしのオプとは本質的に異なる人物です。しかし三十郎が、「七人の侍」の勘兵衛から智謀を、久蔵から剣技を、平八からシニカルなユーモアを、そして菊千代から偽悪的な正義感を受け継いでいるように、そのサディスティックとさえいえる悪魔的な人の悪さは、まぎれもなく「血の収穫」の主人公、コンチネンタル・オプの血をひいたもの。 またなんといっても、三十郎の怪物性に最大の説得力を与えているともいえる、一切の因果と無縁であるかのような得体の知れなさは、名なしのオプの倫理と正義を超越した行動を免責するかのような、この本名を名乗らないという画期的なアイデアが、そのまま反映されたものに違いありません。そして三十郎は、探偵社の一社員として町に派遣され、仲間を呼び寄せもし、ときに自らの暴走行為を自嘲的に振り返らなくてはならない(しかもラストでボスに大目玉を食らわなければならない)、つまるところ現代人のリアリティをまとったオプに比べ、ほとんど無制限の自由が付与されたファンタジックな"バケモノ"として、棒切れを放り投げてぶらりと姿を現し、カネ、カネと口にしながらも、その実ほとんど無動機の気まぐれでもって頼まれてもいない宿場の"大掃除"をし、すべてが片付くと「これでこの宿場も静かになるぜ」 と嘯いて、呆気にとられる権爺と桶屋を尻目に、いずことも知れず、「あばよ」 と町を去っていく(ことが許される)のです。 ちなみに用心棒にはもう一人、「血の収穫」にその原型を見出すことのできる登場人物がいます。それが、有象無象の悪党たちの中でも、卯之助や亥之吉(加東大介)と並び、ひときわ印象に残る人物、むち打ち症のコルセットみたいな首巻きをした清兵衛の妻、おりん(山田五十鈴)。三十郎のお得意のギャグ、「もうそろそろ四十郎だがな」 に(「椿三十郎」で城代家老の奥方が笑い転げていたのと対照的に)ぶすっと顔を背け、「ひとり斬ろうが百人斬ろうが、縛り首になるのはいっぺんだけだよ!」 と倅をどやしつけ、出入りの前には「どざくさまぎれに逃げようったってそうはいかないよ!」 と女郎たちを土蔵に閉じ込める、この目を三角に尖らせた女餓鬼のようなキャラクターは、「血の収穫」に登場する、ダイナ・ブランドという業突く張りの、しかしどこか憎めないところのある娼婦の持つ悪徳を、思い切り膨らませたものでしょう。 三十郎は、「用心棒」と「椿三十郎」を通じて一切女っ気がなく、その硬派であるところに西欧的なヒーローとはひと味違う、いかにも日本的な(そして黒澤明的な)ヒーローの理想像を観る気がします(そしてそれが確かに好もしい)。しかしながら、原作においてファムファタール的な立ち位置にいたダイナに比べ、おりんが博徒の女将としてより後ろに引っ込んでいることには、山田五十鈴のおりんが噛めば噛むほど(観れば観るほど)味の出る存在であるだけに、ないものねだりであること(設定をいじくりようがないこと)をじゅうぶん承知の上で、少々もったいなさを感じてしまったりもします。おりんが"女"を売りにしてもっと三十郎に積極的に絡んだりしたら、それはそれで、また違う面白さが膨らんだのではないか――そんな詮ないことを考えてしまうのですね。「用心棒」の意外な兄弟――「ミラーズ・クロッシング」 「 こんなに床に叩きのめされてもまだこりねえのか」 (ダシール・ハメット「ガラスの鍵」)「おめえまだぶん殴られてえのか」 (黒澤明「用心棒」) 物語の終盤、百姓親子に情けをかけたのが仇となり、新田の丑寅一家にとっ捕まってリンチを受けた三十郎が、監禁された蔵の中で、花札をくくる見張りの男たちのうしろの床を、うなり声をあげながら芋虫のようにずるずると這いまわります。飯屋で卯之助と亥之吉に捕まったあと、拷問の場面を省略して、いきなり"おもしれえ見世物" のようになった三十郎の顔が大写しになる、このショッキングな演出の元ネタは、「血の収穫」とはまた別のハードボイルド、同じくハメットの書いた「ガラスの鍵」 。小説でぼろぼろにされるのは、ギャングに捕まった主人公の賭博師ですが、その展開といい会話といい、「血の収穫」のいかなるチャプターよりも、小説の描写がそっくりそのまま再現されているといっていい場面です(とはいえ原作の捻りのない脱出方法に比べ、映画の方がはるかに独創的な工夫が施されている)。また「血の収穫」に描かれる抗争が、ギャングに町の実力者、そして警察権力を巻き込んだ三つ巴、四つ巴の複雑なものであるのに対し、「ガラスの鍵」の対立が町を影で操る実力者vs.新興ギャングの二軸であることを考えると、「用心棒」のシチュエーションは、そもそも「血の収穫」と「ガラスの鍵」をミックスしたものといっていいかもしれません。 ハメットの長編第四作にあたる「ガラスの鍵」は、作家自身が自作のうちでもっとも愛していたという作品であり、似たような舞台仕立てでありながら、ごつごつとした読み応えの「血の収穫」(長編処女作)に比べ、はるかに洗練された格調と成熟を感じさせる小説です。市政を牛耳る黒幕を友人に持つ主人公が、殺人事件の嫌疑をかけられて窮地に陥ったこの友人を救うため、というよりあくまで友情を抱く自分自身に忠実であらんとして、その友情そのものを失うことも辞さずに事件の真相を追求していく、というのがその筋立てです。心理描写をほとんど排した文体でありながら、その行間からは主人公の苦くメランコリックな感傷がほのかに立ち上ってきて、ミステリーとしての興趣は薄いものの(いっそなくてもかまわない)、まさにハードボイルドが何かといわれればコレ、といいたくなる味わいを持った小説です。 そして「用心棒」とはまったく違うやり方で、この「ガラスの鍵」(と「血の収穫」)から"生き血"を搾り取ったような映画があります。それがコーエン兄弟の傑作、「ミラーズ・クロッシング」 (1990)。「用心棒」のプロットが「血の収穫」そのままではないのと同じように、「ミラーズ・クロッシング」のストーリーもまた「ガラスの鍵」そのままではなく(たとえば「用心棒」のクライマックスが原作を離れた独創的なものであるように、"ミラーズ・クロッシング"で展開する名場面もまたこの映画独自のもの)、また「用心棒」にハメットの名がクレジットされていないように、「ミラーズ・クロッシング」にもハメットの名前はありません。しかしそのシチュエーションや人物造形には「ガラスの鍵」の影がまぎれもなくなく、またその趣向には「血の収穫」のエッセンスが色濃く反映されていて、そしてなんといっても、行動のあとから感情や心理がついてくるその語り口には、単に「ガラスの鍵」という一作品を越えた、ハメットの標榜したスタイルの本質そのものを映像化したかのような趣きが漂います。行動描写優先の語り口によって先の読めない展開を作り出し、ドラマに強烈なサスペンスと緊張を生み出すコーエン兄弟のスタイルは、ほとんど映画におけるハメットの文体模写とでもいいたくなるほどにエキサイティングです。 プロットと味わいをまったく異にしながら、「用心棒」という"痛快娯楽時代劇"と「ミラーズ・クロッシング」というスタイリッシュなギャング映画が、実は兄弟といってもいい映画なのだ思うと、なんとも愉快な気持ちになります。同じ小説を元ネタにしていても、着目の仕方によって、こうも違った作品が生まれるものなのかと、創作というマジックの不思議さに、改めて感じ入ってしまいます。"三船君の立ち廻り" 「 椿三十郎」の剣技もすさまじいものでしたが、「用心棒」の三十郎もまた、おそろしいほどの早業を披露します。「用心棒」はその殺伐とした雰囲気ゆえ、全編チャンバラだらけの印象がありますが、しかし意識して観ると、三十郎が絡む立ち廻りはたった四回。なんと「椿三十郎」よりも少ない(五回)。しかも一回ごとの時間がやたらと短く、全部足しても、おそらくほんのく2、3分。ところがその殺陣の迫力は、あまりに圧倒的です。「三船君の立ち廻り、30何秒かのを編集していて、そのときも誰か来て止めて、こう覗いたら何も映ってないんだよ、一コマには。で、一つずつ見たら、全然映ってない、ただ筋がこうなってるだけ。回すとちゃんと動いていて-それくらい速いんだよ、動きが。だから三船の立ち廻りは迫力があったんだ」 (1994年4月1日号 FIGARO Japan 「黒澤明VS淀川長治」 より) とは黒澤監督の証言ですが、百姓家に押し入り、ごちゃごちゃと障害物のある家屋の中を逃げまどう丑寅の子分六人を、最短距離を結んで追いかけ回し、片っ端から斬って斃す、その動きの速さと正確さはまさに圧巻で、さらには多数の襲撃に見せかけるため、家の中を滅茶苦茶にぶっ壊して回る動作の効率的なことといったら、ある意味その太刀捌き以上に見惚れてしまうところがあったりします。雨戸を蹴破り障子を突き破り、襖を打ち壊して囲炉裏を引っ繰り返して、と、ひとりで片付けたらおそらく一日かかっても終わらないくらいに破壊しつくすのにかかる時間はほんの30秒...まったく呆れるほどのスピードです。 * * * クライマックスの決闘で、卯之助たちをあっという間に斬り倒した三十郎が、丑寅の子分となっていた百姓の小倅に詰め寄ります。「おっかあー!」 と泣き叫ぶ小倅を、三十郎が説教を食らわして見逃してやるこの場面、「ゲッタウェイ」 (1972)や「キル・ビル Vol.1」 (2003)にまったく同じような描写があって、「用心棒」が「ガラスの鍵」から場面を借用したのと同じように、ペキンパー(脚本は、奇しくものちに「用心棒」のリメイク、「ラストマン・スタンディング」 (1996)を監督したウォルター・ヒル)もタランティーノも、おそらくこの「用心棒」から"おっかあ"ネタを拾ったのでしょう。また「悪霊島」 (1981)に出てきた手首を咥えてうろつく犬も、やはりこの映画が元ネタではないかと思われ、こうして過去の創造を種にした創造が、また新たな創造の種になっているのだと思うと、その活かし方の巧拙はともかく、黒澤監督の"創造は記憶だ" のひとことに、また一段と強い説得力を感じてしまうのです。用心棒 (英題: Yojimbo ) 公開: 1961年 監督: 黒澤明 製作: 田中友幸/菊島隆三 脚本: 菊島隆三/黒澤明 出演: 三船敏郎/仲代達矢/山田五十鈴/東野英治郎/河津清三郎/山茶花究 音楽: 佐藤勝 撮影: 宮川一夫 美術: 村木与四郎
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管理人: mardigras
・・・修得できるかわからないけど(笑)
10回近くも観てらっしゃるなんて凄いですね。わたしは一度観たきりなんですけど、確かに「椿三十郎」と違い殺伐としていて、ちょっと苦手でした。”黒白そのもの”というのも分かる気がします。
でも、”ギャグ満載”というのが思い出せないんですよね。もしかして、ちゃんと観てなかったのかも・・・。
三十郎が様々なキャラクターの血を受け継いでいることを頭の片隅に置きながら、また再見してみたいと思います!