砂は湿気を呼びますから。

安部公房原作・脚本、勅使河原宏監督による1964年公開の映画、「砂の女」。間然するところのない構成に、シャープなモノクロ映像、リアリズム溢れるディテールで構築された、悪夢のように不条理で寓意に満ちた世界は、まるでかたちのない"砂"そのものように、場面場面によって、視点の置きどころによって、また観るときの気分によって、そのフォルムの印象を自在に変化させていきます。
男女を描いたドラマであるのはむろんのこと、幻想譚あるいはサスペンス、ときにホラーのような趣きすら漂わせ、はたまた日本的なるものを描破した文化人類学的なドキュメンタリーのようでもあれば、"直径1/8mm"の砂の態様をさまざまなアングルから捉えた、優れた自然記録映画のようでもあります。砂丘に深く穿たれた穴の底という閉じられたシチュエーション、そして限りなく少ない登場人物によって紡がれる一種の密室劇でありながら、込められた寓意の広がりは果てしなく、見どころ、感じどころ、考えどころが十重二十重に織り込まれていて、観るたびに、そのずっしりじっとりした重みと分厚さに圧倒されてしまいます。
ちなみにイラストは、"女"を演じている岸田今日子。手描きに挑戦してみたのですが、画用紙に鉛筆で描いてデジカメで撮ったところ、光量不足のせいか、何度やってもこんな色に...でも砂みたいだから、いいやこれで。 「砂の女」のあらすじ(以下ネタバレ)
都会の暮らしに倦み疲れ、休暇を利用して、とある砂丘へ昆虫採集にやってきた男。砂丘の縁にへばりつくようにして佇む集落の村人に声を掛けられた男は、宿を世話するという人の良さそうな村人の奨めるまま、四方を砂の壁に囲まれた穴の底深くに埋もれるようにして建つ、奇妙な民家を訪れます。
縄梯子を伝い降りた男を待ち受けていたのは、集落を砂の埋没から防ぐため、穴の底で砂掻きをしているという、ひとりの女。夜通し働き続ける女になかば呆れ、早々に寝入った男は、しかし翌朝、穴の中と外を繋ぐ縄梯子がなくなっていることに気づき、愕然とします。うろたえ慌てる男に背を向けて、狸寝入りを決め込む女。男は採集壜に閉じ込めた虫のごとく、自らが砂穴の底に幽閉されてしまったことに、ようやく気がつきます。
砂嵐で夫と娘を亡くし、「女でひとつじゃ無理なんですよ、ここの生活は」という女の相方として、いわば村の組合によって"補充"されてしまった男。理不尽な仕打ちに怒り狂い、男は砂壁をよじ登ろうとして失敗すると、説得、泣き落とし、果ては女を縛り上げてのサボタージュとあらゆる手立てを尽くして穴からの脱出を試みますが、しかし水の供給を断たれ、"息に火が着きそう"な苦しみの末、抵抗を諦めます。
一計を案じた男は、従順を装いながら、幾日もかけて手製のロープを拵えると、女と村人の隙を突いて、ある日ついに、穴の外へと逃げ出すことに成功します。ところが脱出したのも束の間、男は狡猾な村人たちと犬に追い立てられ、流砂へと迷い込み、身動きが取れなくなってしまいます。そして恥も外聞もなく大声で村人に助けを求めると、なんなく捕らえられ、再び穴の中へと連れ戻されてしまいます。
以来、男は村人たちの警戒心を解くことを目的に、ときに女に対して癇癪を破裂させながらも、穴の中の生活に順応する素振りをみせ始めます。そうして女とともに砂掻きの仕事に精を出し、配給の煙草と焼酎を嗜み、女と交わり、慰みに鴉を捕らえるための罠を仕掛けたりして数ヶ月を過ごすうち、徐々に、男の心の中には、砂穴の生活に対する充足めいたものが芽生え始めます。そして方便だったはずの従順と隷属は、いつしか男の精神に拭いがたく染み込み、やがて"鼠ほどの脳みそもない"(原作より)と見下し蔑んでいた村人たちから、衆人環視の中で女と交わってみせれば外を散歩させてやるという餌をぶら下げられ、とうとう人間の矜持を失くしたかのごとく、「なにも、そう大げさに考えなくても...」などと言いながら、嫌がる女に襲い掛かかってみせます。
それから数週間が過ぎたある日、男は罠の首尾を確かめようとして、砂に埋めた樽の底に水が溜まっているのを発見します。それが毛細管現象のいたずらであることを覚った男は、期せずして水を掘り当てたことに狂喜し、女に内緒で、水量を増やす研究に熱中し出します。
やがて冬が過ぎ、春を迎えたある日、身籠っていた女が下腹を押さえて苦しみ出します。男に呼ばれてやってきた村人たちは、激痛を訴える女を布団に包むと、穴の外へと運び上げ、オート三輪に乗せて、町の病院へと運び去っていきます。穴の底にひとり残された男がふと見上げると、そこには村人たちの仕舞い忘れた、縄梯子が。男は半信半疑の表情を浮かべながら、砂壁に歩み寄ると、覚束ない足取りで縄梯子を登り、久しぶりに外界の砂を踏みしめます。びょうびょうと鳴る海風を聴きながら、感慨深げに海を眺め、砂丘を逍遥する男。しかししばらくすると、男はまた穴の中へと戻っていきます。そして溜水装置の前に佇み、水の溜まり具合に満足そうな笑みを浮かべながら、心の中でひとりごちるのです。
(別に、慌てて逃げ出したりする必要はないのだ。私の往復切符には、行く先も戻る場所も本人の自由に書きこめる余白になって空いている。おまけに私の心は溜水装置のことを誰かに話したいという欲望で、はちきれそうになっている。話すとなれば、ここの部落のもの以上の聞き手はまずありえまい。今日でなければたぶん明日、私は誰かに打ち明けてしまっていることだろう。逃げる手立ては、またその翌日にでも考えればいいことである)
「砂の女」の原作について
この映画の原作、安部公房の「砂の女」を初めて読んだのは、高校一年の夏でした。"新潮文庫の100冊"の対象となっていた一冊で、キャンペーンの小冊子に載っていたあらすじに惹かれ、そしてなんといってもその薄さが気に入って、手を伸ばした覚えがあります。
辺鄙な砂丘を訪れた都会人が、蟻地獄のような穴の底に監禁されてしまうというシチュエーションが面白く、ミステリ的、あるいはサバイバル的な興味でもって一気読みしましたが、この小説のもつ豊穣な味わいを、当時の自分がどこまで咀嚼していたかといえば、かなりあやしいものです。ほんの200ページ強、当節なら長編ともいえないボリュームの文庫本に内包された、広大無辺の寓意に目を瞑り、ときに下世話で、ときに目眩くような比喩の洪水にも一切無頓着のまま、ただ、この男はいったいどうなってしまうのか?あるいはオレがこいつの立場だったらどう脱出するか?と、上っ面を撫でるだけの速読に終始してしまった気がします。
それゆえ、"罰がなければ逃げる楽しみもない"――扉の裏に記された、ミステリとして読む上ではネタバレともいえるエピグラムに予告された締めくくり――あれほど希求していた"自由"が、タナボタ式に降ってくる展開に拍子抜けしてしまい、またそれにもかかわらず、あえて逃げ出そうとしない男の精神構造が理解できず、そのアンチクライマックス的ともいえるカタルシスの不在に、ずいぶん不満を感じてしまったものです。
しかし、その不完全燃焼な読後感ゆえ、かえって心が残ったというか、この小説の何かが私の中にかちりと食い込んだようで、以来、数年ごとに読み返してはぱらぱらとページをくくってみる、とても長い付き合いの一冊になりました。そして再読するごとに、読み進めるペースは遅くなり、いつの頃からか、熟読玩味しては本を伏せ、あれこれ考えを遊ばせるようになってしまったものです。というのも、この本、それこそ砂に埋めた樽の底に、"毛細管現象"でいつの間にか"水"が溜まっているがごとく、久々に手にするたび、それまで汲み取ることのできなかった新しい何かが行間に湛えられていて、再読のたび、まるで一行が二行、さらには三行にでもなったかのように、読み応えの度合いがどんどん増していっているからです。
発酵食品じゃあるまいし、むろん月日を経ても小説自体が変化するはずもなく、新しい何かが生まれているのは、読み手である私の内面。「砂の女」という小説は、時間を経て私自身の中に溜まったさまざまな思考を吸い上げ、濾過して整理するきっかけを与えてくれる道具――いわばポンプのような役割を果たしてくれている小説、といっていいかもしれません。小説に限らず、映画にしろ絵画にしろ音楽にしろ、心惹かれるものは多かれ少なかれ、否応なしにあれこれ考えるきっかけを与えてくれるものですが、とはいえこれほど"毛細管現象"に優れた作品は、滅多に出会えるものではないのですね。
原作世界の完璧な映像化
とまあ、原作について思うところを書きましたが、実はこれ、かなりの部分で映画に対しても当てはまる感想。なにせ安部公房自ら脚色を手掛けたシナリオには、原作の含意がほぼそっくり込められていて、そのドラマ展開は、細部のエピソードやセリフにほんのわずかな差異があるだけで、原作をほぼ忠実になぞったものだからです。むろん、文字表現ならではのきらめきはかなりの部分が失われ、また文字を映像に移し変えたことによって、やや舌足らずに思える箇所や、逆に説明過剰に感じる箇所があったりもしますが、しかしそんなマイナスを補って余りある、まさに映像ならではの凄みとカタルシスが随所に満ち溢れ、映画は映画で、小説に優るとも劣らない完成度を感じさせる作品です。
私が初めて「砂の女」を観たのは、確か小説を読んでから2、3年後のことでした。そもそも「砂の女」が映画化されていたことを知らず、たまたま教育テレビで放映されることを知って(当時、祝日になると邦画の名作を放映してくれていた)、「砂の女」ってあの「砂の女」?くらいの気持ちで観始めたのですが、しかし時間が経つにつれ、その映像の一コマ一コマが、いちいち原作世界のイメージそのもの――小説を読みながら、私が勝手に脳内に思い浮かべていた「砂の女」の風景そのものであることに、度肝を抜かれてしまいました。
たとえば、薄ら寂しく荒涼とした砂丘の光景。切り立った砂壁にぶら下がる縄梯子。砂穴の底に建つ、今にも崩壊しそうなあばら家の佇まい。ぐずぐずに腐ってぶよぶよに膨れ上がった畳。天井板の隙間からシャワーのように降ってくる砂。そして登場人物たちの風貌や立ち居振る舞いに、さらにはそんなすべての要素が渾然一体となって醸し出す、湿った砂の饐えた臭いが漂ってきそうな作品の空気――とまあ、もう何から何までが、頭の中に思い浮かべていたイメージそのもので、ホント、興奮してしまったものです。
むろん、作品世界を見事に形象化した、映画製作者たちの匠の技あってこそのミラクルなわけですが、しかしそれ以上に、(安部公房を含む)製作者と鑑賞者(私)のイメージが、ぴたりと一致していたことがかなりの驚きで、要するに、それだけ原作の文章表現が、(よい意味で)読者のイマジネーションの逸脱を許さない、逆に言えば、恐ろしいほど的確なイメージ喚起力を備えたものだということでしょう。「砂の女」を読み、そして観た人のおそらくほとんどが、私が頭の中に描いたのと同じ風景を想像し、そしてその想像通りに視覚化された映像に、私が感じたのと同じ驚きと興奮を味わったのではないでしょうか。
もし「砂の女」未体験の人に、どちらを先に手に取るべきかを奨めるとしたら、もう間違いなく、小説。まず小説を読み、そして読み終わったところでおもむろに映画を観て、脳内映像が寸分違わず眼前に広がる感動を、ぜひ味わってほしいと思うからです。
記録映画のような映像――砂は生きている
ディズニーの記録映画のタイトルをもじって言えば、この映画、さしずめ"砂は生きている"と言ったところでしょうか。平均直径1/8mm、一粒一粒はれっきとした固体でありながら、集合体としては限りなく不安定、確固たるシェイプを持たない、流体の性質を持つ砂のふるまいを、あらゆるアングルから捉えたモノクロ映像は、ときに神秘的なほどに美しく、またときにそら恐ろしいほど暴力的で、まさに圧巻のひとことです(ちなみにロケ地は、「ツィゴイネルワイゼン」(1980)のロケ地ともなった、静岡県の浜岡砂丘。2014年12月に訪れてきました→こちらの記事)。
たとえば砂丘の遥か先まで幾何学的パターンを刻む、風紋の枯山水の石庭にも似た静寂な美しさ。かと思えば摩擦抵抗の限界を超えて斜面をぽとりぽとりと雨滴のように滑り始め、やがて周囲の砂を巻き込み流量と流速を増していく、砂の川と滝の驚異。あるいは砂穴から脱出しようと足掻き、しゃにむに砂の壁をよじ登ろうとする男を問答無用で呑み込み押し流していく、砂雪崩の圧倒的なカタストロフィ。そして原作において、"塩あんこ"という言いえて妙な呼び名の付けられた、砂丘の狭隘に広がる、底なし沼のような流砂の恐怖――。
とまあ、どれもこれも息を呑むほど素晴らしいのですが、なかでも雪崩のように崩壊する巨大な砂壁に、男がなすすべもなく溺れる様子を、あばら家の屋根越しに捉えたロングショットのスペクタクルは、武満徹の手掛けた神経を引っ掻くような音楽(というより音)の破壊的な音色とも相まって、小説から想像した光景を遥かに上回る、この映画の白眉といってもいい凄まじさです。正直、原作を読んだときは、なんだかんだで砂壁を掘り続ければ脱出は可能なんじゃないか、などと主人公の男と似たようなことを思ったのですが、自然の巨大で無慈悲なエネルギーと人間の無力さを一目瞭然で対比させた映像は説得力200%で、その絶望感に肌が粟立ちます。
集合体としての砂の驚異と恐怖を活写し尽くす一方で、映画は、粒子としての砂一粒一粒の厳しさもまた、余すところなく捉えていきます。僅かな隙間から家屋を侵食し、土間といわず、茶の間といわず、水瓶の中といわず、ところかまわず、ざらざらと降り積もる砂。畳をぶよぶよに膨らませ、梁をぐずぐずに腐らせ、布団をじっとりと湿らせる砂。指の股といわず、髪の中といわず、汗まみれの身体にぺたりと張りついて、服の内側どころか身体中の穴という穴に侵入し、襞という襞にこびりつく砂。そして水の供給を断ち切られた男が、"血が腐っちまう"ような喉の渇きに耐えかね、口いっぱいにほおばる濡れた砂――。
たかが砂粒が、いかに不快と苦痛を人間にもたらしうるものなのか、そしていかにその生活を容赦なく蝕み苛むものなのかということが、砂穴の底の砂まみれの生活描写を通じ、具体的かつ徹底的に描かれていきます。その描写のリアリティは、いずれも私自身が体験したことのあるはずがないものであるにもかかわらず、不快な砂粒の感触が身体中にまとわりつき、吐き気を催す砂の味が口中に湧いてくる気がするほど。何度観ても、その生理的なおぞましさに怖気を奮ってしまいます。
日本人の心性を映す僻遠の集落
映画では特に明示されませんが、小説では、集落が、日本の近代化と経済成長の波に乗り遅れた僻遠そのもの象徴であり、村人たちによる都市生活者の監禁が、要するに、繁栄に置き去りにされた者たちによる、都会に対する復讐にほかならない、ということが仄めかされています。なるほど物語全体を通じ、村人たちと男、そして女と男の関係性の中に、都会と僻村の対比が鮮やかに浮かび上がってくるのですが(女にとって男は、憧れの対象としての都会の象徴でもある)、しかしそんな寓意の一方で、不毛の地にへばりつく"愛郷精神の行き届いた"村人たちの面影とメンタリティには、いかにも前近代的な日本の土着的な精神風土が鋭く反映されていて、まるでこの国の国民性そのものを暗示しているかのようにも思えます。
■土地と家に対する執着心
たとえば、土地に対する村人たちの執着心。都市生活者である男は、村ぐるみの犯罪を犯してまで、貧弱な砂地に定着しようとする村人たちの心根が理解できず、なぜこんな家にしがみつくのかと女をなじり、なぜ無理して古い生活様式にこだわるのかと村人に問いかけます。彼らは世間話の範疇において、それぞれにもっともらしい理由を口にしますが、納得できない男がさらに問い詰めようとすると、彼らは一様に肝心なところで会話をはぐらかし、口を噤んでしまいます。
ところで新藤兼人監督の作品に、「裸の島」(1960)という、瀬戸内海の離れ小島に暮らす農民夫婦の苦闘の日々を描いた映画があります。くる日もくる日も、朝早くに小舟を漕いで本土へ渡り、水を汲んでは島へと引き返し、船着場から島の頂上にある畑まで、切り立った急坂を天秤棒を担いで何度も何度も往復する...という労働風景を描いた、記録映画のような趣きをもった作品です。瀬戸内海のモノクロ映像が美しく、また一見単調な展開の中に抑制の効いたドラマの起伏がしっかりとあって、決してつまらない映画ではないのですが、しかしそこに込められたメッセージというか、主人公たちの、愚直というより、むしろ魯鈍と評したくなる生き方にはまったく共感できず、はっきりいって、感動するどころか首を捻ってしまったものです。
夫婦揃ってあれほどの重労働をこなせる膂力の持ち主であれば、島を離れて遥かにマシな仕事も暮らしも見つけられるだろうに、なぜ彼らはほとんど不毛に近い"裸の島"にあれほど固執するのか、あるいは百歩譲って島の暮らしに拘るにしても、なぜ彼らは船着場に溜池をこさえるだとか、そこから水を吸い上げるだとか、生活を改善する工夫をせず、ただひたすらに非効率な徒労を繰り返すばかりなのか――。それが馬鹿げたことに思えるのは、なんといっても、そんな暮らしの中で幼い息子が病気に罹り、離島ゆえに医者の往診が間に合わず、むなしく息を引き取ってしまうからです。
この映画、モスクワ国際映画祭でグランプリを受賞したそうですが、さもありなん、いかにも当時のソビエトあたりで歓迎されそうに思える(無闇矢鱈な)労働讃歌であり、逆に言えば、西欧人、特にアメリカ人あたりがこの映画を観たら、彼らを理解できないどころか、息子を殺した犯罪者だ、くらいのことを言いかねない気がします。と書いたところでふと気になり、アメリカやイギリスのレビューサイトをいろいろチェックしてみたら、そんなことはぜんぜんなくて軒並み高評価。あれ?
...とまあ、関係ない映画のことはこのくらいにして、何が言いたいかというと、この「裸の島」に描かれる、シジフォスさながら、くる日もくる日も水を搬び続ける農民夫婦の土地に対する執着とイノベーションの欠落が、まさに、「砂の女」の砂を掻き出し続ける村人たちと女のそれに重なってみえて仕方がない、ということです。かたや、息子の命という犠牲を払ってでも痩せた土地に拘る夫婦、かたや、拉致監禁という犯罪を犯してでも不毛な砂丘にしがみつく村人たち。なぜ彼らがここまでひとところの土地と生き方に固執し続けるのかといえば、それはもう理屈で説明できるようなものではなく、稲作文化の始まった古代より、日本人の血の中に脈々と培われてきた、ほとんど本能ともいえる問答無用の価値観だから――とまあ、そんなもっともらしいことを言ってみたくもなりますが、男が理を尽くして問いかけるほどに、村人や女が固く口を閉ざしてしまうのも、それは彼らが因循姑息だからというより、むしろ彼ら自身にも答えようのない根源的な問いかけだから――なのかもしれません。
■利己的で排他的な"愛郷精神"
「うちの部落じゃ、愛郷精神が行き届いてますから」
夜っぴて砂運びに精を出す村の若衆を眺めながら、自分がまだ虜になったことに気づいていない男が、なかば呆れながら感心してみせるのに対し、女は誇らしげに、そんなことを口にします。
またドラマの後半、砂地の不毛な暮らしに拘る利得のなさをこんこんと諭す男に、女は村の組合が、掘り出した塩っ気の多い砂を、コンクリートの材料として工事現場に卸していることを打ち明けます。そして、その違法性に気色ばんだ男が、ビルやダムがぼろぼろになってしまうじゃないかとなじると、女は不貞腐れたような表情をして吐き捨てます。
「かまやしないよ、他人のことなんか」
砂の密売に、余所者の不法監禁――女の言うところの愛郷精神なるものが、要するに、おらが村さえよければ他人がどうなろうと知ったこっちゃないという、第三者と外界に対する想像力の著しく欠如した、偏狭な共同体の排他性や身勝手な利己性と表裏一体のものであることが、明らかになります。
女の思わぬ強い口調に、男はうろたえ、「そ、そりゃ他人のことなんてどうだっていいさ」と、いかにもシニニズムに浸った都市生活者らしく返してみせますが、しかし女は、自ら口にした"他人"という人称が、質の悪い砂で作られるビルに住むであろう顔の見えない人間のみならず、ほかならぬ目の前の男をも含んだものであることに、これっぽっちも気づいていないかのようです。
監禁が数ヶ月に及び、会話にごく自然な馴れ合いが生まれてなお、村人と女が男の名前を口にすることなく、"お客さん"、もしくはせいぜい"あんた"と呼び続けていることは、男に同情心を抱かないための犯罪者の防衛本能のようでもあり、また一方で、コミュニティの閉鎖性がいかに強固なものであるかを物語っているかのようでもあります。村人たちにとって、男はあくまで集落の存続のために補充された匿名の労働力――"どうだっていい他人"なのであり、男がどれほど村の生活に馴染もうとも、この先、男が村人たちから共同体のメンバーとして受け入れられるようなことはなく、失踪から七年が経ち、男の死亡が社会的に宣告されるエンディングに至ってなお、男はいまだ、村人たちから"お客さん"と呼ばれていたりするのではないか――なんだかそんなふうに思えてしまうのです。
■共同体の娯楽――弱いものいじめ
純粋な他人である男だけでなく、"砂掻きするために生きているような"女もまた、生粋の村人ではありません。小説の中で、その経緯は不明ながら、女が村に住みついたのは戦後になってからだと仄めかされていて、要するに女もまた、共同体の正真正銘の身内とは言いがたい存在です。村人たちに嵌められた男と違い、女は自らの意思で村に奉仕しており、また村に対する郷土愛を口にしたりもするのですが、しかし村人たちの口調には、いわば村の共同管理化にある砂掻き女を一段下の存在として蔑視するかのような、差別的な空気がそこはかとなく漂っています。
そしてそんな空気の最も濃くなる瞬間が、まるで天井桟敷から見物する観客のように、村人たちが砂穴を取り囲こみ、衆人環視の中で女とあれをやってみろ、と男をけしかける場面。意地悪く顔を歪めた村人たちの環に、野卑な嗤いと卑猥な野次が波のように広がり、そのあからさまな弱いものいじめの描写には、村ぐるみの監禁という、おぞましく陰湿な犯罪に感じる以上といってもいいほどの、この映画でもっとも目を背けたくなる残酷さが滲みます。
御陣乗太鼓の原始的な響きに乗せ、それが果たして魔に魅入られた男の幻視に過ぎないのか、あるいは村人たちが本当に舞っているものなのか、おどろおどろしい夜叉面に不気味な爺面を被った鬼人たちが、闇夜の砂丘を縦横無尽に走り回る光景には、男の内面にぐるぐると渦巻く逡巡、そして囃し立てる村人たちの黒々と燃え上がる興奮が投射され、その異様な画力に思わず息を呑んでしまいます。そして、その、ほとんど神話的とさえいっていい、鬼気迫る映像を観ているうち、砂掻き人夫をスケープゴートにしたその余興が、まるで古来より村落内に脈々と受け継がれてきた、伝統儀式のようにすら思えてくるのです。
* * *
とまあ、「砂の女」の僻村に反映された日本人の心性のあれこれが、果たして"前近代的"とくくってしまっていいものかといえば、正直、そうとは言い切れないところもあって、たとえばつい先ごろ行われた参院選挙の前に見た、ある大政党の選挙CM。"日本がまた世界でいちばん幸せな国になるために..."というその主張には、おらが国さえよければ...という「砂の女」の村人たちにも通じる利己的な"愛郷精神"が感じられ、なんともいや~な気分になってしまったものです。
そして、そんな例を持ち出すまでもなく、いまだ根強い日本人の土地神話に持ち家志向、あるいは外国人看護師のやたらと厳しい就労基準にみられるような、他国人受入れに対する本能的とも思える拒否感。さらにはあらゆる社会に蔓延り、まるで組織の維持に欠かせない儀式であるかのように繰り返される集団いじめ――。民族性を安易にステレオタイプ化するつもりはありませんが、「砂の女」に描かれた村人たちのメンタリティは、実感として、こうして現代社会にも、拭いがたく根を張り続けているものであるように思えたりもするのです。
砂に埋没していく都市生活者――男はなぜ逃げなかったのか?
いかにも擦り切れた都市生活者らしい、冷笑主義を身にまとった厭世的なインテリ教師。村人に話しかけられた男の気障で理屈っぽい口調に漂う、おそらく本人も気づいていないであろう、僻遠の住人に対する都会人の無意識の優越感と自信は、村人に騙されて虜となり、そして脱出の企てがことごとく失敗するにつれ、見る影もなく萎んでいきます。
"希望は他人に語るものであって、自分で夢見るものではない"――。教師の仕事に嫌気が差し、せめて新種の昆虫を発見して図鑑に己の名を残したいと願っていた男は、"訓練すれば猿にだって出来る"砂掻きの日々の中で、"おれにももっとマシな存在理由があるはずだ"と懊悩し、"誰でもないままに死ぬのはいやだ"と焦燥感を募らせながら、その毎日の日課にまがりなりにもリズムが生まれるにつれ、まるでその思考――自身の存在理由や社会に対する認識を、砂穴という狭小の鋳型に合わせて圧縮変形するかのように、自分の存在が"部落の連中から重宝がられている"ことを思い、いずれ外の生活も内の生活も"五十歩百歩"、"欠けて困るものなど何一つありはしない"のではないか...と自問自答し始めます(以上の引用は、すべて原作より)。
男の心が次第に揺らいでいくさまは、まるでそれまで属していた外の社会が、所詮コンクリートと雁字搦めのしがらみで出来た大きな砂穴に過ぎず、自由なるものがまやかしでしかないことに気づいてしまったかのようでもあれば、監禁された者が次第に監禁者に共感し始めるストックホルム症候群のようでもあり、あるいは頭でっかちのインテリがインテリらしく捻くり出した、精神の平衡を保つための小理屈――単なる自己欺瞞のようでもあります。
ドラマの終盤、男は"希望"という自虐的な名を付けた罠の中に、皮肉にも本物の希望――水を発見します。それは男にとって、"欠けて困るものなど何一つない"――足りないものなど何ひとつないと思い始めていた砂穴の底で、実は唯一欠けていたかもしれない、最後のピース。希望という名の"往復切符"を、そして夢中になれる"なぐさみ物"を手に入れたことで、男にとって唯一無二だったはずの砂穴からの脱出という目的は、いよいよ切迫感を失っていきます。
そしてそんなとき、ついに穴から逃げ出す千載一遇の機会が到来するわけですが、男がなぜ、逃亡せずに穴の中へと舞い戻ったのか、前述の通り、初めて原作を読み、映画を観たときは、この不条理な物語の中でも、もっとも不条理に思える最後の男の変心が、さっぱり理解できなかったものです。そしてあれから二十数年、今やその心境は手に取るようにわかる――と言いたいところですがそんなこともなく、読むたび観るたびに、さまざまな思いがぐるぐると頭の中を駆けめぐります。
それは、そもそも男自身が独白するように、自由を手に入れるための手段でしかなかった溜水装置に対する執着、あるいはそのことを誰かに話したくてならないインテリの虚栄心に過ぎなかったのかもしれず、いや巻頭のエピグラムにある通り、罰がなければ逃げる楽しみもない、という心境そのものだったのかもしれません。または前述の通り、いずれ外も内も大して違いはないと思い定めたか、あるいは穴の中で充足する女に感化され、足ることを知る生活の幸福を悟ったのか。いやもしかしたら、男を留まらせたのは女の身体に対する執着かもしれず、その実、子供ができたせいだったりするのかもしれません。
むろん、これらのすべてが合わさって、初めて男の足が止まった可能性もあれば、あるいはそんなもっともらしい理由など一切なく、既に男の精神がまともな判断も出来ないほど、内から腐ってしまっていたのかもしれず、あるいはその行動は、単に鳥籠の扉を開け放っても、広い世界に怯えて飛んでいこうとしない、すっかり人間に懐いてしまった野鳥みたいなものだったのかもしれません。
そして今回、改めて映画を観直して思いついたことがあります。それは、男が逃げ出そうとしなかったのは、結局のところ、砂穴の中の幽閉生活が、昆虫採集の延長線上にある甘美な現実逃避――取るに足らない自身の存在を自身に対して正当化するための、体のいい責任逃れだったのではないか――ということ。囚われの身であり続けることが、無為な人生に対する自身の責任を棚上げし、"誰でもないままに死ぬ"ことの責めを環境と境遇に負わせることのできる、いわば究極の現実逃避だったのではないか、ということです。
希望があれば慌てて逃げだすこともないと嘯くのも、また罰がなければ逃げる楽しみもないというエピグラムも、すべて男にとっては現実逃避を続けるための屁理屈であり、たとえ溜水装置に対する熱中が醒めたとしても、男はまた、砂穴に留まるためのもっともらしい新たな言い訳を捻くり出しているのではないか――今回観直して、ふとそんなことを感じてしまったのでした。
とまあ、観るたびに思うことがころころと変わるのですが、しかしいずれにしても、高校生のときには非現実的としか思えなかった男の行動が、今の私にとっては、実際にあってもおかしくない、かなり納得のいくものに思えることだけは、確かだったりします。もしオレだったらどうやって逃げ出すか――当時はそんなことを思いながら観ていたものですが、今となっては、もしオレだったら逃げ出しただろうか、それともやっぱり留まってしまっただろうか――ふとそんなことを思って慌てて打ち消したくなるほどに、男の立場にヘンな魅力を感じてしまったりもするのです。
* * *
どこまでも匿名の貫かれる砂穴生活とは対照的に、砂壁にオーバーラップする失踪宣告において、男の名前が初めて明らかになるエンディングには、それと対を成すかのようなオープニング――日本社会における本人証明の象徴ともいうべき印章がべたべたと捺印された、不気味なタイトルロールともあいまって、小説にはない、映画独特の余韻が漂います(小説では、冒頭において男が失踪宣告を受けたことが記され、その名前も既に明かされている)。ドラマを通じ、抽象的な"都市生活者"でしかなかった男の存在は、最後の最後、その姿をスクリーンから消したのち、今更ながらにようやく具体的な名前をもった一個人に変貌します。しかしそのとき既に、男は名実ともに"誰でもない"、真に抽象的な存在となっているのです。
"契約書、免許証、身分証明書、使用許可証、権利書、認可書、登録書、携帯許可証、組合員証、表彰状..."
男は、証文を総動員して自己を証明し尽くさなくては済まされない社会から、皮肉にも、"まだ何か証明し忘れているのではないか"と思いをめぐらせながら思いつくことのできなかった、"無限にあるらしい"証文の山のおそらく最後の一枚、死亡を認定する失踪宣告によって、その存在を公式に抹消されます。半ば自らの意思ともともれる失踪から七年、ついに社会から見捨てられてしまったようなその結末が、証文どころか名前すら欠けても困らない砂の中に暮らし続ける男にとって、果たして恐ろしい悲劇なのか、それとも喜ぶべき解放なのか、あるいはもはやどうでもいいことなのか、いやそれとも男は既に砂嵐にでも呑まれて本当に死んでしまっていたりするのか、これまた観るたび読むたびに、その印象はくるくると変わるのです。
「砂の女」に描かれる男と女
囚われの身となる教師を演じているのは、岡田英次。「ちょっとした冒険だな」などとスカしたことを口にしながら、へっぴり腰で縄梯子にぶら下がる様子、そしていかにも運動神経の鈍そうな、腰の入らないシャドウボクシングは最高で、行動が絵にならない、何事にもまず能書きを垂れずにはいられないインテリ都会人を、実にそれっぽく演じています。
しかし何といっても凄いのは、女を演じる岸田今日子。岸田今日子といえばムーミン、くらいのイメージだったところに、この"ザ・オンナ"とでも形容したくなる"砂の女"。強烈な雌の匂いを全身から発散させるその佇まいには、心底、びびってたじろいでしまったものです。はっきりいって高校生の頃は、あまり見たくないものを見てしまったくらいのものでしたが、しかし今観ると、もしこんな女と二人っきりで監禁されてしまったら、あとはもう、どこまで理性を保つことができるかの時間の問題でしかない...ということが、よーくわかってしまったりするのですね。
後ろ手に縛られ、耳の後ろを掻いてくれと身を捩って懇願し、薬缶の注ぎ口をじかに咥えて喉をごくごくと鳴らすそのさまは、ずばりR指定。あばら家の腐れ畳に寝そべる、汗と砂にまみれた肉感的な肢体とぶっとい唇は、もう反則的に淫らです。男が女に向かって言うセリフ、「こんなふうに閉じ込められっぱなしで、よくガマンしてられるなホントに」は、それこそおまえはどうなんだ?と訊き返したくなるセリフであり、しきりと粉をかけてくる女に対し、自分を嵌める片棒を担いだ女との"取引のような"セックスはしたくないと自制していた男が、しかし喉の渇きに朦朧となったところで、ついに欲望に負けてしまったのも、男としては、まったくもってむべなるかななのです。
男と女の会話は、初めから最後まで、世間話ですらまったく噛み合うことがなく、何を語っても、むなしい堂々めぐりとすれ違いを繰り返します。それは、互いに理解しあえないというレベルですらなく、まるでお互いの独り言を接ぎ穂にして、独り言を言いあっているかのよう。たとえば砂は何もかも腐らせるだけでなく、しまいに砂そのものも腐ってしまうという女に対し、鉱物である砂が腐るわけがない、と科学的に反論する男。何かと東京を引き合いに出し、都会に対する憧れとコンプレックスを滲ませる女に対し、苛立ちを隠すことができない、都会暮らしに辟易した男。そして外界を自由に歩き回る素晴らしさを説く男に対し、理屈抜きに家に執着する女――。
とまあ、男と女は、その精神と価値観の何から何までが食い違っているのですが、しかし、たとえ心のベクトルがあさってを向いていようとも、いともあっさり体で繋がってしまうのが、男と女。そしてこのときばかりは、二人の心と体が噛み合って、挙句に子供まで出来てしまうという不思議。今さら何を...と言われてしまいそうな感想ですが、しかし二人の関係は、住む世界がまったく違うがゆえの特殊なものであるようにみえて、そのくせ、男と女という"つがい"の本質を突いたものでもある気がしてならないのですね。
同衾するようになっても、その同床異夢の関係に変化はなく、なにがしかの情が移りあっているにせよ、二人は淡々と、別々の時間を生きているかのようです。女は、一度はまんまと砂穴から脱出した男の再逃亡に怯えますが、しかしそれは、男個人に対する愛着というよりも、あくまで家を砂から守るための労働力に対する執着のようであり、もし代わりの"他人"が手当てされるのであれば、女はそれでまったくかまわないように思えます。そして男はといえば、激痛を訴えて運び出されていく女を見送るその表情に、女に対する同情めいたものが浮びこそすれ、その実、頭の中は、ただただ溜水装置のことではちきれんばかりです。
巣にこだわる女と無頓着な男。日々の生活に満ち足りる女と"なぐさみ物"を必要とする男。そして心はてんでばらばらでありながら、なんとなく成立してしまう暮らし――。これまた性差を安易にステレオタイプ化するつもりはありませんが、しかしそれでも「砂の女」に描かれる男女の関係には、たまねぎの皮を剥いて剥いて最後に残る芯のようなものが、ちらりと垣間見えるような気がするのです。
砂の女 (英題: Woman in the Dunes)
公開: 1964年
監督: 勅使河原宏
製作: 市川喜一/大野忠
脚本: 安部公房
原作: 安部公房(「砂の女」)
出演: 岡田英次/岸田今日子/三井弘次/矢野宣/観世栄夫
音楽: 武満徹
撮影: 瀬川浩
美術: 平川透徹/山崎正男
編集: 守随房子
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管理人: mardigras

安部公房の原作は早い時期にドイツ語でも翻訳(でも英語からの翻訳)されていて、
この映画もドイツ語吹き替えでTVで何度も上映され、その都度私も見たという映画です。
まだMardiさんのこの記事斜め読みしかしてないのですが、
あり地獄に入りこんだ男、いや蜘蛛の糸に引っかかった男とでもいいますか、
その役を美男だけど大根役者ではないかと想っていた岡田英次が見事に演じていたのには吃驚でした。
この手描きの岸田今日子はいい味がでてますねっ、
映画でもやはりこの役は彼女が適役と思わせる演技でしたね。
この映画、公開当時のこと知りませんが、その後の勅使河原監督への評価を
想うと欧州では評判がよかったはずです。
Mardiさんがこの映画と比べられた新藤監督の『裸の島』の感想が面白かったです。
とりあえず、今日はこれで、チュース!