アレンジ
男はつらいよ 寅次郎恋歌
これだから教養のない人たちはいやなんだよ。
ご
存知、山田洋次原作・監督、渥美清主演の人情喜劇、
「男はつらいよ」
。1969年公開の第一作を皮切りに、1995年までの足掛け二十七年にわたって作られた全四十八作、全部が全部好き、というわけではありませんが、逆に、これはという作品を挙げていくと、それはそれでキリがなかったりします。ならばこの際、まとめてひとつの記事にしてしまえ、と思ったのですが、となると記事がどれだけ長くなるやら恐ろしい...というわけで、やっぱりもっとも好きな一本について書くことにしました。
そんな私のオール・タイム・ベストが何かといえばこれ、1971年公開のシリーズ第八作、
「男はつらいよ 寅次郎恋歌」
。題して、"博の父親三部作"(勝手に命名)の第二弾です。私がこの映画を観たのは、高校二年生のとき。テレビで放映する「男はつらいよ」をぽつぽつ観るようになって、確か三、四本目の作品だったと思います。
「男はつらいよ」との馴れ初め
「
男はつらいよ」にまつわる私の最も古い記憶は、駅に貼られていた、
「男はつらいよ 口笛を吹く寅次郎」
(1983)のロードショーのポスター。渥美清が袈裟に身を包み、どんぐり眼を細めてにっこり微笑むその絵面を見て、それが何十作も続くお化けのような人気映画であるとは知りつつも、そのもっさり然としたダサさ、古めかしさに、これは自分にはまったく関係ない映画だ、と半分見下してしまった覚えがあります。
そんな気持ちがころっと変わったのは、それからしばらくしてから。同じ山田洋次監督のメロドラマ、
「遙かなる山の呼び声」
(1980)を観て、そのあまりのよさに、これは「男はつらいよ」にも何かあるのかも、なんてことを思い、ちょうどそんなとき、折よくテレビで放映してくれた、第十八作
「男はつらいよ 寅次郎純情詩集」
(1976)を観たのでした。この作品、今振り返ってみれば、飛びぬけた傑作とも思えませんが、初めて観たときは、その笑いとペーソスの絶妙な按配に、「男はつらいよ」の世界ってこんなに面白かったのか!と、お宝の山でも見つけた気分になったものです。
ちなみに映画館で観た最初の作品は、第三十七作
「男はつらいよ 幸福の青い鳥」
(1986)。これまた今観ると、シリーズの中でもかなり違和感のある作品ですが、しかしホント、面白かったなぁ、お金を払って映画館の暗がりで観たときは。
「男はつらいよ」に感じる親近感
渥
美清が亡くなり、「男はつらいよ」が打ち止めとなって早十五年、今でもときどき無性に「男はつらいよ」が観たくなる――というより、寅さんやおいちゃん、おばちゃん、さくらに博をはじめとする懐かしい面々に、無性に会いたくなります。この映画の世界を愛する人は、きっと誰もがみな同じだろうと思いますが、こうして何十作も付き合いを重ねると、彼らがスクリーンの中だけに存在する架空の人物とは思えなくなるのはむろん、もはや他人のような気さえしなくなるのですね。そんな親近感そのものが、作品の出来不出来を超えた、「男はつらいよ」の大いなる魅力だと思うのですが、その根っこにあるドラマの要諦を、渥美清がすっと胸のすくようなことばで語っています。
"...見て下さる側もすっと手をさしのべてきてさわるから、出したこっちのほうと出されたほうで、両方で手のひらでぬくめていってしまうものなんですね...芝居なんてものや、映画なんてものはそういうさわらせて、さわっていくみたいなことから、だんだんできていくんでしょうね..."
(
「キネマ旬報」
2008年9月下旬号再録の「キネマ旬報」増刊1971年1・10号 山田洋次監督との対談より)
うむむ、なんと味わい深く、含蓄のある名言。このシリーズが、なぜ四十八本も続いたのか、なんとなくわかった気になるではありませんか。お馴染みの面々に感じる実在感と親近感、そしてそんな彼らの織りなすドラマに宿るぬくもりと幸福感は、"お決まり"を待ちかねて、そして"お決まり"どおりに作る、そんな受け手と作り手の目に見えない共同作業があってこそ、生まれたものだったのでしょう。
数年前、NHK BSで、シリーズ全作品を放映したのを片っ端から録画したので、ありがたいことに、今ではいつでも思い立ったときに、好きな作品を、選りどりみどりで観ることができるようになりました。お話の筋で選ぶもよし、名場面で選ぶもよし、あるいはマドンナで選ぶもよし、はたまた敢えてあんまり観てない作品を選ぶもよし、とまあ、何を観るかはそのときの気分次第ですが、寅さんやさくらたちに会いたくて、こうして今日もまた、ついつい「男はつらいよ」のDVDに手が伸びてしまうのです。
渥美清の話芸
思
わず呵呵大笑してしまう、「男はつらいよ」の可笑しさの源泉は、もう言うまでもなく、寅さんを演じる渥美清の個人技にあります。その一挙一動のおかしみもさることながら、やはりなんといっても面白いのは、その巧みなしゃべり口。切れ味のあるテキ屋の口上や、調子に乗ってどんどんエスカレートしていく一人語りとはまた別の、
「日本の労働者は貧しいなあ」
だとか、
「おい、青年!」
だとか、
「てめぇ、さしずめインテリだな!?」
だとか、
「これだから教養のない人たちはいやなんだよ」
だとか、こうして文字にしてみると、別にたいして可笑しくもないセリフの数々が、ひとたび寅さんの口から飛び出すと、不思議なことに笑えて仕方がないのですね。
これ、金銭的に誰よりも貧しくて教養のない寅さんが、上から目線の気取った言葉遣いをするのが可笑しいわけで、要するに、磨き抜かれた脚本の面白さだと思うのですが、しかしそれが見事に生きるのも、渥美清のあの間、表情、口調、そして声音があったればこそでしょう。その話芸がいかに飛びぬけたものだったのか、映画を観れば一目瞭然ですが、渥美清の浅草コメディアン時代の活躍を、当時、劇場の裏方としてつぶさに目撃していた井上ひさしが、山田監督との対談で、これまたうまいこと語っているので引用してみると――。
"わりと大きな看板のストリッパー嬢が休むとその娘のソロのシーンがぬけちゃって、前後をつなぐんですね。(中略)渥美さんは、いいよって出てくれて、三分のところを十五分ぐらい、セリフだけでもたせてくれました。”よお、おじさん、また来てんの”って調子で言葉だけをたよりにお客をガーッと引きよせちゃって、弁当食べてるお客まで客席と舞台が一緒になってくる。(中略)やっぱり渥美さんていうのは言葉だけでそういう芸の出来る人だった...。言葉の調教師であり、魔術師だった。それがしあわせなめぐり逢い、ていいますか、「男はつらいよ」の寅次郎にぶち当たった。これは、日本文化にとって非常に喜ばしいと思うんです。日本語のためにもね(笑)"
(
「映画をたずねて 井上ひさし対談集」
vs.山田洋次より)
「男はつらいよ」には、タコ社長(太宰久雄)や源ちゃん(佐藤蛾次郎)みたいな常連のコメディリリーフもいますが、個人技としての笑いを感じさせる存在は、渥美清を除いてはただ一人、初代おいちゃんの森川信くらいでしょうか(ただし、第六作
「男はつらいよ 純情篇」
(1971)で、源公が唸る寅さんの悪口の義太夫は最高に笑えます)。とはいえ森川信のおいちゃんも、この第八作「男はつらいよ 寅次郎恋歌」が最後。以降、個人芸としての笑いは、いよいよ渥美清の独壇場となっていきます(下條正巳のおいちゃんから観始めたせいかもしれませんが――それにしても、おいちゃんの配役が変わったくらいでは、作品世界がびくともしないのがすごい)。
笑いと哀しみはあざなえる縄の如し
そ
んな渥美清の個人技を含め、「男はつらいよ」に描かれる笑いのほとんどは、意地悪さのこれっぽっちもない、にこにこ観ているうちにほろりとさせられる、人間の善意と善意のぶつかり合いから生まれるような、もしかしたらこの世知辛い世の中で、もっともファンタジックかもしれない類の笑いです。そして、その可笑しさの裏にはいつも、人間生活の哀しみや寂しさみたいなものがじんわりと滲んでいて、そんな、笑いと哀しみが交互にぱたぱたと捲り返っていくところが、このドラマの喜劇ならぬ、"人情喜劇"たるゆえんでしょう。
シリーズ中のこれはと思う作品は、どれもこれも笑いと哀しみの釣り合いが程よくとれていて、というよりむしろ、笑いが哀しみを際立たせるためのツマに感じられるような作品ほど、より深く印象に残っています。たとえば第四作
「新・男はつらいよ」
(1970)のように、喜劇一辺倒に近いノリは、かえって寅さんが寅さんじゃないというか、とらやがとらやじゃないというか、ほとんどパラレルワールドを観ているかのような、据わりの悪さを感じてしまいます。一方、「男はつらいよ 寅次郎恋歌」は、シリーズ中でもかなり笑いの要素の薄い、ほとんど辛気臭いといってもいいくらいに情緒的な作品ですが、しかしそんなペーソス味の強いドラマにこそ、私がこのシリーズに感じる面白さの本質があるように思えます。
今となってはお笑い種ですが、このシリーズを観始めた最初の数年間、特に二十歳前後の頃は、寅さんの失恋、というよりも、あれだけ弁が立つのに好きな女性に気持ちを伝えることだけはどうしてもできない、寅さんの哀しい不器用さに自分を重ね合わせ、ずいぶんと感情移入してしまったものです。所詮適わぬ相手に惚れてしまい、そして相手の何気ないひとことや態度に一喜一憂してしまう、そんな寅さんの愚かさを笑いながら、しかし同時にどこかしら、身につまされるところがあったというか。私が、この映画のペーソス味により強く惹かれてしまうのは、もしかしたら、そんな原体験があるからかもしれません。
背筋の通った"寅次郎恋歌"
と
いうわけで、ここからようやく本題、「男はつらいよ 寅次郎恋歌」について。冒頭に書いたとおり、本作は、志村喬扮する博(前田吟)の父親、諏訪"ウン"一郎(ひょういちろう)が登場する二本目の作品です。第一話で博とさくら(倍賞千恵子)の結婚式に出席し、家出していた博と八年振りの再会を果たし、真心のこもったスピーチで寅さんを男泣きに泣かせた博の父親は、その後、北海道大学の教授を退任し、郷里の岡山、備中高梁に引っ込んで、郷土史を研究しながら日々を送っている、という設定です。本作では、そんな博の父親をブリッジに、前半、第一話でもちらりと触れられていた、博の父親に対するわだかまりが深堀りされるとともに、後半、旅から旅へと暮らす寅さんの定着への強い憧れと挫折が、適わぬ恋のゆくえと密接に絡みながら、しみじみ描かれていきます。
旅先で里心のついた寅さんが柴又に帰ってくる、おいちゃんたちとのちょっとした感情のすれ違いですぐ家を飛び出してしまう、しかし旅先でいろいろあって再び柴又へと戻ってくる、そして一目惚れの恋に身を焦がして舞い上がっているうちに失恋し、またいずこへと旅立っていく――とまあ、本作のドラマ展開もまた、いつもとまったく同じパターンなのですが、しかしこの作品に限っては、個々のエピソードに有機的な繋がりがあって、作品全体を通じて、背筋が一本ぴんと通っている感じがします。しかもひとつひとつのエピソードが、ほとんど凄みといってもいい、ぐさりと抉るような深い情感を漂わせていて、要するに、ほかの作品と器は同じでも、完成度の高さが飛びぬけているのです。
たとえば冒頭、とある漁師町での寅さんと旅役者一座の出逢いの一幕が素晴らしい。秋の長雨に降り込められ、ひとりも客の来ない小屋。そこへひょっこり現われた寅さんが、座長に話しかけることばには、旅暮らしの人間同士だからこその共感と労わりが滲み、浮草稼業のつらさ、やるせなさが、しみじみと伝わってきます。雨漏りする小屋で、稽古に励む田舎芝居の座員たち。そして雨の中、一座の花形とは名ばかりの、純朴そうな娘に送られて旅館へと帰っていく寅さん。そんな旅暮らしの哀感と、その裏にある堅気の暮らしへの強い憧れが、本作の主題となって、最後のワンカットに至るまで、作品全体を鋭く貫き通していくのです。「男はつらいよ」の幕開けは、次作
「男はつらいよ 柴又慕情」
(1972)から、本作で一座の座長を演じた吉田義夫が登場する、芝居がかった"寅の夢"が定番となっていきますが、この作品を超える味わいをもったオープニングは、ついにひとつもなかったように思います。
やくざな寅さん
旅
先から柴又に帰ってきた寅さんが、再び旅へと去っていく情景も、いつもと同じ結構でありながら、本作の味わいは格別です。例によって、とらやの過剰な歓迎ぶりに機嫌を損ねた寅さんが、外へと呑みに出かけ、やがて日が暮れた頃、呑み屋で知り合った二人の労務者を連れて帰ってきます。そしてしこたま酔っ払った寅さんは、いかにもやくざ者らしく、やさぐれた調子で、妹のさくら(倍賞千恵子)に歌を歌えと強要するのです。
怒るおいちゃんとおばちゃん(三崎千恵子)をなだめながら、前を真っ直ぐ見つめ、悲しい歌をぽつぽつと歌いだしたさくらは、歌いながらぽろぽろと涙をこぼします。そして、その様子を見た寅さんの酔いはいっぺんに醒め、ことば少なにさくらに詫びると、がくりと項垂れて、とらやを去っていきます。シリーズ全作を通じ、寅さんがさくらに迷惑を掛けたことは山ほどあれど、これほど残酷な仕打ちはこれっきりで、こんなにさくらが可哀相に思えたこともありません。なぜ寅さんが出て行かなくてはならないのか、作品によっては無理があるように思えるときもありますが、本作では、まさに出て行くべき寅さんが描かれていて、見送るさくらの哀しみが胸を打ちます。
初期の寅さんには、後期の寅さんからは想像もつかない、ときにいたたまれなくなるような粗暴さがあって、がらっぱちな口を利いたときのドスの効かせ方などに、いかにも社会の食み出し者らしい、ひやりとする危うさが滲んでいます。また、そんな寅さんを見る世間の目付きにも相応の冷たさがあって、たとえば第二作
「続・男はつらいよ」
(1969)で、舎弟の登(津坂匡章)とともに無銭飲食でとっ捕まった寅さんに向けられる、警察官の罵倒、叱責の厳しさは、いかにも"社会の屑"扱いに近い、容赦のないものでした。この作品でも、金町の路肩で商売していた寅さんが、警官から許可証の提示を求められ、ぺこぺこと卑屈に頭を下げながら、すごすごと店を畳むという、ちょっとばかりいたいたしい情景が描かれていたりします。
しかし、そんな寅さんのリアルな無頼っぷりも、この第八作あたりが最後。その性質からは、回を追うごとに角が取れていき、またそれとともに、寅さんに向けられる社会の視線からも、眉顰める気配が消えていきます。たとえば第十八作「男はつらいよ 純情詩集」あたりになると、警察と寅さんの関係も、ずいぶんと変化しています。旅先の別所温泉でばったり再会した、本作の旅役者一座にパトロン気取りで大盤振る舞いした寅さんが、これまた無銭飲食で捕まりますが、しかしさくらが遥々身請けに出向いてみれば、寅さんは警官たちとすっかり意気投合し、寅さん寅さんと呼ばれて慕われて、パトカーに乗って、朝風呂に出掛けたりしているのです。
第一作、第二作あたりの寅さんの荒みっぷりと世間の冷たさは、中期の作品から観始めた私にとって、正直、アクの強すぎるところがあるのですが、丸くなりすぎてしまった「男はつらいよ」の世界もまた、それはそれで物足りなかったりもして、端境期ともいえるこの作品あたりのバランスが、ちょうど心地よいのですね。
博の幸福論
さ
て、寅さんが柴又を去ってしばらく経った頃、博のもとに母危篤の電報が届きます。博はさくらとともに備中高梁へと向かいますが、しかし二人が到着したときには既に遅く、母親はみまかった後でした。翌日法要が営まれ、そしてそこへ突然現われたのが、いつもの格子縞の背広に黒い腕章を付けた、寅さん。たまたま旅先の岡山から、とらやに電話して訃報を知り、駆けつけてきたという次第。葬儀の席で馬鹿な振る舞いをして、"常識人"の博の兄たちにさんざん顰蹙を買った寅さんが退散したその夜、内輪の会食の席で、母のことを
「あれは何と言うか、欲望の少ない女だったな」
と述懐する父親と、それにしたり顔で相槌を打ち、母は幸せだったと佞弁を弄する兄たちに、末席の博が食って掛かります。
「兄さん。兄さんたちは本気でそんなことをおもっているんですか?お母さんが、お母さんが本当に幸せだったなんてことを...よくもそんなことが言えるなぁ。お母さんがなんで幸せなものか!」
第一話で描かれる、若い頃に家を飛び出した博の父親に対するわだかまりの根が、家庭を顧みない仕事人間である父親の母親に対する仕打ちにあったことが、この作品で初めて明らかになります(といっても、私が第一話を観たのはずっと後)。そして、そんな反抗心のいくばくかが、おそらくは、大学出の優秀な、しかしこの上なく俗物な、小才子の兄たちに向けられたものでもあっただろうことも。
母には母の夢があった、しかし諦めていただけだ、と語る博に対し、長兄は怒り、母が息を引き取る前に、もう何も思い残すことはない、と言い残したことを教えます。ところが博は納得せず、搾り出すような涙声で、こんなことを言うのです。
「お母さんは死ぬ間際までみんなに嘘をついていたんだなあ...もし、嘘じゃなかったら、もし本気でそう思っていたとしたら、俺はお母さんがもっと可哀想だよ。そうじゃないか!お母さんみたいな一生を、父さんの女中みたいな寂しい一生を本気で幸せだと思い込んでいたなら、そんな、そんな可哀想なことってあるもんか!」
この映画を初めて観た高校生の頃、家の中が、やや"火宅の人"状態だったこともあり、母親に対する深い愛情を滲ませ、その心を必死に代弁しようとする博に、強く感情移入してしまったものです。そして同時に、博の兄たちが、心の冷たい、つまらない人間に思えて仕方がなかったものです。しかし今になってみると、博が母親の幸せを自分の尺度で計り、そして幸せでなかったと言い切ることに、正直、自分の正当性を毛頭疑わない、頭の固い人間の傲慢さを感じてしまったりもします。博の言っていることが、おそらく正しいとは思いつつも、人が本当に幸せかどうかの判断は、所詮、本人が本人の尺度でしか下せないものだと思うからです。博の母親が幸せだと思い込んでいたのなら、結局、それが幸せってことなのではないか、そんなふうに終えたりもするのです。
いずれにしても、博の仮借ない物言いとその真情は、兄たちにはこれっぽっちも届かずとも、連れ合いを亡くし、ひとりぼっちとなった父親の心の中に、なにがしかの思いを芽生えさせます。そしてその思いは、かの有名な"りんどうの花"のエピソードにかたちを変えて、めぐりめぐって義兄の寅さんへと伝わっていくのです。
"りんどうの花"と"こんにゃく"物語
博
たちが帰京したのち、博の父親の家には、寅さんが舞い戻っていました。一人暮らしの寂しさを紛らわせてあげようという気持ちは本気ながら、それこそ女中のように、博の父親を働かせて平気な寅さんの図々しさが可笑しいのですが、しばらく逗留してそろそろ腰を上げようかという夜、博の父親が、庭に咲くりんどうを眺めながら、ほろ酔い加減の寅さんに尋ねます。
「寅次郎君、旅の暮らしは楽しいかね」
「ええ、そりゃ楽しゅうございますよ、何ていったってこりゃやめられませんね、へへ」
女房子供がいないから身軽でいい、と嘯く寅さんに、博の父親は、ひとつの思い出を語って聞かせます。
「そう、あれはもう十年も昔のことだがね、私は信州の安曇野というところに旅をしたんだ。バスに乗り遅れて田舎道を一人で歩いているうちに日が暮れちまってね。暗い夜道を心細く歩いていると、ぽつんと、一軒家の農家が建っているんだ。りんどうの花が庭いっぱいに咲いていてね、開けっ放した縁側から、灯りのついた茶の間で家族が食事をしているのが見える。まだ食事にこない子供がいるんだろう、母親が大きな声でその子供の名前を呼ぶのが聞こえる。私はね、今でもその情景をありありと思い出すことができる。庭一面に咲いたりんどうの花。明々と灯りのついた茶の間。賑やかに食事をする家族たち。私はそのとき、それが、それが本当の人間の生活ってもんじゃないかと、ふとそう思ったら急に涙が出てきちゃってね。人間は絶対に一人じゃ生きていけない。逆らっちゃいかん。人間は人間の運命に逆らっちゃいかん。そこに早く気がつかないと、不幸な一生を送ることになる。わかるね、寅次郎君。わかるね...」
独り身になって寂しさが初めて身に染みる、家庭を蔑ろにしてきた博の父親自身の悔恨が透けるような、そんな思い出話に、寅さんは心を打たれます。それは、旅から旅への暮らしの中で、寅さんが幾度となく目にしたことがある、そしてそんな光景に言い知れぬ寂しさを何度も味わったことのある、きっと心から共感するところのあるものだったに違いありません。こうして寅さんは、大いに反省して高梁を去り、そして"本当の人間の生活"(=結婚)への強い決心を胸に、柴又へと舞い戻っていきます。
ちなみにこの作品の後、博の父親は、第二十二作
「男はつらいよ 噂の寅次郎」
(1978)で、三度目の登場を果たします。大井川沿いを行く路線バスの中で、寅さんと博の父親がばったり邂逅する場面は、まるで自分が懐かしい親戚に出逢ったような、思い出すだに嬉しさのこみ上げてくるものです。博の父親に同道して、(たかりながら)しばらく旅を続けた寅さんは、本作と同様、博の父親のたとえ話――今度は今昔物語に託した思いやりのある諫言によって目を覚まし、また反省して柴又へと去っていきます。女性の容姿に惹かれる虚しさと人生の儚さを学んだはずの寅さんが、大原麗子演じる早苗と出逢った途端、もう何もかも忘れて、なし崩し的に一目惚れしてしまうというオチは面白いものでしたが、しかし味わいのある話が、本作と違って、ただのギャグの前振りで終わってしまっているところが、惜しいというか、勿体ないようにも感じられる作品です。
地道な暮らしに憧れる寅さんと、旅暮らしに憧れる貴子
さ
て、とらやに帰ってきた寅さんは、早速、博の父親の受け売りを皆に得々と語って聞かせます。ところが、そもそもりんどうの花の話の家族のように暮らしているおいちゃんやおばちゃんには、話の要点がさっぱり掴めません。のちに第十一作
「男はつらいよ 寅次郎忘れな草」
(1973)で、寅さんと同じ旅暮らしを送るドサ回りの歌手、リリー(浅丘ルリ子)が、似たような話に深く共感するのと実に対照的で、この、旅暮らしの"渡世人"と地道に暮らす"堅気の衆"の間に横たわる意識の溝が、やがて寅さんを深く傷つけていきます。
本作のマドンナは、池内淳子演じる子連れの寡婦、貴子。反省した寅さんが帰ってこようとするまさにそのとき、柴又に引っ越してきて、帝釈天のすぐ脇に喫茶店を開業したという設定。例によって寅さんは、ばったり出逢ったその日から、貴子に一目惚れしてしまいます。
第五作
「男はつらいよ 望郷篇」
(1970)や、第十一作「男はつらいよ 寅次郎忘れな草」で描かれていたように、寅さんにとっての"地道な暮らし"とは、"額に汗して働くこと"を意味するときもありますが、しかし、りんどうの花の話に啓発された本作の寅さんにとって、"本当の人間の生活"とは、なんといっても、"結婚して家庭を持つ"こと。そしてそんな寅さんにとって、"こぶ付き"の貴子は、"りんどうの花"の暮らしを手っ取り早く実現できる、願ってもない相手です。
寅さんは、小学四年生になる貴子の引っ込み思案の一人息子が地元の子供たちに馴染めずにいるのを見て、友だち作りの仲介役を買って出ます(「春の声」が流れる中、江戸川の土手で寅さんと子供たちが転げまわって遊ぶ場面の描写が、リリカルで素晴らしい)。そんなことをきっかけに、寅さんと貴子との距離は次第に縮まっていきますが、ところがある日、寅さんは、貴子が喫茶店を開業するため、阿漕な金貸しに借金をこさえ、苦しんでいることを知ってしまいます。子供の遊び相手を務めるのはともかく、ハナシが"金銭問題"となれば、寅さんが貴子のためにしてやれることはたかが知れていて、切羽詰って町中で商売をしてみても、先に書いたとおり、お巡りさんに目をつけられ、なんとも惨めな結果に終わってしまいます。
そんな寅さんは、ある日の宵の口、りんどうの鉢植えを手土産に、貴子を庭先に訪れると、思いつめた調子で、こんなことを口にします。
「あの、何か困っていることはございませんか?どうぞ私に言ってください。どうせ私のことです。たいしたことはできませんが、指の一本や二本、いえ、片腕、片足くれえでしたらなんてことありません。どうぞ言ってください、どっかに気にいらねえ奴がいるんじゃないですか?」
"本当の人間の生活"を求めていたはずが、愛する人のために、結局、そんなやくざなことしか言えない、無力感に打ちひしがれた寅さんの哀しみが伝わってきます。しかし寅さんは、寅さんの持てるものすべてを言葉にして貴子に捧げているのであり、そしてそんな寅さんの真心は、貴子にもしっかりと伝わります。
「ありがとう。ほんとうにありがとう寅さん。嬉しいわ、私とっても嬉しい。いいの。そりゃ、困ることありますけどね。私ひとりの力でなんとか解決できると思うの。だからそれはいいの。でも、寅さんの気持ちホントに嬉しいわ。そんなふうに言われたの、今、今の寅さんみたいに言われたこと私、生まれて初めてなのよ」
ひとしきり涙を流した貴子は、気を取り直したように、そしてままならぬ現実からひととき目を背けるかのように、月を眺めながら、旅暮らしへの憧れを口にします。
「いいわねえ、旅の暮らしって」
「てめえが好きで飛び込んだ稼業だから、いまさら愚痴も言えませんが、傍目で見るほど楽なもんじゃあないんですよ」
たとえば、と訊かれ、寅さんは、例のりんどうの花の話に尾ひれを加え、その苦労を貴子に語って聞かせます。
「たとえば、夕暮時、田舎の畦道をひとり歩いていたんですねえ。ちょうど、りんどうの花がいっぱい農家の庭に咲きこぼれて、電燈はあかあかと灯って、その下で親子が水入らずの晩飯を食っているんです。そんな姿を垣根越しにふっと見たときに、ああ、これが本当の人間の生活じゃねえかな、ふっとそんなこと思ったりしましてね...しかたねえから、行き当たりばったりの飲み屋で無愛想な娘相手にきゅっと一杯ひっかけましてね、駅前の商人宿かなんかの薄い煎餅布団にくるまって寝るとしまさぁ。なかなか寝つかれねえ耳に、夜汽車の汽笛がポ―っと聞こえてきましてね。朝、カラコロ下駄の音で目が覚めて、あれっ?オレは今一体どこにいるんだろう。あ、ここは四国の高知か...そんな時に今、柴又じゃ、さくらやおばちゃんたちが、あの台所で、味噌汁の実をコトコト刻んでいるんだなぁ、なんて思ったりしましてね」
旅暮らしの侘しさを伝えようとして、しかし寅さんは、逆に貴子の旅情を掻き立ててしまいます。旅暮らしのつらさを知らない定住者にとって、寅さんの語る感傷的な情景描写は美しすぎて(なにせ「言葉の調教師であり、魔術師」なのです)、代わり映えのしない日常から眺めてみれば、見知らぬ土地で味わうそのひと恋しさが、限りなく好ましいものに思えてしまったりもします。
「ああ、いいなぁ旅って。私も今すぐにでも行っちゃいたいわ。こんなお店も何もかもみんな捨てちゃって。ねぇ、寅さん」
旅への憧れを語る貴子の瞳が、きらきら輝きを増していくのと反比例して、伝えたいことが伝わらないもどかしさに、寅さんの表情は暗く沈んでいきます。
「寅さんは、またいつか旅に行くの?」
「ええ、そりゃそうですね」
「そう、いつごろ?」
「いつごろでしょうか。風に誘われる、とでも申しましょうか。ある日ふらっと出て行くんです」
「羨ましいわ、私も一緒について行きたいなぁ」
「そうですかねぇ、そんな羨ましがられるほどのもんじゃねえんですけどね...」
とまあ、貴子はいつもの寅さんだったら勘違いしてのぼせ上がってしまうようなセリフを口にするのですが、寅さんは、実に悲しそうな、ほとんどふさぎこんだような表情で自嘲的に笑い、そして掛かってきた電話に貴子が出ているあいだ、庭先からふっと姿を消してしまうのです。
恋に恋する寅さん
こ
うして寅さんは、シリーズを通じて初めて、ふられる前に自ら身を引きます。これまでいつも、とことん惨めで情けないふられっぷりをみせていた寅さんが、初めてキレイに恋を諦めるのです。それは、惚れた女性の悩みを解決できない、己の無力に対する敗北感というより、どこまでもすれ違う会話と噛みあわない気持ちに、貴子と己が住む世界の違う人間であることを、嫌というほど思い知らされたせいでしょう。もしかすると、旅暮らしのつらさを理解せず、憧ればかりを募らせる貴子の中に、地道な暮らしに憧れるばかりで、その裏側にある苦労を真に理解できない己の姿を見たのかもしれません。あるいはそんな生活に、到底、己が耐えられるはずもないことを、今さらながらに悟ったのかもしれません。いずれにしても、それは貴子ひとりに対する失恋というより、堅気の暮らしを送る女性との"本当の人間の生活"を諦める、とても根本的で、深い喪失感に彩られた失恋だったように思います。
とらやに帰ってきた寅さんは、ふられてもいないのにふられたと口にすると、荷物をまとめに二階へと上がっていきます。そして暗い部屋の中で身支度をしながら、心配して後を追ってきたさくらに、まるで念押しするかのように尋ねるのです。
「さくら、兄ちゃんのこんな暮らしが羨ましいか、うん?そんなふうに思ったことあるかい?」
「あるわ。一度はおにいちゃんと交代して私のこと心配させてやりたいわ。寒い冬の夜こたつに入りながら、ああ、今ごろさくらはどうしてるかなぁって、そう心配させてやりたいわよ」
それは、貴子の旅暮らしへの憧れとはまた別の、たったひとりの妹さくらだからこその、深い肉親の情愛のこもったひとことです。寅さんはハッとして、本当の人間の生活に馴染めない己の業の深さを噛み締めるかのように、ぽろりと涙をこぼします。
「そうかい...さくら、すまねえ」
すっかり灯の落ちた人気のない帝釈天の参道を、駅へ向かってひとり歩いていく寅さんの後姿に冷たい晩秋の風が吹いて、このシリーズでは珍しい、寒々とした、うすら寂しい気配が漂います。こうして寅さんはまた、孤独を噛み締めながら、ひとり、旅の暮らしへと戻っていきます。
本作以降、回を追うごとに、寅さんの潔さには拍車がかかっていくようで、やがて、いかに恋に夢中になっていようとも、煮詰まる前に潮時を察し、すっと身を引くことが多くなっていきます。それどころか、第十作
「男はつらいよ 寅次郎夢枕」
(1972)では、プロポーズされたと勘違いした幼馴染の千代(八千草薫)が結婚を承諾したにもかかわらず、寅さんは、それを冗談にしてしまったりもします。そしてそんなことが、そのあとも何度か、繰り返されていきます。蝶よ花よと恋に浮かれながら、しかし貴子との別れ以来、心のどこかで寅さんは、地道な暮らしについて回る重荷を背負うことができない、己の哀しい性分を悟っているかのようです。要するに本作以降の寅さんは、ときに結婚への憧れを口にしたりしながらも、その実、恋に恋しているだけのようにも思えるのです。
「男はつらいよ」の"ディスカバー・ジャパン"
ド
ラマの味わいとはまた別に、「男はつらいよ」の大きな魅力は、そこに日本の日本らしい四季折々の風景が、情緒豊かな美しい映像でもって記録されていることでしょう。「男はつらいよ 柴又慕情」で、金沢を旅行中の歌子ちゃんこと吉永小百合の友だちが、兼六園で観光客を眺めながら、
「あ~あ、ディスカバー・ジャパンか...どこ行ってもおんなじね」
なんてことを口にしますが、寅さんがローカル電車や路線バスを乗り継いでいく旅先は、観光名所はむしろ少なくて、そんなところで商売になるのかという、地味で地道な、しかしだからこそ、飾り気のない旅愁がしみじみと滲む、これぞ本当の"ディスカバー・ジャパン"。シリーズ全作に点景のように散らばる日本津々浦々の情景は、そこに暮らす人たちの生活感が伝わってくるような町並みだったり、あるいは澄んだ空気の匂いまでもが感じられそうな山里だったり、とりたててどうってことのない、しかし今となっては失われて久しい、これぞ日本といいたくなるような、懐かしくて貴重な昭和の風景です。
本作のロケ地は、お馴染み葛飾柴又に、静岡県の下田、岡山県の備中高梁、そして山梨県は八ヶ岳を望む田舎道。たとえば高梁の武家屋敷通りをそぞろ歩く寅さんと博の父親の横を、SLがもくもくと蒸気を上げて通り過ぎていく映像は、自分自身にSLを見た記憶がないにもかかわらず(ただし時代的には、幼い頃に目にしているはず)、不思議なほどに郷愁を呼び覚まされるものです(ちなみに高梁の地は、第三十二作「男はつらいよ 口笛を吹く寅次郎」で、再度登場します。博の父親が既に亡くなってしまっているという設定で、"博の父親三部作"の番外編といったところでしょうか)。
そしてエンディングに描かれる、晩秋の気配が色濃く漂う甲斐の田舎道。これまたどうってことのない、よくある田舎の風景ですが、軒先に唐黍の吊るされた藁葺き屋根の百姓家、辻に立つお地蔵様、微かに雪を冠った八ヶ岳、そして遠くに映る富士山、とまあ何もかもが清々しくて、短いながらも強く旅情を掻き立てられる場面です。
そんなからりと澄みきった青空の下、寅さんはオープニングに登場した旅芸人の一座と再会します。旅暮らしの酸いも甘いもわかりあえる、同じ世界の住人と出逢った寅さんの顔に、パッと笑みがこぼれます。"本当の人間の生活"に挫折した寅さんの傷心が、みるみる癒されていくかのようで、旅暮らしの哀しい一面を描いて始まった本作は、こうして旅暮らしの陽気な一面を描いて締めくくられます。「男はつらいよ」の終わりは、いつもすかっとした青空ですが、本作の寅さんは、その絶望がことさら深かったように思えるだけに、この、抜けるような青空の広がるエンディングは、実に救われた気持ちになります。
* * *
とまあ、書き終わってみれば、ずいぶん長い記事になってしまったのですが、「男はつらいよ」についてはまだまだ書きたいことがある、というわけで、次回の記事も引き続き、「男はつらいよ」の予定。今度は、"リリー三部作"について書こうと思います。
男はつらいよ 寅次郎恋歌
(英題:
Tora-san's Love Call
)
公開: 1971年
監督: 山田洋次
製作: 島津清
脚本: 山田洋次、朝間義隆
出演: 渥美清/倍賞千恵子/前田吟/森川信/三崎千恵子/太宰久雄/笠智衆/池内淳子/吉田義夫/岡本茉利/志村喬
音楽: 山本直純
撮影: 高羽哲夫
美術: 佐藤公信
編集: 石井巌
@
2010-09-06
コメント : 8
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C
634
] こんばんは☆
mardigrasさん、レビューアップされたんですネ!
良かったです~!(やっぱスポンサーサイトは寂しいです)
>「日本の労働者は貧しいなあ」だとか、「おい、青年!」だとか、・・・・こうして文字にしてみると別にたいして可笑しくもないセリフの数々が、これがひとたび寅さんの口から飛び出すと、不思議なことに、なんとも笑えて笑えて仕方がないのですね。
これ、ホントにそうですよね~。あの映画の中で、寅さんが口にした時、心の底から笑えますよね~。見ていない人にはぜひ見てもらって、それらのセリフを聞いてもらいたいです!
イラストはちょっとマジな感じの寅さん?さくらさんの表情が感じ出ていて良いですネ☆
私自身はあまり「寅さん」は見ないけど(ゴクミ3部作はわりと好きです)
こうして詳しいレビューを読ませてもらうと、また機会があれば見てみたいなぁ~と、思いました。
今日は私も「寅さん」だったので(噂の寅次郎)とっても嬉しかったです☆
2010-09-06 19:38
miri
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[
C
635
] >miriさん
ありがとうございます。
いや~、せめて1ヶ月に1回は更新したいものです(汗)。
寅さんは見た目のアクが強いから、割と敬遠している人も多かったりするのかもしれないですね。でもことばの語感でこれだけおかしみを出せる人はそうそういないと思います。逆にしんみりとした情感も。ホント可笑しくて哀しいですね~!
イラストは、マドンナに出会ってカッコつけてる寅さんです(笑)。さくらさんはつるっとした顔してるので、なかなか感じがでないです。。。
ゴクミの出てくる後期の作品は、なかば満男が主役みたいな感じですね。吉岡君ファンなので、あれはあれで、また違った味わいがあって私も好きです。
噂の寅次郎..."博の父親三部作"の第三弾ですね!これは奇遇ですね~。のちほどお邪魔して読ませていただきますね!
2010-09-07 13:06
mardigras
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[
C
636
] お久ー
Mardiさん戻ってこられほんまにうれしいわぁ~・・・、
渥美清さんがなくなられて15年ですか、ニュースをこちらで知ったその夜、持っていたビデオカセットの「寅さん」を観て追悼しました。でもどの作品だったのか覚えていません。
私ごとですが、70年代の後期に両親が心配して上京してきたことがあります。もう東京見物は必要なかったのでほっといていたら、上野の映画館でちょうど封切りの「フーテンの寅さん」を観てきたと二人ともいい顔で帰ってきて、父が私に「好きなように生きればいいんだ」とポツンといったのです。それが一つの或きっかけとなりました。
80年代にはJAL開催の映画会が毎年ハンブルクでもあり、上映作品は毎回「寅さん」で日本語ががわからない旦那も面白いといい幼かった長女と一緒に「トラサン、トラサン」と渥美清さんを呼んででいました。
Mardiさんがとりあげた寅さんのこの科白「教養のない奴はいやだねぇ~」でこのシリーズ半分も観てない私にはMardiさんのこれから続く「フーテンの寅さん」シリーズが楽しみです。
2010-09-08 00:27
ヘルブラうウ
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[
C
637
]
ーこれだから教養のない人たちはいやなんだよ。ー、
↑ この科白だからいいのに、勝手に変えて書いたようなので訂正してください!
2010-09-08 00:36
ヘルブラうウ
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[
C
638
] >ヘルブラウさん
ありがとうございます、そんな風におっしゃっていただけると更新した甲斐があるってものですよ~。
渥美清は享年68歳ですから、いかにも早すぎますね。。。映画になんて出なくていいから、もっと長生きしていただきたかったな~と思います。
ヘルブラウさんにとって寅さんは個人的な思い出のある映画だったんですね~。お父様がそんなことをおっしゃったきっかけになったのは、一体どの作品だったのでしょうね。。。それにしても、上野というのは映画の中でも何度も出てくるし、寅さん映画を観るのにどこよりも相応しい場所のような気がします。
寅さんの面白さは世界共通なんですね~。なんだか嬉しいです。ことばのニュアンスはわからなくても、ドラマに描かれいている喜怒哀楽はどこでも一緒ですものね。そうそう、「教養のない奴はいやだねぇ~」なんて言い方も、どれかの作品であったような気がしますよ(笑)。
まったく関係ないのですが、以前教えていただいた、ドイツでクリスマス恒例というロミー・シュナイダーのシシィが一昨日から3日連続でNHKで放映されました。いまひとつ、というお話だったと思いますが(笑)、とりあえず録画したので、いずれ観てみようと思います。
2010-09-08 19:10
mardigras
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[
C
640
] 「男はつらいよ」は
一度も観たことがないんですよ~。「釣りバカ」とか長~く続いているシリーズはほとんどスルーしてました。どうせなら最初から観たいと目を光らせてはいるんですけどね。
さて、今月も「ブログDEロードショー」のお誘いに参りました。
作品は 『 アマデウス 』 (1984年アメリカ、ミロシュ・フォアマン監督)です。ロッカリアさんが選んで下さいました。
お選びになられた理由は
・当初の企画「一人では見難いから皆で一緒に見ようよ」と言う原点回帰。
この映画長い(160分)から、DVD買ってからまだ一度も見ようとしていない。(腰が引ける、と言うか…)このようないい機会がないと進んで見れないのだ。
・この映画をミュージカルだと思っている人が意外に多い。ようやく秋らしくなって来たので、極上のミステリーを皆と堪能したい。
・モーツァルトのお勉強にもなる。彼の人生を、映画を見ているだけで学べる。
とのことです。
観賞日は10月1日~(金)~3日(日)です。
今月も盛り上がりましょうね~!
2010-09-24 07:22
宵乃
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[
C
642
] >宵乃さん
これだけ数あるとなかなか手が伸ばしずらいですよね~(笑)。私も「釣りバカ」は「男はつらいよ」の併映で数本見たきりです。こっちもなんだかんだでけっこうあるんですよね...
いつもご連絡ありがとうございます。「アマデウス」、20年以上前にテレビで見たきりですが、とても印象に残ってます。ぜひ参加させていただきますね~。
2010-09-25 00:31
mardigras
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850
] 管理人のみ閲覧できます
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2011-09-13 11:48
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良かったです~!(やっぱスポンサーサイトは寂しいです)
>「日本の労働者は貧しいなあ」だとか、「おい、青年!」だとか、・・・・こうして文字にしてみると別にたいして可笑しくもないセリフの数々が、これがひとたび寅さんの口から飛び出すと、不思議なことに、なんとも笑えて笑えて仕方がないのですね。
これ、ホントにそうですよね~。あの映画の中で、寅さんが口にした時、心の底から笑えますよね~。見ていない人にはぜひ見てもらって、それらのセリフを聞いてもらいたいです!
イラストはちょっとマジな感じの寅さん?さくらさんの表情が感じ出ていて良いですネ☆
私自身はあまり「寅さん」は見ないけど(ゴクミ3部作はわりと好きです)
こうして詳しいレビューを読ませてもらうと、また機会があれば見てみたいなぁ~と、思いました。
今日は私も「寅さん」だったので(噂の寅次郎)とっても嬉しかったです☆