
ブロガーの皆さん一緒に同じタイミングで映画を観ましょうという企画、ブログDEロードショーに参加しました。今回の作品は、ミロシュ・フォアマン監督のアカデミー賞受賞作、「アマデウス」(1984)。モーツァルトの死後、巷間流布したという、サリエリ毒殺説に着想を得て、モーツァルトの生涯を大胆かつスキャンダラスに脚色した、ピーター・シェーファーの戯曲、「アマデウス」の絢爛華麗な映画化作品です。作品のチョイスは、この企画の名付け親、ラジオ・ヒッチコックのロッカリアさん。ビデオを借りに行ったら、オリジナル版があいにく貸し出し中。ディレクターズ・カット版(2002)があったので、そっちを借りて日曜日に鑑賞しました。
この映画、高校生の頃に、日曜洋画劇場のテレビ初放映を観て以来の再見(吹き替えがホント素晴らしかった。特にサリエリの日下武史!)...と思い込んでいたのですが、開巻すぐ、施錠された部屋の前で生クリームをべろべろ舐めながら、サリエリ(F・マーリー・エイブラハム)に呼びかける召使いたちを見て、それほど遠くない昔、おそらく数年前に、WOWOWかNHK BSで観たことを思い出しました。それを忘れてしまっていたのは、つまらなかったからではなく、逆にあまりに面白かったがゆえ、再見せずとも初鑑賞の時点で既に、その内容が強く記憶に刻み込まれていたせいだと思います。キャラの立った人物たちが繰り広げる、スキャンダラスなドラマ。時代風俗を再現した、煌びやかな映像。そしてなんといっても、全編に流れる、うっとりするような音楽。3時間とかなり長丁場の作品ですが、時間の経つのを忘れる面白さとは、まさにこんな映画のことをいうのでしょう。
というわけで、今回観直して頭に浮かんだ感想を、以下思いつくままに。それにしても、この映画の掴み、ホント、素晴らしいですねぇ!
「アマデウス ディレクターズ・カット」版の(尾篭な)衝撃
品性下劣でエキセントリックなモーツァルト(トム・ハルス)と、そんなモーツァルトの突拍子もない阿呆笑い、そしてジェフリー・ジョーンズ扮する皇帝の、絵から抜け出してきたかのような皇帝っぷりと並び、初めて観たとき強烈に印象に残ったのが、モーツァルトの妻、コンスタンツェ(エリザベス・ベリッジ)の必要以上に強調された、でかい胸。そして今回観たディレクターズ・カット版に、コンスタンツェがどーんと上半身をあらわにする場面があって、予期せぬ衝撃に、びびってたじろいでしまいました。
皇帝の姪の音楽教師に夫を推薦してもらうべく、サリエリの元を訪れたコンスタンツェ。彼女が夫に内緒で持ち出してきた、譜面の完璧な美しさに激しいショックを受けたサリエリは、激しく憎悪を募らせ、便宜を図る見返りとして、彼女の体を求めます。しかしその夜、再びやってきたコンスタンツェが、意を決して服を脱ぎはじめると、サリエリは冷たい一瞥を投げつけ、彼女の裸を召使の目に晒した上で、けんもほろろに追い返すのです。
映画の終盤、モーツァルトが息を引き取る場面での(コンスタンツェを乗せた馬車の黒々としたシルエットが、早暁の野を疾駆する映像が素晴らしい。まるで、死神がモーツァルトを迎えに急いでいるかのようでもあり、実に不気味です)、コンスタンツェのサリエリに対する強い敵意の意味は、なるほどそういうわけだったのか~、と深く頷いてしまった次第。そして思えば、"ヴィーナスの乳首"という、エロティックでユーモラスなお菓子もまた、そんな場面に対する、ちょっとした伏線だったのですね。
「アマデウス」に描かれる、天才の"才能"に対する"秀才"の嫉妬
音楽に対する禁欲的で献身的な精励刻苦にもかかわらず、その才能が、破廉恥の申し子のようなモーツァルトの足元にも及ばないことをまざまざと思い知らされたサリエリは、神を激しく呪い、神の恩寵を受けたモーツァルトを破滅させることによって、神に復讐することを誓う――とまあサリエリは、モーツァルトに対する殺意の動機として、宗教心の薄い人間にとってはわかるようなわからないような、高尚でもったいぶった理由を神父に告白します。しかし、どんなに言いつくろってみても、サリエリのモーツァルトに対する陰険なはかりごとの源は、もっと下世話な感情、要するに、モーツァルトに対する嫉妬以外のなにものでもないでしょう。
人が人に対して抱くさまざまな悪感情の中で、嫉妬はもっとも認めなくない、また他人に悟られたくない感情ではないでしょうか。なぜなら嫉妬するということは、己が嫉妬の対象よりも、己の価値観の上で劣っていることを認め、翻って己の卑小さと醜さを、じくじくと噛み締めることにほかならないからです。社会的な成功、恵まれた境遇、人間関係、とまあ私自身、恥ずかしながら、ありとあらゆる理由でありとあらゆる対象に嫉妬した覚えがありますが、しかし考えてみれば、この映画に描かれるような、"才能"に対する嫉妬ばかりは、身に覚えがないように思います。
「神よ、もうあなたは敵だ。あなたは神の賛歌を歌う役目に好色で下劣で幼稚なあの若造を選んだ。そして私には、彼の天分を見抜く能力だけを与えたもうた。神よ、あなたは理不尽で不公平で冷酷だ」
映画の中でサリエリは、そんな呪詛のことばを口にします(モーツァルトをひどく憎みながら、しかしいったん彼の音楽に触れると、何もかも忘れて恍惚、陶然としてしまうサリエリがとても哀しい)。また、告白を終えたサリエリは、まるで世界中の凡庸なる者たちを代表して天才を葬ったといわんばかりの嘲り笑いを浮かべつつ、神父に向かってこんなことを言います。
「私は凡庸のチャンピオンだ。この世の凡庸なる者たちの守護神なのだよ」
才能に嫉妬するには、才能を理解するだけの才が必要であり、しかもその分野を極めるための不断の努力があってこそ、初めて芽生える感情であるように思えます。我が身を振り返って言えば、そもそも凡庸なる者は、才能に嫉妬したりはしない(できない)のであって、その意味でサリエリは、まさしく"凡庸のチャンピオン"、もっとも天才に近い、偉大なる凡人なのでしょう。
面会当初の余裕の笑みはどこへやら、告白を聴き終えた神父は、気の利いた言葉ひとつ返すことができずに唖然呆然、飛び切りの秀才の天才に対するジェラシーに、掛け値なしの凡人然とした表情を浮かべます。以前に観たとき、どう思ったかは覚えていませんが、今回観直してみて、この映画で私が一にも二にも感情移入してしまった人物は、もう断然、この若い神父です。
サリエリの罪とモーツァルトの罪
キリスト教が戒めるところの七つの大罪、「傲慢」、「嫉妬」、「憤怒」、「怠惰」、「強欲」、「暴食」、「色欲」。この映画に描かれるサリエリの罪が、「嫉妬」(と「憤怒」)ならば、モーツァルトの罪は、それよりも重いとされる、「傲慢」(そして「怠惰」と「色欲」)でしょうか。
宮廷音楽家たちを見下し、サリエリが作った曲を皇帝の面前で侮辱し、そして仮面舞踏会では、本人がそこにいるとも知らずに手ひどくサリエリを嘲弄してみせるモーツァルト。彼は、その音楽的才能に対する絶対的な自惚れゆえか、非常識なまでに無神経、そして徹底的に傲岸不遜です。そんな彼の性格は、サリエリの憎悪を招くのみならず、生活者としての彼を次第に追い詰めていきます。モーツァルトが、サリエリに紹介された、音楽を解しない金持ちの商人の娘の家庭教師を断りながら、後年、厚顔にも借金を申し込んで、素気なく追い返される場面は、社会や経済、そして人情をまったく理解できない、モーツァルトの初心なメンタリティを象徴しているかのようです(オリジナルではカットされているエピソード)。18世紀の音楽家にとって、主たる収入源は教授料だった、とピーター・シェーファーが音声解説で語っていますが、しかしそもそも、天才ほど人にものを教える仕事に向かない人間は、いないのではないでしょうか。
モーツァルトの時代から下ること数十年、ルキノ・ヴィスコンティの「ルートヴィヒ」(1972)では、やはり傲岸無比な天才、(しかし狡猾で処世に長けた)ワーグナーの人格破綻ぶりが、これでもかとばかりに描かれていましたが、「アマデウス」のモーツァルトの不幸は、その処世の未熟ぶりもさることながら、ワーグナーにとってのルートヴィヒのような、盲目的な崇拝者にして権力者のパトロンをもたなかったことでしょう。たとえサリエリのたくらみがなかったとしても、収入源を失くして自堕落な放蕩に身をやつす(この映画の)モーツァルトは、遅かれ早かれ破滅したに違いなく、その意味で、モーツァルトを殺したというサリエリの告白は、単に彼がそう思い込みたがっていただけ、というように思えたりもします。
* * *
告白の冒頭、若い神父が、サリエリの作った曲をまったく知らず、しかし"アイネ・クライネ・ナハトムジーク"には反応してハミングし始める場面は、サリエリの悲劇(モーツァルトの悲劇、とは思えない。やはり凡人としては、自業自得にしかみえないのです)を描いたこの映画の中で、もっとも残酷な場面です。サリエリは、"時"によって否応なしに断罪されたのであり、それはいわば、自らが代表しているつもりの無数の凡庸なる者たちによって下された、無情で冷酷な審判です。爾来、サリエリのように一時の人気を博し、社会的、経済的な成功を手に入れながら、しかし後世に名を残すことの適わなかった芸術家は、それこそ星の数ほどいたことでしょう(ここでふと、「サンセット大通り」(1950)のグロリア・スワンソンが頭に浮かびました。ノーマの狂気は、この映画の老いたサリエリに一脈通じるものがあるように思えます)。芸術家と呼ばれるような人たちにとって、もしかすると「アマデウス」は、ほとんど恐怖映画だったりするのかも、なんてことを思ってしまったのでした。
アマデウス(原題: Amadeus)
製作国: 米国
公開: 1984年
監督: ミロシュ・フォアマン
製作総指揮: マイケル・ハウスマン/バーティル・オールソン
製作: ソウル・ゼインツ
脚本: ピーター・シェーファー
原作: ピーター・シェーファー
出演: F・マーリー・エイブラハム/トム・ハルス/エリザベス・ベリッジ/ジェフリー・ジョーンズ
音楽監修: ネヴィル・マリナー
撮影: ミロスラフ・オンドリツェク
美術: カレル・サーニー
編集: ネーナ・デーンヴィック/マイケル・チャンドラー
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管理人: mardigras

今回もご参加とレビューをありがとう~。
イラストのサリエリが、一番こころに響きます。
告白をしているその場の彼ではなく、この頃の彼が。
>サリエリは"時"によって否応なしに断罪されたのであり、それはいわば、自らが代表しているつもりの無数の凡庸なる者たちによって下された無情で冷酷な審判です
皇帝の音楽やオペラの好みを知っているからこそ、
後生には全く残らなかった・評価の低い作品を、
「今までで一番すぐれたオペラ」と表彰された時の喜びと、
「時」「凡庸」などによって斬られた現在の自分・・・
サリエリが本当に心から神を求めていたなら、違った方法や結果もあったのに・・・とも思えました。
では、この記事をいつもの記録に、リンクさせて頂きますネ☆
次回もどうぞ楽しみにしてお待ちくださいね~♪