言ってみりゃ、リリーもオレと同じ旅人さ。

「男はつらいよ」シリーズ全四十八作のうち、第一作と並ぶ代表作といえばやはりこれ、第十一作「男はつらいよ 寅次郎忘れな草」(1973)、第十五作「男はつらいよ 寅次郎相合い傘」(1975)そして第二十五作「男はつらいよ 寅次郎ハイビスカスの花」(1980)と続く、いわゆる"リリー三部作"――というのはほぼ衆目の一致するところではないでしょうか。
ビビッドなドラマが紡ぐ珠玉のような名場面と名セリフの数々、そんなドラマの行間に鮮やかに立ち上るきめ細やかで濃密な人情の機微、そして寅さん演じる渥美清のいつにも増して神がかったような名演技と冴え渡るギャグ――とまあこの三作にはいろいろな意味で特別感があるのですが、つまるところその源泉は、ほかの作品に描かれたマドンナたちとは立ち位置がまったく違う女性――いわば寅さんの分身といってもいい、リリー(浅丘ルリ子)の登場がもたらした化学反応であるように思えます。
見目や境遇は異なれど、しかしいずれにしても気立てがよくて品行方正で明るくて...という騎士道物語のお姫様のようないつものマドンナ像とはまったく違う、遠慮のない、蓮っ葉で、傷ついた野良猫のようにひりひりとした女性、なんてったって名前からしてフツウじゃないドサまわりの歌手、リリー。
そんな彼女に対する寅さんやとらやの面々のアクション、リアクションには、おのずからいつもとひと味もふた味も異なる緊張感と新鮮味があって、たとえ行き着く先は同じであるにせよ(寅さんの失恋で終わる)、ドラマはそれ自体が意志を持ったかのように、他の作品とは異なる勢いと角度でもって、生き生き冴え冴えと転がっていきます。作品に宿るそんな躍動感と生命感こそが、そもそもリリーを生み出した監督の狙いであり、またそれが巧みな演出の賜物であることは言うまでもないにせよ、しかしそれでも"リリー三部作"、特に「男はつらいよ 寅次郎相合い傘」の水際立った面白さには、まるでドラマの神が降りてきたかのような(そんな神がいるとすればですが)、圧倒的ナチュラリティを感じてしまったりもします。
「男はつらいよ 寅次郎恋歌」の袋小路
前回の記事にも書いたのですが、"堅気の暮らしを送る女性"を相手にした寅さんの恋が成就することはありえない...というのは第八作「男はつらいよ 寅次郎恋歌」(1971)、そして遅くとも第十作「男はつらいよ 寅次郎夢枕」(1972)で決定的となった結論です。むろん、寅さんの恋が成就したらシリーズ自体が成り立たなくなってしまうわけですが、しかしそんな制作上の事情とはまた別に、ドラマの上においても寅さんの恋は、出口なしの袋小路に入り込んでしまいます。
すなわち第八作のマドンナ貴子(池内淳子)との係わり合いの中で、寅さんは旅暮らしの己と堅気の女性を隔てる立場や意識、価値観の深い溝に気がついて絶望し、そしてその溝をいたずらに跨ぐことが、己にとっても相手にとっても不幸な結果しか招かないであろうことを悟ります。つまり寅さんは、堅気の女性との"まっとうな暮らし"(=ひとところに定着した暮らし)についてまわる責任を背負うことのできない(=結婚できない)己の性分をはっきり自覚するのであり、そして第十作において、そのダメを押すかのように、傍目にみても寅さんの連れ合いとしてこれ以上ないと思われる女性、八千草薫演じる幼馴染の千代に想いを寄せられたにも関わらず(結婚したら文字通り"髪結いの亭主"になれるにも関わらず)、彼女の気持ちをすかし、うやむやにしてしまいます。
そんな寅さんの"本気の恋"に対する腰の引けっぷりは、その後も第二十九作「男はつらいよ 寅次郎あじさいの恋」(1982)のかがり(いしだあゆみ)、第三十二作「男はつらいよ 口笛を吹く寅次郎」(1983)の朋子(竹下景子)との関係において繰り返され、要するに第八作以降、堅気の女性に性懲りもなく惚れる寅さんは、恋に恋しているだけなのであり、いかな女性にめぐりあおうとも、いずれ女性がその気になったらおしまいという、哀しくもある意味、非常に罪作りな男っぷりを発揮するのです。
多少意地の悪い言い方をすれば、要するに、寅さんの恋の行方はいかに?という「男はつらいよ」の中核をなしているはずのテーマは、実質的に第十作目にして終わっているのであり、しかしそんな中で唯一、寅さんの恋をめぐる緊張感が例外的に残された作品が、この"リリー三部作"、といっていいかもしれません。なぜならリリーは寅さんと同じ世界の住人であり、二人を隔てる溝の存在しない、いわば手を伸ばせば届く距離にいるといっていい(=恋の成就する可能性が残された)、シリーズ初にして唯一のマドンナだからです。
"ヘえぇ、ちょいとしたオレだね"――「男はつらいよ 寅次郎根無し草」
「男はつらいよ 寅次郎忘れな草」に描かれる、寅さんとリリーの初めての邂逅――短くも運命的なひとときに漂う叙情には、その後の二人の長きにわたる関係を知るがゆえの感慨を抜きにしても、(寅さんとマドンナの数ある出逢いの中で)ほかに比べるもののない、ぶっちぎりの味わいがあります。
例によって、些細なことからおいちゃん(松村達雄)やさくら(倍賞千恵子)たちと喧嘩して柴又を飛び出し、北海道へと渡った寅さん。網走へと向かう夜汽車の中、寝つかれぬままに、真っ暗な車窓を見つめながらそっと涙をこぼす、ひとりの女の姿を目にとめます。やがて辿り着いた網走の町で、路肩にレコードを並べてみるもさっぱり売れない寅さんが、シケた顔で眺めるともなしに港を眺めていると、「さっぱり売れないじゃないか」――そこへあばずれチックな笑顔を浮かべて声を掛けてきたのはくだんの女、かつてレコードを出したこともあるという、売れないクラブ歌手のリリー。
二人は港をそぞろ歩きながら、ぽつぽつ身の上を語りあい、やがて波打ち際に腰を下ろすと、「どうしたィ、ゆンべは泣いてたじゃねェか。なんかツライことでもあンのか」――寅さんが、リリーに涙のわけを尋ねます。
「ううン、別に。ただなあんとなく泣いちゃったの...にぃさんなんかそんなことないかな。夜汽車に乗ってサ、外見てるだろ。そうすっとなぁんにもない、真っ暗な畑ン中なんかに、ひとつぽつんと灯りが点いてて、あぁこういうとこにも人が住んでるンだろうナ、そう思ったらなんだか急に悲しくなっちゃって...涙が出ちゃいそうになるときってないかい?」
何度も深く頷いた寅さんが返します。
「...うん、こんなちっちゃな灯りが遠くの方へすーっと遠ざかっていってなぁ。あの灯りの下は茶の間かなぁ。もう遅いから子供たちは寝ちまって、父ちゃんと母ちゃんが二人で、湿気た煎餅でも食いながら、紡績工場に働きにいった娘のことを話してるんだよ、心配して。暗い外見てそんなこと考えてると、汽笛がぼーっと聞こえてよ。なんだかふーっと、こう涙が出ちまうなんてこたぁ...うん、あるなぁ。うん、わかるよ」
リリーのセリフはそっくりそのまま、第八作で寅さんが貴子に旅暮らしの孤独とつらさをわかってもらおうと必死に語って聞かせた、しかしとうとう理解してもらえなかったセリフ(もともとは博の親父が寅さんに語った"りんどうの話")――寅さんが貴子(=堅気の女性)との間に横たわる深い溝の存在に気づき、恋を諦めるきっかけともなったセリフそのものといっていいものです。そんなセリフが、今度はマドンナの口から語られるわけで、それを聞いた寅さんの共感がいかばかりのものか、それはもう「男はつらいよ」ファンにとっては、推して知るべしなのです。
「父ちゃんのお出掛けかぁ」
二人の目の前を、港出船の小さな漁船が横切ります。向かいの波止場には、"父ちゃん"を見送りながら、いつまでも手を振り続ける母子の姿。そんな("夜汽車の灯り"もしくは"りんどうの花"の港バージョンともいえる)景色を眺めながら、リリーが自嘲気味に呟きます。
「ねぇ、あたしたちみたいな生活ってサ、フツーの人とは違うのよネ。それもいい方に違うんじゃなくて、なんてのかな...あってもなくても、どうでもいいみたいな。つまりサ、あぶくみたいなもんだネ」
「...うん、あぶくだよ。それも、上等なあぶくじゃねェやな。風呂ン中でこいた屁じゃねェけども、背中の方へ回ってパチンだ」
澄み切った青空をバックに佇む二人の姿には、広い世界にぽつんと置き去りにされたような、社会から除け者にされてしまったような、いっそ映画のタイトルを「男はつらいよ 寅次郎根無し草」にしたらどうかと思われるような、なんとも索漠とした寂寥感が漂います。やがてリリーが腰を上げ、二人はいかにも"旅人"どうしらしい別れのことばを交します。
「じゃあまたどっかで会おう?」
「うん、日本のどっかでな」
* * *
とまあ、こうして寅さんとリリーの長きにわたるドラマの幕が開くわけですが、今改めて観ても、そのプロローグともいうべき網走の一幕は、二人のドラマが続編、続々篇(そして続々々篇)と作られていくことがさも必然と思えるような、いやそれ以上にまだまだ貯金がたっぷり残っているような、実に深い余韻を感じさせるものです(この場面のロケ地を訪れてきました→「男はつらいよ 寅次郎相合い傘」を訪ねて)。
このあと二人は柴又で再会し、そして別れ際の会話をなぞるかのように、続編において日本のあちこちでばったり顔を合わせ、ひととき子猫のように傷を舐め合ったり、仲睦まじくじゃれ合ったり、かと思えば些細なことで互いに傷つけあったり、やがて仲直りしたと思えばまた喧嘩別れして、しかしいずれまたどこかでばったり顔を合わせ...と終わりのない円環運動のような出会いと別れを繰り返していくことになるのですが、しかしそれにしても、第八作の終盤でみせた寅さんの絶望が、ことのほか暗く深いものに感じられたぶん、リリーという女性の登場が、寅さんにとっていかに大きな喜びであり潤いだったのか、そして救いとなったのかを思わずにいられません。
くっついては離れ、離れてはくっついてを繰り返す二人の距離感は、寅さんと"マドンナ"のそれというよりも、むしろ舎弟の登(津坂匡章)との関係によっぽど近いものがあって、寅さんにとってリリーは、あれほど兄思いのさくらですら理解することのできない、"旅人"のかこつ孤独、寂しさ、惨めさを皮膚感覚で理解し共有できる、悪くいえば腐れ縁、よくいえば運命の女性です。のちに「男はつらいよ 寅次郎相合い傘」で、寅さんとリリーを無理矢理くっつけようと珍しくお節介を働いたさくらが、「リリーさんと兄は、ホントに仲のいい友だちだったんじゃないか」なんてことを反省混じりに口にしますが、二人は友だちというよりもむしろ仲間、かけがえのない人生の同志、いや男女であるがゆえに惚れた腫れたの、結婚するしないのと周りは騒がずにいられませんが(そしてもちろん、本人たちもそれを意識せずにいられませんが)、しかしそんな現世の契りを超越したところで分かち難く結ばれた、転生のたびに似たような出会いを何度も繰り返している魂の伴侶――唯一無二のソウルメイトだったりするのかもしれません(考えすぎ)。
ファンタジックな寅さんとリアリズムを背負ったリリー
ドラマの終盤、深夜に泥酔してとらやを訪れたリリーが、寅さんにしつこくからみながら、しきりに今すぐ一緒に旅に出ようと駄々をこねます。やや持て余し気味の寅さんが、もう夜汽車もないしと宥めすかしつつ、やんわり説教するのに対し、リリーは急に真顔になって、「そうか...寅さんにはこんないい家があるんだもんね。あたしと違うもんね」――そんな悲しくて痛ましいひとことをぽつりともらし、やがて「寅さん何にも聞いてくれないじゃないか。キライだよ!」とぽろぽろ涙を流しながら捨てゼリフを吐いて、風のようにぷいと出て行ってしまいます。翌日、心配した寅さんがリリーのアパートを訪ねてみれば、薄汚れた部屋は既にもぬけの殻。こうして"忘れな草"のリリーはあっけなく、寅さんの前から消えてしまうのですが――。
似たもの同士の二人でありながら、しかし寅さんに比べてリリーの抱える孤独とつらさには、よりいっそうの重苦しさがつきまとっています。それはなぜならリリーの言うとおり、結局のところ寅さんには、柴又にさえ帰れば、さくらをはじめ、いつも彼のことを心配し、温かく迎えてくれる"家族"がいるからなのであり、そしてそれと同じくらい、("それを言っちゃおオシマイよ"ながら)寅さんがあくまで人情喜劇の主人公として、その衣食住を心から心配する必要のない、ファンタジックな身の上だからでもあります。
寅さんの財布にいつも五百円しか入っていない、というのは面白くも哀しいお馴染みのギャグですが、逆に言えば、寅さんの財布はいつでも必ず五百円がこんこんと湧き出してくる、ありがたくて都合のよい財布だったりします。テキ屋稼業と言いながら、たったひとつの小さなトランクをぶら下げて、本作でも道東の原野をぶらりと逍遥したりなんかして("シェエラザード"にのせて点描風に描かれるこの場面の旅情は、もう何度観ても鳥肌が立つほどに素晴らしい)、寅さんはいったい電車賃と宿銭以上のカネをどうやって稼いでいるのか...な~んてことは書くだけ野暮なのですが、しかしそんな寅さんに比べ、場末のクラブで誰も聞いちゃくれない歌を歌い、イヤな酔っ払いに絡まれ、母にカネをせびられもしなくてはならないリリーは、同じドラマの登場人物とは思えないほどに、遥かに厳しい現実を背負わされています(というか、寅さん以外はみなリアル、というのが「男はつらいよ」の世界なのですね)。
リリーの荒んだ大虎っぷりに度肝を抜かれたおばちゃん(三崎千恵子)が、「女の人のあんな酔っ払いなんてあたし初めて見たよ」と嫌悪感を丸出しにしますが(おばちゃんにマジで顔を顰めさせたマドンナはリリーだけでしょう)、男なら大目に見られるかもしれない振る舞いが、女であるがゆえに許されないということもまた、寅さんにはわからない、リリーだけが背負わされた哀しみかもしれません。リリーの虚勢にも思える、どこか頑なで張り詰めた気の強さには、旅暮らしの中で人には言えない偏見と差別にさんざん耐えてきたのであろう、そんな女ならではの切ない過去が透けて見えたりもします。
寅さんの挫折とリリーの結婚
そんな寅さんとリリーの違いは、網走の漁港で別れたあとの二人の処世の違いにデフォルメされて描かれます。
根無し草の"あぶく"生活を深く反省した寅さんは、例によって出来もしない"地道な暮らし"への意欲を短絡的に掻き立てられると、網走のとある開拓農家を訪れ、「あっ、報酬なんてものは、決してそういうものはいりませんから、ただ、メシだけ食わしていただければそれで十分ですから」などとどこかで聞いたことのある殊勝なセリフを口にして、なかば押しかけ人夫のように働き始めます(この、「こちらのこういう生活こそまともな暮らしじゃねぇか」と寅さんが思い詰めた"北国の牧場"というモチーフは、言うまでもなく「遙かなる山の呼び声」(1980)へと繋がっていくものであり、寅さんのセリフは、のちに健さんが口にするセリフとまったく同じものだったりします)。しかし三日と持たずに熱を出して倒れ、繁忙期の酪農家にかけなくてもいい迷惑をさんざんかけた挙句、「帰れるところがあると思うからいけねェんだよ。失敗すりゃまた国に帰りゃいいと思ってるからヨ、オレはいつまで経ったって一人前になれねェもんな」などと二年前の「男はつらいよ 純情篇」(1971)で、振り絞るように口していた反省の念はどこへやら、はるばる迎えにやってきたさくらに引き取られて柴又へと帰っていく(そしてぶらぶら生活が始まる)――とまあ、本作における寅さんの定着への憧れと挫折は、あくまで喜劇のフォーマットに則って描かれるのですが(堅気への憧れ=額に汗する労働、というテーマは第五作「男はつらいよ 望郷篇」(1970)の繰り返しでもあります)、しかし一方、ナマのリアリズムを背負ったリリーの処世には、より真剣で切羽詰ったリアリティが漂うのです、もちろん。
「リリーさんって、いつまでも今の生活に甘んじている人じゃないわ。あの人、賢い人よ。そのうちきっと、自分の力で幸せを掴むんじゃないかな。そんな気がするわ」

ドラマの終盤、さくらが博(前田吟)に向かってそんな確信めいたことを口にします。さくらの言うところの幸せが、結婚を意味していたのかどうかはともかくとして(また旅暮らしよりも定住生活がそんなに上等なものなのかどうかもともかくとして)、深夜のとらやから姿を消したリリーはしばらくして、いかにも突然といった感じで堅気の寿司職人(毒蝮三太夫)と結婚し、寿司屋の女将におさまります。届いた知らせに店を訪ねたさくらの目の前で、笑顔いっぱい、地味な割烹着に身を包み、髪をひっつめにして、かいがいしく立ち働くリリーのご新造っぷりは初々しくもあれば、しかしその結婚生活がいずれ破綻するものであることを知った目で見ると、その姿は「男はつらいよ 望郷篇」で喜々として豆腐づくりにいそしんでいた、あるいは本作の牧場で張り切っていた(初日の)寅さんの姿にも似て、どこか空疎でママゴトっぽく見えてしまったりもします。
リリーが毒蝮とどこでどう知り合ったのか、映画の中では触れられていませんが、しかし寅さんの前から姿を消してほんの一、二ヶ月、多少意地の悪い言い方をすれば、リリーはさくらの言うように"自分の力で幸せを掴んだ"というよりも、旅暮らしに疲れきった挙句、目の前にたまたまぶら下がった何かに後先考えず縋りついてしまっただけのようにも思えます。リリーにとって毒蝮との結婚は、劇中、「一生に一度でいい。一人の男に惚れて惚れて惚れ抜いてみたいわ」などと口にしていた大恋愛の顛末であるはずもなく、いわば帰る場所のない自分の居場所をこさえるための極めて現実的な処世なのであり、それは所詮、ひとところに定着することのできない(寅さんと同じ)己の性分から目を背けた、旅暮らしの傷が癒えるまでのほんのひとときの現実逃避に過ぎないものだった...な~んて言ってしまったら、ちょっとリリーに厳しすぎるでしょうか。
"リリーは可哀相なオンナなんだよ"
本作のリリーは、壁際に追い詰められた猫のように余裕がなく、ただひたすら、寅さんととらやの面々に甘える一方です。心に迷いと鬱屈を抱え、たとえ表面的に粋がってはいても、隠しきれない芯の弱さを他人に叩きつけるようにさらけ出すその人物像は、正直あまり魅力の感じられない、関わったらちょっと面倒くさそうな、はっきり言えばやっかいな女でしかなかったりします。深夜のとらやでの醜態は、たとえおばちゃんでなくても目を背けたくなるほどに惨めで情けなく、むろん同情の余地はあるにしろ、しかしそんなところが世間との溝なんだと言ってやりたくなるような、堅気にはとてもついていけない荒みっぷりであり、甘ったれっぷりです。しかしそんなリリーを、寅さんだけは見捨てることがないのですね。
「さくら、もし、もしもだよ。オレのいねェときに、リリーがとらやに訪ねてくるようなことがあったら、オレのいた部屋に下宿させてやってくれよ。家賃なんかとるなよ。アイツは遠慮するかもしれねェけどよ、オレがそんなことに気ィ遣うなって言ったって言ってくれよ。リリーは、可哀相なオンナなんだよ」
リリーが消えてしまったことを知った寅さんは、その足で自らも旅に出る決心をすると、上野駅にカバンを届けにきたさくらに向かって、そんな、リリーが聞いたら泣いてしまうようなセリフを口にします(安食堂でラーメンを啜り上げる寅さんの財布――もちろん五百円しか入っていない――に、さくらが「お金、もっと持ってくればよかったね」と涙ぐみながら、お札を一枚々々、ごしごしと皺を伸ばして入れてあげる情景は、本作でも屈指の名場面)。そんな寅さんの心を知ることもなくリリーは結婚してしまい、泣かせるセリフは宙に浮いたまま、寅さんはまたもやとんだ三枚目に終わってしまうわけですが、しかしドラマの序盤でさくらが言うセリフ、「お兄ちゃんはさあ、カラーテレビもステレオも持ってないけど、その代わり誰にもない、素晴らしいものを持ってるものね...つまり愛よ。人を愛する気持ち」に込められた、寅さんの真骨頂――報われないからこそ尊いともいえる、人を愛する気持ちの本質みたいなものを、寅さんは本作でもまた、しっかりと私たちに垣間見せてくれるのです。
* * *
"可哀相"なばかりで(コクはあっても)イマイチ女としての魅力に乏しかった本作のリリーですが、しかし二年後の「男はつらいよ 寅次郎相合い傘」では面目一新、バツイチとなって一皮向けたのか、あるいは憑物でも落ちたのか、旅暮らしの己に一片の迷いもない、野宿上等、孤独上等の人に恃むところのない、気合の入ったカッコいい(そしてかわいい)姐さんとなって、寅さんと私たちの前に帰ってきます。
...しかしもはや、許されないほどに記事が長~くなってしまいました。というわけで、生まれ変わったリリーの水も滴るいい女っぷりも含め、寅さんますます絶好調の"相合い傘"と"ハイビスカスの花"についてはいずれまた、稿を改めて。
男はつらいよ 寅次郎忘れな草 (英題: Tora-san's Forget Me Not)
公開: 1973年
監督: 山田洋次
製作: 島津清
脚本: 山田洋次、朝間義隆、宮崎晃
出演: 渥美清/浅丘ルリ子/倍賞千恵子/前田吟/松村達雄/三崎千恵子/太宰久雄/笠智衆/佐藤蛾次郎/織本順吉/毒蝮三太夫/江戸家小猫
音楽: 山本直純
撮影: 高羽哲夫
美術: 佐藤公信
編集: 石井巌
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管理人: mardigras

ちょっと前に寅さんではないけど、お若い頃の映画を見ました。
・・・でもリリーさんの映画は見ていないような気がします。
>・・・あの灯りの下は茶の間かなぁ。もう遅いから子供たちは寝ちまって、父ちゃんと母ちゃんが二人で・・・
でもこのセリフは聞いた事がある・・・別の回でも同じセリフがあったそうですから、そちらでしょうかね?
mardigrasさんは、本当に、心から、寅さん(の映画)を愛していらっしゃるのですネ~。
>(というか寅さん以外はみなリアル、というのが「男はつらいよ」の世界なのですね)。
今の私から見れば、さくら夫妻は絵空事で、「とらや」の皆さまも居るはずがないって思ってしまうけど・・・
前回と同じで、今日も、私のブログも寅さんで、またまた嬉しかったです~!
(転記で出てくる最後の寅さんです)
いつかリリーさんの3部作を鑑賞したいと思いました☆