ヴェンダースの"伯林(ベルリン)物語"

「チャップリンのキッド」(1921)、「素晴らしき哉、人生!」(1946)、「天国から来たチャンピオン」(1978)、「未来は今」(1994)、「普通じゃない」(1997)、「コンスタンティン」(2005)、「レギオン」(2010)、そしてこの「ベルリン・天使の詩」(1985)...とまあ、ジャンルもテーマもばらばらのこれらの映画には、実はひとつの共通点があります。それが何かといえば、そう、もうおわかりですね。それはどの作品もみな、天使が登場することです...ってこのマクラ、そろそろ自分でも飽きてきました(だいたいほとんど観てないものばかり)。
というわけで、ブロガーの皆さん一緒に同じタイミングで同じ映画を観ましょうという企画、ブログDEロードショーの第15回目、ヴィム・ヴェンダース監督、ブルーノ・ガンツ主演の「ベルリン・天使の詩」です。今回の作品を選ばせていただいたのは私、mardigras。お付き合いくださったブロガーの皆々さま、年末のお忙しい中、どうもありがとうございました。
ちなみに「ベルリン・天使の詩」を選んだのは、長年ずっと気になっていた作品でありながら、これまでどうしても観る気になれなかったから。ヴェンダースの映画はけっこう好きなのですが、しかしどう考えても甘~くてファンシーでメルヘンな内容を連想させるこの映画の邦題に、どうにも食指が動かなかったのですね。しかし、いざこうして観てみれば、案の定というべきか、思った以上にというべきか、想像してたのと、ぜんぜん違う映画じゃん!
金曜日に観て、そしてそれから一日経った土曜日、ガマンできずに早くも再見してしまいました。というのもこの映画、ことばとイメージが奔流のように溢れかえっていて、一度観ただけではかなりの部分が頭にとどまらず、右から左へ抜けてしまったからです。というわけで、ビデオを何度も行きつ戻りつさせながら(そして天使さながらにメモを取りながら)観返したのですが、まあ要するに、わざわざ繰り返し観てしまったほど、私にとってはいろいろ思いをめぐらせてみたくなる、見どころの多い、とても面白い映画でした。というわけで以下、幾分妄想(=めぐる思い)を交えながら、感想を思いつくままに。
それにしても「ベルリン・天使の詩」という邦題、あっさり宗旨替えするようではありますが、観れば観るほど、考えれば考えるほど、もうこれしかないという、実にぴったりのタイトルだと思うのですね...
「ベルリン・天使の詩」に描かれたドイツ、ドイツ人そしてヴェンダース自身
所詮、映画は観る人の観たいようにしか観られない、というわけで、牽強付会を承知で書けば、「ベルリン・天使の詩」は、ヴェンダースがヴェンダースのやり方で、近代ドイツの歴史を象徴する街、ベルリンを舞台に、80年代なかばのドイツとドイツ人(そしてヴェンダース自身)を、映像とことばでもって、それこそ天使の記録簿のごとく、あるいはピーター・フォークのデッサンのごとく、さらっとスケッチしてみせた映画だったのではないか。そう、小津安二郎が「東京物語」(1953)をはじめとする数々の作品で、東京を舞台に、あるいは京都や鎌倉を舞台に、その時代の日本と日本人の姿を描き出したように(なにせYasujiroに捧げられた映画なのであり、そしてピーター・フォークも劇中で、"東京、京都、パリ、ロンドン、トリエステ...ベルリン"などと呟いているのです)。
戦後四十年、経済的・文化的繁栄を成し遂げる一方で、東西冷戦を象徴する"壁"に周囲をぐるりと囲まれた、いまだ戦争の記憶が色濃く漂う街、西ベルリン。冷戦下のベルリンが舞台となれば、それがいかな物語といえど、戦争の記憶を避けて通るわけにはいかないはず...な~んてことを、観る前から漠然と予想していましたが、しかしそれが、作品全体にここまで影を投げかけるほどのものだったとは、まったく思いもよりませんでした。
荒涼とした"ポツダム広場"、廃墟となった"駅が止まっている駅"、そしてどこへ行っても立ち塞がる、"ベルリンの壁"――。80年代なかばとなっても戦争の面影が風化せずに残る、ドイツのかつての首都(そしてドイツ統一後に再び首都となる)ベルリンの風景は、同じ敗戦国でありながら、そして同じメトロポリスでありながら、早くも50年代なかば、"もはや戦後ではない"(by 経済白書)との宣言のもと、再開発の大波に洗われて、戦争の記憶を一掃させてしまった日本の首都、東京のそれとはあまりにかけ離れて見えます(仮に80年代、東京を舞台に東京そのものを描いた映画を作ろうとしても、そこに戦争の記憶が影を落とすようなことは、おそらくなかったはず)。
地上に降りた天使とブランコ乗りの恋という、この映画のドラマは、天使の眼を通して眺めた街と人々の切れ切れの映像を、まがりなりにもひとつの意味ある作品に縫い上げるための、便宜的な針と糸に過ぎなかったのではないか――そんなことを思ってしまうほど、「ベルリン・天使の詩」に描出された80年代なかばの西ベルリン――"異国なのに故郷のような街。迷子にもなれない、どこへ行っても壁の街"がまとう、どこか重苦しい空気は、ドラマそれ自体の印象を圧倒して、強く心に残ります。
離れ小島のような街に住む、それぞれがそれぞれの悩みに囚われた、"子どもは子どもだったころ"の心を失った、"やどかり"みたいに自分自身のあるじとなった、オトナたち。まるで離れ小島の中に、さらに無数の離れ小島が浮かんでいるような、人々がてんでばらばらに孤立したイメージが、瞼の裏に浮かんできます。
しかし、そんな人々に注がれる天使の眼差しには、優しさと慈愛が満ち溢れていて、天使のカシエル(オットー・サンダー)が、"距離を保ち、ことばでいよう"と口にするように、ヴェンダースは、孤絶に彩られた社会と人々のありようを、否定も批判もすることなく、ニュートラルな傍観者の目線で眺めながら、まさしく"距離を保ち、映像でいよう"としているかのようです。映画の中盤、タクシーの運転手がこんなことを独白します。
"ドイツ国家はひとりひとりミニ国家を構えている。まるでやどかりみたいに動き回る。余所者には入国税を要求する...入国税だけでなく、国の中に入るには、その都度違う合言葉がいる。そんなドイツ人を牛耳り、引き回せるのは無数のあるじにことばを発信できるやつだが、幸い今はそんなやつはいない"
バックシートに座ったカシエルが眺めるタクシーのフロントウィンドウには、ナチスの支配する戦時下の映像が、幻のように浮かび上がります。広場に旗を掲げた人々が集い、そしてその顔が一斉に、再び誤った方向へと向けられるくらいなら、個々人が孤立した社会の方がまだましではないか――最初にこの場面を観たときは、ヴェンダースの自国の"いま"に対する、そんな(消極的)肯定の思いが込められているようにも感じたのですが...
産土神のようでもある「ベルリン・天使の詩」の天使たち
思い思いの人の後を追い、不幸に汲々とする人を見つけては額に額をくっつけて、前向きの心を甦らせる天使。図書館で勉強する人の肩を励ますように抱き、あるいは死にかけた人に寄り添い、安らかな気持ちを取り戻させる天使。そんな羽毛のように重量感の希薄な天使の描写のあれこれには、いかにも天使と聞いて思い浮かぶ天使らしさが満ち溢れていて、観ているだけでも癒されるような、なんともいえない温かさと安らぎを感じます(そんな気持ちにさせてくれるこの映画自体、まるで鑑賞者にとっての天使のようだったりします)。
しかしながら、そんな天使らしさの一方で、"ベルリン"と呼ばれる地(のみ)の太古の記憶と歴史を語り合う、西ベルリンだけを領分としているらしいダミエル(ブルーノ・ガンツ)とカシエルは、日本人の私にとっては天使というよりも、むしろ西ベルリンの地に宿る精霊、いわば産土(うぶすな)神のような存在と捉えた方が、しっくりくるところがあります。そしてそんな風に考えることで、この映画の思わせぶりな映像のいくつかが、すとんと腑に落ちたりもします。
たとえば図書館の階段の角に置かれた椅子に腰掛けたダミエルが、まるで磔刑にされたキリストのように、力なく両腕を手すりに持たれかけ、物思いに沈む場面。その姿はつまり、四方を壁に取り囲まれ、東側の真っ只中にぽつんと磔にされた、身動きの取れない西ベルリンという土地そのもののメタファーだったのではないか。また人間に生まれ変わる場所として、ダミエルとカシエルが壁と壁の間の緩衝地帯へと足を踏み入れるのもまた、西ベルリンの分身が西ベルリンから分離しようとしていることを暗示していたのではないか――そんな風に思えてくるのです。
マリオンの出身地はいったいどこなのか?
"偶然はもうおしまい。新月は決断の時。先の運命がわからなくても決断する時。決断するの。私たち今がそのときよ。私たちの決断はこの街のすべての世界の決断なの"
"今、私たち二人は二人以上の何か。私たちは広場にいる。無数の人々が広場にいる。私たちと同じ願いの人々。すべてが私たち次第。私は決心している。今はあなたの決心次第よ。今しか時はないわ"
"あなたは私が要る。私が必要になる。二人がつくる歴史はきっと素晴らしいわ。男と女の大いなるものの歴史。目に見えなくとも伝わっていく、新しい始祖の歴史。見て、私の目を。映っているでしょう、必然が。広場の人々の未来が"
映画のクライマックスで、ブランコ乗りのマリオン(ソルヴェイグ・ドマルタン)が、ダミエルに向かって、そんなことを滔々と語ります。西ベルリンを"異国なのに故郷のような街"と表現し、解散したサーカスの仲間が故郷へと帰っていくのを見送るしかすべのない、"やさしい愛のことばを待ちくたびれて国を出た"、行き場を失くしたようにも思えるマリオンの出身地がいったいどこだったのかといえば、それはずばり、近くて遠い国、戻りたくても戻れない国、東ドイツ(東ベルリン)だったのではないでしょうか。
ダミエルが西ベルリンそのものであり、そして赤一色(共産圏を象徴する色です、言うまでもなく)のドレスに身を包んだマリオンが東ベルリンの象徴だとすれば、ダミエルとマリオンがひとつに結ばれて終わるこの映画の結末には、("距離を保ち、ことばでいよう"というカシエルのように)自戒を込めて記録者の立場に留まろうとする一方で、しかし("霊でいることにうんざりしてしまった"ダミエルのように)傍観者でいることにうんざりしてしまったヴェンダースの、"ひとつのベルリン"(=祖国統一)に対する密かな願いと希望、そして"決断"して再び"広場"に集まろうという、ドイツのみならず、世界中のすべての人々に呼び掛ける(そう、"自由を求める限り、誰もがみなベルリン市民なのです" by J.F.K.)、一種の糾合の思いが込められていたのではないか...な~んて言ったら、いくらなんでも妄想(暴走)しすぎでしょうか(笑)。
"無数の人々が広場にいる。私たちと同じ願いの人々"――このセリフを耳にして、この映画の公開からほんの2年後の1989年、手に手に槌を持ったベルリン市民たちが続々と"広場"に集い、"ベルリンの壁"をぶち壊す様子を捉えた歴史的瞬間の映像が、もう否応なしに頭をよぎりました。"全知ではないから予感を味わえる" (by ダミエル)――果たして「ベルリン・天使の詩」を撮ったとき、ヴェンダースに祖国統一の予感はあったのでしょうか。そして当時、この映画を観た人々もまた、この映画にそんな予感を感じとったりしていたのでしょうか...
“子どもは子どもだったころ...”と誦していたのは誰なのか?
"子どもは子どもだったころ..."で始まる詩を語っているのはいったい誰なのか、いやそもそもこの詩は何なのか、観ている最中、気にかかって仕方がなかったのですが、最後の最後、それがどうやら、人間となったダミエルが誦していたものであったらしいことがわかります。
空を見上げることを忘れたオトナたち(元子ども)を哀れむような、あるいはことばを知らない子どもの思いを代弁するかのような詩を、なぜダミエルが口にしているのかといえば、それは元天使のピーター・フォークが俳優になったように、人間となったダミエルが詩人となったから――と言い切ろうと思っていたら、この映画の続編では、どうやらピザ屋のおやじになっているらしい。あれっ!?
そんなたわ言はさておいて、全知の時代に眺めたあれこれを懐かしみ、慈しんでいるかのようなその詩には、天上世界に二度と戻れないことを承知の上で地上に降りてきたダミエルの、しかしそれでも思いを馳せずにはいられない、かつて属していた世界への郷愁が滲んでいるようにも思えます。そう、ソビエトから西側に亡命する決意を秘めたアンドレイ・タルコフスキーが、二度と戻らないであろう故郷に思いを馳せながら、イタリアの地で「ノスタルジア」(1983)を撮ったように(なにせAndreiに捧げられた映画なのであり、そしてマリオンも劇中で、"ノスタルジア...愛の波のノスタルジア"などと呟いています)。そして付け加えれば、そんなノスタルジアには、久しくドイツを離れ海外で活動を続けていた、ヴェンダース自身の故国に対する思いも込められていたのかもしれません。
映画ならではのマジック――ものの見事にオーラを失ってみせるダミエル
最初に観たときは、もうすっかりモノクロ映画だとばかり思い込んでしまったせいで、サーカスの場面で一瞬、突然カラーになったときにはマジで意表を突かれました。そしてそのままカラーになるのかと思いきや、またすぐモノクロに戻ったり、さらにはまた突然、一瞬カラーになってみたりして、すっかり???だったのですが、要するに、天使の見ている世界がモノクロで、人間の見ている世界がカラーで表現されていたのですね。色のないモノクロの世界は、この作品のロジックの上では天上の単調さと味気なさを象徴しているものなのでしょうが、しかし単なるモノクロに収まらず、ときにセピアがかっていたり、あるいは青味がかっていたりと微妙に変化する色合いが美しく、私の目には、困ったことに色のついた世界よりも、よっぽど素晴らしいものに見えてしまいました(録画した映像の画質がしょぼかったせいでもあります、きっと)。
そしてそんな工夫もさることながら、より面白かったのは、天使から人間に生まれ変わったダミエルの、それは見事な変身ぶり。天使時代、黒のロング・コートに身を包み、髪をひっつめにしていた、シックでエレガントなダミエルは、人間になった途端、髪を解き、ダサいブルゾンに身を包んだ、帽子をとっかえひっかえしてはいちいち寸評を加えていたピーター・フォークのひそみに倣って言えば、"ポン引きにしか見えない帽子"を薄くなった頭に乗せた、どこにでもいる、ただのおじさんになってしまうのです。そう、"洗濯しても焦げ痕の消えないコート"を着た元天使の演じる刑事コロンボが、ただのおじさんにしかみえないように。
そんなダミエルを見て、ピーター・フォークが"なぜだかノッポだと思っていた"などと言いますが、その感想にはまったく肯いてしまいました。いったいどんなトリックを使ったのか、人間となったダミエルの背は明らかに縮んでしまったかのようで、その身にまとっていた天上人のオーラをきれいさっぱり、どこかへ洗い流してしまっているのです。
それにしても、ピーター・フォークが実は元天使だったというサプライズはホント、素晴らしい。ちょっとしたミステリのナゾが解き明かされる瞬間にも似たカタルシスがあって、そんな驚きとは無縁の映画だとすっかり思い込みながら観ていたぶん、なんだか余計に嬉しくなってしまいました。
なぜアメリカ人の探偵なのか?
エンドロールの献辞において、Yasujiro、Andreiと並び、もうひとり、この映画を捧げられた"かつては天使だった"映画監督、それがFrançois、フランソワ・トリュフォー。そんなトリュフォーに対するヴェンダースのリスペクトが、この作品のどこに見つかるかといえば、それは戦時下のベルリンでアメリカ人の探偵が活躍するという、ピーター・フォークでなくとも首を捻りたくなる設定の"映画"の撮影現場。
カシエルを乗せたタクシーが、ナチスの制服に身を包んだ将校たち(俳優たち)のたむろする撮影現場にすっと滑りこむ映像は、それまでフロント・ガラスに映し出されていた戦時下の記録映像のせいで、まるでタクシーが戦時中にタイム・スリップしてしまったかのような、一瞬の錯覚を誘います(錯覚したのは私だけ?)。そんな、戦争の時代と現在が地続きであると示唆するかのような面白味のあるトリック映像のために、"映画"のシチュエーションが戦時下でなければならなかったのは当然として、ではなぜそこに、不自然にもアメリカ人が登場しなくてはならなかったのかといえば、そう、それはこの映画の"映画内映画"の風景が、映画撮影の現場を描いたトリュフォーの映画、「映画に愛を込めて アメリカの夜」(1973)に対するオマージュだったからであり、そしてそれを仄めかすためのサインとして、どこかに"アメリカ"というキーワードが必要だったからなのです(...って、こじつけのクオリティがどんどん怪しくなっていく)。
テレビのインタビューを受けるため、現場を抜け出そうとするピーター・フォークに、"いいよ、君の出番は後に回す"と告げる、やたらと物分りのいい監督は、「アメリカの夜」に描かれた辛抱強い監督(=トリュフォー)の姿をまんま髣髴とさせるものであり、そしてもしかすると、そこには監督としてのヴェンダース自身の姿もまた、投影されていたのかもしれません。
英雄不在の叙事詩、「ベルリン・天使の詩」
さしずめことばの大聖堂といった趣きのある、吹き抜けのある、広大で素敵すぎる図書館に、まるで吸い寄せられるように集った天使たちがたむろする情景は、ヴェンダースの書物と図書館に対する無条件の愛情が伝わってきて、本好きとして共感を覚えてしまうというか、実に心が和むものです(そしてそれはまた同時に、「華氏451」(1966)で書物への愛情を語ったトリュフォーに対する、ささやかなオマージュでもあるのです...ってしつこいですね)。
そしてそんな図書館に現われる、ひとりの老人。ホメロスの生まれ変わりか、はたまたホメロスの生まれ変わりと信じこんでいる狂人か、彼は図書館を抜け出して、かつてポツダム広場だった荒地へと歩みながら、ホメロス気取りでこんなことを独白します。
"幾世紀をも往復するかつての大いなる物語は終わった。今は一日一日を思うのみ。誰一人平和の叙事詩をまだうまく物語れない。勇壮な戦士や王が主人公の物語ではなく、平和なもののみが主人公の物語...(ここでカシエルが耳打ち)...あきらめろだと?私があきらめたら人類は語り部を失うことになる。語り部を失うということは、人類は子供時代を失うということだ"
すべての登場人物に、ヴェンダースのDNAが少しずつ混じっているかのようにも思える「ベルリン・天使の詩」にあって、私にはこの老人こそが、(映画作家としての)ヴェンダースの思いをもっとも代弁していた人物であるように思えます。私には、老人の独白が、そっくりそのまま、英雄などどこにもいないことがわかってしまった戦争を経て、もはや新たな英雄譚を生み出すことができなくなった"混沌"の時代に、英雄不在の叙事詩という、いわばパラドキシカルにも思える物語を紡ぐ語り部を己が担うという(自分がやらなければ誰がやるのだという)、映画作家としての自負と矜持を滲ませた、ヴェンダース自身の密かな決意表明であるように思えるのです。そして、老人の耳元で諦めろと囁く(この映画で唯一ネガティブなことを囁く)カシエルもまた、その困難な試みを、果たして自分が成し遂げられるのかと自問自答する、ヴェンダース自身なのではないでしょうか。
「ベルリン・天使の詩」に描かれる、人々に寄り添う姿の見えない天使たちの佇まいは、「イリアス」や「オデュッセイア」に描かれた、英雄たちに寄り添う、姿の見えない古の神々の佇まいそのもののようでもあります。「ベルリン・天使の詩」という映画は、ヴェンダースの自問自答の実践――"平和なもののみ"を主人公にした、スペクタクル不在の叙事詩、ヴェンダースなりの「イリアス」だったのではないか、そして「パリ、テキサス」(1984)をはじめとする彼の一連のロード・ムービーは、ヴェンダースなりの「オデュッセイア」だったのではないか、そんな風に思えてきたりもするのです。
ベルリン・天使の詩 (独題: Der Himmel über Berlin)
制作国: 西ドイツ、フランス
公開: 1987年
監督: ヴィム・ヴェンダース
製作総指揮: イングリット・ヴィンディシュ
制作: ヴィム・ヴェンダース/アナトール・ドーマン
脚本: ヴィム・ヴェンダース/ペーター・ハントケ
出演: ブルーノ・ガンツ/ソルヴェーグ・ドマルタン/オットー・サンダー/クルト・ボイス/ピーター・フォーク
音楽: ユルゲン・クニーパー
撮影: アンリ・アルカン
編集: ペーター・プルツィゴッダ

ブログ・ランキングに参加しています。よろしければクリックをお願いします。
- http://cinema200.blog90.fc2.com/tb.php/110-d1c414d6
トラックバック
今月の「ブログDEロードショー」の映画です。選んで下さったのは「シネマ・イラストレイテッド」のmardigrasさんです。私、この映画はちょっと観たいなと思っていたのですが、後回 ...
映画鑑賞の記録 12月の「ブログ DE ロードショー」の感想 / 次回のお知らせ等
ということで、このリンク先のブログ・DE・ロードショーにお誘いいただいたのでいそいそと観て見た。
思えばこのような映画は基本的にあまり観ない。
っていうかシネフィル系はよほど?...
とくに、ダミエルが西ベルリンでマリオンが東ベルリンの象徴、祖国統一の願いが込められているというくだりは、自分では絶対に思い付かないことなので感心するばかりです。勉強になりました!
あと、わたしもモノクロやセピアのほうがカラーよりよく見えました。神秘的な感じです。恋に落ちた瞬間の演出も際立ちますしね。なぜかカラー化でふつうのおじさんになってしまうダミエルも親しみがわきます。
今回はこの作品を選んでくださってほんとうにありがとうございました。再見して自分なりに楽しめましたし、Mardigrasさんのレビューのおかげでまだまだ楽しめそうです。もし続編を観る機会があったら、その時はまたレビューしてほしいなぁ・・・なんて(図々しい!)
では、よい年末をお過ごしくださいね~!