さ、子どもは向こうへ行って。見世物じゃないから。

山田洋次監督、渥美清主演の人情喜劇、「男はつらいよ」シリーズの第十五作、「男はつらいよ 寅次郎相合い傘」(1975)。第十一作「男はつらいよ 寅次郎忘れな草」(1973)に続き、浅丘ルリ子演じる"放浪の歌姫"ことリリーが再登場する、いわゆる"リリー三部作"の第二作目にあたる作品です。
前作における寅さんとリリーの関係が、根無し草同士の共感に根差した人間的な連帯を強く感じさせるものだったのに対し、本作で再会を果たした二人の間には男女の機微が色濃く滲み、このシリーズには珍しい、艶やかでしっとりとした色恋の風情が立ち込めます。前作が寅さんとリリー"出会いの章"だったとすれば、こちらはいわば、まごうかたなき"恋の章"。充実しまくりのエピソードが数珠繋ぎとなった、監督もスタッフも役者も誰も彼もがノリにノリまくっていたに違いない、シリーズ全四十八作の中でもピークを極めたといっていい、(おそらく)寅さんファンの誰もが認める名作中の名作です。
"寅さんの夢"からしてひと味もふた味も違う気合のノリ
旅先でのうたた寝の最中、さくら(倍賞千恵子)や博(前田吟)をはじめ、懐かしい"とらや"の面々が登場する芝居仕立ての夢を見た寅さんが、ふと里心がついてふらりと柴又に帰ってくる(それもなぜか柴又駅ではなく江戸川方面から ※下記の地図参照)――というのは第九作「男はつらいよ 柴又慕情」(1972)以降、第三十七作「男はつらいよ 幸福の青い鳥」(1986)まで恒例となったシリーズお決まりのオープニングです。

毎度のことながら寅さんが"二枚目"に扮し、ちゃんちゃんばらばらの末に大団円で終わる、まるでわざわざたわいもなさを演出しているかのような、遊び心に溢れた三文芝居の夢の一幕は、グリコのおまけのようなちょっとしたお楽しみとともに、"よ、待ってました"的な、いかにもシリーズ物らしいお馴染み感と安心感を生み出す仕掛けとして凄い発明だったと思うのですが、しかし鑑賞が二度目、三度目ともなると、はなはだ失礼ながら、ついつい早送りしてしまいたくなるものだったりもします。
夢の登場人物は、とらやの面々に加え、第八作「男はつらいよ 寅次郎恋歌」(1971)に登場した旅芝居一座の座長(吉田義夫)がたいてい敵役を務めるものと決まっていて(第二十四作「男はつらいよ 寅次郎春の夢」(1979)まで続く)、またときには本編のゲストやマドンナが登場することもあったりするのですが(第三十作「男はつらいよ 花も嵐も寅次郎」(1982)の沢田研二、第二十七作「男はつらいよ 浪花の恋の寅次郎」(1981)の松坂慶子、それに第二十八作「男はつらいよ 寅次郎紙風船」(1981)の音無美紀子と岸本加世子に第三十三作「男はつらいよ 夜霧にむせぶ寅次郎」(1984)の中原理恵)、この第十五作と続く第十六作「男はつらいよ 葛飾立志篇」(1975)だけは特別も特別、なんと夢の寸劇のためだけに、ゲストが(しかも二人も)登場します。それが第十作「男はつらいよ 寅次郎夢枕」(1972)と第十四作「男はつらいよ 寅次郎子守唄」(1974)で、それぞれ寅さんの恋の敵役を演じた米倉斉加年と上條恒彦のご両人(ちなみに二人ともノン・クレジット)。本作では揃って海賊の子分に扮し、寅さん演じる親分の後姿を仰ぎ見つつ、「お姿はあのように荒々しくとも、心の優し~いお方よ」などと仰々しく呟く米倉子分の演技が何度観ても笑えるのですが、それにしてもいったいなぜ?と首を捻りたくなるほど無駄に贅沢なキャスティングなのであり、逆にいえば、そんなところに本作に対する山田監督の並々ならぬ意気込みを感じてしまったりもするのです。
* * *
はっと夢から醒めた寅さんが、ふとあたりを見回し、ヒロイックな夢と侘しい現実の落差に「なんだ夢か」と嘆息する場面のちょっとした哀感は、そのいかにも鄙びたロケーションとも相まって、いずれの作品をとっても実に味わい深いものがあります。本作では海賊船の船長になる夢を見ていた寅さんが目覚めると、そこは海賊モノを上映中のどこかの田舎の映画館だった――とまあ、まったく捻りのないシチュエーションだったりするのですが、しかし小屋を出がけに寅さんが満面の笑みで、「おばちゃん、面白かったよ。ありがとう」と、もぎりのおばさんに向かってロクに観もしなかった映画のお愛想を臆面もなく口にするその情景には、気安さだったり優しさだったりいい加減さだったり、寅さんという人物のひととなりがぎゅっと凝縮されているようにも感じられ、あまたの"寝起き"シーンの中でも一際コクの深さがあるように思います。
お馴染みのパターンを崩した「男はつらいよ 寅次郎相合い傘」
そして夢から醒めた後の展開はといえば、晴れ渡った青空のもと、江戸川べりを歩く寅さんのスラップスティックなコント(タイトルバック)に続き、久しぶりの"とらや"でもってひと騒動――と、これまた相場が決まっていて、このパターンはシリーズ三十数本を数えるあたりまで延々続くのですが、しかしその合間には、この鉄板ともいうべきお約束の崩された、冒頭で寅さんが柴又に戻ってこない作品がいくつか存在します。
それが第二十九作「男はつらいよ 寅次郎あじさいの恋」(1982)、第三十二作「男はつらいよ 口笛を吹く寅次郎」(1983)、そして本作「男はつらいよ 寅次郎相合い傘」と、リリーが三たびの登場を果たす第二十五作「男はつらいよ 寅次郎ハイビスカスの花」(1980)。果たして偶然なのか、いずれも寅さんに対してマドンナがその気になるというお話ばかりなのであり、要するに、そこにはお約束のパターンを崩してまで語りたい(崩さないと語れない)何かがあったということでしょう。どの作品も長寿シリーズのマンネリズムとは縁遠い、新鮮で濃密なドラマが展開する、キラ星のごとき傑作ばかりなのです。
でもってそんな寅さん不在の本作の冒頭で、代わって柴又に登場するのは誰あろう、ほかならぬマドンナのリリー。前作において、どこか憂いと翳りを感じさせた漆黒のロング・ヘアをばっさり切り落とし、しかし相変わらずのケバい化粧といかにも70年代なド派手なブラウス&パンツに身を包み、大きな目をキラキラと輝かせながら、実に二年振りでもって、"とらや"の店先に颯爽と姿を現すのです。
「結局堅気の商売には向かないのよ、あたしみたいな女は」
前作のラストで、まるで旅暮らしの孤独から逃げ出すかのごとく、突如結婚して寿司屋の女将に収まったリリーは、しかし本作の冒頭で、その結婚生活が早々に破局を迎えてしまったことを、「赤ちゃんまだですか?」などと笑顔で尋ねてくる"とらや"の面々に、淡々と報告します(冒頭のイラスト)。二の句が継げずに固まるさくらたちをよそに、しかし「おマンマ食べなきゃいけないしね。また昔みたいに下手な歌、歌って歩いてんの」と口にするリリーの顔には暗さや翳りが微塵もなく、むしろ結婚生活とその失敗を経て、ようやく自分が堅気の暮らしを送ることができない性分であることを悟ったとでも言いたげな、実にさばさばとした、そしていきいきとした笑みが浮かびます(あわれ毒蝮)。
その屈託のない表情は、こうと思い定めた人間の吹っ切れた強さを感じさせるものであり、本作のリリーは全編を通じ、いかにも己を知った人間らしく、その立ち居振る舞いに余裕と自信を漂わせています。たとえばドラマの中盤、リリーが寅さんに向かって切ってみせる啖呵。
「幸せにしてやる?大きなお世話だ。女が幸せになるには男の力を借りなきゃいけないとでも思ってンのかい?笑わせないでよ...アタシ今までに一度だってそんなふうに考えたことないネ。もしあんた方がそういうふうに思ってンだとしたら、それは男の思い上がりってモンだよ」
そこにはもはや、彼女にカネをせびる母親につらく当たっていた、あるいは泥酔した挙句に深夜の"とらや"で醜態を晒していた、前作のリリーの哀しくも甘ったれた(帰る場所のある寅さんに対する)嫉妬と(寄る辺のない己に対する)いじけた自己憐憫は影もかたちもありません。言うなれば、リリーは離婚を経てようやくその強気で粋な外面に内面が追いついたとでもいうか、掛け値なしに(前作の松村達雄演じるおいちゃん言うところの)"いい女"となって、寅さんの前に、そして観客の前に帰ってくるのですね。
「いいですねェ、鳥は。自由で」
前作「男はつらいよ 寅次郎忘れな草」が、旅暮らしの孤独とつらさを"旅人"目線で描いた作品だったとすれば、本作「男はつらいよ 寅次郎相合い傘」は、同じ旅暮らしの魅力的な一面を、自由に憧れる"堅気"の目線から描いた作品といっていいかもしれません。
本作にはリリーのほかにもう一人、その言動がなにかにつけてドラマを動かすきっかけとなる、まるで活性酵素のようなゲストが登場します。それが船越英二演じる"パパ"こと、ある朝ぷいと家を出たきり家族にも会社にも黙って行方をくらましてしまった絶賛蒸発中の中年エリート・サラリーマン、兵頭謙次郎。旅の途中、八戸駅の"ホームでぼけーっとした面をして突っ立ている"のを見かけた寅さんが、心配して声を掛けたらそのまま付いてきてしまったという、まるで人懐こい家出犬のような"パパ"は、いわば「男はつらいよ 寅次郎恋歌」で、「ああ、いいなぁ旅って。私も今すぐにでも行っちゃいたいわ。こんなお店も何もかもみんな捨てちゃって。ねぇ、寅さん」と旅暮らしへの憧れを口にしていたマドンナ、貴子(池内淳子)が本当に"何もかもみんな捨てちゃって"旅に出てしまったような人物であり、また同時に「男はつらいよ 寅次郎忘れな草」において、堅気の暮らしに対する憧れを闇雲に募らせていた、寅さんやリリーをそっくりそのまま裏返しにしたような人物でもあります。
「実際ボクはこの数日間、あなたと旅をしながら、人間の愛情というものが、本来どのように温かくて優しいものであるかということを...」
と寅さんに向かってくどくど語る"パパ"は、前作の寅さんがいきなり牧場で働き始めたように、またリリーがとつぜん結婚したように、何不自由なくとも無味乾燥で人間味の薄い毎日に嫌気が差し、衝動的に"自由を求めて旅に出た"...というわけですが、しかしながら、寅さんやリリーのまっとうな暮らしへの渇望が、(結果的に挫折するにしろ)その時ばかりは本気の本気だったのに対し、既に"自由"の身となって旅をしている最中にもかかわらず、青函連絡船のデッキでふわりとたゆたうカモメを眺めながら、「いいですねぇ、鳥は。自由で」などとなお羨ましそうに呟く彼の"自由を求める旅"は、いずれ元の生活に戻らなければ生きていけないことをわかった人間の一時の現実逃避――いわばミドル・エイジ(英二だけに)のモラトリアムに過ぎないものです。
そんな"パパ"が、函館の港を出航する小さな漁船を眺めながら、「長い航海に旅立つ父親。別れを惜しむ子どもたち。悲しみを胸に秘めて手を振る妻...みんなそうやって生きてるんだなぁ」とアンパンを齧りながらひとりごちる情景は、そっくりそのまま「男はつらいよ 寅次郎忘れな草」に描かれた、網走での寅さんとリリーが初めて出会った場面のリフレインといっていいものですが(→こちら)、とはいえそこに漁船を眺めながら自らを儚いあぶくに喩えていた寅さんとリリーの惨めで切羽詰った思いがあるはずもなく、"パパ"のセンチメンタルな物言いは、庶民の暮らしを見上げて羨んでいた寅さんたちとはまったく逆の角度からの、一見恵まれた暮らしの中でどこかに置き去りにしてきてしまった大切な何か――"人間の本当の幸福"にしみじみと思いを馳せる、いわば「男はつらいよ 寅次郎恋歌」に描かれた、博の父親(志村喬)の詠嘆("りんどうの話")に近いものだったりします(そしてそれは、自身は東大法学部卒のインテリでありながら、庶民の暮らしに深いシンパシーを寄せる作品を作り続けてきた、山田監督の目線の角度そのものといっていいのかもしれません)。
いずれにしても、"自由を求める旅"と言いながら、しかし家族や浮世のしがらみを捨てて人生を一からやり直すつもりのなかった"パパ"にとって、過去に置き去りにしてきた何かを取り戻すわけでなく、ただ置き去りにしてきたものが何だったのかを確認して終わるそのモラトリアムの旅は、短い"自由"の代償としては失うもののあまりに大きい、苦く切ない結末を迎えます(なにせ家や会社での居場所だけでなく、甘酸っぱい初恋の想い出すらも台無しにしてしまうのです)。とはいえ落ち込みながらも、旅から帰った"パパ"の顔つきに案外暗さがうかがえないのは、その飄々とした人柄もさることながら、何といってもひょんなことから道連れとなった"人間の愛情"溢れる寅さん、リリーとの束の間の道南ぶらり旅――彼らの自由気ままな"あぶく"暮らしへのほんの数日間の体験参加が、一生忘れられない、いわばその後の人生を生きるよすがともなるような("パパ"いわく「(定年になったら)寅さんのように思いっきりボクも旅に出ます」)、この上ない高揚感と自由(の幻想)の輝きに包まれたものだったからでしょう。
そしてそんな三人旅のつれづれは、まさしく映画を観ている私たち観客(=堅気の衆)が、単調だったりつらかったりの日々の暮らしの中でふと夢見ずにはいられない、貴子言うところの"ああいいなぁ旅って"という、理想の旅の情景そのものだったりするのです。
寅さんとリリー二度目の邂逅と"ロード・ムービー"としての「男はつらいよ」
これぞ続編の醍醐味、寅さんとリリーが二年ぶりの邂逅を果たす場面は、何度観てもウキウキしてしまいます。再会を喜ぶ寅さんとリリー二人の感激は、つまるところ、そのまま前作のドラマに心を残した私たち鑑賞者の感激でもあります。
「アンタ、あれから何してたのよ!?」
「オレか?...恋をしていたのよ」(ニヤリ)
函館の夜更け、屋台のラーメン屋でばったり顔をあわせた寅さんとリリーは、"パパ"を間に挟んで信じられないように見つめあい、そして一瞬後、嬌声をあげて手に手を取り合います。暖簾で封をされたかのような狭い屋台の密閉空間に、懐かしさが鉄砲水のように迸り、喜びが洪水のように溢れかえり、二年間の時間と距離が("パパ"一人分の隙間を残して)瞬時に収縮したかのごとく、二人は前作の仲睦まじさをあっという間に取り戻します。
そして時間にしてほんの15分、「だいぶ変わりモンだよ、オレたち常識人に比べると」の"パパ"を加えた男二人、女一人の函館から札幌、小樽へと続く二泊三日の旅の情景は、さだめし本作の二年後に作られた「幸福の黄色いハンカチ」(1977)の雛形と言って言えないこともないような、(女を訪ねる男に同道したカップルがその顛末を見届けるという)似た構図の、そしていかにもビバ!北海道な旅情に溢れたものです。
函館の安旅館で川の字になって過ごす夜、札幌へと向かう列車での会話、夕景の砂浜(塩谷海岸)で童心に返って戯れるひととき、駅舎(塩谷駅)のベンチで迎える朝、札幌大通公園でのイカサマ売、荷馬車の背に揺られる牧場の田舎道(ちなみにこのあたり、何度もクルマでウロウロしたことがありますが、こんな広々とした場所はありません)、そして「考えてみれば、ボクはこの町に来たくって旅に出たのかもしれない」という、小樽での"パパ"の初恋の女性(岩崎加根子)との三十年ぶりの再会と、小樽港での寅さんとリリー、突然の喧嘩別れ――とまあいずれも短い場面でありながら、そこに立ちのぼる旅愁の趣きと味わいは、さしずめ旅を通じてドラマが紡がれていく、"ロード・ムービー"のそれといっていいものです(この映画のロケ地を訪れてきました→「男はつらいよ 寅次郎相合い傘」を訪ねて)。
毎回どこかへ旅する"旅人"を主人公にした映画でありながら、しかし意外なことに、「男はつらいよ」シリーズにはロード・ムービーらしさを感じる作品がほとんどありません。それがなぜかといえば、寅さんの旅が"線"で描かれたものではなく、あくまで"点"と"点"(柴又と旅先)を飛び石のように繋げて描かれたものだから。いずれの作品も、旅愁たっぷりの映像がちらほら散りばめられてはいるものの、そのほとんどはドラマに叙情性を加味する点景以上のものではなく、旅そのものがドラマのダイナミズムを生み出すきっかけとなっているような(=旅そのものを通じて何かが生まれる、あるいは失われるような)作品は、全四十八作品中、せいぜい本作と第三十九作「男はつらいよ 寅次郎物語」(1987)、それに満男(吉岡秀隆)がバイクで佐賀へと旅する第四十二作「男はつらいよ ぼくの伯父さん」(1989)くらいのものでしょうか。
一見、"渡世人"を主人公に据えた"股旅モノ"か"道中記"のようにみえて、しかし毎回、寅さんが故郷へと舞い戻ってきてはひと騒動巻き起こす「男はつらいよ」シリーズの本質は、やはりあくまで葛飾柴又の草団子屋、"とらや"を舞台にしたシチュエーション・コメディなのですね。
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とまあそんなわけで、このシリーズには珍しい、"線"で描かれた北海道の旅のつれづれが前半だとすれば、後半はいよいよ舞台を柴又に移しての、これまたこのシリーズには珍しい、しっとりとしたオトナの情感が立ち込める、寅さん一世一代のラブ・ストーリー。
小樽で初恋の女性を訪ねた"パパ"の(リリーに言わせれば"男の思い上がり"が滲んだ)ひとことをめぐり、売り言葉に買い言葉、"とても口に出しては言えないような"ヒドいことを言い合った末に喧嘩別れした寅さんとリリーは、しかしその直後に柴又で再会すると、「すぐ喧嘩するけどすぐ仲直りするってのはホントに仲のいい証拠じゃないのか?そりゃあの二人の喧嘩は、夫婦喧嘩みたいなモンだよ」とのちに博が評するように、それこそあっという間に縒りを戻します。そしてここから、いよいよ全四十八作を通じてのハイライト中のハイライトといっていいような、それこそ神がかった名セリフと名場面の怒涛の釣瓶打ちが始まるのです。
「リリーさんに聞かせてあげたかったなぁ、今の話」-"寅のアリア"
夕餉の済んだ茶の間でもって寛ぐおいちゃん、おばちゃん、そしてさくらと博を前にした寅さんが、たとえば旅のつれづれに感銘を受けた出来事のあれこれを、誇張と都合のいいアレンジを交えつつ、臨場感と情感をもって話して聞かせるその一人語り――いわゆる"寅のアリア"とも呼ばれる語りの個人技は、渥美清の"ことばの魔術師"っぷり(by 井上ひさし)が最大限に発揮される、シリーズ恒例の大きな見せ場です。その一人噺はたいてい、しみじみとしたいい調子で始められ、しかしそのうち話の箍が外れ出し、やがてブレーキが壊れたように大暴走、話がとんでもないところへと転がっていき、そして最後はみんな呆れて鼻白む(ここでおいちゃんが「バカだねェ」と顔を顰める)――とまあ、あくまで喜劇的に締めくくられるものと相場が決まっているのですが、しかしこれまた、本作だけは別なのですね。
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「あんな店でリリーを歌わせちゃあいけないよ」
柴又へ帰って数日経ったある日、リリーを仕事先のキャバレーへ送っていった寅さんは、浮かない顔でとらやに戻ってくると、おいちゃん(下條正巳)やおばちゃん(三崎千恵子)たちにその店がいかにしょぼくれた店だったかを語って聞かせます。そして大きなため息をひとつ吐くと、「あ~あ、オレにふんだんに銭があったらなぁ」と呟き、「お金があったらどうするの」と尋ねるさくらに向かって、こんなことを語り出すのです。
「リリーの夢を叶えてやるのよ。たとえばどっか一流劇場...な。歌舞伎座とか、国際劇場とか。そんなところを一日中借り切ってよ。あいつに、好きなだけ歌を歌わせてやりてェのよ...
ベルが鳴る。場内がスーッと暗くなるな...『皆さま、大変長らくばお待たせをばいたしました!ただいまより、歌姫、リリー松岡ショーの開幕ではあります!』
静かに緞帳が上がるよ。スポットライトがパーッと当たってね。そこにまっちろけなドレスを着たリリーがすっと立ってる...こりゃあいい女だよ、え?それでなくたってほら、様子がいいしさ、目だってぱちーってしてるから、派手るんですよ。ね...
客席はざわざわざわざわってしてさ...『キレイねェ』 『いい女だなァ』...『あッ、リリー!待ってました!日本一!!』
やがてリリーの歌が始まる...♪ひ~と~り~酒場で~飲~む~酒は~...ってねぇ。客席はシーンと水を打ったようだよ。みんな聴き入ってるからなぁ。お客は泣いてますよ。リリーの歌は哀しいモンねェ。
やがて歌が終わる。花束!テープ!紙ふぶき!ワーッと割れるような拍手喝采だよ...アイツはきっと泣くな。あの大きな目に、涙がいっぱい溜まってよ...いくら気の強いアイツだって、きっと泣くよ...」
...とまあ、いざこうして文字にしてみると、シリーズ最高の名セリフとも言われるその一人語りの内容が、(日本語としての面白味はあるにせよ)とりたててどうってことない、思いのほか平凡なものであることに驚きます。ところがこれがひとたび身振り手振りを交えた渥美清の朗々たる声音と緩急自在の抑揚、そして間でもって語られるとなると、それこそ檜舞台に立ったリリーの姿がまざまざと浮かんできて、そのひとことひとことに、おばちゃんでなくとももらい泣きしたくなるような、実に実に深い叙情が宿ります。
そして"男"だから"女"だからの愛を超えた、リリーというひとりの"人間"の幸せを願う寅さんの優しさと思いやり――前作のさくらが言うところの「お兄ちゃんはさあ、カラーテレビもステレオも持ってないけど、その代わり誰にもない、素晴らしいものを持ってるものね...つまり愛よ。人を愛する気持ち」がしみじみと沁みてきて、何度観ても、胸がじーんと熱くなってしまうのですね。
「もう!メロンなんか貰うんじゃなかったよ!(泣)」―"メロン騒動"
そんな感動の一幕に続き、今度は"とらや"を訪ねてきた"パパ"が携えてきた高級メロンをめぐり、実にガキっぽい、しかしいかにも"とらや"らしい一大騒動が持ち上がります。それがかの有名な、"メロン騒動"(メロンがとびきりありがたかった時代、確かにありましたね)。
寅さんの外出中、リリーも含めた"とらや"のみんなでメロンを食べようとしていたその矢先、ちょうど寅さんが帰ってきます。ところが、うっかり寅さんを勘定に入れ忘れていたことに気がついた一同は真っ青、「お兄ちゃん、これ一口しか食べてないから」とか「あ、ボクのをどうぞ」などと食べかけのメロンを寅さんの前に次々と差し出します。
「...わけを聞こうじゃねェかよ」
すっかり機嫌を損ねた寅さんは、ここで今度は"寅のアリア"の爆笑版ともいうべき、機関銃のような減らず口を披露します。
「...このメロンは誰んとこに来たモンだと思うんだ。旅先ではひとかたならないお世話になりましたと、あのパパがオレのところに寄越したメロンなんだぞ!本来ならばこのオレがだ、『さあ、みんな。そろそろ食べごろだろう。おいしくいただこうじゃないか』 『あら寅ちゃん、すまないわねぇ。あたしたちもご相伴にあずかっていいの?』 『もちろんだとも』 『すいませんねぇ兄さん。それじゃあいただきます』...こうやってみんながオレに感謝をしていただくもんなんだろ。それがなんだい!オレに断りもなしに。『アイツのいないうちに、みんなで食っちゃお食っちゃお食っちゃお。どうせアイツなんかメロンの味なンかわかりゃしないんだ。ナスのふたつもあてがっときゃいい。そうしようそうしよう』...みんなでもって食おうと思ったとこオレがパタパタって帰ってきたんで、テメエら大慌てに慌てたろ!なんだお前、テメエ皿この下に隠したな、今出したろ、そっから!」
...といった調子でくどくどと嫌味を言い続けるのですが、そのいつ止むともしれないしつこさにいい加減、場の雰囲気が悪くなったところで「寅さん、あんたちょっと大人気ないわよ」と口を挟んだのがリリー。そして「おまえ、いったい何が言いたいんだよ」と気色ばむ寅さんに向かって、リリーは急所をぐさりと抉るような、強烈なひとことを浴びせるのです。
「じゃあ言うけどねェ、冗談じゃないってンだよ。オレのことを勘定に入れなかったの、心が冷てえだの、そんな文句を言える筋合いかい?ろくでなしのアンタを、こんなに大事にしてくれる家がどこにあるかってンだ。私、羨ましくて涙が出ちゃうよ。本来ならね、いつもご心配お掛けしております、どうぞメロンをお召し上がりください、私はいりませんから私の分もどうぞ、とこういうのがホントだろ!甘ったれるのもいい加減にしやがれってンだ!」
どうです、この遠慮会釈のない舌鋒。"寅のアリア"がリリーを想う寅さんの真心だったとすれば、"メロン論争"の説教もまた、寅さんを想うリリーの衷心が言わせたものでしょう。それは寅さんと似た境遇にありながら、しかし寅さんと違って帰る家を持たないリリーだからこその厳しくも思いやりのこもった(そして"とらや"に対する素直な憧れを滲ませた)一喝なのであり、「寅さんにはこんないい家があるんだもんね。あたしと違うもんね」と泥酔してくだを巻いていた前作のリリーの悲しい嫉妬とは似て非なる、いわばそんな弱さとはまったく逆の、今や自己憐憫とはすっぱり縁を切った、生まれ変わったリリーの凛とした強さが言わせたひとことです。そして言うまでもなく、寅さんにそんなことを言ってくれる(=そこまで寅さんのことを思ってくれる、そしてそこまで深い仲となった)マドンナは、後にも先にもリリーたったひとりきりなのですね。
「風邪ひいて悪ィかい」―寅さんとリリーの"相合い傘"
メロンをめぐる言い争いの末、見事リリーに言い負かされてしまった寅さんは、悔しさのあまり飛び出してしまいますが、しかし日暮れどきになってぽつぽつ雨が降り出すと、何食わぬ顔で"とらや"へと戻ってきます。そして番傘を手にすると、すっかり強くなった雨の中、背中を丸めて柴又駅へ...そう、仕事帰りのリリーを迎えに行ったのです。やがて夜の帳が降りた頃、改札から出てきたリリーが雨に顔を顰め、ふと煙草屋の軒先に目をやると、そこには背中を向けた寅さんの姿。彼女はぱっと顔を綻ばせ、嬌声をあげながら寅さんに駆け寄ります。
「迎えにきてくれたの?」
「馬鹿ヤロウ、散歩だよ」
「フフフ、雨の中傘差して散歩してんの?」
「悪いかい」
「濡れるじゃない」
「濡れて悪いかよ」
「風邪ひくじゃない?」
「風邪ひいて悪ィかい」
「...だって、寅さんが風邪ひいて寝込んだら、私つまんないもン」
リリーはそう言うと、しゃっちょこばった寅さんにぴたりと寄り添い、傘を握るその手にそっと自分の手を重ねます。こうして二人はひとつ傘の下、雨のそぼ降る帝釈天の参道を"とらや"へと帰っていくのです。
* * *
「男はつらいよ」シリーズは、いずれの作品をとってみても、おおよそ登場人物の目線の高さで撮影された、カメラの存在をあまり意識させない、いかにも自然な絵作りのなされた映画です。むろん、そのさりげなさや自然さが、巧妙な演出やカメラワークによって生み出されたものであることは言うまでもないにしろ(たとえば横長の画面と奥行きをフルに活かし、"とらや"にリアルな生活の息吹を感じさせる演出や構図はホント素晴らしい)、これ見よがしの技巧を感じさせる、いわゆるスタイリッシュな映像はほとんど記憶にありません。それだけに、家並みの軒に細長く切り取られた参道を、丸い"相合い傘"がゆっくりと滑るように進んでいく様子を俯瞰で捉えたこの場面のケレン味は、一際強く印象に残るものです。
その絵面だけをとってみれば、山田監督の敬愛する山中貞雄の遺作、「人情紙風船」(1937)のラストに描かれた、細長い用水を丸い紙風船がゆっくりと流されていく場面を連想させるところがあったりもして、これぞ日本的情緒の極みとでも言いたくなる、実に繊細でしっとりとした風情が漂います。函館の屋台の再会の場面と同様、意図的にフレーミングされた狭苦しく閉鎖的な空間が寅さんとリリーの親密さを強調し(しかも屋台のときと違って二人の間にはもはや誰もいない)、そして"とらや"と大書された番傘が風に煽られてくるりと一回転するさまは、(そもそも二人で握った傘が回るはずがないゆえに、)いかにも二人の心と心の歯車がカチリと噛み合って動き出したもののようだったりします。
「天に軌道のある如く人それぞれに運命というものをもっております...」というのはインチキくさい易断本を売る際の寅さんお得意の口上ですが、前作から喧嘩と仲直り(=離れては近づいて)を繰り返してきた寅さんとリリーの"男女の軌道"は、こうしてついに、ぴたりと重なり合ったかのように思えるのです。
離れては近づき、そしてまた離れていく寅さんとリリーの軌道
そしてそんな恋の行き着く先をはっきりさせたくて、本人たちよりも先に痺れを切らしてしまったのが、妹のさくら。兄を想う気持ちが先走ったのか、彼女は博に反対されたにもかかわらず、ある日、とらやの面々のいる前で、リリーに向かっておそるおそる、何度も冗談だと念を押しながら、リリーが兄と結婚してくれたらという、"夢のような"思いを伝えます。一笑に付されることを覚悟していたさくらですが、しかしリリーは目を伏せてしばらく黙り込むと、やがて少女のようなはにかみを浮かべながら、おずおずとした小声で、こんな返事をするのです。
「いいわよ...私みたいな女で...よかったら」
あまりの驚きに声を失い、一瞬後、我に返って大喜びするさくらと博、そしておいちゃんとおばちゃん。そしてそこへ、何も知らない寅さんが外から上機嫌で帰ってきます。そんな寅さんにさくらが駆け寄り、息せききってリリーの返事を伝えます。
「お兄ちゃん、大変よ...リリーさんがね、お兄ちゃんと結婚してもいいって言ってくれたのよ!よかったわねえ!」
思いつめた顔のリリーは、俯いたまま寅さんと目を合わそうとせず、膝を抱えて座敷に座ったままです。突然のことに戸惑いを隠せない寅さんは、そんなリリーの様子と興奮したさくらをかわるがわる眺めながら、半信半疑の様子でこんなことを口にします。
「何言ってンだお前、真面目な顔して。ええ?あんちゃんのことからかおうってのか...おい、リリー。お前も悪い冗談やめろよ、え?まわりはほら素人だから。え?みんな真に受けちゃってるじゃねェかよ」
そしてリリーを呼び寄せると、小さな目を泳がせながら、うろたえた気味の小声で尋ねるのです。
「...お前、ホントに、冗談なんだろ?...え?」
息を詰め、寅さんの様子を見つめていたリリーは、ほんの(ホントにほんの)一瞬、その大きな目に諦めとも幻滅ともとれるような悲しみの感情を微かに滲ませます(僅か数ミリの眼球の動きに複雑な思い込めた、この場面の渥美清と浅岡ルリ子の演技はホントに素晴らしい)。そしてその直後、まるで呪縛が解けたかのように、あるいは夢から醒めたかのように、リリーの顔にみるみる生気が戻り、いかにも彼女らしい、さばさばとした笑みを浮かべてこう言うのです。
「そ、冗談に決まってるじゃない」
そして突然、寅さんたちに別れを告げると、足早に"とらや"を去っていきます。リリーのあとを追いかけて行くべきだというさくらと博(なしにしろ二人は第一作「男はつらいよ」(1969)で、郷里に帰ろうとする博をさくらが追いかけていったからこそ結ばれたという過去を持っている)を無視し、寅さんは黙って二階へと上がっていきます。諦めきれないさくらもまた、寅さんのあとを追って二階へ。外はいつの間にやら雷鳴が轟き、夕立が降り始めています。寅さんは、薄暗い部屋に座って窓の外を眺めています。その背中に向かってさくらが泣きそうな表情で尋ねます。
「どうしたの?どうして追いかけて行かないの?お兄ちゃんは、お兄ちゃんはリリーさんのことが好きなんでしょう?」
寅さんは身じろぎもせず、いくぶん自嘲的に、そして諭すような調子でこんな返事をします。
「もうよせよ、さくら...アイツは、頭のいい、気性の強いしっかりした女なんだ。オレみてえなバカとくっついて、幸せになれるわけがねェだろ...アイツもオレとおんなじ渡り鳥よ。腹、空かせてさ。羽、怪我してさ。しばらくこの家に休んだまでのことだ。いずれまた、パーッと羽ばたいてあの青い空へ...な、さくら。そういうことだろう?」
シネスコサイズの画面の右半分を潰したふすま越しの映像が、部屋の狭さと薄暗さを際立たせ、兄を想うさくらの悲しみ、そして妹の期待に応えられない寅さんの哀しみを、よりいっそう募らせます。
第八作以降、"堅気"の女性に性懲りもなく惚れる寅さんは恋に恋しているだけなのであり、いかな女性にめぐりあおうとも、いずれ女性がその気になったらおしまいという、哀しくもある意味、非常に罪作りな男っぷりを発揮する...というのは前回の記事に書いたことですが、しかし"堅気"の女性は無理でも同じ世界の住人であるリリーとなら...とさくらや博(そして私たち)が胸に思い描いた夢はあくまで夢に終わり、ついにひとつになるかと思えた寅さんとリリーの軌道は、こうしてまたも右へ左へと別れていきます(そしてそれは、寅さんの生涯一独身が確定した瞬間といっていいかもしれません)。
* * *
「寅さんは詩人ですねェ」
盛夏になって再び"とらや"を訪れた"パパ"が、寅さんがさくらに語った科白を聞いて、そんな感想を漏らします。それは"パパ"の言うとおり、確かに詩的でありながら、しかし同時に、こわいほど冷静な自己分析(そしてリリーという人間に対する理解)に基づいた、実にプラグマティックなセリフだったりもします。"バカ"どころか心の奥深くでは己のことをよくわかっているようにも思える寅さんは、要するに、結婚してもいいと言ったリリーの発言が、しばらく馴染んだ"とらや"の温かさと心地よさにあてられた、一時の気の迷いに過ぎないものであることを、ずばり指摘しているのですね。
二人が定住できるはずもなく、かといって、まったく別々のルートを辿る二羽の渡り鳥が共同生活を営むことなどありえないとすれば、寅さんの認識はまことにもっともである一方で、しかし「オレみてえなバカとくっついて、幸せになれるわけがねェだろ...」というそのひとことには、「女の幸せは男次第だって言うんじゃねェのか?」と小樽で口にしていた、寅さんという男の根っこにある価値観――リリーに言わせれば"男の思い上がり"が滲んだものだったりもします。そしてリリーが見せた諦めとも悲しみともつかないほんの一瞬の表情は、そんな寅さんの言外の心のうちを正確に読み取ったがゆえのものだったように思えるのです。
「無理やり結婚の話を持ち出したことで、かえって二人の仲を裂いたような気がして...」
さくらが"パパ"に言うとおり、確かにさくらのお節介がなければ、二人の楽しい日々は、いい年した"堅気"のオトナなら当然あるべき(とさくらたちが考える)ケジメ(=結婚)とは無縁のまま、さらにだらだらと続いたことでしょうが(そしてドラマも終わりようがなかったことでしょうが)、しかし女に尽くすことを男の本分と考える寅さんと、男に尽くされることなど真っ平御免なリリーの"男と女の軌道"は、いずれにしても最後の数ミリを残したまま、永遠に交わりようがなかったようにも思えます。
とはいえ、それでももし二人が所帯を持っていたら、いったいどうなっていたのか――そんな「そいじゃあ、お兄ちゃんとリリーさんが結婚したら、どうなると思う?」(by さくら)な、さくらでなくとも諦めきれない夢の続きをシミュレートしてくれた作品が、ほかでもない"リリー三部作"の掉尾を飾る第二十五作、「男はつらいよ 寅次郎ハイビスカスの花」。これまた"忘れな草"や"相合い傘"に引けをとらない大傑作なのですが、その感想はいずれまた、稿を改めて。
男はつらいよ 寅次郎相合い傘 (英題: Tora-san's Rise and Fall)
公開: 1975年
監督: 山田洋次
製作: 島津清
脚本: 山田洋次、朝間義隆
出演: 渥美清/浅丘ルリ子/船越英二/倍賞千恵子/前田吟/下條正巳/三崎千恵子/太宰久雄/笠智衆/佐藤蛾次郎/中村はやと/岩崎加根子/久里千春 /早乙女愛/吉田義夫/米倉斉加年/上條恒彦
音楽: 山本直純
撮影: 高羽哲夫
美術: 佐藤公信
編集: 石井巌
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管理人: mardigras

実はMardiさんとこまだ宣伝ブログになったままかしらと想いながら寄ってみたらなんと千恵子さんとルリ子さんがパッと出てきておもわずヤッター!って小躍りでした・・・
確かにこの回で寅さんの生涯独身、身を固めないという人生が決まったような気がします。チャンスを逃した、いや機会を逸した、まぁ~それも含めて寅さんの寅さんらしい人物像が確立したような気がします。
最近映画のことを忘れたかのようなヘルのブロ愚と比べてこんな風に映画をとりあげるMardiさんがこのブログ世界に存在することはヘルには大きな喜びのようです。
映画冒頭の夢の劇場場面特集版とかあると面白いな~と渥美清さんが本当に生き返るような気がしています・・・