テメエたち、デキてやがるなこの野郎!

山田洋次監督、渥美清主演の人情喜劇、「男はつらいよ」シリーズの第二十五作、「男はつらいよ 寅次郎ハイビスカスの花」(1980)。第十一作「男はつらいよ 寅次郎忘れな草」(1971)、第十五作「男はつらいよ 寅次郎相合い傘」(1975)に続き、浅丘ルリ子演じるドサまわりのクラブ歌手、放浪の歌姫ことリリーが三たび登場する、いわゆる"リリー三部作"の掉尾を飾る作品です。
北海道の網走で初めて出逢い、そしてその二年後、函館でばったり邂逅した寅さんとリリーは、それからさらに五年の歳月を経て、前二作とはまったく異なる景色の広がる南国沖縄で、今度ばかりは偶然ではない、三度目の再会を果たします。"忘れな草"が出会いの章、"相合い傘"が恋の章ならば、さしずめ"ハイビスカスの花"は輪廻の章。出会いと別れを繰り返してきた二人の恋の軌跡が無限のループに昇華する、いっそ「男はつらいよ」はここで完結すべきだったと言いたくなるような、シリーズ最高(幸)のカタルシスでもって締めくくられる一篇です。
かくて寅さんとリリーの恋は甦る
女に尽くすことが男の本分と考える寅さんと、男に尽くされることなど真っ平御免のリリー。あるいは女を幸せにする自信のない寅さんと、男に幸せにしてもらおうなどとはこれっぽっちも思っていないリリー。
前作「男はつらいよ 寅次郎相合い傘」に描かれたのは、同じ渡り鳥、似たもの者同士のこの二人なら...とさくら(倍賞千恵子)をはじめ誰もがその恋の成就を願わずにはいられなかった寅さんとリリーの間にぼっかり口を開けていた、渡れそうで渡れない男女の溝でした。さすがに二人の恋物語もこれにておしまい...にも思えた、そんな互いに譲るに譲れぬ価値観の違いに根差した狭くも深い亀裂に、ところが本作では、実に説得力のある(しかしいずれは崩れ去る運命にある)、一本の見事な恋の橋が架けられます。それが、東京から遠く離れた沖縄の地で、寄る辺のないリリーが病に倒れる――という設定。
それはいかにも旅暮らしにありそうな、そしてほとんど栄養失調なんじゃないかという浅丘ルリ子の見た目を活かした設定なのであり(映画の冒頭、博(前田吟)が小岩で見かけるライン出まくりのドレスに身を包んだリリーは病的なほどにスレンダー)、いかに男に頼ることを潔しとしないリリーでも、しかし見知らぬ土地にひとりぼっちで重篤ともなれば気弱にもなる...というわけで、彼女は"死ぬ前に一目でいいから寅さんに会いたい"という手紙を送り、そしてそれを読んだ寅さんは、それこそ本懐ともいうべき騎士道精神を発揮して、一路、沖縄へと馳けつけるのです。
寝床のリリーは三たび微笑む
"とらや"の二階で布団にくるまったリリーが、階下から響いてくる寅さんの話し声――リリーに聞こえているとも知らずに口にする、彼女に対する思いやりと気遣いのこもったことばを耳にして、ひとり天井を眺めながら嬉しそうににっこり微笑む、というのは前作、前々作に共通して描かれていた、孤独なリリーの束の間のしあわせとやすらぎを見事に可視化した名場面でした。
そんなきめ細やかな情感を湛えた寝床のリリーの演出は、「男はつらいよ 寅次郎ハイビスカスの花」においても繰り返されます。ただし、本作でリリーが寝ているのは、タコ社長の工場が見えるとらやの二階ではなく、真っ赤に咲き誇るハイビスカスの花が窓辺にのぞく、南国沖縄の病院のベッドの上。TPOをわきまえない土間声を張り上げ、「あっ、看護婦さん!すみません、松岡リリーはまだ生きてますか!?」と切羽詰った様子で自分を探しまわる寅さんの声を耳にして、生気のない顔色をしたリリーはハッと目を見開き、わなわなと口を震わせます。そして息せききって姿を現した寅さんが、同室のお婆さんを自分と見間違えて嘆き悲しむバカな一幕を、一言も発することなく、涙まじりの微笑を浮かべ、じっと見つめ続けるのです。
「...お前の手紙見て、オレ、すぐ飛んできたんだけどね。なにしろお前、遠いからな。時間がかかっちゃって、遅くなったけど、勘弁してくれな...よしよし、寂しかったんだろ、ひとりぼっちでな。もうオレがついてるから大丈夫だ。え?泣くな。泣くんじゃないよ。みっともないから...」(と言いつつも自ら涙ぐんでしまう寅さん)
言葉少なにただただ寅さんの手をぎゅっと握り締めるリリーに、寅さんがほとんど一方的にしゃべりかけるその再会の一幕は、「男はつらいよ 寅次郎相合い傘」に描かれた、函館の屋台での陽気で騒がしい邂逅の情景とは趣きのまったく異なる、静かな、言葉にならないリリーの感動がしみじみと伝わってくるものです。その味わいに違いはあれど、再会を果たした二人の感激は、前作同様、二人のドラマに続きのあったことを喜ぶ私たちの感激そのものなのですね。
病室風景の違いにみる作品世界の変化
どこかおおらかでのんびりとした空気に包まれた南国の病院風景は、やたらと騒がしい見舞い客の寅さんに対して大いに寛容的です。病室のベッドにどかりと腰を下ろし、ほかの入院患者や見舞い客を周りに集めて笑い転げさせる寅さんを、医者(津嘉山正種)も看護婦も咎めだてすることなく笑顔で眺めていたりして、それは第二作「続・男はつらいよ」(1969)に描かれていた、食あたりで入院した寅さんの病室での非常識な馬鹿騒ぎに患者が苦情を申し立て、医者と看護婦が目くじらを立てる、当たり前といえば当たり前の病院風景とは似ても似つかない情景です。
「続・男はつらいよ」で、おとなしくするよう注意する看護婦に向かって、「そうかそうか、オレの子供産みたいか、よし待ってろ待ってろ、産ませてやるから!」などとやくざな返事をしていた寅さんのやさぐれっぷりも酷いものでしたが、いっこうに言うことを聞こうとしない寅さんを、「ボクが医者じゃなかったらオモテへ出ろと言いたいところだ」と底光りのする目つきで睨みつけていた山崎努演じる医者の態度もまた、社会の厄介者に向けられた世間(特に知識階級やエスタブリッシュメント)の目線を象徴する、いかにも冷ややかで露骨な蔑みに満ちたものでした。しかしながら第二作から二十数作を経て、寅さんからやくざっ気がすっかり抜け落ちたのもさることながら、一方の世間の寅さんに対する視線もまた、ずいぶんと柔らかくなったものです。
第八作「男はつらいよ 寅次郎恋歌」(1971)の記事にも書いたことですが、寅さんの流儀と世間は回を追うごとに歩み寄りはじめ、たとえば警察も医者もインテリもエリートも、いつしか誰しもが寅さんのペースに巻き込まれる予定調和的な存在となっていきます。そんな彼らの現実的にはありえない振る舞い(=寅さんに対するリアクション)が笑いの要素となって、それはそれで面白かったりもするのですが、しかしその緩い笑いは、さび抜きの握りか、はたまたアルコール・フリーのビールのようなもので、中期以降の「男はつらいよ」は、ひりひりしたところのほとんどない、ひたすら安心して眺めていられる健全な世界となっていきます(やがて第四十二作「男はつらいよ ぼくの伯父さん」(1989)から満男(吉岡秀隆)が実質的な主人公となるにつれ、またちょっと違うかたちでひやひやしてしまうような空気が復活する)。
寅さんが社会の厄介者ではなく、逆に"寅さんであること"がすべての免罪符となっていく作品世界の変化の潮目がどこにあったのか――というのはちょっとわかりづらいのですが、振り返ってみると、少なくともエリート・サラリーマン(船越英二)に「ボクは寅さんがうらやましい」と言わせた第十五作「男はつらいよ 寅次郎相合い傘」(1975)、そして大学教授(小林圭樹)に「キミはボクの師だよ!」と言わせた第十六作「男はつらいよ 葛飾立志篇」(1975)あたりが後戻りのできなくなる決定的なきっかけだったように思えます。いずれの作品も、エリートやインテリ(社会的勝者)と寅さん(社会的敗者)の立場の逆転が、痛快なおかしみの源泉ともなっている作品ですが、しかしそんな傑作を産み出したことと引き換えに、「男がつらいよ」の世界は、アウトローの悲哀という隠し味――なんだかんだいって衣食住に困ることのないファンタジックな寅さんが身にまとっていた、唯一にして最後のリアリズムを永遠に失ってしまったように思えるのです。
たとえば第十八作「男はつらいよ 寅次郎純情詩集」(1976)において、旅先の温泉地で無銭飲食で捕まった寅さんは、警察署の署員たちに寅さん寅さんと慕われて、まるで旅館に宿泊するかのように居心地よく留置場で一晩を過ごし、そして第二十六作「男はつらいよ 寅次郎かもめ歌」(1980)では、生徒たちのみならず教師(松村達雄)公認のてんぷら学生として、定時制高校の授業に我が物顔でもぐりこんだりもします。このあたりになると、そのなんでもかんでもの受け入れられっぷりに、正直、興醒めして(というか気恥ずかしくなって)しまったりするのですが、しかしそんなリアリズムの角を取っ払ったからこそ、「男はつらいよ」は間口の広い国民的映画として、ここまでの長寿シリーズになりえた――のかもしれません。
寅さんとリリーの結婚シミュレーション
前作の終盤、仲睦まじい寅さんとリリーの様子を見たさくらが、博に向かって「お兄ちゃんとリリーさんが結婚したら、どうなると思う?」なんてことを口にします。その後、さくらの勇み足ともいえるお節介もあって、寅さんとリリーはあっけなく別れてしまうわけですが、しかし兄の幸せを願うさくらのそんな切実な夢は、本作において、"同棲"というシミュレーションのかたちをとって実現します。
寅さんの献身的な看病の甲斐もあり、しばらくして退院を許されたリリーは、療養のため、本部(もとぶ)の海辺の家に間借りして、寅さんと一緒に暮し始めます。商売から帰ってくる寅さんを、夕暮れ時の庭先でいまかいまかと待ちわびるリリー。二人差し向かいの夕餉の膳で泡盛を呑みすぎて、下宿先のおばさんが奏でる三線の音色に耳を傾けながら、リリーの横に腕枕で寝っ転がる寅さん。そんな二人の平和で微笑ましく、どこかママゴトめいた(なんといっても二人の閨は別々なのです、もちろん)同棲生活は、しかし長くは続きません。
「さっき御飯を作ってたら富子ちゃん(下宿先の娘)が来てね、アタシに訊きたいことがあるって言うの。私と寅さんは夫婦か、って訊くの」
「(うろたえながら)それでオマエ、なんて言ったの」
「まだ式は挙げてないよって、そう答えた」
自分のために沖縄まで駆けつけてきてくれた"命の恩人"の寅さんに、リリーは前作にも増して本気の恋心を募らせます。しかし、そんなリリーが二人の仲に白黒つけようと、遠回しに愛を告白すればするほど寅さんの腰は引け、そしてリリーの身体が快復すればするほど、寅さんのリリーに対する集中力は失われていきます。
暑気払いに出かけた水族館で働く若い女性に惹かれた寅さんは、やがて商売もリリーもそっちのけで、彼女の尻をふらふらと追いかけはじめます。何かと言い繕ってはせっせと水族館に通い続ける寅さんと、なけなしの貯金も底を尽き、基地周辺のキャバレーを回って仕事探しを始めるリリー。初々しい新婚夫婦のようだった二人の暮らしは、いつの間にやらぐうたら亭主としっかり者の女房、というよりヒモとオンナのそれのようになっていきます。そしてそれは、もし二人が本当に結婚していたらおそらくこうなっていたんじゃないか...という辛気臭い情景だったりもします。
そんな二人のありさまを見るに見かねた下宿先の生真面目な倅、高志(江藤潤)は、リリーに対する仄かな思慕も手伝って、ある日、彼女に向かってこんなことを口にします。
「あのう、こんなこと言って怒らんで下さい。あの人、なんかリリーさんには相応しくないような気がするんです。リリーさんには、もっと頼りがいのある人が...」
そんな高志のキツイひとことは、実は、当の寅さん自身がいちばんよくわかっていることだったりします。なぜなら前作の終盤、さくらに向かって「アイツは、頭のいい、気性の強いしっかりした女なんだ。オレみてえなバカとくっついて、幸せになれるわけがねェだろ...」と自嘲していた寅さんは、病気のリリーの力になってやることはできても、ひとたび病が癒えれば自分がリリーを幸せにできるような男ではないことを、心の底で自覚しているはずだからです。そして実際、病気のリリーにとってあれだけ頼り甲斐のあった寅さんは、彼女が元気になるにつれ、途端に「男なんて、何考えてるンだろうねェ」という、集中力のない、いい加減で無責任な"バカ"になってしてしまうのです。
騎士道精神に溢れた寅さんの庇護者願望
朝から晩まで病院に通い詰め、"雨の日も風の日も"病床のリリーを甲斐甲斐しく世話して過ごしたひとときは、もしかすると寅さんにとって、シリーズ全作を通じてもっとも幸せな時間だったのかもしれません。なぜなら(物質的、経済的なものではなく)精神的な支えを何よりも必要とする、生きる気力をなくして"死ぬ覚悟"までしていたリリーは、騎士道精神に溢れた、しかし文無しの寅さんにとって、男としてのエゴと矜持を満足させてくれる、ある意味理想的といってもいい、尽くし甲斐、守り甲斐のある存在だったからです。
美人とみれば誰彼かまわず惚れてしまう寅さんにも好みのタイプがあって、それはずばり、どこか不幸で可哀想なところのある女性。そんな女性に対する過剰な同情が、寅さんの(お門違いの)無法松的恋心をいっそう焚きつける(しかしたいていは、相手が寅さんの考えるほど弱くもなくて空回り)、というのがシリーズの典型的なパターンですが、必ずしも相手の女性にとって何が本当の幸せかを考えているわけでもない、そんな寅さんの身勝手な庇護者願望を100%満たしてくれるような女性は、あまたいるマドンナの中でも、思えばこのときのリリーと、第七作「男はつらいよ 奮闘篇」(1971)に登場した知的障害を持つ少女、花子(榊原るみ)くらいのものだったかもしれません。
「私、明日っから働くことにした」
療養生活もしばらく経ったある日、寅さんは体調のよくなってきたリリーが仕事を始めると言うのに強く反対します。
「バカだね、オマエ。そんなことしたら元も子もなくなっちゃうぞ。歌を歌うったって、酔っぱらったアメリカの兵隊ンとこで歌うんだろう。よせよせよ。それよりオマエはね、この庭でサ、花でも眺めてブラブラしてりゃいいんだよ、涼しくなるまで、な」
それは、まだ快癒しきらないリリーの身体を慮ってのことばであるのはむろんのことながら、しかしそこに、リリーに病人のままでいてほしいという、寅さん自身の無意識の願望が込められていることもまた間違いありません。なぜならその言い草は、第十三作「男はつらいよ 寅次郎恋やつれ」(1974)で、夫と死別し将来の身の振り方に悩む歌子(吉永小百合)に寅さんが口にしたという能天気なアドバイス――「毎日"とらや"でブラブラして、花を摘んだり、歌を歌ったりして暮らしなさい」とまったく同じものだからです。それゆえ、「お兄ちゃん本気で歌子さんの幸せ考えてないわね...だって、歌子さんにいつまでもうちにいてほしいというのは、お兄ちゃんの気持ちでしょでしょ。それじゃ、歌子さんが幸せなんじゃなくて、お兄ちゃんの方が幸せなんじゃない」とさくらに厳しく咎められていた、第十三作の寅さんの身勝手さと無責任さを、本作の寅さんにもまた感じないわけにはいかないのです。
「アタシたち夢見てたのよ、きっと。ホラ、あンまり暑いからさ」
「もうお金ないの。どうやって食べてくの?」と溜息を吐くリリーに向かって、寅さんは寝転びながら、「オマエ、貯金持ってたじゃねェか」などといかにもヒモっぽいセリフをいかにもヒモっぽい態度で口にします。そしてリリーが「遣っちゃったのよ」と預金通帳を開いてみせると、寅さんはさもつまらなそうに、「オレがなんとかしてやるよ」などとできもしないことを不真面目な調子で口にするのです。それを聞いたリリーは顔色を変えます。
「イヤだね。男に食わしてもらうなんてアタシまっびら」
リリーをリリーたらしめている、そんな"いかにもリリーさんらしい"(by 博)啖呵を切りながら、しかしリリーは続けて、少女のようにおずおずと目を伏せながら、小さな声でこんなことを口にします。
「でも夫婦じゃないだろ...アンタとアタシが、夫婦だったら別よ...でも違うでしょ?」
そう、それは紛れもない、リリー一世一代のラブ・コール。しかし寅さんは、そんな"リリーさんの愛の告白"(by さくら)を、前作に続いてまたもスカしてしまうのです。
「(激しくたじろぎながら)バカだなあ、オマエ。お互いに、所帯なんか持つ柄かよ。真面目なツラして変なこと言うなよオマエ」
こうして最後の最後まで、リリーの気持ちに正面から向き合おうとしない寅さんに、リリーは涙を滲ませながら、悔しそうに、搾り出すように云います。
「アンタ女の気持なンかわかんないのね」
たとえリリーが望んでも、そしてホントは自分もそうしたくとも、どうせ幸せにしてやれるはずもないから身を引こう――そんな寅さんの、男としての自信のなさや意気地のなさの裏返しだったりもする男の美学――前作のリリーの語彙で言えば、"男の思い上がり"がまたしてもネックとなり、二人の間に架けられた束の間の恋の橋は、こうして儚くも消え去ります。そして二人は些細なことから高志も巻き込み大喧嘩、リリーは「...ねえ、アタシのために来てくれたんじゃなかったの、こんな遠くまで」というやるせないひとことを残し、その翌朝、黙って寅さんの前から姿を消してしまうのです。
リリーに置いてきぼりにされ、("オレがなんとかしてやる"どころか)三日三晩飲まず食わずの"行き倒れ"となって柴又へ戻った寅さんのもとを、しばらくして、すっかり元気になったリリーが訪ねてきます。例によってお互いの顔を見た途端、あっさり縒りを戻した二人は"とらや"の面々を前に、沖縄での楽しかった思い出をしみじみと語りあいます。そして、「アタシ、幸せだったあン時」――遠い目をしたリリーがそんなことを口にすると、その横にごろりと寝っ転がっていた寅さんは、まるでまだ沖縄にいると錯覚しているかのような夢見心地の顔つきで、突然、ぽそりとこんなことを呟くのです。
「リリー、オレと所帯を持つか」
その何気なく発せられたひとことに、目をひん剥いて固まる"とらや"の面々とリリー。そしてそのただならぬリアクションに、これまた呆けた笑顔を一瞬にして凍りつかせる寅さん。
「オレ今なんか言ったかな?」
一拍置いて、リリーが弾けるような笑い声をあげます。
「やあねェ寅さん。ヘンな冗談云って、みんな真に受けるわよ。ねェさくらさん」
こうしてついうっかり口をついて出た寅さんの本音中の本音は、前作と反対に、今度はリリーによって冗談にされてしまいます。リリーは続けて云います。
「アタシたち夢見てたのよ、きっと。ホラ、あンまり暑いからさ」
すっかり病も癒え、働かなければ食えないリアルな世界に復帰したリリーにとって、沖縄で夢見た寅さんとの結婚は、遠く離れた都会の日常風景の中で振り返ってみれば、それこそ熱に浮かれた"夢"としか思えないものだったことでしょう。"歌を歌ってる最中に血を吐いて"倒れ、そして貯金を遣い果たしても"内地に帰るときの飛行機代"だけは残しておかなくてはならなかった、"稼がなくちゃしょうがない"リアリズムの世界の住人、リリー。かたや三日三晩飲まず食わずで"行き倒れ"となりながら、それもまた所詮は笑いのネタにほかならない、柴又に戻れば"とらや"で日がな一日"花でも眺めてブラブラして"いられる"夢の見っぱなし"のファンタジーの世界の住人、寅さん。今さら言うまでもなく、寅さん以外の登場人物はみなリアル、というのが「男はつらいよ」世界のお約束なのであり、旅先で血を吐いて倒れる寅さんもありえなければ、毎日花を眺めてブラブラしているリリーもありえない――というわけで、寅さんとリリー、二人の間の渡るに渡れない溝は、結局のところ、ドラマの中でせめぎあう、リアリズムとファンタジーの境界そのものだったのかもしれません。
使われなかった"リリーのテーマ"
というわけで、旅先での久しぶりの出会いとそれに続く束の間の蜜月の日々、そして喧嘩別れと柴又での再会を経て、しかし結局のところ二人はまた別々の道へ...と枝葉を取っ払った「男はつらいよ 寅次郎ハイビスカスの花」の骨格は、実は前作「男はつらいよ 寅次郎相合い傘」とまったく同じものだったりします。とはいえ寅さんとリリーの実を結ぶはずのない恋を再度描いた本作が、前作の単なる焼き直しと感じられないのは、ひとつには作品全体の雰囲気が、前作、前々作に漂っていた、どこか物寂しげな湿り気をほとんど感じさせない、からりとした空気に包まれているせいです。
それは、本作の舞台が陽光眩しい真っ青な空と海の広がる南国沖縄だからでもあれば、また同時に前作、前々作において、ここぞという場面になると必ず流れていた悲しい名曲、"リリーのテーマ"がまったく使われていないせいでもあります。たとえば病床で物思いに沈むリリー、あるいは夕暮れの庭先で寅さんの帰りを待ちわびるリリー、そしてもちろん寅さんに愛を告白するリリー...とまあ、条件反射的に悲しくなってしまうこの曲の流しどころは、それこそリリーが出ずっぱりといっていい本作にはいくらでもあって、またDVD収録の予告編を観ると、そこにはアレンジの施された"リリーのテーマ"が流れていたりもするのですが、結局本編で耳にすることは一度もなく、要するに、あえてこの曲を使うのをやめた、ということなのでしょう。振り返ってみれば、それがいささか物足りなかったりもするのですが、とはいえ瞬時にすべての印象を悲しみ一色に塗り潰してしまう、この曲のパワーを考えたとき、それはそれで(この作品独自の色合いが残されて)よかったのかも、と思ったりもします。
無限のループに昇華する寅さんとリリーの出会いと別れ
そんな音楽もさることながら、前作「男はつらいよ 寅次郎相合い傘」と本作「男はつらいよ 寅次郎ハイビスカスの花」のもっとも大きな違い――というより、全四十八作の中でも特に本作が異彩を放っているのは、なんといってもそのエンディング。
「山田さん、映画のラスト・シーンに寅さんが必ず失恋から回復して、相変わらずバカいって歩いてる。それで、観客がホッとするということが大事なんですよ」(山田監督が柳家小さんに言われたというひとこと。「映画をだずねて 井上ひさし対談集」より)
というわけで、どんなにつらい思いをしても、最後の最後はからりと晴れ渡った青空のもと、ときにはどこかで商売中の、またときには懐かしい誰かとばったり顔を合わせた寅さんの、明るく元気いっぱいの笑顔でもって締めくくられる――というのが「男はつらいよ」シリーズ全作共通のお約束ですが、とはいえ寅さんがいかに明るく振舞おうと、また誰とばったり出遭おうと、マドンナを失ってしまった一抹の寂しさが拭いきれないことも、また確かだったりします。ところがそれが、本作だけは別。なぜなら本作のエンディングで、旅先の寅さんがぱったり出逢うのは、舎弟の登でもなければまして旅役者の一座でもなく、それはほかでもない、マドンナのリリーその人だからです。初めて観たときは、この掟破りともいえる嬉しすぎるサプライズに、それこそあっと驚いてしまったものです。
カンカン照りのとある山の中のバス停で、例によってこんな人っ気のないところで何をしているんだという寅さんがバスを待っていると、そこに通りかかった一台のマイクロバス。路線バスじゃなくてがっかりした寅さんがベンチに腰掛けがっくり目を伏せていると、少し先で停まったマイクロバスから降り立った、ど派手な出で立ちのひとりの女。足元に差した人影にふと上を向いた寅さんの顔が、女を見て、ぱっと輝きます。
「どこかでお目にかかったお顔ですが...姐さん、どこのどなたです?」
「以前、おにィさんにお世話になったことのあるオンナですよ」
「はて?こんないいオンナをお世話した憶えは、ございませんが」
「ございませんか、この薄情者!」
そうして顔を見合わせた寅さんとリリーは、たまらず大きな声で笑いあうのです。
シリーズ全四十八作中、エンディングにマドンナが登場するのは、第二作「続・男はつらいよ」の夏子(佐藤オリエ)と本作のリリーだけです。しかも、単に夏子が寅さんを遠くから見かけるだけだった第二作とは違い、本作ではこうして、寅さんとリリーが紛れもない"四度目"の出逢いを果たします。それは、他の作品の"顔で笑って心で泣いて"のエンディングとはひと味もふた味も違う、真に寅さんが救われたと思えるような、正真正銘のハッピー・エンドです。こうして再び巡りあった寅さんとリリーは、またしばらく仲睦まじいひとときを過ごし、やがて些細なことから喧嘩別れして、そしてまたいずれは日本のどこかで巡りあって...と、その出会いと別れを無限に繰り返していくに違いない(要するに二人は永遠に結ばれている)――寅さんファンにそんな幸せな夢を見させてくれた、"三部作"の締めくくりとしてこれ以上はない、まさに大団円というべき光輝に包まれたエンディングなのです。
シリーズ最終作、「男はつらいよ 寅次郎紅の花」について
とまあそんなわけで、寅さんとリリーの物語はここにめでたく完結、とばかり思っていたのですが、それから十五年、最後の最後に二人をめぐる新たなドラマが作られました。それが渥美清の遺作となったシリーズ最終作、「男はつらいよ 寅次郎紅の花」(1995)。
これまであえてこの作品に触れずにきたのですが、というのも前三作とこの作品を"リリー四部作"としてひと括りにすることに、どうしても抵抗感があるからです。それがなぜかといえば、前述のとおり「男はつらいよ 寅次郎ハイビスカスの花」の締めくくりが完璧だったからでもありますが、同時にこの作品が、寅さんとリリーの物語というよりも、むしろ満男と泉(後藤久美子)の物語だからであり、そしてリリーの登場作としてだけでなく、シリーズ全作にとっての最終話だからであり、また書くのもツラいことながら、既に病状の進行していた渥美清演じる寅さんの覇気のなさとかすれ声が、もはや"寅さん"とは思えないほどに痛々しくて悲しくて仕方がなかったりするからです(きっとこんなことを書いたら、天国の渥美さんは悲しみますね。ごめんなさい)。
「渥美さんの体調がひどく悪かったから、「もしかしたら最後になるかもしれない」とは思っていましたね。それもあって、だったらマドンナはリリーがふさわしいんじゃないのかなあと。浅丘(ルリ子)さんにもそう言うと、「私も歳だから、クローズアップは無理よ。でも、渥美さん、そんなに悪いの?だったら、私、出ます」と言ってくれてね」(キネマ旬報第1516号 「山田洋次監督ロング・インタビュー」より)
こうして監督も共演者も、そしておそらく渥美清本人もこれが最後だと覚悟していたであろう"紅の花"は、いかにもそんな"最後の覚悟"の匂いがドラマのあちらこちらに漂う、シリーズ最終回としての収束感をそこはかとなく滲ませた作品です。しかしそれだからこそ、余計に悲しみは募るのであり、いっそ最後はリリーなんて出てこない、この先もまだ続作があると思えるような、あってもなくてもどうでもいい作品であってほしかった...そんなアンビバレントなことを思ってしまったりもするのです。
* * *
思えば「男はつらいよ 寅次郎紅の花」が公開されたのは、阪神・淡路を未曾有の大地震が襲った1995年の年末でした。映画のラストは、まだ震災の爪痕が残る、しかし復興に向けて力強く歩み始めた神戸の被災地を寅さんが訪ねる場面で締めくくられています。そしてあれから16年、またいつか起こると覚悟していながら、しかしそんな覚悟のほどがいかに甘いものだったかを思い知らされた、此度の大震災。これまで経験したことのない大きな揺れに震え上がりながら、しかし棚からモノが落ちた程度で済んでホッとしたのも束の間、テレビに映し出された大津波の信じられない光景に、文字通りことばを失いました。あれから早二週間あまり、想像を絶する大惨禍とよもやの原発事故がもたらした影響に、被災地から遠く離れた東京にいてすら、いまだ不安と恐怖を禁じえない毎日です。余震、食糧品やガソリンの払底、電力不足、水や農作物の汚染...と動揺のタネはあとからあとから湧いてきますが、とはいえ被災地の方々のことを思えば、いかほどのこともありません。いまはとにかく目先のあれこれに惑わされることなく、平常心を保つようにしたいものです。
男はつらいよ 寅次郎ハイビスカスの花 (英題: Tora's Tropical Fever)
公開: 1980年
監督: 山田洋次
製作: 島津清
脚本: 山田洋次、朝間義隆
出演: 渥美清/浅丘ルリ子/倍賞千恵子/前田吟/下條正巳/三崎千恵子/太宰久雄/笠智衆/佐藤蛾次郎/中村はやと/江藤潤/間好子/金城富美江/新垣すずこ/津嘉山正種
音楽: 山本直純
撮影: 高羽哲夫
美術: 佐藤公信
編集: 石井巌
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管理人: mardigras

でもMardiさんがこの寅さんの記事を更新してくれたことにとても感謝しています。それも今回はカラーで渥美清さんの懐かしい笑顔がとても救われるような気がします。
やはり、リリー三部作ということでまとめられたことに大賛成で寅さんらしいと想います。