ゴッドファーザーPART II

ありがとう。この恩は決して忘ない。
「ゴッドファーザーPART II」のイラスト(ロバート・デ・ニーロ)

八歳のとき、新宿のどこかの映画館で、友だちと一緒に「ゴッドファーザー」(1972)、「ゴッドファーザーPART II」(1974)のリバイバル上映を観ました。

それは息つく暇もない、圧巻の六時間半。今振り返ってみても、私がこれまでに味わった最高の映画体験のひとつです。外は大雪にもかかわらず、映画館は満員。熱気に溢れかえっていて、大勢の映画好きと至福の時間を共有している感覚が、なんとも心地よかった覚えがあります。

「ゴッドファーザー」と「ゴッドファーザーPART II」は、つまるところ、物語映画の魅力のすべてが詰め込まれている映画です。光と影に彩られたゴードン・ウィリスの絢爛たる映像美。ニーノ・ロータのうっとりするメロディ。いずれ劣らぬ名優たちによって命を吹き込まれたコクと深みのある登場人物たち。そしてマフィアの抗争に材をとった、アメリカ現代史の影の一断章ともいうべき骨太で重厚なストーリー――。「ゴッドファーザー」は、そんなすべての要素が渾然一体となって、ほかの何物にも代えがたい映画の映画ならではの醍醐味を、これでもかと味わわせてくれる映画なのですね。


原作について

ゴッドファーザー」の原作は、世界で2,000万部も売れたというマリオ・プーゾのベストセラー小説、「ゴッドファーザー」。ニューヨーク五大マフィア最大の実力者、ヴィトー・コルレオーネ(マーロン・ブランド)とその後継者、三男マイケル(アル・パチーノ)の血腥い人生を描いた映画のストーリーは、この原作を、ほぼ忠実になぞったものです(ただし本筋と関係のない、脇役をめぐるドラマがばっさりカットされている)。

そして、そんな「ゴッドファーザー」に描かれた時代の過去と未来をパッチワークのようにはぎ合わせた作品が、続編「ゴッドファーザーPART II」。原作のうち、前作で使われることのなかった、ヴィトーの若き日々を描いたほんの数十ページの断章を、マイケルをめぐる「ゴッドファーザー」以後のドラマ(原作にはない、映画のオリジナルストーリー)のところどころに継ぎあてし、親子二世代にわたる、コルレオーネ・ファミリーの壮大なクロニクルをかたちづくっています(脚本は、マリオ・プーゾとフランシス・フォード・コッポラの共同執筆)。



「ゴッドファーザーPART II」に描かれた「ゴッドファーザー」の原風景

画の冒頭、親兄弟を殺害され、天涯孤独となった少年時代のヴィトーを乗せた移民船が、ニューヨークの港に入港する情景は、あたかもイタリア系移民たちの原風景(そしてそれは、彼らの末裔であるコッポラ監督の原風景でもあったのかもしれない)を見ているようで、強く印象に残ります。

セピアがかった色彩の映像と感傷的なメロディが、自由の女神像を見つめる貧しげな移民たちの夢と希望、そして恐れと不安の入り混じった複雑な胸のうちをドラマティックに代弁し、故郷を遠く離れた異国の地で、好むと好まざるとにかかわらず、血を拠り所に結束していかざるをえなかった彼らの宿命を、言外に、鮮やかに物語っているかのようです。

ところで前作「ゴッドファーザー」にも、自由の女神像がちらりと登場する場面があります。ヴィトーの子分が、組織の裏切り者を始末する場面で、寒々しい青空の下、人気のない葦原の遥か向うに、小さく、青銅色の女神像が、横顔を見せて佇んでいるのですね。それは「ゴッドファーザーPART II」において、感傷を込めて描かれた、新天地を夢みる移民の希望の象徴であった自由の女神像とは似ても似つかない、言ってみれば、荒涼たる殺戮場面に添えられた、単なる点景に過ぎないものでした。

国家よりもファミリーに忠誠を誓い、法よりも組織の掟を重んじるマフィアの構成員たちにとって、かつて彼らの祖父母や父母、あるいは彼ら自身が移民船のデッキから仰ぎ見たかもしれない自由の女神像は、もはや一顧だに価しない、無意味なものになってしまった――「ゴッドファーザー」と「ゴッドファーザーPART II」、二つの作品における自由の女神像の描かれ方には、そんな時のうつろいが、巧まずして映り込んでいるかのようです。



「ゴッドファーザーPART II」のヴィトー・コルレオーネ

鑑賞以来、私がこの映画に強く惹かれてやまないのは、つまるところ、男ならこうありたいと思えるひとつのスタイルが、ヴィトー・コルレオーネという人物を通じて描かれているせいです。

「ゴッドファーザーPART II」に登場する若き日のヴィトーに、十八歳の頃の私は強く憧れ、いや齢四十を過ぎた今も、その佇まいがいまだ理想的なものに思えたりします。

青年期から壮年期のヴィトーを演じているのは、ご存知、ロバート・デ・ニーロ。その役作りのイメージは、声やしぐさをはじめ、表情から視線の漂わせ方まで、前作でマーロン・ブランドが演じたヴィトーを完璧に踏襲し、なるほどヴィトーが若かった頃は、きっとこうだったに違いない、と思わせるものです。「ゴッドファーザー」と「ゴッドファーザーPART II」を連続して観ると、そのなりきりっぷりの凄みは一層、際立って見えます。

若きヴィトーをめぐる、すべてのエピソードが好ましく思える中で、特に琴線を揺さぶられるのは、ヴィトーがまだ街の顔役として頭角を現す以前の、妻と幼い子供たちとの慎ましい暮らしぶりを活写した、日常生活の何気ない情景です。ヴィトーは、まだ貧困のうちに日々を送る、ひとりの平凡なイタリア移民労働者に過ぎず、この、単なる生活者としてのヴィトーの雰囲気が、みずみずしくて素晴らしい。

たとえば、ヴィトーが非合法な世界に足を踏み入れるきっかけとなる、職を失う場面。友人の父親が経営する小さな食糧品店で働いていた彼は、ある日、街の顔役が自分の甥を雇い入れるよう店主に強要しているのを目にすると、気弱な店主の苦境を察して自ら辞めることを申し出ます。

「あなたはこれまでいつも私によくしてくれた。ありがとう。この恩は決して忘ない」

ヴィトーはそんなひとことを残し、淡々と店を去っていきます。外まで追いかけてきた店主が、せめてのも詫びのしるしにと、食糧品を詰めた箱を手渡そうとしますが、ヴィトーは受け取ろうとしません。そして家に帰る途中、果物商の屋台で洋ナシをひとつ買い、帰宅すると、食卓にナシを載せ、まるで何事もなかったかのように、夕餉の支度をしている妻に向かって、にっこり微笑みます。ナシに気づき、無邪気に喜ぶ妻。

洋ナシをふたつ、じゃなくてたったひとつ、というのがいい。貧しく慎ましい暮らしの中で、ささやかな喜びを分かち合い、小さな幸せを見つける夫婦の情景が、哀しく美しい。そして、仕事を失くして明日も定かでない中で、妻には一切を語らず、普段と同じ、もの静かな笑顔を浮かべてみせるヴィトーのぴんと背筋の伸びたスタイルが、たとえファンタジーだとわかっていても、カッコいいのですね(ちなみに原作では、ヴィトーは彼をクビにする店主の仕打ちに激怒し、また洋ナシのエピソードも存在しません。ま、こっちの方がリアルではあります)。

寡黙で、強さをうちに秘め、何事にもおたつかず、決して恩を忘れることのない、そして家族を何よりも大切にする男――。「ゴッドファーザーPAR TII」に描かれる若きヴィトーの佇まいは、ロバート・デ・ニーロのなりきり演技もあいまって、「ゴッドファーザー」に描かれた"ドン"・コルレオーネの原点はいかにもこうだったに違いない、と思わせるものです。そして、そんな後付けだからこそとも言える、前作との完璧な整合性そのものが、この続編に感じるカタルシスの大きな源泉ともなっています。



「ゴッドファーザーPART II」のマイケル・コルレオーネ

きヴィトーが、徐々にコミュニティの中で信頼の輪を広げ、家族を増やし、やがて、堅牢な"ファミリー"を築き上げていくのと対比して描かれるのが、「ゴッドファーザー」のその後、"ファミリー"を守ろうとするがゆえに"家族"を失ってしまう、第二世代のゴッドファーザー、マイケルの苦悩の物語。ヴィトーのパートが、いわば古きよき時代の立志伝中の人物を描いたファンタジックな神話だとすれば、マイケルのパートは、そんなリニアな成功物語がありうべくもない現実の人生を、時代の変化を反映したリアリスティックな文脈の中に描いたドラマ、といっていいかもしれません。

前作で、シチリアからニューヨークに帰還したマイケルは、シチリアで結婚したこと(そしてその結婚相手が殺害されたこと)をおくびにも出さず、かつての婚約者、ケイ(ダイアン・キートン)に再接近します(ちなみに原作では、ケイからマイケルにコンタクトする)。その、狡猾とも不誠実ともとれる、マイケルの"オトナ"な立ち居振る舞いは、明るく誠実で、青臭くもあった前半のそれとは似ても似つかないもので、それはマイケルという青年が、シチリアの悲劇を通じてまったく違う人間に生まれ変わってしまったかのようでもあれば、DNAに刷り込まれていた彼の本質が、いくつかの劇的な刺激を受けて、ひょっこり芽吹いたもののようでもあります。

シチリアでの結婚式を最後に、「ゴッドファーザー」、「ゴッドファーザーPART II」を通じ、マイケルは、心からの笑みを見せることがほどんどなくなります。ましてヴィトーのように、率直な哀しみの感情をその面に浮かべることなどまったくなく、彼は悲劇的な出来事に直面するたび、弱さを垣間見せることを断固拒絶するかのように、相対する者にとってはこれほど恐ろしいものはないであろう、いかにも絶対権力者ならではの、氷のような無表情を貫き通すようになっていきます(ただし、「ゴッドファーザーPART III」(1991)の老年期のマイケルは、これまたウソのように、感情豊かな男へと変貌していますが)。

本作において、マイケルが強い感情を表に出すのはたった一度、妻のケイが、彼に内緒で中絶したことを知って、激怒するときくらいのものです。それどころか、幼い息子に話しかける場面を除き、周囲の人間はおろか、妻や兄弟――彼にとって、かけがえのないものだったはずの"家族"に向ける視線にすら、人間らしい温もりを感じさせることが、まったくなくなってしまいます。

こうしてマイケルは、ヴィトーのようにあろうとしてヴィトーを超えてしまった、その機械のような強さ――言い換えれば、非人間的な非情さによって、周囲から徹底的に孤立していきます。



そしてマイケルは独りになる

が斃れ、長兄のソニー(ジェームズ・カーン)が殺され、それが宿命だったように、ファミリーの後継者となったマイケルは、次第に功利的で冷徹な性分を発揮しはじめ、ファミリー(組織)の拡大に邁進しはじめます。その、徹底的にビジネス・ライクな姿は、皮肉にも、父ヴィトーよりもむしろ、マイケル自らその手で殺害した父の仇、ソロッツオ(アル・レッティエリ)のスケール・アップ・モデルのようだったりします。そして、ビジネスの成功と反比例するように、マイケルとファミリー(家族)の心の距離は次第に遠くなり、互いに理解できないものへと変わっていきます。

キューバ革命によって力を失った、余命半年と宣告されている仇敵、ハイマン・ロス(リー・ストラスバーグ)の殺害に執着し、ケイや次兄フレドの"裏切り"をあくまで許すことができず、また相談役のトム(ロバート・デュバル)の忠誠心にすら猜疑心を抱くようになってしまったマイケルの心が、果たして奈辺を彷徨っているのか、その顔から表情が失われていくにつれ、観ているこっちもだんだんわからなくなっていきます。マイケルは、いったい何のために強くあろうとしているのか。それは家族のためではなかったのか、それとも組織のためだったのか。だとすれば、そもそも組織は何のためのものなのか――。

マイケルの抱え込んだ苦悩は、エキストリームな世界に生きる"ゴッドファーザー"ゆえの特殊な悩みのようでもあれば、仕事と家庭の両立という、"仕事人間"なら誰しも多かれ少なかれ抱えているであろう、普遍的な悩みのようだったりもします。

鉛色の空から音もなく雪が舞う、湖畔のボート・ハウスの薄暗い一室で、マイケルはフレドの裏切りを追及し、命の保証を担保に自白を引き出すと、しかしその裏で、彼を殺害する決心を固めます。それは、ひんやりした空気の漂うマイケルのパートの中でも、ものみな凍りつくような、この映画の体感温度がもっとも低くなる瞬間です。もしヴィトーだったら、たとえ裏切られても、血の繋がった肉親を粛清するなどということは、考えもしなかったことでしょう。

「時代が違う」

マイケルは、すっかり老いた母親との短い会話の中で、父親のように家族を守ろうとすればするほど家族を失ってしまう苦悩を滲ませつつ、まるで独り言のように、時代の変化を愚痴ります。第一世代とは大きく様変わりしたビジネス環境。巨大化するにつれ、複雑かつ困難になっていく組織の舵取り。一筋縄ではいかない父親世代の部下や、仕事仲間。苦労知らずで育った、無能でわがままな兄妹たち。そして出自の違う、シシリア移民の原風景を共有しない、特殊な世界への理解を求めるには無理がある、いわばフツーのお嬢さんだった、妻のケイ。

マイケルの言うとおり、彼の生きる時代が、もはやヴィトーの生きた"古きよき時代"でなくなってしまったことは確かながら、しかしそれと同じくらい、ヴィトーとマイケルの違いは、残酷なまでに、その人間力にあったように思えます。

映画のエンディングで、マイケルは冬枯れの庭に置かれた椅子にひとり座り、じっと虚空を見つめています。敵と呼べる人間をあらかた排除しきった一方で、家族と呼べる人間も、また信用できる人間もほとんど失くしてしまった彼の瞳は虚ろであり、その視線の先には、何も映っていないかのようです。

彼の心に、ヴィトーが健在だった頃の、彼が父の後を継ぐことなどこれっぽっちも考えていなかった頃の、ファミリーがファミリーらしかった頃の記憶が去来します。ヴィトーの帰宅を待つ食卓を囲むのは、ソニーにフレド、トム、マイケル、コニー、そしてのちにコニーと結婚するカルロに、ファミリーの幹部のテシオ。ソニーもフレドもカルロもテシオも既に殺されてこの世になく、しかもソニー除いた"ファミリー"三人の殺害は、みな、マイケルの指示によるものです。

組織ではなく、国家に尽くすことを決心し、軍隊に志願したマイケルの決断を、ただひとり、褒めてくれたのはフレドでした。いったい、マイケルはどこで間違ってしまったのか。あるいは間違ってなどいなくて、そもそもそうなる運命だったのか。何度観ても答の浮かばない、ただただ無常を感じさせるエンディングです。



余談: 存在しない場面の記憶

事を失ったヴィトーが、果物商の屋台に立ち寄り洋ナシをひとつ買う――といったことを書きました。初鑑賞以来、そのビジュアルがずっと頭に焼き付いていて、この映画のもっとも印象的な場面だと思い込んでいたのですが――ところがテレビで再見したとき、そんな場面がどこにも存在しないことに気がつきました。テレビなので、カットされたに違いない、と一人合点していましたが、その後、ノー・カットを謳ったテレビやビデオを観ても、やはりその場面が見つからない。そんなわけで、映画館で観たのは何か特別なバージョンだったのかしら?と、ずっと気にかかっています(街の顔役にのし上ってからのヴィトーが、屋台商からタダで果物を貰う場面があり、もしかすると、ここと記憶がごっちゃになっているだけかもしれませんが)。

そして同じようなナゾが、前編「ゴッドファーザー」にもあります。のちのちいくら確認しても存在しないセリフがひとつ、初鑑賞時の鮮やかな記憶として残っているのですね。まあ、いずれも、頭の中で勝手に記憶を改ざんしている可能性が高いのですが、とはいえそれはそれで、私にとってこの映画の余韻がいかに後引きだったのか、そしてこの映画のイメージが、頭の中でいかに鮮やかだったのか、その証しのように思えたりもします。

 *       *       * 

「ゴッドファーザーPART II」のエピソードを分解し、「ゴッドファーザー」とあわせて時系列に編集し直した、「ゴッドファーザー・サガ」(1977)という、テレビ向けの作品があります。以前、アメリカに住んでいたときに観たのですが、なるほど面白いアイデアだとは思ったものの、しかし並べ直してしまったら、この映画のコクがひと味薄くなってしまったように感じたものです。

やっぱり、まずは「ゴッドファーザー」を観て、それから「ゴッドファーザーPART II」のデ・ニーロのなりきり演技に驚きつつ、ヴィトーとマイケルの来し方の違いをしみじみ味わう、というのが、この映画の感動を満遍なく味わうための、正しい鑑賞方法なのだと思いました。



ゴッドファーザーPART II(原題: The Godfather PART II
製作国 : 米国
公開: 1974年
監督: フランシス・フォード・コッポラ
製作: フランシス・フォード・コッポラ/グレイ・フレデリクソン/フレッド・ルース
脚本: マリオ・プーゾ/フランシス・フォード・コッポラ
原作: マリオ・プーゾ(「ゴッドファーザー」
出演: アル・パチーノ/ロバート・デュヴァル/ダイアン・キートン/ロバート・デ・ニーロ /ジョン・カザール/タリア・シャイア/リー・ストラスバーグ/マイケル・V・ガッツォ
音楽: ニーノ・ロータ/カーマイン・コッポラ
撮影: ゴードン・ウィリス
編集: ピーター・ツィンナー/バリー・マルキン/リチャード・マークス


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