ターミネーター2

アスタ・ラ・ビスタ、ベイビー。
「ターミネーター2」のイラスト(アーノルド・シュワルツネッガー)

1991年夏。世界の映画ファンはそれまでまったくお目にかかったことのない革新的な映画に度肝を抜かれ、目を疑うような驚異の映像マジックに激しく酔い痴れました。そう、それがジェムーズ・キャメロン監督、アーノルド・シュワルツネッガー主演のSFアクション超大作、「T2」こと、「ターミネーター2」

「ターミネーター2」を初めて観たときの驚きと興奮、そして喜びの大きさは、いま振り返ってみても、ほかに経験した覚えのないものです。実際にはあり得るはずのない、その摩訶不思議な映像は、しかしどこからどう見ても本物としか思えない質感と立体感、そして現実感。やや大げさに言えば、それは、これまでとはまったくパラダイムの異なる新しい映像世界の扉が開かれた瞬間であり、いかに巧妙に作られていようとも、作り物が作り物とわかるレベルにとどまっていた特殊撮影が、精巧なポストプロダクションの技術によって、ついに人間の視覚を欺くまでのものとなったことを、高らかに宣言するものでした。

コンピュータグラフィクスが生身のリアリティを凌駕する可能性を示したこの作品以降、特に"大作"と呼ばれるハリウッド作品の指向は、明らかに大きく変化したように思います。そしてその技術革新は、観る側の私の意識も変えてしまったのであり、それは、映画という娯楽が与えてくれる悦びと感動のいくばくかを喪失することになる、はっきりいって、あまり嬉しくない変化でした。

そんなわけで、私にとって「ターミネーター2」は、あり得ないものを観た!という強烈な衝撃を与えてくれた作品であると同時に、映画の感動の一部を失うきっかけともなった、ちょっと複雑な思いのある作品なのであります。


私にとっての「戦艦ポチョムキン」そして「市民ケーン」

19世紀後半に誕生したモーションピクチャー=映画。以来100余年、いったいどれほどの数の作品が作られてきたかはさておいて、映像技術や編集技術の進化と発展につれ、そのときどきで革新的な映画が生み出されてきたことは、言うまでもありません。中でも映画の歴史を通じた最大のエポックといえば、サイレント(無声映画)からトーキー(発声映画)への転換と、モノクロからカラーへの転換。初めて俳優がしゃべるのを耳にした人々の驚き、そして初めて色がついた映像を目の当たりにした人々の興奮がいかばかりのものであったのかは、想像に難くありません。

とはいえその衝撃は、これまた言わずもがな、リアル・タイムでその技術にめぐりあった人々だけが享受できた、いわば時代の特権というべきものでもあります。映画に声も色もあるのが当たり前の現在、たとえ"世界初のトーキー"(「ジャズ・シンガー」(1927))あるいは"世界初のカラー"映画(「虚栄の市」(1935))を観ても、マニアがその歴史的価値に随喜の涙を流すことはあるにせよ、フツーの映画好きが、その"声"のあることに、そして"色"のあることに、当時の人々と同じく熱狂し、感動することは不可能です。

たとえば、歴代映画ベスト100なんていう企画があると、映画史上屈指の名作として、たいてい上位に挙がるふたつの作品、「戦艦ポチョムキン」(1924)と「市民ケーン」(1941)。セルゲイ・エイゼンシュタインの「戦艦ポチョムキン」は、映画の編集技法であるソビエト・モンタージュ手法を確立した作品といわれ、またオーソン・ウェルズの「市民ケーン」は、パンフォーカスをはじめとするあらゆる撮影技法を徹底的に駆使した最初の映画とされています。

しかしながら、モンタージュもパンフォーカスも当たり前となってしまった今日、いざこれらの作品を観ても、そのインパクトのなさは拍子抜けするほど。いずれも学生の頃に観たのですが(どちらも教育テレビが放映してくれました)、正直、これといって感銘を受けた覚えがありません(映画として面白くなかった、という意味ではありません)。とはいえ、そんな感想もあくまでめぐりあいのタイミングの問題であり、いずれの作品も、もし公開時にリアルタイムで観ていれば、その"それまで存在しなかった映像"の衝撃に、私だって熱く激しく心を揺さぶられたに違いない、と思うのです。

で、要するに何が言いたいかといえば、「ターミネーター2」は、私にとっての「戦艦ポチョムキン」であり「市民ケーン」であるということ。十七年前に作られた「ターミネーター2」のありがた味が今日どれほどのものかといえば、少なくともその特殊効果と視覚効果に限っていえば、もっと凄い映像を見慣れた今の若い人たちにとって、ことさら称揚に価するものではないでしょう。

しかしだからこそ、まだeメールも携帯電話も普及しておらず、インターネットもデジカメもipodもDVDもDSも薄型テレビもなかった1991年の夏、この、最先端のデジタル映像が与えてくれた衝撃と感動は、リアルタイムで観た者だけの特権であり幸福だったと思うのですね。



特殊効果オンリーではないからこそ光る「ターミネーター2」

ターミネーター2」は、そもそも面白かった「ターミネーター」(1984)の続編であり、ロボットみたいな外見と訛り英語が笑ってしまうほどハマっていたアーノルド・シュワルツネッガー演じるターミネーターが、そのキメ台詞("I'll be back")の通り戻ってくる、というわけで、アメリカでは、ロードショウ開始前から、かなりの話題となっていました(当時、アメリカ中西部の片田舎に住んでいました)。

キレのあるプロット、そしてシュワルツネッガー=悪役という発想が素晴らしかった前作は、残念ながら、クライマックスの特撮にちゃちさを感じてしまったことも、また確かでした。ところが続編は、たっぷりと予算をかけ、驚きの映像世界を作り出したらしいという前評判。公開されるやいなや、町のショッピングモールに併設されていたシネマコンプレックスへ、友人たちと足を運びました。映画館が暗くなり、次回ロードショーの予告に続き、いよいよ、ダダッダッダダ、ダダッダッダダ、ダダッダッダダというお馴染みの重低音がスクリーンに流れ始めるやいなや、もうひたすら、シビれっぱなし。冒頭に書いたとおり、その衝撃的な映像の連続に、大興奮してしまったものです。

特殊効果、視覚効果を使った幾多の場面の中で、なんといっても驚いたのは、液体金属なるモノでできているという設定の、T-1000と呼ばれるロボット(ロバート・パトリック)が、すすっと実に自然で滑らかにさまざまな姿かたちに千変万化する、モーフィングと呼ばれるCG技術です。ショットガンをバシバシぶち込まれて大穴の開いた身体がしゅっと元に戻ったり、あるいは手の先がシャキーンと伸びて自在鉤になったり、あるいは市松模様のリノリウムの床がすーっと立ち上がって人になってみたりと、T-1000が自由自在に人、モノに変化を繰り返すたび、館内のあちこちで驚声と口笛が上がったものです。

そして、この映画の活劇としての素晴らしさは、特殊効果に頼るだけではなく、凄まじく破壊的なカースタントや、ド迫力の銃撃・爆破アクションが、これでもかとてんこ盛りなところ。特にジョン・コナー(エドワード・ファーロング)の駆るバイクとT-1000が操る大型トレーラーのチェイスは圧巻で、排水路に逃げ込みほっと一息吐いたジョンの目の前に、まさかのトレーラーが降ってくる場面の恐怖と臨場感に、心底びびってたじろいでしまったものです。

"ヘビのように執念深く追いかけてくるロボットの怖さ"というテーマを繰り返しながらも、しかし単にスリルをスケールアップさせるだけでなく、前作との辻褄を合わせながら、少年とターミネーターのふれあいという違った味わいを加味したシナリオもまた、続編としてよく練られたものでした。シュワルツネッガーが悪役でなくなってしまったことにはがっかりしましたが、しかし、あのおっかないにもほどがあったターミネーターが今度は味方、という展開は、ドラマが進むにつれ、次第に心地よいものとなっていきました(このあたりの機微は、プロレスの悪役がベビー・フェイスに転向するのを見たときのそれに似てなくもない)。

映画館での思い出をひとつ。中盤、ジョンとターミネーターが、サラを助け出しに警察病院に侵入しようとする際、ターミネーターがエントランスの警備員の膝を無造作に銃で打ち抜く場面があります。実に痛そうで、今観ても思わず顔を顰めてしまいますが、当時、映画館でこの場面を観たアメリカ人の観客たちは、もういっせいに、さも可笑しそうに大爆笑。この場面の直前、ジョンがターミネーターに人を殺してはいけないと諭し、約束させる場面を伏線として、確かにユーモアが込められているといえなくもない場面ですが、しかしこんな残酷な描写をなぜ笑える?と首を傾げてしまったものです。こんなとき、日本人とアメリカ人の、どうしても埋められない文化的、感覚的なギャップを感じてしまったりするのですね。

それから余談をもうひとつ。映画の公開後、しばらくしてMTVで盛んに流れ出したのが、この特殊効果の映像をふんだんに使用した、ガンズ・アンド・ローゼズのプロモーションビデオ。劇中で、ジョンの手にしたラジオにちらりと流れる曲、"You could be Mine"がそれ。"ユーッ、クゥ~ッビー、マイア~イン"。しつこいくらいに繰り返し流されたせいで、サビのフレーズがしばらく頭について離れなくなりました。また同じころ、これまたMTVで盛んにかかっていたのが、マイケル・ジャクソンの"Black or White""Remember the Time"のプロモーションビデオ。これらも「ターミネーター2」と同様、モーフィングを効果的に使った斬新な映像で、今も強く記憶に残っています。



「ターミネーター2」に感じた終わりの始まり

から思いついたことでもなんでもなく、映画の大興奮を味わいながら、劇場の暗闇の中で漠然と感じていたこと――それが記事の冒頭で少し触れた、これから映画はかなり変わってしまうんじゃないか、それもイヤな方に、という、暗い予感でした。こんな驚異的な映像表現が可能なら、もうCGでできないことはないんじゃないか、生身の人間には不可能などんな凄いスタントも、これからはいくらでも描きたい放題なんじゃないか、いやそもそも、生身の人間がスタントする必要なんてまったくなくなってしまうんじゃないか、そしてそうなったとき、自分は(「ターミネーター2」を観て感じるのと同じように、)心からそれを楽しむことができるだろうか...

ひとたび凄い映像表現が生まれれば、次はそれよりももっと、さらにもっと、とひたすら欲望がインフレ化していくのは、作る側も観る側も同じでしょう。「ターミネーター2」ののち、ハリウッド発の娯楽映画は、視覚効果を効果的に活用した、おおっ、CGのこんな使い方もあったのか!と驚かせてくれるいくつかのエポックメーキングな作品(たとえば「ジュラシック・パーク」(1993)、「フォレスト・ガンプ/一期一会」(1994)や「マスク」(1994)、「アポロ13」(1995)、そして「マトリックス」(1999))を挟みつつも、しかし徐々に、本来は作品世界を表現するための技術であるべき視覚効果の凄さをばかりを売りにしたような、いわば視覚効果のためにする映画――ぶっちゃけていえば、まずはじめにドラマや人間ありきではなく、とにかく技術ありきの大味な作品が目立ってきたような気がします。

そしてそれにつれ、かつてはあれほどワクワクしたハリウッドの大作映画に、だんだん魅力を感じなくなってきたという悲しさ。むろん、今でも面白い作品はあるのですが、しかしそんな作品にめぐりあうヒット率は、無残なほど低下してしまったように思います。それは、ひたすらインパクトとケレンを追求するのみで、肝心のプロットが粗く、ドラマの薄い作品ばかりになってきたせいでもあるし、またそれと同じくらい、私の中でアンビリーバルな映像に素直に驚嘆する感受性が失われ、どんなに凄い映像を観ても、CGならなんでもできるよね、とタカを括ってしまうようになってしまったせいでもあります。

思っていた通り、初めはあれだけ度肝を抜かれたCGも、ひとたび馴れてしまえば、もう悲しいほどにそれ自体の感動はなくなってしまうもので(言い換えれば、なんと貪欲でぜいたくな消費感覚)、たとえば「マトリックス・リローデッド」(2003)のネオと無数のエージェント・スミスのとんでもない闘いを観て、確かに凄いと思いつつも、その一方で、これみよがしのCGはもうたくさん、となんだかとても醒めた気分になってしまったものです。

ちなみに、これとまったく似たような思いを、カンフー映画におけるワイヤーアクションの氾濫にも感じたものです。特に、ハリウッドに活動拠点を移してからのジャッキー・チェンが、露骨にワイヤーを使い出したことには、ジャッキーよ、おまえもか...と、かなりショックを受けてしまいました。2003年公開のムエタイアクション、「マッハ!!!!!!!!」が滅茶苦茶面白かったのは、極限まで生身の肉体を駆使した、その原点回帰ともいえるアクション自体の途轍もない凄まじさもさることながら、時代の風潮に真っ向から挑戦する、その製作姿勢がやたらと痛快だったからです。

アクション映画にCGを使うのはもうやめてほしい、などとはこれっぽっちも思いませんが、しかし技術そのものを楽しむ時期は、もうとっくに既に過ぎ去ってしまったのであり、たとえば「ボーン・アイデンティティ」(2002)のように、生身のスタントやアクションにこそ凄みを感じさせてくれる作品――エンドクレジットを見て、初めて視覚効果が使われていたことに気づくような作品や、「ダークナイト」(2008)のように、絢爛たるCGだけが見せ場なのではない、ドラマ性やキャラクターに深みを感じさせる作品が増えることを願うばかりです。

そしてそれとは別に、またいつか、1991年夏の「ターミネーター2」のような、映画の技術史を塗り替えるような衝撃的なテクノロジーを活用した、パラダイムを一新するイノベーティブでエポックメーキングな作品に、度肝を抜かされてみたいとも思うのです。



ターミネーター2(原題: Terminator 2: Judgment Day
製作国 : 米国
公開: 1991年
監督: ジェームズ・キャメロン
製作総指揮: ゲイル・アン・ハード/マリオ・カサール
製作: ジェームズ・キャメロン
脚本: ジェームズ・キャメロン/ウィリアム・ウィッシャー
出演: アーノルド・シュワルツェネッガー/リンダ・ハミルトン/エドワード・ファーロング
音楽: ブラッド・フィーデル
撮影: アダム・グリーンベルグ
美術: デイヴィッド・ワスコ/ベッツィ・ヘイマン
編集: コンラッド・バフ/マーク・ゴールドブラット/リチャード・A・ハリス


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