ゴッドファーザー

人生とは短いものだ
「ゴッドファーザー」のイラスト(マーロン・ブランド その1)

ケイ、これが僕の家族だ。だが僕は違う」

ドラマの冒頭、恋人のケイ(ダイアン・キートン)にせがまれ、組織の目的のためには脅しも暴力も辞さない、コルレオーネ・ファミリーの後ろ暗い一面を打ち明けたマイケル(アル・パチーノ)は、彼女の目を見つめながら、そう口にします。

ニューヨーク五大マフィア最大の実力者、ヴィトー・コルレオーネ(マーロン・ブランド)の三男でありながら、ファミリー・ビジネスとは無縁の戦争の英雄、マイケル・コルレオーネ。フランシス・フォード・コッポラ監督の「ゴッド・ファーザー」(1972)は、そんな穢れのない瞳をした青年が、一族の愛と葛藤、そして血で血を争うマフィアの抗争の中で、それが宿命であったかのように父の跡を継ぎ、やがて家族と組織、二つの"ファミリー"を束ねる、暗く冷たい眼をした"ゴッドファーザー"に成長していくさまを、悠揚迫らぬタッチで綴ったドラマです。

仮に、この世に映画をまったく観たことのない人がいたとして、そんな人に映画の醍醐味を伝える作品を何か一本選ばなくてはならない――なんてことがもしあったとしたら、私が迷わずチョイスするのはこれ、「ゴッドファーザー」。そして時間が許すなら、続けて「ゴッドファーザーPART II」(1974)も観てほしい――とまあ、「ゴッドファーザー」は、映画の楽しさ、面白さ、素晴らしさ、すべてが詰まっていると思える作品です。

私がこの映画を初めて観たのは、もう二十年以上も昔のこと。雪の降りしきる新宿で、「ゴッドファーザーPART II」との連続上映を観て、その圧倒的なエネルギーに打ちのめされながら、ほかの何物でも味わえない、映画の映画ならではの色気に酔い痴れました。

光と影に彩られた、ゴードン・ウィリスの絢爛たる映像美。誰もが一度は耳にしたことがあるであろう、ニーノ・ロータの哀切なメロディ。いずれ劣らぬ名俳優たちによって命を吹き込まれた、コクと深みのある登場人物たち。大河のようにゆったりとうねりながら紡がれていく、骨太で重厚なストーリー。そして、そんなすべての要素が渾然一体となって醸し出す、映画全編に漂う格調の高さと馥郁たる香気――。

「ゴッドファーザー」は、映画に身を委ねる快感をこれでもかと味わわせてくれる、まさにヴィンテージと呼ぶに相応しい、映画の中の映画ではないでしょうか。


「ゴッドファーザー」の世界

なぜ警察へ行った?なぜはじめから私のところに来なかった?」

燦々と降り注ぐ陽光の下、大勢の招待客が集う広大な敷地で、一人娘であるコニー(タリア・シャイア)の結婚披露パーティが盛大に行われている中、ブラインドの下りた執務室の暗がりで、マフィアのドン、ヴィトー・コルレオーネは、目の前に立ちつくす男を見据え、そう云います。

男は、一人娘を街の不良たちに疵物にされてしまった、堅気の葬儀屋。彼は、逮捕された不良たちが、大した咎めも受ずに釈放されたことに憤慨し、"正義の裁き"を求め、ゴッドファーザーに泣きつきます。しかしヴィトーは、男を冷たく突き放します。

「私たちは、もう知り合ってから何年にもなる。だが、おまえさんが私になにか頼みごとをするのは、これがはじめてだ。おまえさんは、これまで私に近づこうとはしなかった。私に借りを作るのがいやだったからだ」

金なら払う、とすがりつく葬儀屋に、ヴィトーは重ねて云います。

「おまえさんは私に敬意を払わない。友人になろうともしない。なぜそんな無礼なことを云う?もしおまえさんが私を友人として尋ねてきてくれたのなら、娘を傷つけた人間のクズどもに、今すぐにでも苦しみを与えてやるのに。おまえさんのような正直者の敵は、私にとっても敵だというのに」

改めて友誼を請い、娘の復讐を求める男の頼みを引き受けたヴィトーは、最後に、こんなことを口にします。

「いつの日か、いやその日はこないかもしれないが、おまえさんに便宜を図ってもらうときがくるかもしれない。その日がくるまでは、この正義を娘の結婚披露の引き出物と思ってくれ」

*       *       *

"ゴッドファーザー"とは、救けを乞い求める同胞に対して手を差し伸べる(そして、そのためには非合法な手段も厭わない)、いわば家父長制の延長上にある擬似的な大家族――恩には恩をもって報い、裏切りには復讐をもって報いる、そんな苛烈でのっぴきならない絆で結ばれた"ファミリー"と呼ばれる利益共同体――といって回りくどければ、犯罪組織のボスのことです(先の葬儀屋もまた、やがて借りを返さなくてはならない時が、しっかりやってくる)。

そもそも"ゴッドファーザー"とは、バプティストの洗礼に際し、新生児のために選ばれる後見人の呼称だそうですが(「バラキ」(1972)より)――映画は冒頭の三十分、組織の表と裏の顔を暗示する、光溢れる宴と薄暗い執務室の鋭いコントラストでもって、この映画の世界における"ゴッドファーザー"の意味するところを、一目瞭然で描き出しています。

作品としての出来栄えうんぬん以前に、私がこの映画に強く惹かれるのは、寄る辺のない異国の地で、"ゴッドファーザー"を中心に結束するコルレオーネ・ファミリーのありように、そこはかとない郷愁と憧憬めいた思いを抱いてしまうせいかもしれません。むろん、そのスケールと結束のあり方に大きな違いはありますが、家長を中心とした秩序のもたらす甘さと安らぎ、そしてその一方にある煩わしさとままならなさの相克は、核家族化が進んだ現在はともかく、それほど遠くない昔、多くの日本人にとって、割合馴染み深いものだったのではないか。

たとえば大家族で囲む食卓の情景、家族以外のオトナがいつも周囲にいる風景、仕事と家庭の境目が混然となった日常、あるいは親兄弟やそれぞれに思惑を抱えた親族に対する愛憎なかばの感情――といったもろもろは、実家が商売をしていた私自身の原風景ともどことなく似通ったところがあります。父権が隅々までに及ぶ家族のあり方が嫌で、私自身は進んでそのくびきから逃れる方向に生きてきましたが(なのでソニーやフレドに比べ、遙かにマイケルに共感を覚える)、この映画に描かれたファミリーの強い絆を目にすると、煩わしさよりもむしろその心強さが、なんだか懐かしく思い出されてくるのですね。



"ヒーロー"として描かれた、ビトー・コルレオーネ

ょうどこの映画を初めて観たころ、池波正太郎の時代小説にはまっていました。池波小説には、"ゴッドファーザー"と本質的に似たところのあるキャラクターを主人公に据えた作品がいくつかあります。たとえば「剣客商売」「鬼平犯科帳」がそれ。むろん、「ゴッドファーザー」とはまったく異なる世界とスケールの物語ですが、いずれも器の大きな主人公が、市井の人々に便宜を図ることによって、次第に街の世話役、というか顔役――主人公の属するコミュニティを家族に見立てた仮想家父長制の家長になっていく、というところに共通点があります。

たとえば、ローレンス・ブロックの"マット・スカダー・シリーズ"もまた、本質的に似たキャラクターを主人公に据えた小説であり、あるいは石田衣良の"池袋ウエストゲートパーク・シリーズ"も、この状況設定を踏襲した物語といっていいでしょう。これらの小説の主人公は、いずれも貧しい人たちから金銭的報酬を受け取ることはなく、しかしどんな難しいトラブルでも魔法のように解決してしまう(そしてその行動の結果として、金も人望もあとからついてくる)、街のトラブル・バスター――空を飛ばない"スーパーマン"です。

「ゴッドファーザー」のイラスト(マーロン・ブランド その2)

現代アメリカの裏面史ともいうべき、ニューヨーク五大ファミリーの抗争劇に材をとり、ところどころに現実の事件を翻案して織り込んだ「ゴッドファーザー」には、社会のどこかにぽっかり口を開けた奈落をおそるおそる覗き見る、いわばアングラ世界を取材したルポルタージュを読むのにも似た、ぞくぞくするリアリズムの慄きがあります。しかしその一方で、遵法精神はなくとも、己の信じる正義にとことん忠実であるヴィトーの佇まいには、弱きを助け強きを挫く、ファンタジックで作り物めいたヒーローの香りが漂っていたりもします(そしてそれは、若き日のヴィトーを描いた続編「ゴッドファーザーPART II」を通じて、さらに強くなる)。

コルレオーネ・ファミリーと並ぶ有力組織、タッタリア・ファミリーを後ろ盾に持つトルコ系のギャング、ソロッツォ(アル・レッティエリ)と会合し、麻薬ビジネスへの援助を請われたヴィトーは、ドラッグの将来性を説く後継者のソニー(ジェームズ・カーン)や相談役のトム・ヘイゲン(ロバート・デュバル)の意見を退け、首を横に振ります。これが発端となり、ヴィトーはソロッツォの銃撃を受けて生死の境を彷徨い、やがてはマイケルによる報復とシシリーへの逃亡、さらに五大ファミリーを巻き込んだ全面抗争へ、とドラマはダイナミックに展開していきます。

とまあ、ヴィトーがドラッグを拒絶しないことにはドラマが動き出さないのであり、そこに何かほかの意味を探しても仕方ないのですが、しかしそれでも、ドラマの重要な変曲点をなすこのエピソードには、ヴィトーをヒーローとして描ききるのだという製作者(原作者)の意志を妄想してしまったりもします。オリーブ・オイルの貿易を生業とするコルレオーネ・ファミリーの裏稼業は、賭博、酒、労働組合への介入、裏社会へのファイナンスで、いずれも非合法でありながら、大半の鑑賞者の倫理観と照らし合わせて許容範囲ぎりぎりの悪徳であるようにも思えます。しかし、もしヴィトーが麻薬ビジネスに積極的に手を出すようなキャラクターであれば、鑑賞者が彼に感じるヒーロー性は雲散霧消してしまっていたのではないか(麻薬ビジネスに携わっていた「バラキ」のヴィトー・ジェノベーゼ――一説にはヴィトー・コルレオーネのモデルであるとされる――に、ちっとも共感できないように)。

とはいえ、なにゆえに非合法組織のボス、しかも切れ者であるヴィトーが濡れ手で粟のドラッグに手を出そうとしないのか――ここに、この映画のリアリズムとファンタジーのせめぎ合いがあったように思います。映画は(原作も)、ヴィトーのビジョンとビジネスモデルが時代から乖離しはじめていることを仄めかしつつ、麻薬ビジネスが彼の強みである政財界とのコネを中長期的に壊してしまう恐れがあるという、それなりに説得力のある理由によってこの難所を乗り越えているのですが――もしヴィトーがドラッグを拒む理由として、それが人の道に外れたものだから、みたいなことを口にしていたら、おそらくこの映画のリアリズムはなし崩しになってしまっていたことでしょう。



言い訳の必要のない、ヴィトーの人生

ィトーのヒーロー性について、もう少し書きます。ドラマの終盤近く、半ばリタイアした(そしてボケはじめてもいるらしい)ヴィトーが、後継者として"ファミリー"を掌握しつつあるマイケルと昼下りのテラスで語り合う場面があります。ワインを飲みながら、マイケルに家族の近況を尋ねつつ、ふと思いついたように、鋭いビジネス上のアドバイスを口にしたりもするヴィトーは、信念に従って非合法なことにも手を染めてきた人生を振り返り、こんなことを云います。

「言い訳はしない。これが私の人生だ」

とまあ、ヴィトーにそんなセリフを云わせつつも、前述の通り、映画は全編にわたって、ヴィトーへの共感を傷つけかねないエピソードや描写を注意深く避けており、少なくとも私が許せないと感じる行動やふるまいは、「ゴッドファーザー」「ゴッドファーザーPART II」を通じ、まったくありません。要するにヴィトーは、そもそも"言い訳"の必要な非道さを観客に見せていないのであり、そんなわけでこのセリフ、実は、ヴィトーが自分に対して厳しい男であるという印象を際立せ、そのヒーロー性をさらに強めるものでしかなかったりします。

この映画、初公開時には、暴力を礼賛しているというネガティブな評もあったようです。こうして改めて観ると、マフィアのボスをヒーローに仕立て上げているやり方は確信的で、なるほどそんな批判もむべなるかな、なのですが――それがどうした、であります。だって結局のところ、ヴィトーがヒーローとして描かれているからこそ、「ゴッドファーザー」という映画は魅力的で面白いのだから。



リアリズムを背負わされた、マイケル・コルレオーネ

はいえ、このドラマがただのファンタジーで終らないのは、ヴィトーをヒロイックに描く一方で、そのやり方が次第に通じなくなってくる時代の変化と苦味を、現実味のある文脈で描いているからです。ただし、そのリアリズムを背負っているのは、ヴィトーではなく、彼の後を継ぐ、三男マイケル。このあたりの感想は、「ゴッドファーザーPART II」の記事に書いたので、しつこく繰り返しませんが、「ゴッドファーザー」に関わる範囲でひとつ書き加えるとすれば、マイケルは、ゴッドファーザーの称号を継いだその日から、ヴィトーの分まで重い十字架を背負わされる運命にあったのだなあ、ということ(そしてヴィトーのヒーロー性は守られる)。


「ゴッドファーザー」のイラスト(ジェームズ・カーン)

長男であり、後継者でもあったソニーが惨殺されたことに対し、ヴィトーは報復を禁じ、むしろそれを契機として抗争に終止符を打とうとします。しかし、それはあくまで、シシリーに逃亡中のマイケルの身の安全を確保するための深謀遠慮であり、ヴィトーはマイケルが帰還し、彼の後継者としての道を歩み始めると、マイケルとともに、敵対する"ファミリー"を一挙に殲滅し、裏切り者を粛清し、さらには"ファミリー"が新たに進む道としてラスベガスのカジノを乗っ取る計画を、着々と練り上げます。ところが潮が満ちたときにヴィトーは既にこの世になく、その恐ろしくも忌まわしい計画を実行するのは、マイケルひとりなのですね。

「人殺し!パパが死ぬのを待ってたんだわ。誰も止める人がいなくなるまで」

夫のカルロ(ジャンニ・ルッソ)がマイケルによって殺されたことを直感した妹のコニーは、半狂乱になってマイケルを責め立てます。コニーに対し、カルロ殺しを認めることのできるはずもないマイケルは、それが実は、父ヴィトーの意志でもあり、また計画であったとことを明かせるわけもなく、その非難を、ただただ一身に受け止めなくてはなりません。

「ゴッドファーザーPART II」で、時代と環境はマイケルにとってさらに過酷なものとなっていき、偉大な父と彼の人間力の違いもまた、次第にごまかしようのないものとなっていきます。

仁義なき時代に、裏切りに復讐をもって報い続ける孤独なマイケルと、古きよき時代の中で、恩には恩をもって報いることですべてがうまく回転していく若きヴィトーを、これでもかとばかりに比較してみせる続編「ゴッドファーザーPART II」は、考えてみれば、マイケルにとって、かなり残酷で不公平な映画かもしれません。



"人生とは短いものだ"

ゴッドファーザーPART II」の記事で、「ゴッドファーザー」に、あとから観てもどうしても見つからない幻のセリフの記憶がある、と書きました。今回、DVDで改めて見直したところ――なんとなくわかりました、どういうことだったのか。

それは、上記で触れた、ヴィトーとマイケルがワインを飲みながら会話をする場面。最初にこの映画を観たとき、ここでヴィトーが、「マイケル、人生とは短いものだ」という詠嘆のセリフを口にした思い込み、そのセリフにえらく感動したつもりでいたのですが、しかし再見したら、そんなせりふはなかった――というのが長年のナゾでした。ところがDVDを観たら、なんとあったのです、このセリフ。字幕なしで観ていて、ハッと気がつきました。

"Just wasn't enough time, Michael. Wasn't enough time."

いったいどういうことかというと、おそらく、字幕のモンダイだったのですね。

DVDを字幕アリにして確認してみたところ、このセリフ、「お前にはもうなにもしてやることができん」と訳されていて、かなりの意訳ともいえる翻訳になっていました。二十年前に映画館で観たときは、おそらくここに「人生とは短いものだ」という訳があてられていて、その後、ビデオやテレビ放映で観たときには、今回のDVDと同じような訳があてられていたのではないか――と思う次第。文脈的に、実は、「お前には―」の方が、より正鵠を得ていたりするのですが、とはいえ「人生とは―」の方が、最晩年に自分の人生を振り返ったことばとして(さらには半分惚け始めてでもいるかのように、唐突に話題を飛ばすこの場面のヴィトーのセリフとして)味があり、それになにしろ名セリフです。

それにしても、外国映画を観るとき、その印象が、字幕にいかに左右されてしまうのかということを、改めて感じました。吹き替えなしのオリジナルを観ているつもりでも、実は字幕が付けられた段階で、それはもう、オリジナルとはどこか違う作品なのかもしれません。



コッポラ・ファミリーと「ゴッドファーザーPART III」のこと

ッポラ監督は、イタリア系アメリカ人として、まるでこの映画のテーマをなぞるがごとく、シリーズにおいて血縁者を多数起用しています。そのひとりが作曲家の父、カーマイン・コッポラ。ニーノ・ロータのかの有名な"ゴッドファーザー・ワルツ""愛のテーマ"と並び、カーマイン・コッポラ作曲の曲がいくつか使われており、またPART IIではオーケストラの指揮を執っていて、さらに本作では端役で出演したりもしています(コッポラの母親もまた、エキストラの一人として出演している)。そしてもうひとりの血縁が、コニーを演じるコッポラの実妹、タリア・シャイア。本作のエンディングで、マイケルに泣いて食ってかかる場面の猿人顔を観ると正直ちょっとツライ――なんて思ってしまいますが、そもそも原作においてコニーは不美人とされており、またPART IIでのマイケルに対するアンビバレントな感情表現が素晴らしいので、まあいいです。モンダイは、そう、誰もが糾弾せずにはいられない、「ゴッドファーザーPART III」(1990)のソフィア・コッポラ。

PART IIIが公開されたのは、ちょうど渡米したばかりの頃で、それこそ胸をときめかせながら映画館に足を運んだものです。ところがいざ蓋を開けてみれば、ソフィア・コッポラのせいですべてが台なし。PART IIIの大きなテーマは、最愛の息子と娘に対するマイケルの愛(PART IIのマイケルが嘘のように、PART IIIでは、打って変わって喜怒哀楽のあらわな感情豊かな男に変貌する)。で、その重要にもほどがある存在の娘を演じていたのがソフィア・コッポラ、なのですが、もう登場した瞬間、そのオーラのない一目瞭然の役不足感に、えっ!?と目を疑いました。

"ファミリー"の合法化を目指すマイケルの晩年を、バチカンの不正融資事件を絡めて描く「ゴッドファーザーPART III」のプロットは、前作までとは趣向を異にする、一種の政治謀略劇として面白いものでした。しかし、ソフィア・コッポラがスクリーンに現われるたび、悲しいほどに萎えてしまう気持ち。エンド・クレジットを観て、あれっ?と思うまで、コッポラ監督の係累だとはまったく気づきませんでしたが、彼女が監督の実の娘であるということを知って余計、この配役に対する、やり場のない怒りに体が震えました(ちなみにソフィア・コッポラは、洗礼を受けるコニーの赤ん坊役として「ゴッドファーザー」にも出演しており、また「地獄の黙示録 特別完全版」(2001)にも端役の子役として出演している)。

PART IIIは、ほかにもトム・ヘイゲン(ロバート・デュバル)が出演していない、マイケルの髪型が角刈りみたいになってしまった、と気に食わないことが多いのですが、ソフィア・コッポラの存在に比べれば、すべて些細なことであります。



ゴッドファーザー(原題: The Godfather
製作国 : 米国
公開: 1972年
監督: フランシス・フォード・コッポラ
製作: アルバート・S・ラディ/ロバート・エヴァンス
脚本: マリオ・プーゾ/フランシス・フォード・コッポラ
原作: マリオ・プーゾ(「ゴッドファーザー」
出演: マーロン・ブランド/アル・パチーノ/ジェームズ・カーン/ロバート・デュヴァル /ダイアン・キートン/ジョン・カザール/タリア・シャイア/アル・レッティエリ/リチャード・カステラーノ/エイブ・ヴィゴダ/スターリング・ヘイドン/リチャード・コンテ
音楽: ニーノ・ロータ
撮影: ゴードン・ウィリス


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コメント

[C8]

私の好きな映画ばかりです。

是非、良ければブロともに、、、。

おねがいします。

[C9] >光隆さん

コメントありがとうございます。
ごめんなさい、まだブログをはじめて一週間、わからないことばかりで、ブロともというのもやっていないのです。。。でも、これからも特に限定で記事を公開する予定はありませんので、暇があったらまたぜひのぞいてみてください!
  • 2008-12-03 17:35
  • Mardigras
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[C622] おはようございます☆

mardigrasさん、ちょっとお久しぶりですネ☆
毎日暑いですけど、お元気にしていますか?

「砂の女」のイラスト、本当に素晴らしいと、ため息ついて見せて頂きました。
小説も未読で、映画も未見ですが、記事は何回か読ませて頂きました。
いつか映画だけでも鑑賞したいなぁ・・・と思います。

ところで、今月も「ブログ DE ロードショー」 のご案内に参りました。

作品名:『ゴッドファーザー』 
(1972年・アメリカ製作作品 監督はフランシス・フォード・コッポラ)です。

今月の、この作品を選んでくださったのは、 「そのスピードで 」 の ケンさんです。
(ケンさんは、この企画に第1回目から参加して下さっています☆)

選んで下さった理由は

・夏なので、半端な映画じゃ食指が動かないから。
・とはいえ、意外と「食わず嫌い」の人もいるかも。
・暴力描写が怖い、古臭い、暗くて難解…などと誤解されてそう。
・女性も含めて多くの人と、陰鬱で壮大な叙事詩を味わいたい。

 ・・・との事です。

鑑賞日は8月20日(金)~22日(日)の三日間です。(お忙しくてご都合の悪い場合は後日でも結構ですよ~!)
是非、皆さんと、一緒の時期に、同じ映画を見て、ワイワイ言い合いたいと思います。
(感想・レビューは強制ではありません)

きっとこの作品DVDは、持っていらっしゃいますよね?
ご一緒に楽しみましょう~♪
  • 2010-08-13 05:36
  • miri
  • URL
  • 編集

[C623] >miriさん

おはようございます、毎日ホント暑いですね~。

「砂の女」の記事、未見なのに読んでくださってありがとうございます!イラストは、そんなふうに褒めていただくと恥ずかしい限りです。映画、いつかぜひぜひ、ご覧になってみてくださいね!(小説も短いので、機会があれば...)

「ゴッドファーザー」のお知らせありがとうございます。これに限らずPARTII、PARTIIIのビデオもあるので、観始めたらおそらくやめられない止まらないで、全部観ちゃいそうで怖いですが、でもまあそれもいいかってことで、ぜひとも参加させていただきますね~。

[C626] こんばんは☆

今日鑑賞しました。感想文は月曜日にアップします。
mardigrasさんは、記事描かれる(書かれる)のですか~?

>吹き替えなしのオリジナルを観ているつもりでも、実は字幕が付けられた段階で、それはもうオリジナルとはどこか違う作品なのかもしれない、ふとそんなことを思ってしまいました。

でもね・・・字幕がなくては、分かりませんもの・・・。
それにね、日本語ってかなり難しくて、邦画を見ていても、方言とかではなくて、意味が(本当の意味が)伝わらない時もありますよね?

映画は、言葉も・ものすごく大切ですけど、総合芸術ですものね、字幕付きでお許しくださいね☆
  • 2010-08-20 18:45
  • miri
  • URL
  • 編集

[C628] >miriさん

こんばんわ、コメントありがとうございます。

>それはもうオリジナルとはどこか違う作品なのかもしれない...
という感想は、それ以上でもそれ以下でもなくて、特に他意はないのですが、もしもお気にさわったようでしたらすみません。。。翻訳者の塩梅ひとつで解釈は変わってしまうのだな~という、とても個人的な感想です。そもそも私もたいてい字幕付きで観てま~す。

ちなみに映画は吹き替えよりも字幕がありがたい、なぜならオリジナルだから...なんてことを思っていた時期があるのですが、ここ数年、それがちょっと、とんちんかんな思い込みだったように感じています。小説だって翻訳が当たり前だし、映画の吹き替えも、その道のプロの仕事を供されるままに味わえばいいのかなと。おっしゃるとおり、総合芸術ですものね!

映画は明日あたり観る予定です。何か思うことがあったら、「ビッグ・ウェンズデー」のときのように記事にしようかなと思っています。

[C630] こんにちは

冒頭の葬儀屋と話しているシーンからヴィトーが怖い人にみえて、ちょっと引いてしまいました。息子たちを愛してるのは伝わってくるんですが、それ以外のつながりはうわべだけという感じがして・・・。(花を捨てるシーンとか)
でも、音楽や映像は素晴らしかったです。

>映画は吹き替えよりも字幕がありがたい、なぜならオリジナルだから...

少なくとも声の演技はオリジナルになりますし、わたしも字幕のほうが好きです。幾つかの翻訳を比べて楽しむ人もいるみたいですしね~。
  • 2010-08-22 17:53
  • 宵乃
  • URL
  • 編集

[C631] こんにちは☆

何回もしつこくて、ゴメンなさい。
私はフランス語やイタリア語の“唄うような話し方”を、聞くのが、とても好きなんです。
英語もまぁまぁ、ドイツ語やスペイン語やロシア語なんかも好きです☆ 
ヨーロッパの方の言葉が好きなんですよね。言葉が音楽のように聞こえるのです。

・・・吹き替えより字幕の方がやっぱりオリジナルに近いと思います。
「声の演技」と、宵乃さんが書いていらっしゃいますが、多分、同じような意味だと思います。

吹き替えは吹き替えで良い点も多いけど、大人が見る洋画は字幕が良いです☆
この映画もM・ブランドのあの声が素敵でした♪

追伸:
>特に他意はないのですが、もしもお気にさわったようでしたらすみません。。。
全然大丈夫です~!こちらこそ、ゴメンなさいね☆
  • 2010-08-23 10:57
  • miri
  • URL
  • 編集

[C632] >宵乃さん

こんにちは、コメントありがとうございます。
葬儀屋との会話、、、いつかお返ししてもらう日がくるかも...というのがコワいですよねぇ。葬儀屋からすれば、だから借りを作りたくないんだみたいな。マイケルは徹底的にビジネス・ライクに見えるんですけど、私は、ヴィトーには、同胞に対する損得を超えた人情味をどこかしら感じてしまうんです。もしかしたら、PARTIIの若い頃のヴィトーの印象が影響しているのかも...

しばらく前に、ヴィスコンティだとか、ブルース・リーの映画だとか、私の好きな作品の中にも、実はそもそも製作時点で声優の吹き替えているものがけっこうあると知って、ちょっとがっかりすると同時に、逆に、あまりこだわらなくてもいいかな~とも思うようになったんです。また吹き替えの方が、映像に集中できたりもするし...とはいえ、あえて吹き替えで観ようとはあまり思わないんですけどね(笑)。


[C633] >miriさん

こんにちは、
私も音としてのフランス語は大好きですよ~。柔らかくて、音を聴いてるだけでもけっこう心地よかったりしますよね。

オリジナルに近いかどうか、、、という意味では、おっしゃるとおり、吹き替えよりも字幕の方がオリジナルに近いのは間違いないと思いますよ~。ただ単に、私個人の嗜好というか価値観として、吹き替えよりも字幕がありがたいという気持ちが薄れてきた、ということです。いずれにしても、人それぞれ好みの観方で楽しめばいいんじゃないかと思います!

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