映画史上最高のフィスト・ファイト

「燃えよドラゴン」(1973)に続き、カンフー映画のご紹介。ブルース・リーとくれば、お次はジャッキー・チェン。1984年公開の「スパルタンX」であります。
私が多少なりとも物心つくようになった頃、ほんの五本の主演作を遺し、既にこの世を去っていた、ブルース・リー(「死亡の塔」(1981)は含まない)。私にとって、そんな不世出のカリスマが、伝説のヒーローだったとすれば、ジャッキー・チェンは、中学から高校にかけての数年間、リアル・タイムでその活躍に胸を躍らせた、等身大のヒーローとでもいうべき存在でした。
私が映画館で初めて観たジャッキー・チェンの出演作は、1981年公開の「キャノンボール」。錚々たるハリウッド・スターたちの中にあって、小柄な東洋人が、デカいアメリカ人たち(含むピーター・フォンダ)をばったばったとなぎ倒してみせる、そのアクロバティックなアクションに、ほとんどカルチャー・ショックに近い衝撃を受けました。出番がほんのちょっぴりだったにも関わらず、もう、一気に心を持っていかれてしまったのです。
以来、テレビ放映を観るのはむろん、新作・旧作にかかわらず、ジャッキー・チェンの映画とあらば、欠かさず映画館に足を運ぶようになりました(それは1989年の「奇蹟/ミラクル」まで続く)。そして1984年2月、映画館を二度訪れ、それぞれ二度ずつ、都合四度も観てしまった「プロジェクトA」を経て、同年の年末、私が高校二年生のときに公開されたのがこれ、「スパルタンX」。
「スパルタンX」は、「五福星」(1983)、「プロジェクトA」に続き、ジャッキー・チェン、ユン・ピョウ、サモ・ハン・キンポーの三人が揃い踏みした、三本目の作品で、当時はもう、それだけでもありがたくてひれ伏してしまったものですが――しかしこの映画の真の価値は、ほかのところにありました。
映画史上最高のフィスト・ファイト
毎度のことながら、不自然だろうとなんだろうと、とにかく無理矢理闘う(あるいはギャグを挟み込む)場面を作り出していく、あってなきがごとしのストーリーと、唐突にもほどがある場面展開。あるいはバルセロナでのオール・ロケを売りにした、とはいえ、スペインである必然性のまったくない、はじめにスペイン・ロケありきとしか思えない、舞台設定。
白状すれば、当時は、そんな何もかもが、いちいち嬉しくありがたかったものですが、しかし今観ると、さすがにその安っぽさがちとツラい――とまあ、オトナの感想が頭をよぎったりもするのですが、でも、そんなの関係ねェんです、この映画の場合!!(アントニオ猪木調)
映画の中盤、悪党一味が悪だくみを相談している場面で、画面の片隅に、ラテン系の男がちらりと映ります。やや猫背気味、みっしりとした筋肉で肩が盛り上がり、三白眼の上目遣いで唇をひんまげ、にやりと笑ってみせる、いかにもやばそうな、小柄な男。初めて観たときは、あまりの何気なさに目を疑いながらも、あっと息を呑みました。
(えっ、嘘だろ?まさか、ベニー・ユキーデ!?)
ベニー・"ザ・ジェット"・ユキーデ。"怪鳥"の異名を持つ男。それは当時、格闘技(あるいはプロレス)ファンなら誰もが知っていた、アメリカのフルコンタクト空手の世界チャンピオン(私の弟は、部屋にポスターを貼っていた)。かつてアントニオ猪木の異種格闘技戦の前座を務めたことがあり(1977年のモンスターマン戦)、また、梶原一騎がマンガでその強さを煽ったこともあって、日本のファンに幻想を振りまきまくっていた、伝説のマーシャル・アーティストです。
経緯は知らず、そんな男が、いきなりスクリーンに登場したものだから、たまげたのなんの。まさか、演技力を買われて出演するはずもなく(そもそも演技力を求められる映画ではない)、ということは、つまりベニー・ユキーデが、これから暴れまくる!!
――というわけで、もうそこからは、ただひたすら、ひとつのことを祈りながらの鑑賞。
(神様、後生です。サモ・ハンじゃなくて、ジャッキーとベニーを闘わせてください!!)
「スパルタンX」の監督は、サモ・ハン・キンポーです。そして言うまでもなく、彼はカンフー・スターでもあります。そんなわけで、この映画の最大の見せ場になるであろう、ベニーの対戦相手が、ジャッキーではなく、サモ・ハンだったらどうしよう――と、映画の筋とはまったく関係ない心配で、頭がいっぱいになってしまったのでした。

そしてドラマの中盤、早くもベニーとジャッキーの対決が実現します。それは、ほんの数合、小手調べの手合わせに過ぎませんが――これがもう、凄いのなんの。バババッ、ババッ、バババババッ!と、パンチとキックが、目にも止まらぬ速さで交錯するのです(ことばで説明できません。要映像確認)。
でもってジャッキーが、打たれて弾かれて、びっくりした顔で、「つ、強い」とかなんとか呟くのですね。もうこれだけで、おおおおおおっ!と、当時の私は大興奮。
(こんな、一瞬のファイトでここまで凄いなら、目一杯のファイトはいったい、どんだけ凄いんだ)
と、否が応にも期待のメーターは、振り切れんばかり。しかしその一方で、
(ジャッキー対ベニーはこれで終わりにして、最後のいちばんおいしい闘いは、自分がやる気では?)
と、サモ・ハンに対する疑心も、膨らむばかり。
やがて、意外にも、クライアマックスを迎える前に、ジャッキー対ベニー、二度目の対決が実現します。しかし、この第2ラウンドもまた、ほんの数合にておしまい。
(ここまで二度も闘って、さすがにもう打ち止めか。やっぱりそうなのか。サモ・ハンのヤロー!)
とまあ、映画館の暗闇で、ドラマとまったく関係ない、下手なサスペンス映画以上のサスペンスとスリルに、ひとりやきもきどきどきしていたのですが――しかし、そんな私の不安は杞憂に終わり、クライマックスで、ついに、ベニーとジャッキーが、三度目の、そして今度は正真正銘、真正面からがっぷり四つの、大激突。ありがとう、サモ・ハン。疑って、すまなかった!
「ドラゴンへの道」(1972)のブルース・リーとチャック・ノリス、素晴らしかったです。「死亡遊戯」(1978)のブルース・リーとカリーム・アブドゥル・ジャバーの激闘、震えましたです。そして「ヤング・マスター 師弟出馬」(1980)のジャッキー・チェンとウォン・インシクの足技勝負、本当に凄かったっす。
しかし1984年、そんな、カンフー映画に燦然と輝く栄光のファイト・シーンのすべてを凌駕する、壮絶なベスト・バウトが、ついに実現。それが、ジャッキー・チェン対ベニー・ユキーデ。
凄いスピード!凄いキレ!それはもう、極限まで沸騰していた私の期待を遥かにぶっちぎる凄まじさ。髪の毛がちりちりと焦げそうな、ジャッキーの拳圧。キャンドルの火を吹き消す、ベニーの後ろ回し蹴りの風圧。そして、ソリッドにもほどがある打撃の応酬に、飛び散る両者の玉の汗。それまでまったく目にしたことのない、カンフー映画のフォーマットを超えた、まさに映画史上に残る、ビッグ・ネーム同士の、生身の肉体をぶつけあった、リアルなファイト・シーン。これほどカタルシスに満ち溢れた、スパルタンにもスパルタンなファイティング・スペクタクルは、後にも先にも、これっきりです。
「スパルタンX」から数年後、「サイクロンZ」(1987)において、ジャッキーとベニーは、再度、拳を交えます。このときもまた、ベニー・ユキーデが出ていることを知らず、スクリーン上にその姿を見つけたときは、あっと思ったものです。こちらのファイトも凄いものですが、とはいえ二度目。「スパルタンX」のファースト・インパクトには、かなわない。
「スパルタンX」以上に面白い、あるいは完成度が高いと思うジャッキー映画もあります。たとえば、伝統的なカンフー・アクションのフォーマットに則った、1970年代の最高傑作、「ドランク・モンキー 酔拳」(1978)。あるいは独創的なアイデアのアクションとギャグがふんだんに詰め込まれた、カンフー映画の革命にして、ジャッキー永遠の代表作、「プロジェクトA」。それでもジャッキー対ベニーという夢の対決(とそれに大興奮した思い出)があるがゆえ、私にとってジャッキー映画のベストといえば、やっぱり、「スパルタンX」なのです。
余談
「スパルタンX」は、公開時、「ドランク・モンキー 酔拳」や「少林寺木人拳」(1976 *日本公開は1981)などと同じく、配給元の東映によって、日本公開版に独自の主題歌が付け加えられていました。それが、キース・モリソン作、"SPARTAN X"(キース・モリソンは、作曲家、木森 敏之の別名)。プロレスラーだった、故・三沢光晴が入場曲として使っていましたが、彼がこの曲を使い始めた頃、曲のイメージが壊れるからやめてくれ、と思った覚えがあります。
この映画のDVDを持っていますが、マスターが日本公開版ではないため、残念ながら、"SPARTAN X"が流れません。アップ・テンポで明るい、この主題歌抜きでは、思った以上に気分が出ず、正直、公開当時の魅力が2、3割、減じてしまっているような気さえします。
* * *
ベニーとのファイト中、強烈な一発をくらったジャッキーが、にやりと笑ってみせながら、「やるね」と親指を立てる場面があります。これ、今はなき、PRIDEという総合格闘技の試合で、まったく同じことをやってみせたヤツがいます。
もうずいぶん前になりますが、カーロス・ニュートンという、柔術出身のカナダ人の格闘家が、ブラジル出身のストライカー(打撃中心の選手)のペレという選手から、アゴに思い切り、膝蹴りを喰らったときのこと。誰もがダウン必至と思った厳しい一発だったにもかかわらず、ニュートンは、ふらつきながらも顔を上げ、親指を立てて、にやっと笑ってみせたのですね。場内、やんやの大歓声。その後、あたかもジャッキーがベニーを逆転するように、ニュートンはペレの関節を極め、逆転勝ちします。はたしてニュートンは、「スパルタンX」を観たことがあったのでしょうか(おそらくあったはず)。
カンフー映画の罪作りな影響力
冒頭に書いた通り、中学生から高校生にかけての私にとって、ジャッキー・チェンは、正真正銘のヒーローでした。当時、この、ジャッキー・チェンの映画をはじめとするカンフー映画に、私と私の友だちたちがいかに影響を受け、そして人生の一時期、その拠って立つ地軸をいかに狂わせてしまったかについて、思い出話を書こうと思います。
当時、中高一貫の男子校に通い、心身ともに女っ気の一切なかった私と私の友だち数名は、カンフー映画の世界にハマッてしまったせいで、ひととき、まるで熱病にでもかかったように、ひたすら強さの追求に明け暮れたことがあります。といっても、空手部や柔道部に入部したわけではなく、まして不良になって喧嘩してまわったわけでもなく、私たちが追及した強さとは、そう、カンフーの修行。要するに、スクリーンの中でしかありえない、架空の強さに、本気で憧れていたのであります。
ジャッキー映画に限らず、カンフー映画といえば、必ず映画館に足を運んでいた私たちですが、ちょうど、観るだけではそろそろ飽き足らなくなりはじめていた頃に出会ったのが、1982年公開の、「少林寺」。いまや、ハリウッド・スターとなった、ジェット・リーのデビュー作です(当時の名前は、リー・リンチェイ)。
「少林寺」の売り文句は、ホンモノのカンフーの達人たちが出演するリアルな映画、というものでした。しょせんは絵空事にすぎない、従来のカンフー映画と異なり、「少林寺」には、中国武術大会五年連続総合チャンピオン(リーのことです)をはじめ、蟷螂(とうろう)拳のチャンピオンや、鷹拳のチャンピオンといった武術家が大挙出演、と、少年マンガ雑誌等でさかんに煽りまくっていて(嘘ではありませんが、これらは格闘技ではなく、あくまで演武競技)、疑うことをしらない私たちは、その説明(宣伝)をストレートに受け止め、いよいよ本物のカンフーを目の当たりにするときがきた、と色めき立ちました。
いざ映画が公開されるや、七、八人で映画館へ。そしてそのあまりの素晴らしさに、全員が全員、ものの見事にハマってしまいました。あまりにハマリすぎて、「プロジェクトA」と同じくそのまま続けて二度観て、後日再び観に行って、またニ度観てしまったくらい。
私たちがいったい、「少林寺」の何にそんなにハマってしまったかといえば、それは、武術家たちの技とスピード、身体のキレ。映画の初めから終わりまで、それまで観たことのない、あまりに凄まじい立ち回りの連続で、一回観ただけでは、彼らがどう動いてるのか、さっぱり理解することができませんでした(今思えば、それは格闘技というより、器械体操に近い動き)。
そして、そんな武術家たちが演じる若い僧たちの修業風景――修行僧たちがお堂に集まり、師匠の掛け声に合わせて型の練習をしたり、あるいは庭に散らばって、各自、思い思いにさまざまな修練をしたり――が、強さに憧れる、私たちの心のど真ん中を貫いたのです。映画を観ながら、私たちはみな、心の中で、同じことを考えていました。
「これはもう、修行するしかない!」
こうして、私たちのカンフー修行は始まりました(バカ)。修行といっても、それは要するに、映画で観たお気に入りの動きの真似。それぞれ、あれをやってみたい、これができるようになりたいという動きがあり、昼休みに体育館に集っては、各自、その動きの練習。ある者はムーン・サルトみたいなジャンプを練習をし、ある者はバレエ・ダンサーのような回し蹴りを練習。またある者は型を練習をし、またある者は――、という具合。映画を何度も繰り返し観たのは、要するに、武術家たちの動きが、一回観ただけでは、とても把握できなかったからです。
では、私の特訓が何だったのかといえば、それは、腕を後ろに組み、頭を地面につけて回る、前方転回。腕ではなく首を使う、前方転回です(これ、カンフーなのか?今思うと)。いきなりそんなことをすれば、首の骨が折れてしまうに決まっているので、まずは、首を鍛えるところからスタート。そう、ブリッジです。
こうして私は、ある期間、来る日も来る日も、昼休みになると体育館のマットの上で、ひたすらブリッジをしていました(バカ)。そうしてしばらくするうち、私の首は目に見えて太くなり、そろそろいいかと思えたころ、まずは分厚いマットの上で、前方転回の練習開始。ところが、これがなんと、一回目からあっさりと、ぐるりと回ってすくっと立ち上がれてしまったではありませんか。しかも、首の痛みなし。そのときの気持ちといったら!
「修行の成果が出た!」
と大喜び(大バカ)。その後、徐々にマットを薄くしていき、ついにはいちばん薄いマットの上で、しかも連続して回転することすらできるまでに。むろん最終目標は、映画のように、地面の上での敢行でしたが、結局、それだけは躊躇してしまい、とうとうやりきることができませんでした(やらなくて本当によかった、としみじみ思う)。
とはいえ、いまだに頭頂部に毛が生えているのが奇跡と思えるくらい、毎日毎日、マットの上に頭をついては、ぐるんぐるん回りまくっていたものです。まさに、貴重な青春のエネルギーの無駄遣い(当時、プロレスにハマッていたヤツらも多数おり、やはり同じように、昼休みの体育館で、プロレス技の習得に余念がありませんでした。私は多少、そちらにも関わっていたりして、一方、男子校のくせに彼女がいるような、少しでも垢抜けてるヤツは、マットの上でくんずほぐれつのたうちまわる私たちを尻目に、バスケなどをやっていました)。
こうしてひととおり、目標としていた動きの習得に目処が立つと、いつしか私たちの関心は、武術そのものに向かうようになりました(だからといって、空手部には入りません。興味はあくまで、カンフー)。そんなある日、仲間の一人が言い出しました。
「カンフーの通信教育があるらしい」
確か、少年マンガ雑誌に載っていた、いかにも怪しげな、広告だったと思います。三万円くらいを払い込むと、蛇拳だとか、蟷螂拳だとか、虎拳だとかのテキストが送られてきて、それをもとに自主トレーニングする、といったものです。それを、みんなで金を出しあってやらないか、というわけです。即座に賛同する数人。で、私がどうしたかといえば、今でもそのときの自分を褒めてやりたいぐらいですが、きっぱり断りました。そんなもので強くなれるわけがない、と。
結局、四、五人が金を出し合い、テキストを購入。彼らは、それぞれテキストを分け合い、ある者は鶴拳、ある者は猿拳、といった具合に、それぞれ自主練を開始。これらのテキストが、実際どんなものだったのか、それは金を出さず、そんなもので強くなれるわけがない、と言い切った私には、誰も見せてもくれなければ、教えてもくれませんでした。まさに門外不出の秘伝書――。
一方、通信教育をばっさり切って捨てた私も、
(ぜったいそんなことはないと思うが、万が一、みんなが本当に強くなってしまったらどうしよう)
と、心の中に疑心暗鬼のさざ波が。そんな内心の焦りに突き動かされるようにして、私は私で、独自に秘密特訓を開始しました。それが何かといえば、ヌンチャク。
当時、立川の第一デパートに、なぜかヌンチャクを売っている、いかがわしいモデルガン・ショップがありました。前から気になって仕方なかったのですが、これをきっかけに、晴れて購入(確か、2,000円くらい)。むろん、仲間には内緒です。そっちが伝統ある拳法なら、こっちは実践的なやつ、というわけです。
でもって、TVで録画した「死亡遊戯」を何度もスローで再生しながら、お茶の間で、ヌンチャクの練習。掌からヌンチャクがすっぽ抜けて、蛍光灯を割ること二回(母親激怒)。誤って身体に叩きつけ、できた青あざは数知れず。しかし、そんな訓練の甲斐あって、ようやくある程度、自由に振り回せるようになったところで、いざ、ヌンチャクを持って学校へ。そして、仲間たちの前で、おもむろに、その華麗な妙技を披露。そのときの、仲間たちの驚愕と、畏れと、悔しさの入り混じった表情が目に浮かびます。まさに、
「してやられた!」
といった感じ。内心ホッとしたことに、通信教育は、思ったとおりバチモンだったらしく、その頃はもう、誰もその話題に触れたがりませんでした。ところが、私のヌンチャクの技を見たうちのひとりが、翌日、木のハンガーを学校に持ってきました。そしてそいつは、ハンガーを、まるでヌンチャクのように、くるくる回しだしたのです。
「おおお、ハンガー・ヌンチャク!!」
それは、「刑事物語」(1982)で、武田鉄矢が披露した、ハンガーをヌンチャク代わりに使う技。カンフーに心酔し、蟷螂拳を習っていた武田鉄矢が、自ら考案した技です。私の友だちは、ある時点で通信教育に見切りをつけ、私と同じく、仲間に内緒で、ハンガー・ヌンチャクの練習に励んでいたのでした。
――とまあ、まるで熱病にでもかかったかのように、寝てもカンフー、覚めてもカンフー、みたいな日々を送っていたはずが、進級するにつれ、その熱も次第に醒めはじめ、私も含めた仲間の興味はだんだん、より年相応な別の事柄へ、と移っていきました。いつの間にか、ヌンチャクもどこかへいってしまい、数年経ってふと気がつけば、なかば惰性で、ジャッキー・チェンの新作映画を観ている自分がいました。やがて高校を卒業してしばらくすると、ジャッキーの映画を観ることも、すっかりなくなってしまいました。しかしいまでも、彼の新作が公開され、元気に活躍しているというニュースを耳にすると、何とはなしに嬉しくなるのです。
スパルタンX(原題: 快餐車/英題: Wheels on Meals)
製作国 : 香港
公開: 1984年
監督: サモ・ハン・キンポー
製作総指揮: レイモンド・チョウ
製作: レナード・ホウ
脚本: エドワード・タン、ジョニー・リー
出演: ジャッキー・チェン/ユン・ピョウ/サモ・ハン・キンポー/ベニー・ユキーデ/ローラ・フォルネル
音楽: キース・モリソン
撮影: アーサー・ウォン、チャン・ヨウズー
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管理人: mardigras

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