メンチュになれ。わかるか?人間になれってことだ。 ビ リー・ワイルダー監督の「アパートの鍵貸します」 (1960)は、およそすべての場面が"伏線"と言っていいような、凝りに凝ったドラマです。高校生の頃、教育テレビの世界名作劇場で観て、その技巧的にもほどがある語り口に、うっとりしてしまった覚えがあります。 それまでアクション系の映画ばかりを好んで観ていたのですが、この作品あたりをきっかけに、異なるジャンルの作品にも積極的に手を伸ばすようになりました。いやホント、よいタイミングでよい映画にめぐりあったと思います。 ビリー・ワイルダーにハズレなし 「 アパートの鍵貸します」を観て以来、ビリー・ワイルダー映画に片っ端から手を伸ばしてきましたが、驚くことに、ハズレがひとつもありません。コメディからシリアスなドラマ、はたまたミステリにサスペンス、はては戦争モノにミュージカル(歌謡ドラマか?)と、そのジャンルは多岐にわたりますが、どの作品もみな、おしなべて面白い。そして、そのすべてに共通しているのが、脚本家出身の監督自身がシナリオメイクに加わった、隅から隅まで計算の行き届いた、まるで精緻に組み立てられた寄木細工のようなドラマ展開。 ときにあまりに技巧が過ぎて、いかにも作りものめいた匂いが漂っていたりもするのですが、とはいえ、ちょっとソツがなさすぎるなんて思ってしまう映画、そうお目にかかれるものではありません。 「アパートの鍵貸します」のシナリオは、ビリー・ワイルダーとI・A・L・ダイアモンドの共作。このコンビには、「昼下がりの情事」 (1957)、「お熱いのがお好き」 (1959)、「あなただけ今晩は」 (1963)、「シャーロック・ホームズの冒険」 (1970)、「フロント・ページ」 (1974)など、ウェルメイドなコメディやドラマが目白押しです。そして、ダイアモンドとコンビを組む以前にも、「第十七捕虜収容所」 (1953)や「麗しのサブリナ」 (1954)、「七年目の浮気」 (1955)といった、これまた甲乙をつけがたい、傑作コメディがあります。 まったくなんたるフィルモグラフィなのだろう、と綺羅星のごときタイトルを眺めながら惚れ惚れしてしまうわけですが、そんな中でも私にとってのベストといえば、やはり本作。なぜなら、映画のキモがシナリオにあることを教えてくれたのが、ほかならぬこの映画だったから。 25本を超えるビリー・ワイルダー作品のうち、未見のものがまだ数本ありますが、もったいなくてなかなか観る気になれない――とまあ、私にとってビリー・ワイルダーは、それほどありがた味のある映画監督なのですね。「アパートの鍵貸します」のあらすじとその邦題について(以下ネタバレ) ド ラマの主人公は、マンハッタンの大手保険会社に勤めるしがない平社員、C.C.バクスター(ジャック・レモン)。セントラル・パークにほど近い、アッパー・ウエスト・サイドのアパートメント(日本でいうところのマンションですね)に住む彼には、副業がありました。それは、会社のエグゼクティブたちの浮気部屋として、自分のアパートを時間貸しすること。課長クラスのお得意さんが四人おり、部屋を貸す見返りに、人事考課で色をつけてもらっています。 そんなバクスターにも、密かに想いを寄せる女性がいました。それは、同じ会社に勤めるエレベーター・ガールのフラン(シャーリー・マクレーン)。笑顔が魅力的な、キュートという表現がぴったりくる女性です。バクスターのお得意さんの課長たちも、しきりにフランに粉をかけまくりますが、しかしまったく相手にされず、あのコは身持ちがかたい、なんてバクスターにこぼしたりしています。 そんなある日、部長のミルドレイク(フレッド・マクマレイ)から、バクスターにお呼びがかかります。課長たちの評価が効いて、すわ昇進か、と浮き浮きしながら役員フロアを訪れたバクスターは、しかし彼の副業を聞きつけた部長から、自分にもアパートを貸すよう命じられます。むろん、喜んで鍵を渡したバクスターは、その見返りに係長に出世、個室をあてがわれて有頂天になりますが、ところが部長のお相手は、選りに選ってフランでした。というわけで、さてどうする、バクスター? ――とまあ、その語呂といい、ドラマの内容をずばり表しているところといい、「アパートの鍵貸します」(原題は"The Apartment" )という邦題は、実に秀逸です。原題通りの"アパート"ではなく、"アパートの鍵"であるところがミソ。この鍵が、バクスターとエグゼクティブの間を行ったり来たりして、まさに、この映画を象徴する"鍵"となっているのですね。"アパートの鍵"だけではない、洒落た小道具の数々 ビ リー・ワイルダーの脚本の大きな特徴は、その小道具の使い方にあります。「アパートの鍵貸します」でも、"アパートの鍵"のみならず、それこそ山のような小道具が、ときにドラマを盛り上げる伏線として、あるいは登場人物たちの心理を代弁する小道具として、はたまたギャグのネタとして、巧みに用いられています。そんなあれこれを片っ端から列挙してみると――。 "エグゼクティブ専用トイレの鍵"、"酒の空き瓶"、"TVディナー"(調理済みの冷凍食品)、"ブートニア"、"ティッシュ・ペーパー"、"演劇のチケット"、"コンパクト"、"カクテルの飾りのオリーブ"、"ストロー"、"100ドル札"、"帽子"、"レコード"、"トランプ"、"睡眠薬"、"剃刀"、"テニス・ラケット"、"クリスマス・カード"、"クリスマス・ケーキ"、"シャンパン"... とまあ、これでもかというくらいの品々。どれもこれも、その使われ方とタイミングが計算し尽くされていて、観るたび感心せずにはいられません。 たとえば、カクテルに添えられたオリーブ。フランが部長の浮気相手であることを知り、どこかの酒場のカウンターでひとり酔い潰れているバクスターの前に、楊枝の刺さったオリーブが、ぐるりと円形に並べてられています。ヤケ酒を呷ったバクスターが、長尻でくだを巻いていることがひと目でわかると同時に、その行き場のない身の上(自分のアパートには部長とフランがいる)のやるなさが一目瞭然で伝わってくるという、心憎いほどスマートな趣向。 ちなみに「アパートの鍵貸します」から遡ること15年、アル中の悲劇を描いたシリアスなドラマ、「失われた週末」 (1945)にも、似たような描写があります。 アル中の主人公が、酒場でべろべろに酔い潰れていて、そのテーブルに、(ウィスキーの)濡れたグラスの輪染みがいくつもいくつも残っているのですが、時間の経過を映像で表現する手立てとして、「アパートの鍵貸します」の"オリーブ"は、まさに、この、"グラスの輪染み"の使い回しといっていいものです。とはいえ、そのビジュアルが喚起するエモーションはまったく異なっており、ぐるりと輪になって置かれたオリーブが、いかにもコメディらしく、どこかユーモラスであるのに比べ、「失われた週末」のランダムに重なり合った黒い水の輪に、遊び心はまったくありません。ただひたすら、アル中の主人公の悲壮感と、切羽詰った痛ましさが伝わってくるのですね。 ところで余談になりますが、映画の中で、アパートを予約していたにもかかわらず、バクスターにドタキャンされてしまった課長のひとりが、ゆうべはおかげでクルマの中で過ごす羽目になった、と、ぼやくシーンがあります。ここで、"Like Lost Weekend" (=週末をダメにしてしまった)と口にするのですが、これ、上記の「失われた週末」(原題は"The Lost Weekend" )にかけた、楽屋ネタでしょう。 そしてもうひとつ、その意表を突いた使われ方が面白かった小道具が、テニス・ラケット。離婚すると言いながら、実はその気のないミルドレイクに失望したフランが、バクスターのアパートで睡眠薬を大量に呑み、自殺未遂を起こします。アパートに帰って彼女を発見したバクスターは驚き、隣人の医者の助けを借りて彼女を介抱しますが、彼は、好意を寄せる女性とひとつ屋根の下にいることに、次第に喜びを感じはじめます。 普段、TVディナーで侘しく夕食を済ませていたバクスターは、フランのため、ここぞとばかりにテーブルにキャンドルを飾り、鼻歌を歌いながら料理にいそしみます。そこに登場する小道具が、テニス・ラケット。バクスターが、厨房を踊りまわりながら、ラケットを使って、茹で上がったスパゲティの湯切りをするのですね。これ、真似したことのある人、いるんじゃないでしょうか。名セリフの宝庫、「アパートの鍵貸します」 小 道具の使い方が抜群であるのと同様、エスプリの効いた名セリフがぽんぽん飛び出すところも、ワイルダー映画の特徴です。「アパートの鍵貸します」もまた、練りに練られたセリフ、洒落た会話のオン・パレードで、たとえば、風邪をひいてしまったバクスターが、フランのエレベーターに乗り込んだときの会話。「医療保険部の調べでは、都会人は年に平均2.5回風邪を引くそうだ」 「申し訳ないわ」 「何が」 「私が引かない分、誰かが5回も引いてるわけだから」 「そりゃボクだ」 あるいは、ミルドレイクの不誠実に涙するフランのセリフ。「私って馬鹿だわ。女房持ちの男との恋にマスカラは禁物なのに」 また自殺未遂のあと、フランがバクスターに向って云うセリフ。「私って男運が悪いの。初キスは墓地だったわ」 そんなフランにバクスターが云います。「僕はロビンソン・クルーソーだ。ずっと波間を漂っていたが、ある日砂浜に人の足跡を発見した。君だ」 バクスターが、女をとっかえひっかえしている酷い男で、フランの自殺未遂も、バクスターのせいだと誤解した隣人のユダヤ人医師の説教。「メンチュになれ。わかるか?人間になれってことだ」 "Be a mensch" と云ってます。バクスターも意味がわかりませんが、私も、ずっとわかりませんでした。気になってググってみたところ、これ、もともとドイツの方言だったイディッシュ語(ユダヤ人のことば)なのですね。より正確には、"善き人"、あるいは"高潔さを持ち、名誉を重んじる人"、という意味。ワイルダーもユダヤ系なので、彼にとっては、慣れ親しんだことばだったのかもしれません。 そして、最後にもうひとつ。オフィスのクリパにフランを誘ったバクスターが、問わず語りに口にする、箴言めいたひとこと。「やがて電算機がホワイトカラーを餌食にする」 電算機、要するにコンピュータのことですね。といっても、この時代、会計計算に使われていたのは、パンチ・カード方式の集計器。このバクスターの予言、50年後の現代からみて、果たして当たったといえるかどうか。 「アパートの鍵貸します」に登場する、エレベーター・ガールや社内専属の電話オペレータ、それにタイピストなど、テクノロジーが進化するにつれ、確かに消えてしまった職業があることも事実です。しかし、その一方で、コンピュータの進化が、さまざまな新職種を生み出していることも事実であり、そう考えると、バクスターのセリフは当たらずとも遠からず、といったところかもしれません。 とはいえ、効率化の名のもと、コンピュータの活用がホワイトカラーの労働時間をひたすら拡大する方向に進んだという意味で、"餌食にする"ということばのニュアンスは、まさに的を得ている感じがします。 たとえば、ほんの十数年前まで、海外とのやり取りといえば、よっぽどの急用でない限り、ファックスでした。時差のせいで、コミュニケーションの往復にニ日くらいかかっても平然としていたものですが、それがいまや、eメール。欧米の会社が相手だと、こちらの就業時間が終わる頃、向こうはちょうど就業開始だったりして、あとからあとから届くメールをまともに相手にしていると、残業時間が延びる一方。 さらに最近は、PCと連動してメールの送受信ができる、恐ろしい携帯端末(Blackberryのことです)が登場して、どこにいようと何していようとお構いなし、ほとんど24時間体制となって、気の休まる暇もなくなってきました(既に、米国ではかなり一般的になっているようで、一年くらい前に渡米したとき、空港で、ホテルで、街中で、かなり多くの人々が、手にしているのを目撃しました)。これ、間違いなく近いうち、日本のビジネス・シーンでも、当たり前に見られるモノになることでしょう。 コンピュータのおかげでひたすら便利(?)になる一方ですが、しかしそれにしても、この、効率化という名の仕事場の"常在戦場化"は、いったいどこまでいくのだろう、と、空恐ろしくもなる今日この頃です。アパートの鍵貸します (原題: The Apartment ) 製作国 : 米国 公開: 1960年 監督: ビリー・ワイルダー 製作: ビリー・ワイルダー 脚本: ビリー・ワイルダー/I・A・L・ダイアモンド 出演: ジャック・レモン/シャーリー・マクレーン/フレッド・マクマレイ 音楽: アドルフ・ドイッチ 撮影: ジョセフ・ラシェル 美術: アレクサンダー・トゥローナー 編集: ダニエル・マンデル
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管理人: mardigras
なんて気の利いた邦題なんでしょう♪
つけた人はセンスいい。
あとシャーリー・マクレーン ♪
本当、最高にキュートです。