夜の大捜査線

おまえさんは、考え方まで俺たちと一緒なんだな。
「夜の大捜査線」のイラスト(シドニー・ポワチエ)

が名付けたか、「夜の大捜査線」(1967)。いったいどのあたりが"夜の大捜査線"なのか、何度観直してもよくわからないのですが――原題は、"In the Heat of the Night"(夜の熱気の中で)。1960年代半ば、まだ露骨な人種差別が存在していたアメリカ南部の田舎町で起きた殺人事件をめぐるミステリです。

とはいえ謎解きのお楽しみは、この映画の魅力の一部に過ぎません。妙味のある背景と人物設定。時代の空気をリアルに感じさせる巧みな演出。そしてディープ・サウスの蒸し蒸しする暑さが伝わってくる、ローカル色と季節感の豊かな映像――犯人がわかっていても、この映画を繰り返し観たくなる理由、それはこの作品が、単なるフーダニット(犯人探し)に留まらない、人間がしっかり描かれた、優れた社会ドラマでもあるからです。


「夜の大捜査線」のあらすじ(以下ネタバレ)

件のくだりをさらりとご紹介。ドラマの舞台は、米国ミシシッピー州のちっぽけな田舎町、スパータ。茹だるような暑さが続くある日の深夜、警察官のサム(ウォーレン・オーツ)は、パトカーで町を巡回中、灯りも人気も絶えた目抜き通りの一角で、路上に転がる男の他殺死体を発見します。被害者は、工場建設の目的で町を訪れていたシカゴの実業家、コルバート。一報を受けて現場にやってきた警察署長のギレスピー(ロッド・スタイガー)は、被害者の財布が見当たらないことに気づくと、余所者による強盗殺人と決めつけ、サムに不審者の探索を命じます。

町の捜索を始めたサムは、やがて駅の待合室で、ベンチに腰掛けたひとりの黒人に出くわします。スーツケースを脇に置き、スーツをりゅうと着こなした男の名前は、ヴァージル・ティッブス(シドニー・ポワチエ)。実は、東部の大都市フィラデルフィアの殺人課の敏腕刑事で、故郷に母を訪ねた帰途、偶然、この駅で列車の乗り換え待ちをしていたところ。しかしヴァージルは、拳銃を向けるサムに口をきく間もなく身柄を拘束され、警察署へと連行されてしまいます。

紙幣のたっぷり詰まったヴァージルの財布を一瞥し、ギレスピーは、彼を犯人だと決めつけます。ヴァージルは、ギレスピーに警官バッジを見せ、フィラデルフィアの上司に電話を掛けて嫌疑を晴らしますが、しかし上司から、殺人事件の専門家として、コルバート事件の捜査に協力するよう、命令を受けてしまいます。こうしてヴァージルは、黒人に対する露骨な差別と偏見が蔓延る深南部の田舎町で、いやいやながらも事件捜査に係わっていく羽目になります。



本格ミステリとしての魅力

の映画、まずなんといっても、物語の主軸である、謎解きの構成がしっかりしているところがいい。犯人探しに眼目を置いたパズル(フーダニット)は、手に汗握るハラハラドキドキの展開を身上とするサスペンスやスリラー以上に、ドラマの論理展開に瑕疵があると、興醒めしてしまうものです。その点、「夜の大捜査線」は、発端から意外性のある解決まで、二転、三転するプロットに無理や矛盾がなく、本格探偵モノとして、謎解きの醍醐味を存分に味わわせてくれます。

この手の映画、ともすると説明調のセリフが多くなりがちですが、ノーマン・ジュイソン監督は、セリフに頼る展開を極力抑え、ドラマをテンポよく、映像でドライブさせていきます。

"登場人物の口から説明されることを観客は覚えていられない"とは、サスペンスの巨匠、アルフレッド・ヒッチコックのことばですが(フランソワ・トリュフォーがインタビュアーを務めた「映画術」より)、まったくおっしゃる通りで、特に、何人もの人間が次々と殺され、しかも容疑者が山ほど出てくるようなお話だったりすると、もう登場人物の名前や人間関係を覚えるのに大忙し。しかもそんなあれこれが、セリフによって語られていたりすると、頭がごちゃごちゃになって、ついていけなくなってしまうものです(逆に、それはそれで楽しい、というタイプの作品もありますが)。しかし、この映画は、そんな混乱とは一切無縁。フーダニットを柱に据えた映画としては珍しく、プロットがシンプルで、セリフもこなれています。

ヴァージルとギレスピーの関係は、ホームズとワトソン以来、連綿とフォロワーの続く、"切れ者の名探偵"と"数歩遅れの相棒"という、いわば古典的なフォーマットに則ったコンビです。そしてそのドラマは、捜査権をもった刑事がコツコツと手掛かりを追っていく、いわゆる社会派ミステリ(死語?)の衣をまとっています。

探偵役が、(素人探偵ではない)東部の大都会の敏腕刑事であり、その相棒が、殺人事件を扱った経験のまったくない、しかし負けず嫌いで傲慢な田舎の警察署長、という設定がミソで、ヴァージルの推理が冴えまくる一方、ギレスピーの推理ともいえない当て推量が的を外しっぱなしであることに、一定のリアリティを与えています。現実的な社会問題を背景にした本格推理モノの探偵役として、二人の人物造型は実に自然なのであり、しかも、東部の黒人と南部の白人という、"ホームズ"と"ワトソン"の間にわだかまる葛藤と距離感が、ドラマの背景そのものに直結しているところが、秀逸です。

ちなみに本作の原作は、ジョン・ボールのミステリー、「夜の熱気の中で」。MWA最優秀新人賞とCWA賞の受賞作。映画のアウトラインや雰囲気は、ほぼ原作を踏襲したものであり、ヴァージルやギレスピーの人物や関係も原作にある通りですが、とはいえ一部の人物設定は大胆に書き換えられ(あるいは人物自体が削除され)、またそれに従って、人間関係はよりシンプルなもの(=より映画向きなもの)へと脚色されています(アカデミー賞脚色賞受賞)。

「夜の大捜査線」のイラスト(ウォーレン・オーツ)

たとえばウォーレン・オーツが演じる警察官、サム・ウッド。原作では、ギレスピーと並ぶワトソン役として重要な役どころを担っており、ヴァージルの実力を真っ先に認める人物も、実は、このサムだったりするのですが、映画では、ほとんどデクノボーに近い、無能な男に改変されています。また、原作の被害者であるイタリア人の音楽家はシカゴの実業家に、そしてあとに残される娘は、亭主の死を悼む夫人へと変更されています。

さらに、原作では、サムと被害者の娘を巡るロマンスがサイド・ストーリーとして展開しますが、映画では、当然ながらそのあたりがばっさり切り落とされていて、まあどっちがいいということもなく、「夜の熱気の中で」という面白い小説を、時間の制約がある映画として見事に脚色してみせたのが「夜の大捜査線」、といっていいんじゃないかと思います。


ディープ・サウスの禍々しい人種差別

の映画のオリジナリティは、公民権運動真っ只中の深南部で、東部から来た黒人の刑事が殺人事件の捜査をするという、ドラマ設定の妙にあります。ドラマの冒頭、ヴァージルは、ほとんど黒人というだけの理由で拘束される屈辱を味わいますが、これはまだ、ほんの序の口。知的でエリートぜんとしたヴァージルは、頑迷固陋な白人たちの憎悪と嫉妬の的となり、その捜査の過程で、容赦のない差別を一身に受けることになります。

ドラマの序盤、コルバートの財布を所持していたことを理由に逮捕した容疑者、ハーヴィーを無実だと言いきるヴァージルに、ギレスピーがキレて怒鳴ります。

「ヴァージルだと?ニガーのくせにフザけた名前しやがって」

フザけた名前="funny name"と云っていて、DVDの字幕では、"粋な名前"と訳されています。いわゆる"白人に多い名前"、"黒人に多い名前"があって、ラテン語を語源とするヴァージルは、白人の名前としてありふれたものです。ギレスピーの云っていることは、要するに、お前、黒人のくせに、なんで白人の名前なんだ、という嫌味。

続けてギレスピーが、「フィラデルフィアでは何と呼ばれてるんだ」と訊くと、ヴァージルは怒りを込めた口調で、「ミスター・ティッブスだ!」と答えます。その返事を聞いたギレスピーは、一瞬、虚を突かれた表情をします。この時代の南部では、敬称もまた、あくまで白人のためのものだったのですね(ちなみに、この、"They call me Mr. Tibbs!"というセリフ、本作の続編、「続 夜の大捜査線」(1970)の原題となっています)。

白人の占有物は、"ヴァージル"という名前や敬称だけではありません。スーツ姿のヴァージルを見て、みすぼらしい格好をしたハーヴィーが、ヒステリックに喚きます。

「白人の服を着て何してる!?」

またドラマの中盤、ヴァージルとギレスピーは、手掛りを追い求め、多くの黒人労働者を使って綿花農場を営む町の有力者、エンディコットを訪問します。温室で、エンディコットの丹精する蘭を褒めたヴァージルが、好みの種を訊かれ、着生蘭だと答えると、エンディコットが云います。

「君が着生蘭を好きな理由がわかるかね。なぜならニグロと一緒で手がかかるからだよ」

エンディコットは、ヴァージルの用向きが事件に関わる尋問であったことを知ると、怒りのあまり、ヴァージルに平手打ちを食らわせます。すかさず平手打ちをお返ししたヴァージルに、憎悪に燃えた涙目で、エンディコットが吐き捨てます。

「昔なら撃ち殺しているところだ」

そして、エンディコットの邸宅を辞去し、「必ずあのデブ猫を丘の上から引きずり下ろしてみせる」と気色ばむヴァージルに、ギレスピーが、感に堪えない表情で云うセリフ。

「へえ、おまえさんは考え方まで俺たちと一緒なんだな」

演出とはいえ、これらの屈辱的なセリフをぶつけられ、ヴァージルを演じたシドニー・ポワチエは、心の中で何を思ったことでしょう。

黒人と日本人の間に生まれた混血児に対する差別を扱った、今井正監督の映画、「キクとイサム」(1959)の主人公、キクを演じた高橋エミ子は、DVD収録のインタビューの中で、芝居とはいえ、クロンボ、クロンボと囃し立てられるのが本当に悲しかった、と述べています。映画撮影時、彼女は小学生。成人のシドニー・ポワチエに、高橋エミ子の心の揺れが、そのまま当てはまるとも思いませんが、それでも同じようなシチュエーションで、同じ人間として、シドニー・ポワチエの胸の内もまた複雑だったのではないか――と思えてなりません。

*       *       *

ドラマの終盤、ヴァージルは、黒人が町をうろつき回っていることが気に喰わない白人数人の乗ったクルマに襲撃され、町外れの操車場に追い詰められます。クルマのフロント・バンパーには、ナンバー・プレートの代わりに南軍旗(奴隷解放に反対していた南部連合軍の軍旗であり、白人至上主義者たちが好んで掲げる旗)が取り付けられていて、(映画の中で特に言及されてはいませんが、)いやでもクー・クラックス・クランを連想させます。「黒人の坊やにマナーを教えてやる」と嘯きながら、思い思いの得物を手に、冷笑を浮かべ、バージルを取り囲む白人たち。演技とはいえ、その因循、陰険な表情の、なんと醜く歪んでいることか。

この映画に描かれている人種差別、それは、政策としての人種分離の実態ではなく、そもそも黒人を同じ人間だとは考えていないようにみえる、保守的な南部白人の心のひずみようです。奴隷制の昔から、数世代にわたって培われた差別感情が、その人格に分かちがたくこびりついてしまっているかのような彼らにとって、公民権運動は、ほとんど家畜を人間扱いしろと言われているに等しい感覚だったのではないか、と思えるほど、彼らは無意識かつ自然に、またそれが当然の権利であるかのように、あの手この手でヴァージルを差別します。

理性を失くしたけだもののような、貧乏で無知な白人たちが吐く罵詈雑言や、奴隷商人の末裔のようなエンディコットが口にする侮蔑的なセリフよりも、むしろ、ギレスピーがヴァージルに向かって口にする、「おまえさんは考え方まで俺たちと一緒なんだな」というナイーブなひとことの方が、図らずも、この地の白人のいわく抜きがたい偏見の根深さを、より一層、浮き彫りにしているように思えます。

ギレスピーは、(黒人でありながら)自分よりも高給料取りであるヴァージルに強い反感を抱きつつ、しかしそれでも、「このあたりにお前さんのようなスマートな白人はひとりもいない」と、その能力を素直に認め、「事件を解決して俺たちのハナをあかしてみろ」と、職責のために己のプライドを曲げることも厭わない、公平で誠実なところのある人間です。しかし、そんなギレスピーにして、このひとこと。黒人のヴァージルが、白人の自分と同じような感情の動きをみせることが不思議でならない、といったそのニュアンスには、この地の黒人が受けてきた、いわれなき差別と偏見の歴史が凝縮されているかのようです(公民権運動家の失踪を題材にした「ミシシッピー・バーニング」(1988)の記事で、米国南部の人種差別と偏見について思うところをより詳しく書きました。映画の冒頭、ヴァージルがフィラデルフィアから来たと云うのに対し、ギレスピーが、「ミシシッピー州の(フィラデルフィアか)?」と口にする場面がありますが、実はこのミシシッピー州のフィラデルフィアこそ、"ミシシッピー・バーニング"事件の起こった町です)。

そして、この映画のただならぬところは、東部の民主的な都会に身を置くヴァージルにも、一瞬ながら、手厳しい視線が向けられることです。エンディコットの邸宅にクルマで向かう途中、広大な綿花畑で、多くの黒人小作農たちが、手をボロボロにしながら綿を摘んでいます。通り過ぎていくクルマを無表情で見つめる、生気のない目をした女性――その様子を見やりながら、ギレスピーが呟きます。

「お前には縁のない光景だな」

ヴァージルは、ハッとしたようにギレスピーに目を向けますが、しかし黙ったまま、何も口にしません。敷衍すれば、自分さえよければそれでいいのか、という痛烈なメッセージにもとれるこのセリフ、それが果たして、製作者の意図したものだったかどうかはわかりません。しかし、時と場所とシチュエーションを越え、この映画を観ている私にも、ぐさりと突き刺さってくるところがあります。



ロッド・スタイガーについて

雑な役どころをこなしたシドニー・ポワチエの演技も素晴らしいものですが、一方のロッド・スタイガーもまた、負けず嫌いの警察署長、ギレスピーを演じて強烈な存在感を漂わせています。

「夜の大捜査線」のイラスト(ロッド・スタイガー)

映画の終盤、ギレスピーの家で、ギレスピーとヴァージルがソファに寝転び、酒を酌み交わす場面があります。DVDの音声解説によれば、この場面の二人の会話は、すべて即興なのだそう。ロッド・スタイガーの、針がどちらに振れるかわからない、ぴりぴりとした緊張感のある振る舞いとセリフは、圧巻です。

ギレスピーという男、職務に忠実であるものの、傍若無人で唯我独尊、プライドが高く、人に弱みを見せることが大嫌いな人物です。そして、ヴァージルと出会うまでは、典型的な南部白人として、黒人差別を至極当たり前と考えていた人間でもあります。そんなギレスピーが、捜査を通じて徐々にヴァージルに尊敬にも似た感情を抱き始め、そして酔いも手伝って、ついその孤独な心情をぽろりと吐露します。

「俺には妻も子もない。俺にあるのは俺を必要としていないこの町ぐらい...ほかにあるものといえば、壊れたエアコンにひじの折れた机。それにこの家だ...だが、この家にやってくる者など誰もいやしない。一人もだ」

ギレスピーは、ヴァージルも独り者であることを知ると、同志に対するような警戒心の薄れた表情で、「さびしくないか」と問いかけます。しかしヴァージルが、「あなたほどではないが」と答えると、ギレスピーは突如、感傷から目覚めた表情でソファから起き上り、ヴァージルを激しく罵るのです。

「おい、黒人のアンちゃん、調子に乗るなよ。同情はまっぴらだ!!」

二人の間に芽生え始めていたかに思えた、友情にも似た親しみの感情を、一瞬でなし崩しにする、この、スリリングなセリフ回し。遺伝子に刷り込まれた根深い差別感情が、ヴァージルを対等の人間として認めることを本能的に拒否したかのような、あるいは負けず嫌いの性格が、慰められる立場に立つことを脊髄反射的に拒絶したかのような、これ、ホントにアドリブだったの?と言いたくなる、「波止場」(1954)におけるマーロン・ブランドとの掛け合いにも劣らない、息を呑むほどの名演技です。

そして事件が落着し、町を去っていくヴァージルを、ギレスピーが駅で見送る短い場面。もう二度と会うことがないであろう二人の間にごく淡い感傷が滲み、この味わい深い場面の多い映画の中でも、ひときわ強い印象を残します。ヴァージルのスーツケースを手にしたギレスピーが、列車の昇降口の前まで来ると、サンキューと言いながら、ヴァージルに手を差し出します。そして硬い握手を交わし、短くバイバイと告げ、そっけなく立ち去っていくかと思いきや、ふと思いついたように立ち止まり、振り返って一言。

「達者でな。いいか?」

そう云うギレスピーの、まるで憑き物が落ちたように屈託のない笑顔が、深い余韻を残します。

ロッド・スタイガーは、この映画でアカデミー主演男優賞を受賞しています。キャストロールでトップにクレジットされているのはシドニー・ポワティエであり、また初めて観たときは、あくまで主役はヴァージルで、ギレスピーは彼の引き立て役に過ぎないように思えたものですが、しかし観なおすたび、私の頭の中ではこの映画の重心が、徐々にギレスピーに傾いていっているようです。要するに、ギレスピーに対して、より感情移入するようになったのですが、"ホームズ"役より"ワトソン"役に惹かれてしまうというのも、珍しいことではあります。



「夜の大捜査線」の意外な季節

温い空気をただかき混ぜているだけのような、警察署の扇風機。ギレスピーのオフィスの壊れたエアコン。ぺたりと身体に貼りついた、警官たちのシャツ。コーラを飲みながら、素っ裸で家の中をうろうろする若い女。そして、それをパトカーの中から覗き見て、じっとり玉のような汗を流すウォーレン・オーツ――とまあ、この映画、観ていてあまりに暑苦しいので、季節はすっかり夏だと思い込んでいたのですが、改めて観て、それが間違いだったことに気がつきました。警官たちに狩り立てられたハーヴィーが、森の中を逃走する場面を観ると、樹々の葉っぱが黄色く色づき、また地面がすっかり落ち葉に覆われているのです。これ、夏ではなくて秋、インディアン・サマーだったのですね。

アメリカでは、晩秋を迎えてしばらく経った頃(10月下旬から11月初旬にかけて)、まるで夏が戻ってきたかと思わせる暑さが1週間ほども続くことがあり、そんな陽気のことを、インディアン・サマーと呼んでいます。そもそもこの陽気の訪れるタイミングが、ちょうど先住民の収穫の時期に重なっていたことから、こう呼習わすようになったのだそうですが、前後の日々と寒暖の差が大きいこともあり、私の経験した幾度かのインディアン・サマーは、それこそ酷暑のように感じられたものです。

日本でも、晩秋の暖かい陽気のことを小春日和なんていいますが、映画にも描かれていた通り、(少なくとも私の知っている)インディアン・サマーは、そんな清々しいものではありません(私が住んでいたのは中西部のイリノイ州。実はこの映画のロケ地も主にイリノイ州)。日本の呼び名に倣っていえば"小夏日和"、むしろ残暑ということばのイメージに限りなく近い感じです。



そしてアメリカの今

月、米国に黒人(アフリカ系)初の大統領が誕生します。公民権法制定から45年。アメリカ商務省発表の2007年の人口統計によれば、約3億人のアメリカ人口に占める黒人(アフリカ系)の割合は12.4%。ヒスパニック・ラテン系を除く白人の割合は65.8%。数字の上では依然、黒人は白人に比べ、圧倒的マイノリティであり続けているにもかかわらず(1964年時点の黒人の割合は約16%)、アメリカはその総意として、黒人を新大統領に選びました。45年前とそのかたちは変わったにせよ、アメリカにはいまだ、人種間の根強い差別感情が残っています。しかし、それでも多くの国民が、肌の色に関係なく、新大統領にバラク・オバマ氏を望んだわけで、私、素直に激しく感動してしまいました。

アメリカは、いろいろ問題を抱えた国ですが、しかし、民主国家として確実に進化を遂げているということを、そして人はよりよく変わることができるという希望を、これ以上ないほどシンボリックに示してくれたと思います。この映画の時代、不当な差別に虐げられていた黒人の人々が、オバマ大統領誕生に感じる喜びと誇りの大きさはいかほどでしょう。2008年の今、この映画を改めて観て、彼らが長い年月をかけて闘い勝ち取ってきたことの偉大さに、ただただ敬服するばかりです。



夜の大捜査線(原題: In the Heat of the Night
製作国 : 米国
公開: 1967年
監督:  ノーマン・ジュイソン
製作:  ウォルター・ミリッシュ
脚本: スターリング・シリファント
原作: ジョン・ボール(「夜の熱気の中で」
出演: ロッド・スタイガー/シドニー・ポワチエ/ウォーレン・オーツ/リー・グラント
音楽: クインシー・ジョーンズ
撮影: ハスケル・ウェクスラー
編集: ハル・アシュビー


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[T1] 「夜の大捜査線」を捜査せよ!?

観ましたよ、「夜の大捜査線」 「名作だよ」って話は昔から聞いていたのですが、噂通り面白かった。 1960年代。 21世紀を生きる日本人には想像も出来ないくらいの人種差別が横行する中での話なんですけど、その「人種差別っぷり」が凄いこと凄い事。...

コメント

[C173] 初めまして。

イラストかっこいいですね。
映画を選ぶ時の参考にさせていただきました。

勝手にリンクとトラバをはらせていただいたことをお許しください。
  • 2009-04-22 18:21
  • クレイディー・スズキ
  • URL
  • 編集

[C174] >クレイディー・スズキさん

わざわざご連絡いただき、ありがとうございます
また暇なときにでも、どうぞ遊びに来てください!

[C983]

ボアチエも良いが、何と言っても頑固な人種差別の警察署長役であるロッド・スタイガーである。この俳優好きですね。
「ドクトル・ジバコ」のはまり役もよかったなあ・・・。

[C985] >根保孝栄・石塚邦男さん

私も「夜の大捜査線」はロッド・スタイガーの映画だと思います。
ロッド・スタイガーといえば、私はこの映画、それに「夕陽のギャングたち」ですかね。。。
  • 2013-03-06 06:45
  • Mardigras
  • URL
  • 編集

[C1072] 微笑み

この作品の見所の一つは、シドニーポアチェとロッドスタイガーの演技比べだと思います。特にラストで、両者が硬い表情から微笑みに変化していく場面では、甲乙つけがたい魅力があります。ところで、タイトルでは、シドニーが先に表示されているのに、アカデミー賞はロッドとは、シドニーが既に受賞していたとはいえ、ここでも人種問題が討議されたのでしょうか。

[C1073] >のんちやんさん

コメントありがとうございます。
ウェットにしてもおかしくないところを湿度30%くらいでさらっと描いた、それだけにちょっと技巧的に過ぎるとすら思えてしまったりもする別れの場面は、それでも意表を突いた清々しさの印象が勝って、観るたび、気持ちのよい余韻があとを引きます。本文にも書きましたが、昔はシドニーポワチエが主役と思って観ていたものですが、観返すたびにロッドスタイガーの存在感に強く惹きつけられるところがあって、ロッドスタイガーのアカデミー賞受賞はけっこう納得だったりします。
  • 2013-12-20 01:50
  • Mardigras
  • URL
  • 編集

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