恐怖だ...恐怖だ... 2 001年公開の「地獄の黙示録 特別完全版」 は、1979年に公開されたオリジナル版をフランシス・フォード・コッポラ監督が自ら編集し直した、"ディレクターズカット・バージョン"です。公開時に観たかったのですが忙しくて都合がつかず、つい数年前にようやくDVDで鑑賞することができました。 オリジナルをテレビで観たのは高校生の頃で、前半のスペクタクルな映像に目を見張らされたものの、正直なところ、後半の哲学的な展開にはまったく付いていけなかった覚えがあります。私の理解力に問題があったわけですが、とはいえ映画自体もまた、今観てもエピソードの繋ぎがぎくしゃくしてるというか、舌足らずなところがあるように思います。ところが「地獄の黙示録 特別完全版」を観ると、オリジナルにはなかった49分の映像が新たに追加されたことで、ようやくドラマの澪筋がはっきり見えるようになったというか、ああ、コッポラ監督の描きたかったのはこういうことだったのか、と、この映画の良さがすとんと腹に落ちた気がしました。 およそベトナム戦争をモチーフにした映画は多々あれど、「地獄の黙示録」はそこを越え、より普遍的に、戦争の狂った論理――ルールを設けながら人殺しをすることの偽善性を暴き立てていて、今となっては、観ていてかなりぐさりとくる映画です。原題の"Apocalypse Now" を直訳すると、"現代の黙示録" 。製作から早30年が過ぎた現在も、そしておそらくこれから先も地上から戦争のなくなることがないとすれば、この映画は今も変わらず"現代の"黙示録なのであり、そしていつまでも、その名にふさわしい映画であり続けることでしょう。 ロードムービーとしての「地獄の黙示録」 「 地獄の黙示録」の筋立てをひとことでいえば、"戦場のロードムービー"。ドラマの狂言回しは、過去に隠密作戦に従事した経験を持つ、特殊部隊出身の陸軍大尉ベンジャミン・ウィラード(マーティン・シーン)。彼は、独断でベトナム人の二重スパイを暗殺した挙句、ジャングルの奥地で消息を断ち、原住民たちの"王"となってしまった特殊部隊のエリート大佐ウォルター・カーツ(マーロン・ブランド)暗殺の隠密指令を受け、数名の兵隊とともに、ちっぽけな哨戒艇で、ベトナムのヌン河を延々、国境を越えたカンボジアの奥地へと遡っていきます。 前線を縫うようにして河を遡上していく、この長く危険な道行きは、ウィラードにとって、暗殺対象者であるカーツ大佐に思いをめぐらす旅路でもあります。軍人として掛け値なしの経歴を誇るカーツ大佐が、なぜ命令に背いて密林の奥地に消えたのか、ウィラードは同じ(優秀な)軍人として、強い関心を抱きます。そもそも初めから、自軍の将校を暗殺するというこの作戦に気乗りしなかったウィラードは、地獄めぐりのような旅の途中、あらゆる戦争の"欺瞞"と"狂気"を目の当たりにすることで、次第にカーツに対してシンパシーを抱くようになっていきます。すなわちカーツに一歩近づくたび、ウィラードの心もまたカーツに近くづいていく、という構図です。 ディレクターズカットで追加されたフッテージは、この旅の途上のエピソードが大半を占めており、これによって、物語はかなり理解しやすいものとなりました。オリジナルでは、スペクタクルな前半と哲学的なダイアローグで展開する後半が、水と油のように感じられたものですが、ディレクターズカットでは、旅の途上でのウィラードの思索(モノローグ)を通じ、カーツという人物の輪郭がより明確になるとともに、またウィラードの心情の変化していく様子がグラデーションのように滑らかになって、ようやくひとつのビッグ・ピクチュアとして、全ての場面と映像が有機的につながった感があります。原作「闇の奥」について 「 地獄の黙示録」の原作は、ジョセフ・コンラッドの「闇の奥」 (原題: "Heart of Darkness" 。「地獄の黙示録」の撮影風景を収録したドキュメンタリー映画に、このタイトルが付けられています)。船乗りだったコンラッドが、実体験に基づいて執筆した19世紀末の中篇小説です。「闇の奥」の筋立ては、アフリカの奥地で原住民から象牙を搾取しているヨーロッパの商社の船乗りが、連絡が途絶えてしまった最奥地の出張所の社員を捜しに船で未開の河を遡っていく、というものです。 「地獄の黙示録」の骨格は、この原作にかなりのところまで忠実であり、また特に後半、長い旅路の果てに、カーツの王国に辿りつくあたりからのエピソードやセリフの多くは、「闇の奥」にそのままあるものです。とはいえ映画と小説が描き出すものは、かなり趣きが異なっています。19世紀末に書かれた「闇の奥」が、植民地主義に対する批判とともに、未開の地で失われていく人間性を描いていたのに対し、「地獄の黙示録」は、ベトナム戦争を通じて喪失する人間性を描くにとどまらず、戦争によって滲み出てくる人間と社会に内在する偽善性を痛烈に告発しています。将軍たちの欺瞞 「 地獄の黙示録」の全編を通じ、主人公やさまざまな登場人物たちが二つのことばを繰り返し口にします。それが、"欺瞞(Lie)" と"狂気( InsaneもしくはInsanity)" 。さらにドラマの後半、カーツのセリフにたびたび出てくることばがあります。それが、"恐怖(Horror)" 。戦争を通じて浮かび上がる、これら三つのキーワードをめぐるウィラードの思索に寄り添いながら、「地獄の黙示録」のドラマは展開していきます。 映画の冒頭、ウィラードにカーツ暗殺の指令を与える情報部の将軍と将校のセリフ。「ウォルト・カーツという男は、アメリカが産んだもっと優れた将校の一人だった。頭がよく、何をやらせても秀でていた。しかも人格者で、ユーモアを解する人間だった。しかし特殊部隊に参加してからというもの、彼の考え方と作戦手段は、不健全なものになってしまった...不健全なものに」 「カーツはいまや、殺人罪で告発されている。カーツは数名のベトナム人の諜報部員を独断で処刑した。二重スパイだと信じて」 「どんな人間の心にも葛藤がある。合理と不合理、善と悪。そして善がいつも勝つとは限らない...(中略)...誰でも臨界点がある。カーツはそれを超えてしまったのだ。そして明白に、彼は正気を失ってしまった」 「彼の行動は良識による抑制を失い、人間の行動としていささかの容赦の余地もない」 それに対するウィラードのモノローグ。(戦場で殺人罪だと?レース場で速度違反を取り締まるか?) 戦争における"健全な考え方"、"手段"とは何か。また戦場における"善"と"悪"とは、そして"良識ある行動"あるいは人間の行動として"容赦される殺人"とは何なのか――お偉方たちの口から、ぽんぽんと飛び出すセリフを耳にするうち、そんな突き詰めて考えれば考えるほど、答が遠ざかっていくような気のする難しい問いが、次第に頭に浮かんできます。数百万ともいわれるべトコンと民間人をあらゆる方法で死に追いやりながら、なぜカーツの行った二重スパイの処刑は許されないのか。この映画を観るたび、戦場における倫理(あるいは正気と狂気)の"線引き"の難しさ(あるいはナンセンスさ)について考えずにはいられなくなります。 たとえば、傷病兵や捕虜の扱いを規定したジュネーブ条約。あるいは(ベトナム戦争で枯葉剤が使われたことをきっかけに制定された)化学兵器禁止条約。これらの"線引き"は、戦争を想像でしか知らない人間(私)の、(戦争にもルールが必要だと漠然と思う、暢気な)倫理観に照らし合わせてみて、なんとなく納得できるものだったりします。しかしなぜ、"捕まえた敵"を殺すことが許されなくて、"捕まっていない敵"を殺すことは許されるのか。あるいは、なぜ"枯葉剤をばら撒くこと"が許されなくて、"爆弾を落とすこと"は許されるのか。そして、そんな"線引き"のいったいどこが"健全"で"正気"なのか(そしてなぜ自分はその"線引き"になんとなく納得してしまうのか)、考えれば考えるほどわからなくなっていきます。"戦争のルールとか、騎士道精神とか、軍使の待遇とか、敗者には寛大にとか、いろいろと心得を並べられるが、そんなものはたわごとさ...(中略)...他人の家を荒らし、贋札をばらまき、しかももっともけしからんのは―子供や父親を殺しておきながら、戦争のルールだとか、敵に対する寛大だとか、世迷い言を並べてるのだ。捕虜をとらずに、殺すか、死ぬか!ぼくのように、あれだけの苦しみをへて、ここまで達すれば..." (トルストイ、工藤精一郎訳「戦争と平和」 より) 感情や人間性を剪り払い、あくまで理屈で割り切れば、戦争にルールを設けることはたわごと、すなわち欺瞞でしかないということは、この映画の製作から100年以上も遡る19世紀半ば、ナポレオンのロシア戦役に材をとった「戦争と平和」において、トルストイが指摘していたことです。カーツと同じく気高い人格者でありながら、苦悶の思索の末に戦争のルールを否定するに至った「戦争と平和」のアンドレイ侯爵は、その言を実践に移す機会を持つことのないままに、榴弾の直撃を受けて瀕死の重傷を負い、戦場から退場していきます(そしてその生死の瀬戸際で天啓を受けたアンドレイは、突如として人間性を回復する)。そんなアンドレイの正当な後継者にして、アンドレイには結局なしえなかった、そのイデオロギーの断固たる実践者が、この映画に描かれたカーツ大佐です。 "欺瞞を何よりも憎む"人間として、「爆弾を落とせ!彼らをすべて殲滅しつくせ!」 と報告書に殴り書きし、戦争に勝つという目的のために手段を選ばない行動(=不健全な作戦)を実践に移したカーツは、上層部のお偉方たちにとってみれば、軍隊という組織の規範と指揮系統から逸脱した"正気を失った"存在であり、そしておそらく、彼らが眼を背ける(あるいは彼らの目に入らない)戦争の欺瞞を彼らに真正面から突きつける、つまり彼らの行動を正当化するためのよりどころといっていい、戦争には正義の戦争と間違った戦争があるという信仰を根底から揺るがす、許されざるべき存在です。 旅立つ前のウィラードにとっても、カーツという人間は、お偉方の物言いに違和感を感じつつも、やはり理解の埒外にある存在でした。しかし前述の通り、カーツ王国を目指す長い道のりを通じ、お偉方たちの言う"良識ある行動"それそのものが、いかに狂気に満ちたものであるかということを、いやというほど目の当たりにすることによって、ウィラードの心には、徐々にカーツに対する共感が芽生え始めていきます。キルゴアの狂気と欺瞞 ヌ ン河遡上の発端、べトコン勢力下の地域を潜り抜けるため、ヘリコプターを操る空中機動部隊が哨戒艇を擁護します。このヘリ部隊の隊長が、ロバート・デュバル演じるキルゴア中佐。異常なほどのサーフィン好きという設定です(「ビッグ・ウェンズデー」 (1978)を監督したジョン・ミリアスが、脚本のファースト・ドラフトを執筆。彼のアイデアでしょう、間違いなく)。「彼ら騎兵隊は馬をヘリに乗り換え、ベトナム中を暴れまわっていた」 というウィラードの独白そのまま、キルゴアは首にバンダナを巻き、頭にテンガロン・ハットを被った、奇矯にもほどがある男です。 キルゴアは、"誰の仕業かを敵に思い知らせる"ために、並べられたべトコンの死骸にトランプのカードを握らせたり、「朝のナパームの匂いは最高だ」 などと口にしながら強烈なナパーム弾を次々と投下して、べトコンを焼き殺していきます。その一方で、「我々は君らを助けたい」 と拡声器でアナウンスし、瀕死のべトコンに、「はらわたが出るまで闘うやつにはオレの水をやる」 と云って水を飲ませ、怪我したベトナム人の子供とその親を気遣い、ヘリコプターで病院に急送してやったりもします。キルゴアのエキセントリックさは度を越していて、べトコン勢力下の海岸に大波が立つことを知ると、サーフィンをしたいがために戦闘を仕掛け、ワーグナーの"ワルキューレの騎行" を大音量で流し、嬉々として村を焼き払い、銃を撃ちまくります。キルゴアの行動を目の当たりにしたウィラードのモノローグ。(キルゴアのやってることが許されて、なぜカーツが責められるのか。オレにはわからなくなりはじめていた。狂気と殺人が理由のはずがない。なぜってそれはここかしこにいくらでもあるものだからだ) 無慈悲に敵を殺しながら負傷者に情けをかけるキルゴアの振る舞いは、デフォルメされて描かれているだけに余計、その偽善性が際立ちます。しかしその一方で、"暢気な倫理観"をもった私の目には、それが人間としての至極当たり前といっていい、人間性の発露のように感じられたりもするから困ったもので、血まみれで苦しむ人間に情けをかけるキルゴアの行為は、いわば"正気"の人間なら誰しも当然のこととしてそうするであろう行為であるように思われます(つまり私は無意識のうちに、お偉方たちの考えに与している)。そしてそれは、おそらく"人間味に溢れた人物だった"カーツにとっても同じだったはずで、では理屈の上で欺瞞を拒絶し、断固として"徹底的に殲滅しつくす"方向に行動の針を振り切ったカーツの人間性は、いったいどうなってしまったのか――それはクライマックスにおいて描かれるのですが、しかしその前に、遡上中のエピソードについてもう少し触れたいと思います。 兵士たちの狂気と欺瞞 ウ ィラードには、四人の同行者がいます。それは、ウィラードを目的地まで運べとの任務を受けた哨戒艇のクルーたち。しかし彼らには、ウィラードの目的も、またその最終目的地も告げられてはいません。彼らのうちの三人は徴集兵で(そのうちの一人はまだ少年の面影の残る若きローレンス・フィッシュバーン)、みな一刻も早く戦場を離れて帰郷することを願っている、おそらくベトナム戦争に従軍した兵士たちを象徴する存在です。彼らは故郷を懐かしみ、冗談を飛ばし、ふざけあい、時には水上スキーに興じたりして、日常の延長のちょっとした冒険旅行を楽しんでいるかのようです。しかし、マリファナやLSDをキメまくり、行く先々の戦場で異様な光景を目にし、そして四六時中、敵の襲撃に遭うかもしれない緊張に身を委ねるうち、彼らの神経は、確実に蝕まれていきます。 そしてある日、彼らは河を下ってきた物資運搬船を臨検した際、恐怖と緊張のあまり、非武装の民間人たちに機銃を雨あられと浴びせ、虐殺してしまいます。狂気に駆られ、一度撃ち出したら止まらない若い兵士たち。やがて銃弾を撃ち尽くし、しばらく呆然としていた彼らは、倒れたひとりの若い女性にまだ息があることに気がつきます。哨戒艇に収容して病院に連れて行く、と主張する彼らを一瞥したウィラードは、黙って拳銃を取り出すと、女性に止めを刺します。信じられない顔で、ウィラードに非難の眼差しを向ける兵士たち。そしてウィラードのモノローグ。(これが我々のやり方だ。機銃を浴びせて手当てする。欺瞞だ。見れば見るほど欺瞞に胸がムカついた。オレはカーツのことがわかりかけていた) キルゴアのエピソードのリフレイン、ともいえますが、エキセントリックなキルゴアと違い、哨戒艇の四人がいたってフツウの人間として描かれているだけに、そのナイーブな偽善性は、より浮き彫りとなってみえます。大国、アメリカの欺瞞(何のための戦争か?) そ もそもアメリカは、なぜベトナムで戦争しているのか。いったい何のために勝とうとしているのか。いや、そもそも勝つ気があるのか。「地獄の黙示録」は、ベトナム戦争の大義名分にも、辛らつな批判を浴びせかけます。 ウィラードたちは、ヌン河最奥の米国の拠点、ド・ラン橋へと辿り着きます。夜のド・ラン橋では、激しい戦闘が繰り広げられており、絶え間ない銃火と炎上する建造物で、あたりはまるで昼間のように皓々と照り輝いています。その光景に、焦点の定まらない空ろな視線を向けながら、「美しい」 と呟く若い兵士。LSDでラリってます。ウィラードは上陸すると、混乱を極める戦場でひとりの兵士を捉まえ、指揮官の居場所を尋ねます。「あんただ」 ドラッグに溺れて壊れていく兵士。そして、作戦どころか指揮官も不在で、ただ闇雲に目の前の戦闘を闘う兵士たち。果たしてアメリカは、本当にこの戦争で勝つつもりがあったのか。 * * * ド・ラン橋を越え、さらに河を遡ったウィラードたちは、ベトナムが仏領インドシナだった時代に入植したフランス人たちに出遭います。ウィラードたちは彼らの招きに応じ、そのプランテーションに立ち寄ります(特別完全版で新たに付け加えられたエピソード)。ベトナムの密林の奥地にある、時代に取り残されたようなプランテーションの館での晩餐の席で、ウィラードは、地主として何があってもこの地を死守するというフランス人の当主に、痛烈なひとことを浴びせられます。「君たちアメリカ人は、何のためにこの戦争をしてるのだ?歴史上、もっとも無意味な戦いではないか?」 ウィラードは、黙したまま返事をしません。 原作「闇の奥」において、ジャングルを侵犯する商社には、少なくとも"原住民たちからの象牙収奪"という明解な営利目的がありました。しかし"共産主義の拡大を防ぐ"というベトナム戦争の大義名分は、(当事国の人間でもなく、またリアル・タイムにそのありようを目にも耳にもしていない私にとって、)5万人以上の戦死者を出した戦争のそれとしてはあまりに抽象的すぎ、感覚的に納得しきれないところがあります。フランス人の地主が云うように、もし戦争自体が"無意味"な茶番だとすれば、いくらその欺瞞性に思いを馳せても、それは、割り切れないどころか、まるで数字をゼロで割るようなもので、それこそ無意味な行為かもしれません。極論すれば、ベトナム戦争はアメリカにとって、勝っても勝たなくてもいい戦争、勝ち負けとはまったくべつのところに意味のあった戦争だったのではないか――そんなことを思ってしまったりもします。 * * * "国家としての戦争"を、フランス人は否定しましたが、しかし"ウィラード個人"にとって、ベトナム戦争はまさしく意味のあるものです。映画の冒頭、作戦待機中にサイゴンのホテルで酔い潰れていたウィラードは、戦時休暇中に帰郷してはみたものの、そこに自分の居場所を見つけることができなかった、という心情を吐露します。休暇中に妻と離婚し、一刻も早くベトナムに戻ってきたかったと独白する彼は、サイゴンにいてさえ安息を得ることができず、ただひたすらに最前線に戻ることを願い、酒に気を紛らわせていたのでした。 米国に帰りたいと願う哨戒艇の兵士たちを横目で眺めながら、(俺は知っている。俺にはもう故郷がないことを) と心の中で呟くウィラードにとって、戦争と戦場はなくてはならいものとなってしまっています。軍人として優秀であるがゆえの、いわば戦争それ自体の目的化であり、そんな彼にとって、戦争の存在自体を否定することは、己の存在を否定するにも等しいことでしょう。そしてそれは、ウィラードが"尊敬の念を覚える"というほどの"完璧すぎる"軍歴を誇るカーツにとっても同様のはずであり、その上で戦争の欺瞞を拒んだとすれば、彼がもう一方の極(=勝つために手段を選ばない)に走ってしまったことは、至極必然の結果だともいえます。欺瞞を拒んだカーツの狂気と恐怖 長 い旅を経て、ウィラードは、ついに源流のカーツ王国へと辿り着きます。そこは、乳白色の霧で覆われた、全身白塗りで槍と弓矢を手にした山岳民たちが立ち並ぶ、文明人の目には恐怖と狂気が支配しているとしか見えない、未開のジャングル最奥の宮殿。あたりには、べトコンや敵対民族の生首が転がり、死骸が樹々から吊るされています。銃口を向けられても怯まない一方で、しかし哨戒艇の汽笛が鳴らされると、音に仰天して我先にと森の中へ逃げ出していく、未開の住民たち...なぜ、カーツは彼らの"神"となることができたのか?"(白人が)彼等の眼に超自然的存在として映るのはやむをえない―吾々はあたかも神の如き力をもって彼等に接するのである" 原作、「闇の奥」にある文章ですが、映画では似たようなセリフが、カーツに魅せられ、彼の王国に長逗留している、まるでカーツの巫女のようなアメリカ人のジャーナリスト(デニス・ホッパー)の口から語られます。 そしていよいよ、ウィラードとカーツの対面のときがやってきます。禿頭の大男は暗がりに身を横たえ、画面にその姿と表情をまともに晒そうとせず、あくまでその声だけが暗闇に滔々と響き渡ります。カーツはウィラードに、自分が暗殺されなければならない理由を問い質します。ウィラードが、「あなたの作戦手段が不健全だ」と将軍たちに云われたことを告げると、カーツはしばし考え込み、やがて、お前はどう思うか、とウィラードに尋ねます。「私の目には作戦手段などどこにも見当たりません」 旅の途上、ウィラードが目(観客の目)にしたものは、作戦などあるとは思えない、しっちゃかめっちゃかな戦闘の様相。戦争の手段に健全も不健全もないと切り捨てるウィラードのひとことは、カーツの思想に限りなく同調しつつあるものです。カーツは云います。「いずれ君のような人間が来るだろうと思っていた」 その一方でカーツは、暗殺命令に唯唯諾諾と服従してやってきたウィラードを、集金にやってきた御用聞きの小僧に過ぎないと嘲り、檻に拘束します。王国に到着したときに、ウィラードは、もし自分がカーツの元から戻ってこなければ、本部に現在地を連絡し、爆弾投下を無線で要請するよう、仲間に伝えています。カーツにとってウィラードは、確かに拘束しなくてはならない人間でした。 狭い檻に閉じ込められ、雨晒しにされたウィラードに向かって、饒舌なアメリカ人ジャーナリストが云います。「彼は君を好いている。君をどうすべきか、彼はそれを考えている」 続けて、「彼の頭は正常だ。だが魂が狂っている。彼はじき死ぬ。彼はここのすべてを憎んでいる...君が彼を助けるのだ。彼が死んだらどうなる?ここのすべてが死んでしまうんだ」 カーツの考えたウィラードの処遇、それは、ウィラードを自らの後継者として教育することでした。哨戒艇に居残っていた兵士の首を切り落とし、ウィラードに極限の恐怖を味わわせる一方で、ベトナム戦争が自国に有利に運んでいるというアメリカの雑誌の切抜きを与え(オリジナル版にはないシーン。このシーンの追加でかなりわかりやすくなった、と思う一方で、子供たちとともに陽光の下に姿を晒すことで、カーツの神秘性はかなり減じてしまった、とも思う)、ウィラードに(カーツの論理を理解するための)"気づき"を与えようとします。それはこの戦争が、銃後も含め、いかに欺瞞に満ちたものであるかということ(ここまでは、ウィラードも既に気づいていたといえる)、そしてその欺瞞を排除した先に、いったい何が待ち受けているのかということ。 やがて、カーツはウィラードを解放します。T.S.エリオットの「荒地」 を暗誦し、自らを"うつろな人間"にたとえるカーツ。ウィラードは、迷い始めます。「彼に会えばすぐ任務を果たせると思っていた。だがだめだった。数日が過ぎた。監視もされず自由だった。俺は逃げなかった。彼は俺の心を見通していた(中略)...彼ほど苦悩に引き裂かれた男を俺は知らない」 カーツは云います。「特殊部隊にいた頃の話だ。収容所の子供たちに小児麻痺の予防接種の注射をしてやったことがある。その後べトコンが収容所にやってきて、子供たちの注射された腕を切り落として回った。腕が山のように積まれているのを見た。小さな腕が...私は声をあげて泣いた...(中略)...私は驚嘆した。何たる資質を持った連中かと。そんなことを行う意志。完璧で純粋で一切迷いがない。そのとき私は悟ったのだ、彼らが我々よりも強いことを。私が彼らのような兵士を10個師団ほど持っていたら、この戦争はたちまち片がつく」 一切の欺瞞を否定したカーツの結論です。たとえ理屈の上では正しくても、これは誰にでも自然に備わっているはずの人間性と相容れない考え方であり、感情的にとても肯定することのできない(お偉方の云うとおりの)"狂気"の論理でしょう。"人格者"だったカーツは、そんな論理をいかに自分自身に納得させ得たのか?カーツは云います。「私は恐怖を見てきた。君も見てきた恐怖を...(中略)...恐怖には二つの顔がある。君は恐怖を友としなければならない。恐怖と、そしてそれに怯える心。このふたつを友としない限り、恐怖はやがておそろしい敵となる」 彼は、欺瞞(この文脈においては=人間性)を捨て去った先にあるものが、"恐怖"だと言います。そして、欺瞞を捨て去り、極に走ったカーツは、実はこの恐怖を"友"とすることができず、まったき孤独の中で、"恐怖に怯え"る"うつろな人間"として苦悶していました。すなわちカーツは、自らが生み出した狂気の(カーツからみれば正気の)論理を、ついに自分自身の心に納得させきることができなかったのです。そして、自ら選んだ道が、(彼自身にとって)行き止まりであること悟っていたカーツは、自分を理解するすべてのヒントを与えた上で、自分を殺して王国を引き継ぐよう、ウィラードを唆すのです。 果たしてウィラードは、カーツの論理を受け入れたのでしょうか?カーツの問わず語りに黙って耳を傾けるウィラードの表情に、熱は感じられません。カーツに惹きつけられたウィラードの心は、彼を理解しつつも、最後の最後で、同調することを拒んだように思えます。ウィラードの独白。(みながその時を待っていた。とくに彼が。俺が苦痛を取り除くのを彼は待っていた。軍人として死ぬことを。ジャングルも彼の死を求めていた) ウィラードは苦悩の末、祭りの夜、ついにカーツ殺しを決心します。しかしそれは、欺瞞の手先としての"暗殺"でもなければ、カーツの論理に身を委ねた末の"神殺し"でもありません。私には、それが尊敬する軍人の苦悩を断ち切るための手助け、いわば武士の情けの一刀だったように思えます。儀式に捧げられた生贄の牛の屠殺が広場で繰り広げられるのとシンクロするように、カーツに向かって刀を振り下ろすウィラード。死の間際、虫の息のカーツが呟きます。「恐怖だ...恐怖だ...」(Horror…Horror…) "欺瞞"よりも"狂気"(彼の論理では正気)を選びながら、しかしそこにある"恐怖"をついに克服できなかった孤独な男の最期のことばです(原作でも同じセリフがあり、そこでは「地獄だ」 という訳が充てられている。この映画の邦題、「地獄の黙示録」は、そこからインスパイアされたものと思われる。映画のテーマを矮小化してしまっている一方で、しかし"Apocalypse Now"の直訳では伝わらない、この映画の雰囲気を表現したよい邦題だと思う)。神殺しと神の地位継承 カ ーツの宮殿の書斎机の上には、聖書 、「金枝篇」 (J.G.フレイザー)、そして「祭祀からロマンスへ」 (J.L.ウエストン)が置かれています(「戦争と平和」...はない)。ウィラードによるカーツ殺しは、まさにそのうちの一冊、「金枝篇」にある「神殺し」の章に書かれているとおりのものです(「金枝篇」は、呪術、供儀、タブー、植物神、神殺しといった人類学の概念に関する世界中の事例をとりまとめた本)。"永遠の持続という観念を欠いている場合、未開人は当然のことながら、神々も死を免れないものと考える" "未開の人々はときとして、自らの安全と、さらにはこの世の存続さえも、人間神もしくは神の化身である人間の生命に、結びついていると信じている" したがって、"(人間神)の魂は、迫り来る衰弱により多大な損失を被るより早く、強壮な後継者に移し変えられなければならないのである。(コンゴ(=奇しくも「闇の奥」の舞台)では、人間神である大司祭が)病に倒れたり死にそうに見えたりすれば、その後継者となる運命にある男は、縄か棍棒を持って大司祭の家に入り、これを絞め殺すか殴り殺すのであった" (以上すべて、「初版 金枝篇」より) カーツがウィラードに自分を殺すよう唆したということは、ウィラードを自らの後継者に指名したということにほかなりません。そしてウィラードは、そのことを知りもせぬまま、神(カーツ)を殺すことにより、神の地位を継承してしまいます。カーツを暗殺し、刀を手にぶら下げたまま、ギラついた目で宴たけなわの広場に出てきた血まみれのウィラード(新たなる神)を畏れ敬い、原住民たちはみなその場に跪きます(原住民のひとりが暗殺を目撃していた)。その光景を見下ろしていたウィラードが、やがて手にした刀を放り投げると、原住民たちはそれを真似するかのように、手にした槍や弓矢を捨て始めます。"セレベス島のボニの宮廷には、王が行うことはなんであれ、廷吏全員が行わなければならないという掟がある" (「初版 金枝篇」より) 刀を捨て去ったウィラードは、神の地位にとどまることを拒否し、なかば原住民化して生き残っていた仲間のひとり、ランスの手を引き、哨戒艇で村を後にします。カーツを理解し、戦争の欺瞞を拒否しつつ、同時にカーツと同じ狂気の道を歩むことも否定したウィラードは、しかし戦場以外に帰る場所がないはずの人間でもあります。刀を捨てたウィラードは、彼の生きる目的であった戦争自体を捨て去る決心をしたのでしょうか――。それは映画では語られておらず、哨戒艇が白い霧のむこうに消えていくエンディングには、深い余韻が残ります。最後に こ の映画が語る欺瞞、考えてみれば、それは戦争という特殊な状況に限らず、現代社会の日常のあらゆる場面に存在するものです。いくらでも例は思い浮かびますが、社会の一員として、いくつもの欺瞞に眼をつぶっている(欺瞞を甘受して生きている)自分がそれをあげつらうことは、気が引けます。ただ、ひとつ言い訳があるとすれば、映画のような未開の奥地ではない、近代文明の中に生きている限り、欺瞞のある生活は避けえないことのように思えるということです。カーツの云う、"自分自身からも解き放たれた真の自由"、すなわち欺瞞のない生活というものは、それこそ人間性を捨て去りでもしない限り、実現できないのではないでしょうか。地獄の黙示録 特別完全版 (原題: Apocalypse Now Redux ) 製作国 : 米国 公開: 2001年(オリジナル 1979年) 監督: フランシス・フォード・コッポラ 製作: フランシス・フォード・コッポラ 脚本: ジョン・ミリアス/フランシス・フォード・コッポラ 原作: ジョセフ・コンラッド(「闇の奥」 ) 出演: マーロン・ブランド/マーティン・シーン/ロバート・デュヴァル/デニス・ホッパー 音楽: カーマイン・コッポラ 撮影: ヴィットリオ・ストラーロ 編集: リチャード・マークス/リサ・フラックマン/ジェラルド・B・グリーンバーグ/ウォルター・マーチ
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管理人: mardigras
別におめでたくはないのですがご挨拶ということでぇ~
斜め読みしましたので記事にコメントかけませんがこの邦題「地獄の黙示録」は私もとてもいい訳題だと思います。