ハリウッドの「雨月物語」

ハリウッドの裏側を描いた、いわゆる内幕モノと呼ばれるジャンルのマスターピース、「サンセット大通り」(1950)。ちなみに同年のアカデミー賞作品賞を攫ったのは、奇しくも演劇界の内幕を描いた「イヴの総て」(1950)。こちらも面白い映画ですが、しかしアクの強さでもって、個人的には「サンセット大通り」に軍配を上げたいと思います。
私がこの映画を観たのは、もう二十年以上昔のこと。真夏の陽射しがじりじりと照りつける昼下がり、予備校をサボって立ち寄った、閑古鳥の鳴く新宿シアターアプルで、ひとり鑑賞したことを覚えています。この映画、私にとっては三、四本目のビリー・ワイルダー作品。ワイルダーといえばウェルメイドのコメディ――そんな先入観があったせいで、この、シリアスにもほどがあるドラマのあまりにシニカルな味わいに、ひどく吃驚したものです。しかも「サンセット大通り」は、見ようによっては、ほとんど"怪談"といっていい、とてもおっかないドラマ。真夏にもかかわらず、背筋がぞっと冷たくなる、そんな、暑気払いにはうってつけの映画ではありました。
「サンセット大通り」は"怪談"である(以下ネタバレ)
"若い男の死体がプールに浮かんでいる"
映画はいきなり、そんなモノローグで始まります。豪邸のプールに浮かぶ若い男の死体、実はこの男こそ、このドラマの主人公。しかもその状況を淡々と独白しているのが、死体となった、当の主人公。そもそもなぜこんな羽目になったのか、死体が自ら過去に遡って振り返る、というのがこの映画の趣向であります。
実に破天荒で度肝を抜く幕開けなのですが、初めて観たときこそ意識しなかったものの、再見したときに、ふと思いました。これ、よく考えたら幽霊の身の上話なわけで、そもそもそこからして"怪談"そのものではないか、と。
といっても、この映画のコワさはそんな結構にあるのではなく、あくまでその中身がコワい。ひとことで言えば、かつて栄華を誇った狂女に取り付かれた若い男の顛末――といったその筋立ては、おぞましさと恐怖の裏に、そこはかとない"もののあわれ"を感じさせたりもして、"狂女"を"女の幽霊"に置き換えてみれば、いかにも「今昔物語」や「聊斎志異」あたりにあっておかしくなさそうな(あるいは後述するとおり、「雨月物語」を髣髴とさせる)、東洋の怪談めいた気配を漂わせているのですね。
背筋が凍る登場人物たちの妄執(「サンセット大通り」のあらすじ)
ドラマの主人公は、"B級"映画専門のうだつの上がらない脚本家、ジョー・ギリス(ウィリアム・ホールデン)。食うにも困る生活に見切りをつけ、いい加減、田舎に帰ることを考えていたある日、借金取りに追われて、サンセット大通りの一角にある大豪邸の敷地に逃げ込みます。
屋敷はひどく寂れ果て、とても人が住んでいるとは思えない有様。ところがどこからともなく、執事の格好をした老人が姿を現し、ギリスに向かって、奥様がお待ちかねだ、と告げます。
事情がわからぬまま、屋敷に通された彼は、けばけばしい化粧をして色眼鏡をかけた、初老の女性に対面します。そして、彼を待ちかねていたという彼女が指差すベットの上には、なんと、猿の死体。実は、ペットのチンパンジーが死んだので葬儀屋を手配したところ、折りしもそこにギリスが現れた、というわけ。誤解である旨を告げ、辞去しようとしたギリスは、ふと目の前の女性が、サイレント時代の大女優、ノーマ・デズモンド(グロリア・スワンソン)であることに気がつきます。
「あなた、ノーマ・デズモンドですね、昔、大女優だった」
「私は今でも大女優、小さくなったのは映画よ!」
ノーマはかっと目を剥き、興奮した口調のしゃがれ声で、トーキーを全否定します。
「映画は世界中の視線を集めていたのに、それだけでは満足できなくて、今度は耳まで欲しがりだした。そして大口を開けてしゃべりだしたのよ!」
ついでにカラー映画もくさします。
「ことばは映画を窒息させるわ。マイクは唾を飲み込む音まで拾うし、テクニカラーの赤は腫れた舌の色よ!」
ノーマがとっくの昔に引退したと思っていたギリスは、彼女自ら、自身が主演する映画の脚本を書いていることを知って、驚きます。
「カム・バックされる予定とは知りませんでした」
「そのことばは嫌いだわ。リターンといいなさい!大衆が私の映画を待ってるのよ!」
カム・バックとリターンのニュアンスの違いがよくわからないのですが――カム・バックは引退からの復帰、リターンは休業からの再開、そんなニュアンスでしょうか。いずれにしても、ギリスの知る限り、ノーマの最後の映画出演は、もう二十年も昔のこと――。
ノーマは、ギリスが脚本家だと知ると、書き上げた「サロメ」の脚本に目を通してほしいと云い出します。承諾したギリスが一読したところ、それは案の定、箸にも棒にもかからない、ヒドいシロモノ。しかしギリスは、プロのライターが手直しすればよくなるとアドバイスし、まんまと仕事にありつきます。大金持ちの老女優をうまく引っ掛けたつもりのギリスは、ノーマの勧めるがまま、その夜、屋敷の離れに泊まります。
翌日遅くに目覚めたギリスは、自分のアパートにあったはずの荷物一切合財が、屋敷に運び込まれているのを知って、驚きます。血相を変えたギリスは、ノーマに詰め寄り、事の次第を問いただします。しかし、ノーマは笑ってとりあわず、屋敷に住み込むよう、命令口調で告げます。アパート代にも窮していたギリスは返すことばがなく、こうして彼は、そこだけ時が止まったような荒屋敷に住み込むこととなります。
屋敷中の卓という卓には、若かりし頃のノーマの写真が所狭しと飾られていて、また壁面には、ノーマの巨大な肖像画が掛けられています。右を向いてもノーマ、左を向いてもノーマ。
壁の絵を動かすと、そこには大きなスクリーンが設えられていました。ノーマは気が向くと、映写機で昔の映画を上映します。上映作品はむろん言うまでもなく、ノーマ主演の無声映画。暗がりの中、小さなソファにギリスと並んで座り、若い自分が動き回る姿をうっとりと眺めるノーマは、次第にギリスに身体を預け、やがてその腕に自分の腕を絡めはじめます。強烈な香水の匂いに耐えかね、ギリスは思わず顔を背けますが、しかし、スクリーンに夢中のノーマは気がつきません。
過去の栄光を忘れられず、現実から目を背けて幻想の中に生きる、かつての大女優、ノーマ。そんな彼女が幻想から醒めることのないよう、せっせと手を貸しているのが、ノーマを心から崇め奉っているらしい、いかめしく不気味な老執事、マックス(エリッヒ・フォン・シュトロハイム)。揶揄ぎみにノーマを褒めるギリスとマックスの会話。
「ノーマ・デズモンドはたいした人だね」
「奥様はもっとも偉大な方です。あなたは若いからご存じないが、昔はファン・レターが週に1万7,000通も届いたものでした。一筋の髪さえ憧れの的で、奥様の絹の靴下をほしがり、それで首を括ったマハラジャもいました」
ノーマのもとには、いまだ、毎日何通ものファン・レターが届き、お返しのポートレートにせっせとサインをするのが、彼女の日課となっています。ところがこのファン・レター、実はすべて、マックスが密かにしたため、投函しているものでした。
そして、さらなる驚愕の事実が明らかになります。マックスは、実はノーマの最初の主演映画の監督であり、彼女を見出したのもまた、自分であったことをギリスに明かします。ショックを隠し切れないギリスに、マックスが云います。
「私が執事にしてくれと頼んだのです。監督の仕事も自ら辞めました。彼女なしでは耐えられなかったからです。私が彼女の最初の夫だったのです」
マックスは、自分がもはやスターではないことを、ノーマに気づかせないようにするのが自分の仕事だ、と誇らしげに語ります。しかし、ノーマとマックスが協同で作り出している幻想は、実は危ういバランスの上に成り立っている、いわばカードで作った城のようなものでした。ギリスは、屋敷中の扉という扉に鍵がなく、鍵穴のあるべき場所に丸く削りとった穴が開いていることに気がつきます。マックスが云います。
「主治医の指示です。奥様は塞ぎこみがちで、自殺未遂を何度か図ったことがあるのです」
ある日、ギリスとノーマは、マックスの運転でドライブに出かけます。ノーマは、着たきりすずめのギリスに服を新調してやると云い、高級ブティックに乗り付けると、ギリスが要らないというにもかかわらず、タキシードや燕尾服までもをあつらえます。コートを選ぶギリスと店員の会話。
「値がはりますが、キャメルよりもビキューナの方が」
「いや、キャメルでいい」
ギリスに顔を近づけ、耳打ちする店員。
「女が払うんだろ。いい方を選べ」
こうしてギリスは、老女優をうまく引っ掛けたつもりが、逆に蜘蛛の巣にかかったように、いつしかノーマの"所有物"となっていきます。そう、死んだチンパンジーのように――。
大晦日の夜、屋敷で年越しパーティが開かれます。浮き立つノーマによって、ギリスは正装させられます。しかし参加者は、ノーマとギリスの二人だけ。大広間で、楽隊の演奏するタンゴにあわせて踊る二人。そしてそれを見守るのは、給仕のマックスただひとり。異常なパーティ、そして欲しいものは何でも買ってあげるという、ひとりよがりにもほどがあるノーマに、ギリスの嫌気は頂点に達します。
「ボクは何もいらない。いい加減にしてくれ。ボクに誰か特別な女性がいると考えたことはないのか?」
ノーマの表情が一変します。
「私の愛を拒むのね!」
ノーマは、鬼気迫る表情でギリスに平手打ちをくらわすと、階段を駆け上がり、自室に駆け込みます。一方、屋敷を飛び出したギリスは、友人のアパートを訪ね、折りしも開かれていたパーティに飛び入り参加します。
久しぶりの友人との再会。同年代の若者たちの華やかなで健康的な空気に触れたギリスは、ノーマの屋敷を出る決心をし、マックスに電話して荷物をまとめてほしいと頼みます。ところが、そんなギリスの耳に飛び込んできたのは、ノーマが自殺未遂を図ったという、ショッキングなニュース。
あわてて屋敷に戻ったギリスは、手首に包帯を巻き、ベッドに横たわるノーマを目にします。出て行ったらこれから何度でも自殺してやる、と泣くノーマ。ギリスは負け、ついにノーマと褥をともにしてしまいます。とまあ、こうして、ギリスはますますにっちもさっちもいかなくなっていきます。
それから数日後、ノーマはようやく完成した「サロメ」の脚本を映画会社に送りつけます。しかし待てど暮らせど、映画会社からはなしのつぶて。業を煮やした彼女は、かつてともに仕事をした大監督、セシル.B.デミルに直談判すべく、撮影現場へと乗りこみます。突然現れたノーマを見て、内心迷惑に思いながらも、温かく迎えるデミル監督(本人出演)。ノーマの周りには、懐かしさで人の輪ができあがり、彼女は感激に涙します(この映画で唯一、彼女に対する冷笑感が薄れる場面)。デミルはノーマを傷つけないよう、遠まわしに脚本が使えないことを仄めかしますが、しかし自己愛の結晶のような彼女に真意は伝わりません。こうしてノーマは、いよいよ自分の映画が撮影されるものと信じ込んでしまいます。
きたるべきクランクインに備え、ノーマはエステとエクササイズに励みます。一方、ギリスは大晦日のパーティで知り合った、映画会社で脚本の校正をしている若い女性、ベティ(ナンシー・オルソン)とともに、共同で脚本を執筆することになります。夜ごと、ノーマの目を盗んでは外出し、深夜のオフィスでベティと脚本の執筆を続けるギリス。そしていつしか、二人のあいだには恋が芽生え始めます。しかしそれは、やがてノーマの知るところに――。
嫉妬に狂ったノーマは、ベティに、ギリスを中傷する匿名の電話を掛け始めます。そしてとうとうある日、ギリスは、ノーマがベティに電話しているところを見つけてしまいます。ギリスは、ノーマから受話器を奪い取ると、電話の向こうで困惑しているベティに向かって、屋敷にくればすべてがわかる、と告げます。無表情で睨みつけるギリスに、ノーマは泣いて許しを請います。
やがて屋敷へとやってきたベティに、ギリスは、これまでのすべてを包み隠さず打ち明けます。一緒に屋敷を出ましょうと云うベティを、ギリスは偽悪的な態度で追い返します。ベティがひとりで帰っていったことを知り、ノーマは歓喜に顔を輝かせますが、しかしギリスは、屋敷を去る決心をしていました。
ギリスは泣き喚くノーマに向かい、映画が作られる見込みなんて金輪際ないこと、そしてファン・レターもすべてマックスの手になるものであったことをばらしてしまいます。屋敷を立ち去ろうとするギリスのあとを、拳銃を握りしめたノーマが、呆けたようにふらふらと追いかけていきます。立ち止まろうとしないギリスが、プール・サイドまで歩みを進めたとき、ノーマはついに、ギリスの背中に向け、掌の中の拳銃を発砲します。
* * *
というわけで、この映画、若いジゴロが老女優をたらしこんで屋敷に入り込み、いろいろあって最後は自業自得で死ぬ、というお話だとすっかり思いこんでいましたが、今回久しぶりに観なおしてみて、記憶がかなり間違っていたことに気がつきました。この、若い脚本家、確かに打算から老女優に取り入りるのですが、しかし途中からは、逆に屋敷と老女優から逃げ出したいのに逃げられなくなるという、あたかも老女優に取り憑かれてしまったかのような、そんな描かれ方をしているのですね。

ノーマに魅入られた若い男、そして見えない結界が張られてでもいるかのような荒屋敷の不気味さを観て、心に浮かんだのは、溝口健二の「雨月物語」(1953)。その様子は、そう、まるで若狭姫の亡霊に取り憑かれてしまった陶工と、荒れ果てた朽木屋敷そのものではありませんか。「雨月物語」という怪談を、幽霊の登場しないお話に焼き直したら、おそらくこんな感じになるのではないでしょうか(といっても実は、「雨月物語」よりも「サンセット大通り」の方が三年ほど早く作られている)。
鬼気迫るグロリア・スワンソン
ノーマという、妄執の塊のような女性の異常性と狂気を強調し、ひいてはこの映画のコワさを格段にアップさせているのが、いかにもサイレント期に活躍した女優らしい、グロリア・スワンソンの、ほとんど演技過剰の表情としぐさ(というか、この映画だからこそ許されるような演技)。たとえば、(「サロメ」の)脚本にもう少し会話があった方がよい、と云うギリスのアドバイスに対する、そのリアクション。
「会話なんかなくたってすべて目で語れるわ!」
と云いながら、おもむろにサングラスを外すと、目をかっと見開いて、半開きの口でギリス(カメラ)をじーっと睨みつけるのですが、ホント、その顔のコワいことといったら。思わず目を背けてしまいたくなるほどにホラーです。
そしてなんといっても、極めつけはエンディング。殺人の一報を聞いて駆けつけてきた警官たちに、何を質問されても上の空だったノーマが、ニュース映画のカメラが来た、というひとことに反応します。撮影が始まったと錯覚した彼女は、サロメの扮装に身を包み、カメラと記者が待ち構える広間を見下ろす踊場に、狂気の表情で姿を現します。マックスの「ヨーイ、スタート!」の掛け声(この人も狂ってます)でカメラがまわり出すと、デミルの声を聴いたと思い込んだノーマは、サロメよろしく不気味に手先をくねらせつつ、広間を睥睨しながら、カーブ階段をしずしずと下りはじめます。アゴを思い切り撥ねあげ、目をこれ以上ないくらいにひん剥いて、カメラに近づいてくるノーマの顔の大アップ(冒頭のイラスト)。これ、もしかしたら私にとって、これまで観た映画の中で、もっともぞっとした場面かもしれません。
マックスを演じるエリッヒ・フォン・シュトロハイムもまた、そのいかめしく不気味な(無)表情と佇まいで、この映画のコワさを倍加させています。いわゆる、一目見たら忘れられない異相、というやつであります。そして、そのひどく歪んだ精神と反比例するかのように、ぴんと反り返った、まるで背中に鉄板でも入ってるんじゃないかという、いかにも執事らしい、しかしどこか歯車の狂ったロボットを連想させる、非人間的な、その立ち姿。「大いなる幻影」(1937)で演じていたドイツ貴族出身の収容所所長や、「熱砂の秘密」(1943)で演じたロンメル将軍が、いずれもその見た目と精神が調和したキャラだったのに対し、背筋のぴんと伸びたキチガイという、肉体と精神のバランスが歪んでいるにもほどがある「サンセット大通り」の変態キャラは、製作から60年近く経ったいまなお、衝撃的です。
現実とシンクロする残酷なアングル
それにしても、グロリア・スワンソンが、実際にサイレント時代の大スターであり、またこの映画が、トーキーになってからの初出演かつカム・バック作品だったということを知ったときは、それこそひっくり返るくらい驚きました。しかも、執事を演じたエリッヒ・フォン・シュトロハイムは、実際に彼女の主演映画を監督したことがあり(劇中、上映されるノーマの若い頃の映画がそれ)、さらにはセシル.B.デミルが、実際にグロリア・スワンソンを見出した監督だったという事実――。
映画とは、なんと残酷で怖ろしいことをするんだろうと思ったものです。ノーマという役柄に対する視線が、とことん冷徹かつ残酷で、正直、そのあまりの痛々しさに一抹の哀れを催してしまうほどのものであるがゆえ、それこそ自らのキャリアがそのまま重なりそうなキャラクターに対するそんな冷笑を、グロリア・スワンソンは、いったいどう受け止めたのだろうか、と。
子供の頃、テレビでジョン・ウェインの遺作、「ラスト・シューティスト」(1976)を観たときに、その解説で、癌を患ったガンマンを演じるジョン・ウェイン自身が、撮影中、本当に癌に侵されていたということを知って、感動したというか、ショックを受けてしまったというか、とにかく激しく心を揺さぶられてしまったのですが、この映画の裏話を知ったときの衝撃は、それに優るとも劣らないものがありました。むろん、グロリア・スワンソン=ノーマではないはずですが、それでも、このリアル過ぎるアングルを作品に持ち込む製作者の掟破り感と、その虚実ないまぜのコワさと痛ましさを、誇張せんばかりのテンションで演じきってしまうグロリア・スワンソンという女優の覚悟には、ただただことばを失ってしまいます。そして、「スタア誕生」(1954)のジュディ・ガーランドだったり、はたまた「イヴの総て」のベティ・デイヴィスだったり、似たようなエピソードを知るたびに、その役者根性の凄まじさに感じいってしまうのです。
サンセット大通り(原題: Sunset Boulevard)
製作国 : 米国
公開: 1950年
監督: ビリー・ワイルダー
製作: チャールズ・ブラケット
脚本: チャールズ・ブラケット/ビリー・ワイルダー/D・M・マーシュマン・ジュニア
出演: グロリア・スワンソン/ウィリアム・ホールデン/エリッヒ・フォン・シュトロハイム
音楽: フランツ・ワックスマン
美術: ハンス・ドライヤー/ジョン・ミーハン
衣装: イーディス・ヘッド
撮影: ジョン・サイツ
編集: アーサー・P・シュミット
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管理人: mardigras

確かに、サイレント映画を観る前と後とでは、
見え方が全然、違いますね。
サイレント映画を観たら、あのスワンソンの過剰とも癒える立ち居振る舞いは、
正しい!
ということが、判ります。
残酷といえば残酷でしょうが、
スワンソンにとっては、
まさに女優冥利に尽きる映画だったのではないか、という気さえします。
女優という概念には、
確かに華もありますが、同時に泥とでも呼びたいような、そんな側面もある気がするからです。
華と泥の狭間で魅せてくれるのが、女優というイメージありますね、私。
虚実綯い交ぜ、というと、観る側は悩ましい感じもあるのかもしれませんが、
演じるということには、どこか実があるものだとも思います。
(この辺は、以前、私のブログでの『オープニング・ナイト』の記事で触れてます)
ただ、おもしろいことに、
虚実綯い交ぜ、といっても、いろいろあるもんで、
たとえば、
石原真理子の「ふぞろいな秘密」なんて、
テレビで放映されても、もしかしたら観てしまうんではないかなどという不安を
微塵も感じないですねー。
「痛々しい」にも、いろいろ、ありんすねぇ。。。