今、頭は混乱でいっぱいだ

以前、ヒッチコックの「めまい」(1958)について、昔観たときはまったく面白くなかったのに、時が経って観返したら滅茶苦茶面白かった、というようなことを書きました。で、フェデリコ・フェリーニの「8 1/2」(1963)もまた、私にとってそんな一本。高校生の頃、中野か飯田橋、どちらかの名画座で観たのですが、奇抜で絢爛たる映像に目を瞠りつつも、話の筋がさっぱりわからなくて、退屈のあまり爆睡してしまったものです。
とまあ、自分にとってわけのわからない映画だったにもかかわらず、たとえばキネマ旬報の年間ベスト・ワンに選ばれていたり、この映画に対する世間の評価がやたらと高いことに納得がいかず、この映画の一体どこがすごいのか、図書館で評論や解説のたぐいを探して読み漁ってみました。しかし、この映画の映像美や音楽といった"要素"の素晴らしさを称揚する解説はいろいろあったものの、総体として「8 1/2」がなぜそんなに素晴らしいのか、そのあたりのことを具体的に書いている記事や評論がどこにもありませんでした。そんなわけで、レビュワーたちもホントはこの映画をわかってないんじゃないか、わかったふりしてるだけなんじゃないのか?と、自分が理解できない悔しさも手伝って、そんなことを思ったりしたものです。
とはいえそれから何年も経って、教育テレビで放映していた「8 1/2」を、録画するだけしておいたのは、なんだかんだでこの映画のことがずっと頭の片隅にひっかかっていたからでしょう。といってもなかなか観る気になれず、ようやく再見したのは、ほんの五、六年前のこと。DVDレコーダーを買ったので、もういらなくなったVHSビデオを処分しようとしてふと目に留まり、捨てる前に観てみようかとデッキに放り込んでみたのですが、あのとき、何も考えずに捨ててしまっていれば、その先ずっと、この映画を再見することはなかったかもしれない――と思うと、おそろしい。というのも、年月を経て、ここまでドラスティックに印象が変わった映画は初めてで、十数年前とはまったく異なり、今度はあまりの面白さにアドレナリンが出まくり興奮し、初見時には気づくことのなかった、「8 1/2」の目眩めく芳醇な味わいに酔い痴れてしまったからです。
ことばで説明することのむずかしい映画、「8 1/2」
で、こうしていざ、自らが「8 1/2」について何かを書こうとして思うことは、この映画、確かにその面白さをことばで伝えるのは難しい、というか、ほとんど意味がないように思えてしまう、ということです。当時、この映画の魅力をさっくりわかりやすく手ほどきしてくれるような論評がなかったのも、今となっては妙に納得する次第。要するに、これはもう理屈じゃなく、映像を観て、観たそのままをそのままに受け取るしかほかにどうしようもない映画なんじゃないか。そしてその観たまんまを面白いと思うかどうか、それはもう、観た人の感性だとか、人生経験だとか、人生観だとか、そのとき抱えている悩みだとか、そういう極めて私的な部分が、フェリーニがこの映画にぶちこんだ思いとハーモナイズするかどうか、ただひたすらそこにかかっている映画なんじゃないか、と思うのであります。劇中、ある登場人物が、「この映画は芸術作品です」なんてことを口にしますが、確かにこの映画の興奮は、よくできた娯楽作品のそれというよりも、どちらかというと、美術館で、波長がぴったり合った絵画に巡り合ったときのそれに近いかもしれません。
映画に限らず、"芸術"に感動するということは、多かれ少なかれ、作品と鑑賞者の相性―鑑賞者の感性次第のところがあります。しかし、私みたいに一度は拒否反応を起こした人間にも、結局は届いてしまうところが(二十年近い時間はかかりましたが)、この作品の凄みではないでしょうか。当時読んだ論評のひとつに、"映画はもうおしまいだ、もうこれ以上の映画はできない"、という、映画評論家、植草甚一のひとことがあります。何言ってんだ、と鼻白んだものですが、ことばで説明することが不可能な、映画というメディアにしかできない表現の究極がこの作品、という意味で、今の私には、割合素直に肯ける寸評です。フェリーニは、この映画の主人公に、「映画はほかの芸術に比べて五十年遅れている」などと言わせていますが、この作品そのものが、その"五十年"の差をぐんと縮める役割を果たしたのではないか、そんなふうに思えるほど、「8 1/2」の独創性と革新性は、際立っています。

高校生の私は、この映画のわからなさを、要する抽象画のようなわからなさ、と考えていたのですが、再見して以来、それがどうやら的外れだったことに気がつきました。抽象性に対する感性だとか想像力に優れていなくても、実社会での面倒ごとやさまざまな人間関係を経験し、人生の"アカ"(といって悪ければ、しがらみ)がそれなりにこびりついてくると、その内容が自然と理解できる映画だったのではないか、今となっては、そんなふうに感じています(もちろん感性の鋭い人は感性で理解できてしまうのだろうと思いますが)。かつて爆睡を誘った映画が、なぜ今、これほどまでに面白いのかをつらつら考えてみるに、それは少なくとも、私自身にとっては感性云々ではなく(感性は年々鈍くなっている)、単に二十数年の時間を生きてきたという、ただそれだけのことが理由であるような気がします。言い換えれば、仮に最高の批評家が最高の文章力で百万言を費やしたレビューを読んだとしても、高校生の頃の自分がこの映画を理解することは、到底叶わなかったのではないか、そんなふうに思うのであります。しかしそれでも、あの頃の自分がこの映画を観た(観ようとした)ことは、実にナイスなチャレンジでした。なぜならあのときの?があったからこそ、今この映画から受ける感動もまた、ひとしおだからです。
と、ここまでこれだけ書いてきて、実はまだ映画の内容についてまったく触れていない...昔読んだレビューと似たようなパターンに嵌っていることに気がつきました(汗)。はっきり言って、今の私自身、この映画をことばで紹介しても無意味だという思いと、そもそもそんなことが(自分に)できるわけもないという思いの両方を抱いているのですが―しかし、もしあの頃にこんな記事があったら読んでみたかった、と思うようなアングルで、当時の自分にこの映画の魅力を伝えるようなつもりで、この先を書いてみようと思います。
「8 1/2」に描かれていることを、ひとことで言ってしまえば、中年男の人生のある数日間を切り取って、現実の出来事と一緒に男の自我もそっくりそのままフィルムに焼き付けた映画―とまあ、こんな感じではあるのですが、しかし、これが映像でどう表現されているかをいざ文字で表そうとすると、いったい何をどう書けばよいのか、思わず手が止まってしまう...とはいえそこを無理やり始めてみると―
「8 1/2」の迷宮構造について
まずは、「8 1/2」の構造について。この映画、いわゆるメタ・フィクションと呼ばれる形式をとった、映画について言及している映画であり、マトリョーシカ人形のように、物語が入子構造になっています。主人公は、映画監督のグイド。身体の調子が悪く、ロケ地に近い保養地で療養しながら、映画の構想を練っている、という設定です。で、彼が作ろうとしている映画の内容が、"映画を作ろうとしている映画監督(自分自身)の物語"、という趣向。既にクランク・インしたにもかかわらず、グイドはインスピレーションの枯渇に苦悩しており、彼は、その苦悩する自分の姿(と内面)をそっくりそのまま正直に、現在進行形で映画に描いていこうとしています。これがいかにややこしいかというと、たとえば―
「名案だと思っていた。正直で嘘のない映画をつくりたかった。ごく単純なストーリーになるはずだった。人の役に立つと思った。我らの内なる死を葬る映画だ。だが葬る勇気などなかった。今、頭は混乱でいっぱいだ」
とは、俳優が参集し、セットの製作が進み、プロデューサーにせっつかれているというのに、どうしても考えがまとまらず、映画を撮りはじめることのできないグイドが、大金をかけて作り上げてしまったロケット発射台のセットを眺めなら、妻の友人に問わず語りにしゃべるセリフ。しかし、正直な映画を撮る勇気がない、と悩むグイドの姿とその内面は、観客である私たちの前に、正直に曝け出されています。そして、彼はその私たちも観ている悩みのアレコレを、そっくりそのまま正直に、自らが撮るはずの脚本に落とし込んでいってもいます。要するに、正直で嘘のない映画を作りたいのに作れないと思っているグイドは、正直な映画を作りたいのに作れないと思っている映画監督の映画を正直に作っている...あれ?作れないの作っている??
とまあ、これだけでも"頭は混乱でいっぱいだ"((c)グイド)なわけですが、さらにこの映画、物語の展開にあたって明快な流れをほとんど放棄していて、グイドの生みの苦しみとストレスフルな人間関係の様子が、断片的な現実のエピソードとともに、この映画監督の見る悪夢やら追想やら白昼夢やら妄想やらのこれまた断片的なエピソードと一緒くたになって描かれていく、という仕掛けが施されています。
そんなこんなで、主人公が語るあれこれが、現実なのか妄想なのか、それとも単に彼の映画の構想のことなのか、そのあたりが妄想シーンの増える後半になればなるほど、主人公自身の混乱ともあいまって、ますます渾然一体となってわかりにくくなっていくのですが―しかし観終わった直後の感覚としては、この混乱していたはずのものが、かなりすっきりと腑に落ちたような気になってしまうあたりが、この映画の不思議な味わい、というか優れたところであります。
とはいえ、この手のメタ&入子構造の物語というのは、何がどうなっているか、理屈で整理してみようとすればするほど、割り切れずにかえって答えが遠ざかっていくものであり、いざこうして文字で整理してみようとすると、よくわからなくなってきて、逃げ水を追いかけてるような気分になるというか、出口のない迷宮に入り込んでしまったような気持ちになってしまいます。しかし、この、深く考え出さない限り、かなりすっきりと理解できたような気持ちになってしまうところが、この作品の凄みというか芸であり、「8 1/2」が、いわゆる実験映画とか前衛映画とは一線を画す、れっきとした商業映画となっているゆえんではないかと思います。
そして、そんな混乱を混乱のままに受け入れるのがこの映画の味わい―だとは思うのですが、そこをあえて、割り切れるものかどうか割ってみたいと思うのも、これまた人情。ということで、野暮を承知で、各エピソードが現実なのか、妄想なのかを整理してみたのが以下。
8 1/2の迷路はこうなっている(あらすじ) *数字はエピソードの順番
01. 夢
グイドのストレス、そしてカトリックに対する信仰を暗示する悪夢。
02. 現実
ホテルのベッドでの目覚め。医者の診察。
03. 現実
飲泉場に出かける。たくさんの湯治客。
04. 妄想
水汲み女性の姿をした救いの女神、クラウディアがあらわれる。
05. 現実
友人の作家、ロミエによるぼろくその脚本批評。友人メザボッタとその婚約者グロリアに出会う。
06. 現実
駅で愛人カルラを出迎える。口先だけの歓迎。
07. 現実
カルラのために予約した、自分の宿泊先とは別のホテルで食事と情事。
08. 夢
今はなき両親との邂逅。父にプロデューサーへのとりなしを期待するが、かなわず。
09. 現実
ホテルのロビーにて、映画製作関係者たちから次から次に話しかけられる。ロビーで見かけた女性に惹かれる。
10. 現実
映画製作関係者、友人たちとディナー。旧知の奇術師のパフォーマンスをきっかけに、子供時代に思いを馳せる。
11. 追想
幼い頃のワイン風呂と優しく世話を焼いてくれる母親たちの思い出。
12. 現実
ロビーでまたもや先ほどの女性に目を奪われる。ローマにいる妻、ルイ―ザへ電話し、保養地に来てくれるようにせがむ。
13. 現実
製作部の部屋を訪問。着々と進められてしまっている製作のあれこれについて話を聞く。
14. 妄想
自室でクラウディアを妄想する。インスピレーションの枯渇に悩む。
15. 現実
発病したカルラからの電話を受け、ホテルに見舞う。看病しながらも、思いは翌日の枢機卿との面談へ。
16. 現実
カトリック枢機卿との面会。会話に集中できず、思いは少年時代へ。
17. 追想
ジプシー女、サラギーナとの海岸でのルンバと神学校での懲罰の思い出。
19. 妄想
共同浴場で枢機卿に救いを求めるも拒絶される。
20. 現実
妻ルイーザとの待ち合わせ。幸せそうにスイングを踊る。
21. 現実
関係者一同でのロケ現場の視察。いつの間にか不機嫌になるルイーザ。義妹と妻の友人に不貞を詰られる。
22. 現実
ホテルの自室で精神安定剤を服用するルイーザ。夫婦げんか。
23. 現実
ホテルのカフェテラスでルイーザと彼女の友人ロセッラとお茶。そこにカルラ登場。怒りが爆発するルイーザ。妄想の世界へ逃避。
24. 妄想
ルイーザとカルラが仲良くなる妄想。
25. 妄想
過去、現在の関係した女性、気を惹かれる女性のすべてを集めたハーレムの妄想。
26. 現実
関係者一同が集ったカメラ・テスト。
27. 妄想
脚本にけちをつける作家を頭の中で処刑する。
28. 現実
カメラ・テストの続き。現実を暴露するかのようなセリフを聞いているのが耐えられなくなり、怒りもあらわにグイドに別れを告げて去っていくルイーザ。
29. 現実
カメラ・テストの続き。俳優候補の決定ができないグイド。やがてホンモノの女優、クラウディアが到着。
30. 現実
カメラ・テストを抜け出し、クラウディアとドライブ。
31. 妄想
クルマを止めた路地に現われる救いの女神クラウディア。
32. 現実
現実のクラウディアから救いを得られないグイド。プロデューサーたちに見つかって連れ戻されてしまう。
33. 現実
ロケ現場での記者会見。心身ともに逃げ場を失う。
34. 妄想
去っていったルイーザの妄想。記者会見のテーブルの下にもぐりこんで拳銃自殺する。
35. 現実
映画製作が中止されロケ・セットの解体が始まる。すべてを失ったグイド、突如悟る。
36. 妄想
ルイーザに一緒に生きていきたいと告げる。グイドを取り巻く過去、現在の人物全員が現われ、手に手を繋いでダンス。
とまあ、こんな感じなわけですが、こうして書いてみると、かなりすっきりしたような、それでいてぜんぜんすっきりしないような...映画のセリフをなぞっていえば、"こうして書き出してみるのは名案だと思っていた...しかし今は混乱でいっぱいだ"とでもいうか。繰り返しになりますが、"正直で嘘のない映画を作りたいのに作れない"と思っているグイドは、(上記の26と28に描かれているとおり)"正直な映画を作りたいのに作れないと思っている映画監督の映画を正直に作っている"わけで、ということは、エンディングで"映画製作は中止された"にもかかわらず、このあと、"その製作中止のこともまた正直に脚本に落とし込んだ映画が製作される"のかもしれないのです(そうして出来上がった映画が、こうして観ている「8 1/2」だという妄想も成り立ったりするのであります)。
映画に描かれた"現実"を、映画に描かれない"現実"(グイドが執筆しているはずの脚本)が呑みこんでいくかのようなその構成は、まるで自らの尾を呑み込んだ蛇、ウロボロスのよう。いったい何がどうなっているのか、そしてどうなってしまうのか、考え始めたが最後、思考はただひたすらに、メビウスの輪のような"ああでもないこうでもない"の無限ループをぐるぐると回り続ける羽目になるのであります...
* * *
...とまあ、頭の痛くなるようなことは、ここらでさておいて(いい加減に逃げ出すことにして)、これらの各エピソード、こうして書き出してみてつくづく思うことは、一見わけがわからない、あるいは取るに足らないものが混じっているようにみえて、その実、すべてがこの映画に必要不可欠なピースだったのだなあということ。すべてをパズルのように組み合わせ、巨大な迷路のような構築物に仕立て上げた編集の見事さは言うまでもありませんが、それにもまして感銘を受けるのは、これらのエピソードの内容が、芸術家肌の独りよがりなものでなく、観客を念頭においた、入念かつ細心の計算に基づいたものであるように思えることです。美しい映像、そして美しい音楽もさることながら、これらを通じて描かれる主人公のエモーションが、映画監督という職業から連想しがちな高尚(あるいは難解)一辺倒のものではなく、私のような一般人にもかなり共感できる下世話なものであるという点に、"芸術映画"と自ら規定しながらも、しっかりとしたエンタテインメント性の裏打ちを感じるのであります。
男はみんなグイドである
この映画を再見して面白く感じた理由、それはなんといっても、この中年男の主人公が抱える悩み、それにその心の動きが、かなりよく理解できてしまったというか、全部とは言わないまでも、そうそう、あるある!と、共感できるものだった、ということに尽きます(どこに共感したかは言いませんが)。
そもそも、この映画を撮影したフェリーニ自身の内面や実際のエピソードが、この映画にどこまで投影されているのかはわかりませんが(フェリーニ自身は自分のことではないと言っている)、それはこの際問題ではなく、あくまでフェリーニが芸として画面に焼き付けた、この主人公の仕事や人間関係の行き詰り、さらにはそれらを通じて表現される彼の苦悩、絶望、欲望、妄想、欺瞞、甘えといったエモーションが、かなりリアルなものに感じられるというのがキモで、誤解を恐れずに言ってしまえば、この映画、グイドというある映画監督の内面を描きながら、実はもっと普遍的な、"男の秘密"とでもいった心の奥底のぐじゃぐじゃとしたものを、思いっきり暴露してしている作品なのではないかという気がします。
名声を確立した映画監督であり、どこから見ても立派な大人以外の何者でもない、このグイドという男、実は、精神的にまったく大人になりきれていない人間です。何をしていても、常に心ここにあらずの状態で、その場その場の会話や行為に集中することができず、その心は苦悩からの出口を探してもがき、あちらこちらへとさ迷っています。そんな彼の苦悩がいったい何かといえば、それは、いったいどこでどう間違ってこんなことになってしまったんだ(こんな人間になってしまった+仕事が行き詰ってしまった)という、不惑をとうに過ぎた43歳の男の焦燥感。
作家としてのインスピレーションが枯渇してしまったのではないかという不安を抱き、現場の仕事を思い切り滞らせながら、プライベートでも袋小路に入り込んでしまったような人間関係のストレスに煩悶するグイドは、プロデューサー、俳優、記者、愛人、そして妻にひっきりなしに責め立てられ、詰られ、問いつめられ続けます。表面上は、すべてを大人らしい態度であしらい、ごまかし、ときに嘘で取り繕いながら、しかし彼の心は、しきりと何もかもが幸せだった無垢なる子供時代の過去に、そして妄想の世界へと飛翔します。その妄想とは、ときに真摯な救済を求めるものであり、またときには、彼のエゴが100%満たされた世界への現実逃避だったりします。
グイドの現実逃避
グイドという人物は、無類の女好きでありながら、女から愛されることだけを求め、女を愛することのできない、いわば大人になりきれていない子供です。愛人カルラのロケ先への来訪を心の中では歓迎していないくせに、いざその姿を目の前にすると、「私のお尻ちゃん」などといいながら手を伸ばしてしまう男であり、そうして情事を楽しみながらもそれに飽き足らず、友人の婚約者やホテルで見かけた女性に惹かれてしまったりもします(いずれもあとで述べる彼の妄想ハーレムに登場)。
その一方で、彼は、自分の浮気が原因で関係の冷え切っている妻のルイーザに救いを求めて縋りつき、保養地に来てほしいと電話で頼みこんだりもします。保養地には愛人も滞在しているというのに、実に信じられない行動なのですが、妻に電話するその様子の必死さは、まるで母親に甘える弱い子供のよう。要するに、彼のメンタリティは幼児のそれなのだと考えると、なんとなく理解できるものだったりします。グイドがルイーザに求めているもの、それは彼のエゴを100%肯定する母性なのですが、もちろんルイーザは妻であり、母ではありません。夫としてのグイドの背信と欺瞞を許せないルイーザにしてみれば、彼の救済願望は虫のよすぎる願いであり、自分を理解してほしいというグイドを、ルイーザは「あなたは見せたい部分しか私に見せていない」と詰ります。
ホテルのカフェでお茶を飲んでいたグイドとルイーザの前に、愛人のカルラが姿を現すと、グイドは新聞で自分の顔を隠すという茶目っ気のある(子供っぽい)振る舞いに及ぶのですが、ルイーザに責められると、あんな女は知らないとシラをきり、それも通じないとなると、妻と愛人が仲良しになるという妄想の世界に現実逃避してしまいます。そのメンタリティはまったく幼児そのものであり、そんな彼の究極の逃避先が、過去と現在にわたって彼が関係を持った、あるいは気を惹かれる女性ばかり(というか女ならほとんど誰でもこい)を集めたハーレムの妄想。そこにいるのは、彼を理解し庇護する母親のような女性と、彼にかしずく娼婦のような女性ばかり。妄想の中では妻のルイーザも、グイドを100%理解する女性に都合よく変身しています。彼はハーレムの女たちにむかって告げます。
「女たちよ、幸福とは誰も傷つけずに真実を言うことだ...皆で幸せに暮らそう。世間を離れ、君たちと私だけで...」 (実際にこんな暮らしをしている人のニュースがたまに流れるから世の中はわからない)
もっともそんな妄想を抱いているうちに、現実の世界でルイーザの我慢は限界に達してしまい、ついにグイドに別れを告げて去っていきます。
グイドの救済願望
無類の女好きの一方で、グイドは実は、そんな女性に惹かれてやまない自分自身に劣等感と罪と恥の意識を持っていたりもします。それは子供の頃、海辺に住んでいたジプシーのサラギーナに金を払ってルンバを踊らせ、さらには手に手をとって踊っているところを神学校の教師に見つかり、女性に関心を持ったことに対する強い戒めを受けた体験がもたらしたもの(サラギーナもとうぜんながら妄想ハーレムの一員)...彼は猥雑でこんがらがった私生活を送りながらも、意識の底では「きちんと整えて清潔にしたい」と望んでいたりもします(妄想の中での救いの女神、クラウディアのセリフ=彼の意識下の思い)。
そんなわけで、彼はたまたま保養地を訪れていたカトリック枢機卿(=子供時代の彼に向かって、「サラギーナは悪魔なのだよ」と断罪した宗教)に、救いの望みを託したりもするのですが、しかし宗教は、彼の救い主たりえません。なぜならいくら罪の意識を感じていようとも、彼に女断ちは不可能だから...妄想の中で「私は幸せではない」と訴えるグイドに、枢機卿は答えます。
「教会の外に救済はない。教会の外では誰も救われない」
残された彼の心の拠り所は、うちなる救いの女神、クラウディア。妄想の中のクラウディアは、実際に彼が映画のためにブッキングした美しい女優、クラウディアの姿かたちをしています。クラウディアは、彼にとって母性と娼婦性の両方を兼ね備えた理想の女性であると同時に、彼が自分を泥沼から救い出してくれると信じている聖なる存在でもあります。彼の妄想ハーレムの住人が、彼に母性を感じさせる女性と恋愛感情(劣情)を抱く女性たち、いうなれば"世俗の愛"の対象である女性ばかりで構成され、そこに"聖なる愛"の対象であるクラウディアの姿がなかったことは象徴的です。猥雑で嘘にまみれた人生を投げ捨てて、クラウディアのような女性とともに一からやり直したい、そうすればインスピレーションも取り戻すこともできる...そう夢想するグイドは、現実のクラウディアに救済の一縷の幻想を抱きつつ、彼女が保養地に到着するのを心待ちにするようになります。
そして映画の後半、現実のクラウディアが、いよいよグイドの前に姿を現します。カメラ・テストを抜け出し、ドライブに出たグイドとクラウディアの会話。
「すべてを捨てて人生をやり直せると思うかい?ひとつのことを選んでそれに専念し、生きる根拠にする...専念することで永遠のものとする...たとえばボクが、クラウディア...」
クラウディアが遮ります。
「あなたはできるの?」
「いや、この男にはできない。彼はすべてを欲しがりつつ、何も捨てられない。正しい道を求めながら死にかけている」
続けてグイドは、"この男"が、いかに救いの女神を求めているかを、そしてその女神がいかに目の前のクラウディアのイメージそのものであるかを語ります(このあたりからグイドが語っているのが彼自身のことなのか、あるいは自らが撮影している映画の中の主人公のことなのか、渾然一体となってわからなくなってきます)。
やがてクルマは袋小路に突き当たり、話を聞き終えたクラウディアが言います。
「今の話、ほとんどわからなかったわ。話の男は人を愛さないというけど、同情できない。悪いのは彼よ。人に期待しすぎ」
「そんなことわかっている。君も退屈な女なんだな」
「それならもう何も言うことはないわ...でもわからない。なぜその男は彼に新しい人生を与えるという娘を拒絶するの」
「女を信じていないからだ」
選択することのできない大人子供で、すべてをほしがる"その男"には、たとえ救いの女神が現実の女性の姿をして彼に手を差し伸べたとしても、すべてを捨てて人生をやり直すことは結局できない―グイドは、そんな"その男"が女神に救われるというような嘘の映画を撮ることはできない、とも言います。
混乱しながらも、なんとかここまでやってきたグイドでしたが、まさにクルマを止めた袋小路そのもののように、グイドのエゴもついに、袋小路に突き当たってしまいます。そもそも現実の世界のクラウディアは、グイドが拒絶するまでもなく、その会話にあるとおり、彼に救いの手を差し伸べたりはしません(むろん、彼にインスピレーションをもたらす存在でもありません)。かくて自家撞着したようなグイドのエゴは行き場を失くし、映画は限りなく破綻したまま終わりを迎えようとします。
「はるばる来させて悪かったな」
「あなたは詐欺師よ。私の役はないのね」
「そのとおりだ。君の役はない。映画もない。どこにも何もない。ここですべて終わってもいい」
しかし、"ここですべて終わってもいい"と言いながら、映画にはこのあと、コペルニクス的転換とでもいいたくなるような、あっと驚くエンディングが用意されているのです。
「人生は祭りだ、ともに生きていこう」
翌日、すべての混乱が混乱しっ放しのまま、プロデューサーたちに連行されるようにして(ここでの抵抗の様子も実に子供っぽい)記者会見に引っ張り出されたグイドは、「自分の人生に他人が興味を持つとでも?」と突っ込む記者たちに取り囲まれ、心身ともに逃げ場を失ってしまいます。こんなときはもちろん得意の現実逃避。妄想の中でグイドは拳銃を手に入れると、わめく記者たちを尻目に、インタビュー・テーブルの下にもぐりこんで、自らの頭にむかって発砲するのです。それが現実の世界で何を意味しているかといえば、それは映画製作の中止―。
大金をかけて海辺に設えられた巨大なロケット発射台の解体を眺めながら、作家がグイドに話しかけます。
「損をするのもプロデューサーの仕事だ...(中略)...後悔など無用だよ。この世に絶対必要なものなどあるか?失敗作は彼には財政問題だが、あなたには致命傷にもなりうる...」
と、ここで、その問わず語りのような作家のおしゃべりを聞いていた失意のグイドに突然、天啓が訪れます。それはすべてを失った男のぎりぎり最後の瞬間の悟りのようでもあり、単なる開き直りの飛躍のようでもあるのですが―彼は想像の中の女性たち、そしてルイーザにむかって語りかけます
「突然幸福を感じて力が湧いてきた。女性たちよ、許してくれ。やっとわかったのだ。君たちを受け入れることは自然なことだ。ルイーザ、自由になった気がする。すべてが善良で有意義で真実だ。説明したいができない。すべてが元に戻り、すべてが混乱する。この混乱が私なのだ。夢ではなく現実だ。もう真実を言うのは怖くない。何を求めているのかも言える気がする。生きている気がする。恥を感じずに君の目を見られる。人生は祭りだ。ともに生きていこう。言えるのはこれだけだ。理解しあうために、今のボクを受け入れてほしい」
さんざんさ迷い続けたグイドの心が巡り巡って辿り着いた先、それはありのままの混乱した自己と現実の大いなる(限りなく図々しいともいえる)肯定であり、罪の意識とコンプレックスからの解放―。グイドの話に黙って耳を傾けていた想像の中のルイーザは、にっこりと微笑み、こう言います。
「確信はもてないけどやってみるわ。だから力を貸して」
虫が良すぎるルイーザの返答に続き、迷いから解放されたグイドの心象風景が画面いっぱいに展開される、壮大なフィナーレ...彼を取り巻く過去、現在のすべての人間たちが登場し、ロケット発射台の周りを手をつないで輪になって踊ります。
カルラが笑いながらグイドに話しかけます。
「私たちがいないとだめなんでしょ」
そしてその輪に加わるグイドとルイーザ。現実の世界とありのままの自分を肯定した彼の想像の中に描かれる人の輪に、父母や枢機卿の姿はあっても、救いの女神、クラウディアの姿だけは見当たりません。そして人々の姿が消え、最後まで残っていた楽隊も行進しながら画面の外へと消えていきます。灯りが落とされる中、楽隊の最後尾で笛を吹きながらその場を立ち去っていくのは、無垢な少年時代のグイド...
再見したとき、グイドは救われた、と思ったものですが、今回また観なおしてみて、グイドが本当に救われたのかどうかがわからなくなってきました(ただし少なくとも、映画だけは完成したはず...たぶん)。「人生は祭りだ」という身勝手で都合のよすぎる悟りを開いたグイドを、果たして現実のルイーザが赦すかといえば、それはやはり、あり得ないような気がしてきたのであります。とはいえ曖昧で混乱したままの人生を肯定してみせる、派手な打ち上げ花火のようなエンディングは、少しでもこのグイドという男に共感を抱く人間にとって、どこかしらほっとする、前向きな気持ちの湧いてくるものではありました。
* * *
ストーリーがないともいえる映画のストーリーに関することばかり、つらつらと書き並べました。それがなぜといえば、それこそが、高校生の時の自分がもっとも読みたかったことだからです。この映画の映像、キャスト、音楽の美しさは言わずもがなというか、当時の自分にもじゅうぶん理解できたものであり、目にした論評にもさんざん書かれていたことです。なので特に触れるつもりはないのですが、ひとつだけ。それは、セルフレームの眼鏡をかけ、マオカルラの白いシャツを着た、一見地味ないでたちのアヌーク・エーメの美しさ。いや~、ホント、キレイです。
こうしていろいろと書いているうちに、観たばかりだというのにまた観なおしたくなってきました。割り切れない部分があるからこそ、何度も確認してみたくなってしまう―なんだか「8 1/2」中毒になってしまいそうな今日この頃なのであります。
8 1/2(原題: Otto e mezzo)
製作国 : イタリア、フランス
公開: 1963年
監督: フェデリコ・フェリーニ
製作: アンジェロ・リッツォーリ
脚本: フェデリコ・フェリーニ/トゥリオ・ピネッリ/エンニオ・フライアーノ/ブルネッロ・ロンディ
出演: マルチェロ・マストロヤンニ/アヌーク・エーメ/クラウディア・カルディナーレ
音楽: ニーノ・ロータ
撮影: ジャンニ・ディ・ヴェナンツォ
編集: レオ・カトッソ
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管理人: mardigras

Mardigrasさんと同じように、10代に初めてテレビで観た時は、
これが名画だなんて、悪い冗談としか思えず、
評論家や「わかる自分が好き」人間どもの、トリックだとしか思えなかった作品です(笑)。
しかし、何がきっかけで再度観たのかは、もう忘れてしまったものの、20代後半で、自分の感じ方が180度変わってしまったことに「え!」と驚き、40を目前にした今となっては、この映画をエキセントリックに感じた頃の自分の感覚を思い出すことさえ困難なぐらいに、
すんなり、入ってきてしまう映画となってしまいました。
そんな訳で、まさに、古典と呼ぶに相応しい名画だと思います。
本当は、この映画に限らず、どんな映画でも、
その映画の中に自分が見出しているものは、
その映画そのものが発しているものというよりは、
ほとんど、それを観る前から自分の中に在るものしか、
実はありえないのだとは、最近になって思うようになりましたが、
(ショックと体感されるものでさえ、自分の中に何ら”抗体”がなかったら、ショックにすら感じない筈)
それを、最も素朴に力強く体感させてくれるのが、この作品の大きな魅力であるような気がします。
そんな訳で、
勿論、Mardigrasさんとは、この映画の中に見出すものや、感じ方、入ってくるツボの位置は、違うといえば、違うのですが、
そんな違いなど、たいした意味がないかのように、
この映画に興奮し、酔い痴れる辺りのところでは、
激しく同感です。
確かに、グイドのような男は、
女にとって最悪の存在ではありますが、
そんな”最悪の男”を、
完全には見棄てられないのもまた、女である気はしてます。
”最悪な男”にも、様々なタイプがあるようですが、
ある意味、結婚生活というものにつきものの、
「欺瞞」とも呼ばれる辺りには、
夫や妻の中に見出してゆく
”最悪な男”、”最悪な女”と、それぞれどう付き合ってゆくか、
という普遍的なものがあることを、思い出してしまいます。
夫も、妻も、映画も、何もかも、
目に映るものは、悉く、自分の鏡像のようなもの。
そりゃ、神経も時には可笑しくなりますが、
グイドの姿は、
人間、行き倒れる処まで行かないと、見えないもの、受け容れられないものがある
という事実を指し示しているような気がします。
そういう意味では、
「救われることは永遠にない」、ということもまた、
救いの一つである気さえしてしまいます。
今後も、40代、50代、60代と、
この映画を観るたびに、
自分の普段は意識に上ってこない自分と出遭えるような、
怖さと楽しみがあるような予感がしています。
私にとっても、この映画は、
時と共に、太ってゆく映画です。