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[C88] 観てみたい作品の一つです。

>ある意味、これらの映画を観ることで、
>そういう自分の中にも確実にあると感じられるネガティブな感情の
>ガス抜きを図っていたところがあるかもしれません。

この表現、わかりやすいです。
確かに、こうした感情って、ありますね。私も。

>ほかの"アメリカン・ニュー・シネマ"の例に漏れず…
>そのあたりの容赦のなさ、冷徹さというものは、
>むしろ負のご都合主義とでもいいたくなるくらいに徹底したもの

これも、的確でおもしろい表現だと思ってしまいました。

確かに、お伽噺的ハッピーエンドの対極に、
これでもかと悲劇を重ねてゆく、サディスティックなまでの物語って、ありますね。
「ご都合主義」という共通項で結ばれた対極ですね。
ただ、そこまで、なんとなくわかっていても、
繰り返し観てしまえるような「魅力」ってものが、
ある作品があるのも、不思議なもんですね。
まるで、人付き合いのように、
相手の良くないところも「わかっちゃいるけど、棄てられない」作品って、あるんですよねー。
そんな辺りを感じさせる、Mardigrasさんの、この映画に対する愛みたいなものが伝わってくる記事ですね。

>正直、オープニングからエンディングまで、
>ジョーは同情する気にもなれないほど、ひたすら間抜けで、
>自滅すべくして自滅したと言いたいくらいに愚か者であり続けます。
>しかし私には彼を笑えないのですね。
>なぜなら、冒頭にも書いたとおり、自分の中にも確実に、
>何かのきっかけさえあれば、わかっていた上でそんな愚かな道を選択をしてしまうんじゃないかとう
>衝動のタネの存在を感じるからです。

(私は笑っちゃいますが)私にとっても、こうした『ネガティブな自画像』とでも云いたいような、
半分、呆れ返って嘲笑しつつ、半分、身につまされる人物像を、映画の中に観てしまう時も結構多いです。
自分の中に在ると自分で感じている、笑っちゃうしかないような情けなさ・愚かしさ・弱さを、観てしまうようです。

あ…でも、「衝動のタネ」と、Mardigrasさんが仰っている辺りは、もっと微妙で、繊細な辺りかもしれませんね。意識に残るか残らないかのものなども、在るような気もしてきました。
似ていても、ちょっと違ったかもしれません。。。

>ジョーは人に裏切られてばかりいるわけですが、
>結局最後の最後で彼を裏切り、破滅のふちへと追い込んで行ったのは、
>彼自身の心であったように思えます。

この映画を観て、という感想ではなく、
単に、Mardigrasさんの言葉に触発されて思うことなので、
映画そのものとはズレた話になってしまうかとは、思いますが、
この辺りのことは、日常でも、また、他の作品などからも、感じることの多いことですね。

裏切りを懼れてばかりの時は、いとも容易に他者を裏切るものですし、
相手に見棄てられたと思い込んだ時は、実は、その瞬間、先に相手を見棄てているのが自分であることに気づかないものだったり…。

自分を守りたい時こそ、実は、巡り巡って、自分を追いつめるようなことをばかりをしてしまうのが、人間の性の一つである気がします。

>わかってるつもりでわからないのが自分の心、
>自由になるようでならないのが自分の心...
>自分の心がふと向きを変えるきっかけ、それはいつどのようにして生まれるか
>わからないだけにやっかいです。

本当に。

自由という概念には、どうしても、
自分の思うとおりに、とか、
自分の利益や幸福を害しない、とか、
そういった魂胆が入るものではありますが、
実態としては、
そういった魂胆・意識とは離れたところで、常に蠢いているものが自由だという気がしてます。

とはいえ、やはり自由を求めて生きてゆくのも、人間の性だとは思いますが。

言葉は違っても、
自由と心(意識はその一部にしか過ぎない)は、
おんなじもののような気がしています。

・・・いやあ、なんだかだいぶ、自分の世界に入ってしまいました。。。(苦笑)

これも、Mardigrasさんの想いの強さ・表現力の功罪の一つ、と、
お許し下さい。
  • 2009-01-24 06:52
  • シネマで現実逃避
  • URL
  • 編集

[C89] >シネマで現実逃避さん

シネマで現実逃避さんワールド全開のコメント、ありがとうございます(笑)。

やりきれないような映画なんですがね、、、なんだかんだで何度も観てしまうんですね、これが。でも、ホント、暗くてじめじめしてますよ~(紹介しておいてナンですが)。

私の衝動のタネは、物事がうまくいくように、安定するようにとがんばったところで、いざうまくいく、あるいは安定してしまうと、今度はそれを壊したい気持ちがむくむくと湧いてくるという、なんというか、不安定志向とでも呼びたくなるような、やっかいな感情です。安定すると退屈しちゃうんですよね...まあ、これまでのところ、小爆発程度で済んでいるからよいのですが、ときには必死で押さえ込まなきゃならないようなときもあったりします。で、ジョーを観てガス抜きするわけですね、何かに負けて衝動に突き動かされるがままになるとこうなるぞ、と。

自分を追いつめるようなことをばかりをしてしまうのが、人間の性の一つである...まったく同感です。自分の思うとおりに、常に最適で自分を幸せにする選択ができれば楽なんですがねぇ。。。

[C90] いやー。

>シネマで現実逃避さんワールド全開のコメント

恥ずかしいですな。やっぱ。
ブログという媒体じゃなきゃ、できないことです。(笑)
  • 2009-01-24 14:12
  • シネマで現実逃避
  • URL
  • 編集

[C91] >シネマで現実逃避さん

いやいや、そんなことおっしゃらずに(笑)。
これからも思いのこもったコメントよろしくお願いします!

[C92] この映画に

これほど感情移入ができ、素晴らしい考察ができる映画鑑賞人がいるということにシュレンジャー監督は喜んでいることでしょう。

またこの映画を思い出させてくれてありがとう!

旅行でいったニューヨークはいい風が吹いていましたよ~
老後、皿洗いでもして住んでみたいとも想ったんですよ・・・
  • 2009-01-24 21:20
  • ヘルブラウ
  • URL
  • 編集

[C93] >ヘルブラウさん

ありがとうございます!
私も映画の紹介にかこつけて、いろいろ排出してしまっている一人です(笑)。

私も一度だけ、ニューヨークに行ったことがあるのですが、、、やっぱりいい風が吹いてました。お金を持ってくと(そんなに持っていったわけじゃありませんが)、優しい街かもしれませんね(笑)。

ニューヨークも住んだら面白そうですが、ハンブルクも落ち着いてて、とても住みやすそうな街ですね。





[C94]

>道端に倒れた人がいても見向きもしようとしない歩行者たち・・・

わかります!
私も学生の頃 自転車で帰っていて、
よりにもよってコンビニの前で派手に転んでしまったことがありました(恥)
無造作に入れていたバッグの中身もふっ飛んで、最悪なことになってたのですが、
普通に誰しも素通りでしたねー・・・
まぁ、私の場合恥ずかしさが勝ってたので、早くみんな立ち去ってー!って感じだったのですが(苦笑)

映画の内容にまったく触れないコメントで申し訳ありません・・・(汗)

[C95] >葉月さん

みんな薄情ですねぇ(笑)。
でも、もしかすると恥ずかしがってるんじゃないかと思って、みんな見て見ないふりをしてたのかもしれませんよ...たぶん、私も助けないと思います(笑)。

困ってそうな人に声かけるのって、なぜか意外と勇気がいるんですよね。すっと声かけられるときもあるんですけど、少しでも躊躇するととたんにハードルが上がる気がします。不思議ですね。




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真夜中のカーボーイ

破滅のタネは自分の中にある
「真夜中のカーボーイ」のイラスト(ジョン・ヴォイトとダスティン・ホフマン)

々の一時期、"アメリカン・ニュー・シネマ"と呼ばれる一連の作品にやたらとはまったことがあります。どれもこれも、エスタブリッシュされた社会とは無縁の場所で生きる人間たちの反抗や犯罪や挫折を描いた、ぶっちゃけて言えば、どうにもやりきれない暗さを湛えた映画ばかり。そんな、ともすれば観てて落ち込んでしまう作品になぜそれほど惹かれていたのか...単に、"アメリカン・ニュー・シネマ"という呼称がクールだったとか、暗鬱なアンチ・ハッピー・エンディングの映画を観るのがカッコいいと思っていた、ということもなくはないのですが、それでもやはり、その頃の自分の気分―さまざまなコンプレックスやいくつかの挫折感情、それにいくぶんかの厭世的な気分というものが、これらの映画が発する波長にぴたり、とまではいかないまでも、どこかシンクロしていたからなんだろうと思います。

といっても、破滅に向かって一直線に突き進むこれら映画の主人公たちに共感や同情を覚えていたかといえばそうでもなく、むしろ、実は自分の中にも彼らと似たような破滅志向の種火みたいなものがあるんじゃないか、何かのきっかけで捨て鉢になったらけっこう自分も一直線なんじゃないか、ということに、恐怖にも似た思いを抱きながら観ていた気がします。ある意味、これらの映画を観ることで、そういう自分の中にも確実にあると思えるネガティブな感情のガス抜きを図っていたといっていいかもしれません。

正直、今となってはこれら"アメリカン・ニュー・シネマ"といわれる一連の作品群に、当時ほどの愛着を感じなかったりもするのですが、それでもいくつかの作品は、いまだ自分にとってガス抜きの役割を果たしてくれるところがあるというか、その艶のない荒涼とした空気に触れることで、今の自分の置かれた境遇や環境の価値とその脆さを再確認させてくれるありがた味があったりします。そしてそんな中でも、私にとって究極といっていい一本が、まるで当時のソビエトあたりで撮られた反自由主義のプロパガンダ映画じゃないかと思えるくらい、資本主義社会の繁栄の裏側にある現実を醒めた目線でシニカルに描きながら、華やかに見える都会生活の病みっぷりと孤独を容赦なく抉ぐりとってみせる、「真夜中のカーボーイ」(1969)。主人公たちの悲惨さと破滅っぷりがいやになるほどリアルに響いてきて、観るたびに、何事につけ軽挙妄動は慎まないと、という気にさせられるのです。



あっという間に萎むアメリカン・ドリーム(以下ネタバレ)

の映画、ほかの"アメリカン・ニュー・シネマ"の例に漏れず、その明暗のテンションがひたすら右肩下がりというか、話が進むに従って、夢や希望や可能性というものがどんどん失われていくお話です。その容赦のなさ、冷徹さは、むしろ負のご都合主義とでもいいたくなるくらい、徹底したものです。

原作は、ジェイムズ・レオ・ハーリヒイの「真夜中のカウボーイ」。映画のストーリーは、小説に描かれた内容をほぼ忠実になぞっていて(ただし、原作において紙数の三分の一を費やして念入りに書き込まれていた主人公の過去は、映画においては時折主人公の心をよぎる断片的なフラッシュバック―それだけ観ても何が起きたのかを100%理解しきれない、しかし痛ましさだけはじゅうぶん伝わってくる短い映像―に収斂されている)、画面に漂う暗鬱一辺倒のトーンもまた、原作の行間から立ち上る空気そのものといっていいものです。しかしそれにしても、主人公たちがこれほどじりじりと追い詰められていく、酷で救いのない物語も珍しい。

*       *       *

ドラマの主人公は、ジョン・ボイト演じるナルシストの若者、ジョー・バックス。生まれ故郷のテキサスで皿洗いをしていた彼は、自慢の肉体と容貌を武器に大都会で一旗あげるべく、片田舎での冴えない生活に見切りをつけ、ニューヨーク行きの長距離バスに意気揚々と乗り込みます。

「真夜中のカーボーイ」のイラスト(ジョン・ヴォイト)ハリー・ニルソンが歌う陽気なカントリー・ソング、"Everybody's Talikin"(「噂の男」)をバックに、ニューヨークを目指し、昼夜を分かたずひた走る長距離バス―。このバス旅で描かれる、まだ見ぬ大都会への憧憬と、置き去りにしてきた田舎への追想の混じり具合が醸し出す、ジョーの高揚感と旅愁の描写は、まるで人生を象徴する連作の寓意画のようで、実に印象的です。バスが進むにつれ、ジョーが手にしているラジオの受信する局が次々と変わっていく様子、うとうととしながらみる田舎の夢、眠っている間にいつの間にか入れ替わっている隣席の乗客、やがて前方遠くに小さく見えはじめる自由の女神と摩天楼のスカイライン、そして思わず感極まって歓声をあげてしまうジョー...とまあ、ロード・ムービー好きとしては、この短いエピソードをもって、"「真夜中のカーボーイ」はロード・ムービーだ!"ということにしたくなるくらい、ちょっと出色の味わいなのです。

そして、そんな希望に満ちたバスの旅から一転、ジョーのぱんぱんに膨らんだ成功を夢みる甘い期待は、ニューヨークに到着した瞬間をピークとして、それこそあっというまに萎んでいきます。ホテルに荷を降ろし、カウボーイ・スタイルに身を包んだ自信満々のジョーは、五番街を颯爽と闊歩し、これはと思う年配の婦人を掴まえてはひっきりなしに声を掛けますが、むろん相手にされるはずもなく、そんな"お上りさん"の目に映る光景は、渋滞する路上で喚き罵りあうクルマの運転手と通行人、それに道端に倒れた人に目もくれず、その横を足早に行き交う人々...

世知辛く荒んだコンクリート・ジャングルで、山だしの田舎っぺに関心を持つ者といえば、鵜の目鷹の目でカモを探している胡乱な輩ばかり。ようやく引っ掛けたと思った裕福そうな女性は、実はとうが立った百戦錬磨の娼婦もどき、バーで話しかけてきたちょっといい女の正体は男、おためごかしにジゴロのマネージャーを紹介してくれた男はペテン師、ジゴロのマネージャーだと紹介された男はイカれた伝道師、いよいよ金に窮し、断腸の思いで相手にしたホモは文無し、とまあ、お人よしのジョーは、金を稼ぐどころかただひたすらに巻きあげられる一方。こすっからく得体の知れない都会人たちに赤子の手を捻るようにしてやられ、秒殺のスピードで丸裸になってしまうのです。

ジョーの眼にあれほど輝かしく映っていた大都会は、ほんの数日を経て、孤独を募らせるだけのよそよそしい街へと変貌します。途方に暮れ、ニューヨークの雑踏を一人あてどもなく彷徨い歩く、打ちのめされたジョーの背中にいつしか被さる音楽は、楽天的なカントリー・ソングとはうって変わった、トゥーツ・シールマンスの奏でる哀愁漂うハープのメロディ。都会人を食いものにするつもりがあっけなく食いものにされ、人に対する不信感で胸が一杯になった彼の寂寥感と惨めな思いが、すすり泣くようなハープの音色に乗せて、画面の隅々までじわじわと染みわたっていきます。

そもそも原作どおりの展開とはいえ、ジョン・シュレシンジャーの描く、大都会に手もなく跳ね返されてしまうイモ兄ちゃんに対する冷笑感と、その対にある大都会の冷酷さ、狡猾さ、不潔さ、不健全さ、醜悪さの表現には、ちょっとそこまでヒドく描かなくても...と思ってしまうような、いかにもイギリス人らしい、アメリカ的なるものに対する冷え冷えとしたシニシズムが滲んでいるように感じられます(同じニューヨークを舞台にした同監督作品、「マラソン・マン」(1976)にも同様の気分が横溢している)。約束の地を目指していたジョーの楽天的で愚かな高揚感が、あっという間に孤独な絶望に変転するその演出の呼吸は、まるで切れ味鋭いナイフを一閃したかのようです。すぱっとやられ、びゅーびゅー噴き出す血に呆然としているうち、痛みを感じる間もなく、目の前がどんどん真っ暗になっていく―そんな遠慮会釈のない非情さがひしひしと伝わってきて、観ていてなんとも気分が落ち込みます。



孤独を慰めあう湿った友情とその顛末

テルを閉め出され、しかも宿代のカタに自慢のスーツケースを取り上げられ、いよいよ行き場のなくなったジョーは、ある朝、街角のコーヒー・ハウスで旧知の男にばったり出くわします。それはマネージャーを紹介するといって彼をペテンにかけた足の不自由な男、"ラッツォ"(ねずみ野郎)ことエンリコ・リッゾォ(ダスティン・ホフマン)。怒り狂ったジョーはラッツォに掴みかかりますが、しかし薄暗いバーの照明の下で、あれだけ景気よさそうに見えたラッツォは、実はみすぼらしいなりをした、哀れな文無しに過ぎませんでした。ジョーは怒る気力を失くし、その場を立ち去ろうとしますが、しかし行くあてのない彼は、結局、ラッツォに誘われるまま、彼のねぐらに転がり込みます。それは、立ち入り禁止の札が貼られた、近々取り壊し予定の廃墟アパートの一室。壁に貼られたフロリダの観光ポスターが、かえって寒々しさを際立たせている、"ねずみ野郎"というあだ名を持つ男にぴったりの薄汚れたすまいです。

「真夜中のカーボーイ」のイラスト(ダスティン・ホフマン)ラッツォは、足が悪いだけでなく、長年の靴磨き仕事で肺をやられ、自分の肉体に強いコンプレックスを持っています。そして、せめて自分のねぐらでは、自分のことを"ラッツォ"と呼んでくれるな、という、ちっぽけで切ないプライドを抱えた、冴えないにもほどがある小男です。彼の夢は、ニューヨークを飛び出てフロリダに行くこと。しかし、陽光の燦燦と降り注ぐビーチを走り回る白昼夢にうっとりしながら、その一方で「人は誰でも、来世でまったく違う人間に生まれ変わることができる」などと口にするラッツォは、本音の部分で、現世の幸福を既に諦めてしまっているかのようでもあります。

そんなラッツォは、罪滅ぼしのつもりなのか、それとも生来の親切心なのか、何くれとなくジョーの世話を焼きはじめます。ラッツォがまたしても自分を騙そうとしているのではないか、と警戒していたジョーですが、しかし頼るあても行く場所もなく、また生来のお人よしの性格も手伝って、次第にラッツォに心を開いていきます。こうして、大都会の底辺で孤独な者同士が肩を寄せ合った、奇妙な共同生活が始まります。しかし文無しの二人にできることといえば、街角の商店でのかっぱらいぐらい。ラッツォをマネージャーにして、ジョーはなんとかジゴロ稼業を軌道に乗せようとしますが、むろんうまくいくはずもなく、ついに、どんなときも手放さずにいた、心の拠り所のようなラジオまでも質入れする羽目になります。しかし、しょせんは焼け石に水...

ジョーはなぜ、どこから見ても負け犬のラッツォにかかずらっていくのか、なぜさっさと見切りをつけてしまおうとしないのか―。それは、単に行き場がないせい、というよりも、都会の孤独に耐えられなかった彼の寂しさのせいであるように思えます。誰でもいいから寄り添いたい、たとえそれが一度は自分をペテンにかけた男であっても...幼い頃に母親に捨てられ、彼氏をとっかえひっかえしている祖母の手で育てられた愛情不足のジョーは、寄る辺のない大都会の片隅で、少しでも自分を気にかけてくれたラッツォという男に、精神的な安らぎを見出したかのようです。

厳しい冬の寒さ、電気の止められたアパート...金のない凍えるような大都会の暮らしは、容赦なくラッツォの病状を悪化させていきます。やがてジョーは、血を売って作った金で食糧を手に入れます。しかし彼は、そのことをラッツォに話そうとはしません。大切なラジオ、お次は血液―。ジョーのラッツォに対する献身は、友情というよりも、異性に対する愛情といった方がしっくりくるような、じっとりとした湿り気を感じさせるものです。田舎にいる頃、暴漢たちに襲われ恋人とともに自らもレイプされた経験を持つジョーにとって(映画の映像からはそのように見えるものの、原作に描かれたレイプの経緯はまったく違うものとなっている)、同性愛は忌諱すべきはずのものであるにもかかわらず、しかし二人の関係は、精神的に限りなく依存しあった女とヒモのそれのようで、ジゴロになろうと都会に出てきたジョーは、まるでラッツォに貢くオンナになってしまったかのようです。

その後、ジョーはふとしたきっかけで、ようやくチャンスの糸口を掴みます。とつぜん街角で声を掛けられ招待されたサイケデリックなパーティ―誰一人としてまともな人間のいない、この映画に描かれるニューヨークを象徴する正体不明のイカれたパーティで裕福な女性と知り合い、彼女のペントハウスにしけこむことに成功するのです。体調の悪いラッツォのことが心配で集中できないせいか、いったんは不能になりながらも、しかし女の挑発に力を得て、首尾よくことをなした彼は、悦んだ彼女から別の女性を紹介してもらいます。

こうして彼は、ようやくニューヨークという大都会に受け入られたかのように(そして彼自身もまた都会の魑魅魍魎―どうやって生活しているのかさっぱりわからない人間たちの仲間入りを果たしたかのように)、思い通りの方法で金を手にし、喜び勇んでアパートへと戻るのですが...しかし彼を待っていたのは、病状が悪化し、一人では歩くこともできなくなった、息も絶え絶えのラッツォ。ラッツォは病院に行くことを頑なに拒み、フロリダに行きたいと繰り返します。そんなラッツォの望みを叶えるため、ジョーは悩んだ挙句、とうとう人殺し(本当に殺してしまったかどうかははっきりと描かれてはいない。原作でも同様。ただし、あとあとのジョーとラッツオの会話で、おそらく相手が死んでしまったであろうことが仄めかされる)に手を染めてまで、フロリダ行きの旅費を手に入れます。

瀕死のラッツォを抱きかかえるようにして乗り込んだフロリダ行きのバスの中で、ジョーは甲斐甲斐しくラッツォの世話を焼きます。座ったまま失禁してしまい、尿まみれになって泣きじゃくるラッツォを励まし、休憩で立ち寄った町のショッピング・モールで着替えを買うと、自らも半そでシャツに着替え、彼のアイデンティティの象徴だった、カウボーイ・ブーツとジャケットをゴミ箱に捨ててしまいます。バスに戻り、ラッツォを着替えさせてやったジョーは、やがて前方にマイアミの街が見えてくる頃、「女では食っていけない、マイアミに着いたら仕事を見つけてまじめに働く」と、まるでニューヨークを離れて悪い夢から覚めたように、晴れ晴れとした顔でラッツォに告げます。しかしラッツォからの返事はありません。とき既に遅く、ラッツォは憧れのマイアミを目前にして、事切れていました。騒然とするバスの乗客たち。彼らの興味津々の視線から守るように、ジョーはラッツォの亡骸を抱きしめます。終点を目指して走るバスの窓に映るのは、フロリダの青い空と海、そして椰子の並木。死んでしまったラッツォにしても、また犯罪者となってひとりあとに残されてしまったジョーにとっても、一片の救いもない、実に痛ましいエンディングです。



やり直しようのなかったラッツォ

独と密かなトラウマを抱えながら、皿洗いの暮らしに見切りをつけて都会に出てきたジョーと、生まれつき足が悪く、しかも長年の靴磨きで肺を患っているラッツォ。資本主義という社会システムのもとで、経済的に成功するために必要な、タネ銭、学歴、コネ、そして資質や才能(要領のよさとか、忍耐強いとか、努力できるとか)を持ち合わせていない二人のありさまは、機会均等などいうお題目がまやかしでしかないことを嫌でも思い知らされるくらいに悲惨です。しかしより痛ましく感じられるのは、さらに身体という最後の資本までも持ち崩してしまっている、ラッツォの方ですね。

まともに働けなくなるほど、そしてほっとけば悪化する一方というくらいに身体を壊してしまうということは、地縁、血縁のない大都会に住む独り者にとって、かなり致命的であるように思えます。ジョーが、その身体を売り物にしようというくらいに健康であるぶん、ラッツォのままならない痛々しさは際立ちます。そんなラッツォの救いの扉はハナから閉ざされているかのようであり、バスの中で小便を垂れ流し、マイアミを目前にしてこれ以上ないくらい惨めに死んでいく彼にとって、最後の最後、朧でもフロリダの夢を見ることができたということが、現世で手にできる精一杯のものだったようにも思えます。前回の「8 1/2」(1963)の記事で、主人公である映画監督の悩みに共感する、というようなことを書きましたが、生理的欲求や安全欲求にも事欠くラッツォを観ると、それがいかに贅沢な悩みであるのかということを、ひしひしと感じてしまったりもします。



孤独ゆえに引き返せなかったジョー

方のジョー。稼ぎが悪くても真っ当だった暮らしを捨て去り、バカな夢を抱いて都会に出てきた彼は、八方塞りのラッツォと違い、ある意味、自滅の道を自ら積極的に選びとっていったかのようです。彼には少なくとも丈夫な身体があり、気の持ちようひとつで、いくらでも水面に浮かび上がる方法はあったように思えます。

ホテル代に窮し、男娼まがいの真似事をする前、彼は街角のカフェのウィンドウに掲げられていた皿洗い募集の張り紙を見て立ち止まります。思案顔の彼の頭に去来するのは、トラウマティックな田舎の記憶...都会の現実に打ちひしがれ、既に自分の甘さに気づいてもいたというのに、それでも彼は方向転換を拒み、夢の残滓に縋りつきます。ラッツォとつるみはじめてからも、健康体の彼にはまだ引き返す余地が残されていました。しかし孤独ゆえにラッツォから離れることのできなかった彼は、ずるずると時を過ごした挙句、孤独の埋め合わせの代償として、ついには殺人者へと転落してしまいます。そして破滅のダメ押しのように、そこまでして尽くしたラッツォは、彼を残してあっけなく悶死してしまうのです。

その破滅のさまは、不運のせいだとも、また環境に流されたせいだといえないこともありません。しかし不運を招き寄せたのも、流されるような環境に身を置いたのも、すべては彼自身の選択によるもので、やはり、自滅すべくして自滅した、というのがもっとも的を得た表現でしょう。正直、オープニングからエンディングまで、ジョーはとても同情する気になれないほど、ひたすら間抜けで、愚か者であり続けます。しかし私には、彼を笑えないのですね。なぜなら冒頭に記したとおり、自分の中にも確実に、何かのきっかけさえあれば、わかっていた上で、そんな愚かな道を選択をしてしまうんじゃないか、というアホな衝動のタネの存在を感じるからです。

ジョーにとっての内なる災いのタネは、都会への憧憬であり、根拠のない自身への過信であり、また都会においては孤独に苛まれる心でした。ニューヨークへやってきてから、いや母親に捨てられたときから、ジョーは人に裏切られてばかりいるのですが、しかし最後の最後で彼を裏切り、破滅の淵へと追い込んで行ったのは、結局、彼自身の心であったように思えます。わかってるつもりでわからないのが自分の心、自由になるようでならないのが自分の心。自分の心がふと向きを変えるきっかけ、それはいつどのようにして生まれるかわからないだけにやっかいです。いつか自分が自分を裏切るのではという恐怖を感じるがゆえに、そしてそういう危機がありうると思えるだけに、この救いようのない映画は私にとって限りなくリアルであり、観ていていろいろと思うところの多い作品であり続けるのです。

*        *        *

道端に倒れた人がいても、見向きもしようとしない大都会の住人たち...はじめて観たときは、いくらなんでもそんなバカな、と思ったものですが、それからしばらくして似たような体験をしてしまいました。予備校に通っていた頃、中央線の車中でなぜか鼻血が止まらなくなり、中野駅で降りて、顔中を血だらけにしたまま、ベンチで30分ほど横になっていたことがあります。時刻は折りしも夕方の帰宅ラッシュ。私の寝そべるベンチの前に、次から次へと満員電車が滑り込んでくるのですが、プシューっと扉が開いても、ぎゅう詰めの乗客たちは慌てて目をそらし、見事に誰も声をかけてくれなませんでした。悲しいというよりも、おお、こんなときは本当に誰もが見て見ぬふりをするんだ、と妙に感心してしまったものです。そうこうするうちに、親子連れの年配の女性が声をかけてくれて、ティッシュを水でぬらして持ってきてくれたのでした。ありがとう、あのときの人!

*        *        *

この映画のタイトルである「真夜中のカーボーイ」、なぜ"カウ"ではなく"カー"なのかと常々思っていたのですが、この記事を書くにあたってネットをチェックした際、なんとクルマを連想させる"カー"という字を当てることで、都会的な雰囲気を出そうとしたというエピソードを発見。そしてそんな素敵なことを考えついたのは、故・水野晴郎。以前「夜の大捜査線」(1967)を紹介したとき、タイトルの意味ががよくわからないと書いたのですが、このたび、「真夜中のカーボーイ」と併せて氏の仕業だったことが判明。以前、素晴らしいと思う邦題を列挙した記事(「番外編: この邦題がすごい!」)を書いたときに、氏の手によるナイスな邦題を二つ取り上げてべた褒めしたのですが、その一方でこんな罪作りなこともやっていたとは...



真夜中のカーボーイ(原題: Mightnight Cowboy
製作国 : 米国
公開: 1969年
監督: ジョン・シュレシンジャー
製作: ジェローム・ヘルマン
脚本: ウォルド・ソルト
原作: ジェイムズ・レオ・ハーリヒイ(「真夜中のカウボーイ」
出演: ジョン・ヴォイト/ダスティン・ホフマン/シルヴィア・ミルズ
音楽: ジョン・バリー
撮影: アダム・ホレンダー
編集: ヒュー・A・ロバートソン


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[C88] 観てみたい作品の一つです。

>ある意味、これらの映画を観ることで、
>そういう自分の中にも確実にあると感じられるネガティブな感情の
>ガス抜きを図っていたところがあるかもしれません。

この表現、わかりやすいです。
確かに、こうした感情って、ありますね。私も。

>ほかの"アメリカン・ニュー・シネマ"の例に漏れず…
>そのあたりの容赦のなさ、冷徹さというものは、
>むしろ負のご都合主義とでもいいたくなるくらいに徹底したもの

これも、的確でおもしろい表現だと思ってしまいました。

確かに、お伽噺的ハッピーエンドの対極に、
これでもかと悲劇を重ねてゆく、サディスティックなまでの物語って、ありますね。
「ご都合主義」という共通項で結ばれた対極ですね。
ただ、そこまで、なんとなくわかっていても、
繰り返し観てしまえるような「魅力」ってものが、
ある作品があるのも、不思議なもんですね。
まるで、人付き合いのように、
相手の良くないところも「わかっちゃいるけど、棄てられない」作品って、あるんですよねー。
そんな辺りを感じさせる、Mardigrasさんの、この映画に対する愛みたいなものが伝わってくる記事ですね。

>正直、オープニングからエンディングまで、
>ジョーは同情する気にもなれないほど、ひたすら間抜けで、
>自滅すべくして自滅したと言いたいくらいに愚か者であり続けます。
>しかし私には彼を笑えないのですね。
>なぜなら、冒頭にも書いたとおり、自分の中にも確実に、
>何かのきっかけさえあれば、わかっていた上でそんな愚かな道を選択をしてしまうんじゃないかとう
>衝動のタネの存在を感じるからです。

(私は笑っちゃいますが)私にとっても、こうした『ネガティブな自画像』とでも云いたいような、
半分、呆れ返って嘲笑しつつ、半分、身につまされる人物像を、映画の中に観てしまう時も結構多いです。
自分の中に在ると自分で感じている、笑っちゃうしかないような情けなさ・愚かしさ・弱さを、観てしまうようです。

あ…でも、「衝動のタネ」と、Mardigrasさんが仰っている辺りは、もっと微妙で、繊細な辺りかもしれませんね。意識に残るか残らないかのものなども、在るような気もしてきました。
似ていても、ちょっと違ったかもしれません。。。

>ジョーは人に裏切られてばかりいるわけですが、
>結局最後の最後で彼を裏切り、破滅のふちへと追い込んで行ったのは、
>彼自身の心であったように思えます。

この映画を観て、という感想ではなく、
単に、Mardigrasさんの言葉に触発されて思うことなので、
映画そのものとはズレた話になってしまうかとは、思いますが、
この辺りのことは、日常でも、また、他の作品などからも、感じることの多いことですね。

裏切りを懼れてばかりの時は、いとも容易に他者を裏切るものですし、
相手に見棄てられたと思い込んだ時は、実は、その瞬間、先に相手を見棄てているのが自分であることに気づかないものだったり…。

自分を守りたい時こそ、実は、巡り巡って、自分を追いつめるようなことをばかりをしてしまうのが、人間の性の一つである気がします。

>わかってるつもりでわからないのが自分の心、
>自由になるようでならないのが自分の心...
>自分の心がふと向きを変えるきっかけ、それはいつどのようにして生まれるか
>わからないだけにやっかいです。

本当に。

自由という概念には、どうしても、
自分の思うとおりに、とか、
自分の利益や幸福を害しない、とか、
そういった魂胆が入るものではありますが、
実態としては、
そういった魂胆・意識とは離れたところで、常に蠢いているものが自由だという気がしてます。

とはいえ、やはり自由を求めて生きてゆくのも、人間の性だとは思いますが。

言葉は違っても、
自由と心(意識はその一部にしか過ぎない)は、
おんなじもののような気がしています。

・・・いやあ、なんだかだいぶ、自分の世界に入ってしまいました。。。(苦笑)

これも、Mardigrasさんの想いの強さ・表現力の功罪の一つ、と、
お許し下さい。
  • 2009-01-24 06:52
  • シネマで現実逃避
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[C89] >シネマで現実逃避さん

シネマで現実逃避さんワールド全開のコメント、ありがとうございます(笑)。

やりきれないような映画なんですがね、、、なんだかんだで何度も観てしまうんですね、これが。でも、ホント、暗くてじめじめしてますよ~(紹介しておいてナンですが)。

私の衝動のタネは、物事がうまくいくように、安定するようにとがんばったところで、いざうまくいく、あるいは安定してしまうと、今度はそれを壊したい気持ちがむくむくと湧いてくるという、なんというか、不安定志向とでも呼びたくなるような、やっかいな感情です。安定すると退屈しちゃうんですよね...まあ、これまでのところ、小爆発程度で済んでいるからよいのですが、ときには必死で押さえ込まなきゃならないようなときもあったりします。で、ジョーを観てガス抜きするわけですね、何かに負けて衝動に突き動かされるがままになるとこうなるぞ、と。

自分を追いつめるようなことをばかりをしてしまうのが、人間の性の一つである...まったく同感です。自分の思うとおりに、常に最適で自分を幸せにする選択ができれば楽なんですがねぇ。。。

[C90] いやー。

>シネマで現実逃避さんワールド全開のコメント

恥ずかしいですな。やっぱ。
ブログという媒体じゃなきゃ、できないことです。(笑)
  • 2009-01-24 14:12
  • シネマで現実逃避
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[C91] >シネマで現実逃避さん

いやいや、そんなことおっしゃらずに(笑)。
これからも思いのこもったコメントよろしくお願いします!

[C92] この映画に

これほど感情移入ができ、素晴らしい考察ができる映画鑑賞人がいるということにシュレンジャー監督は喜んでいることでしょう。

またこの映画を思い出させてくれてありがとう!

旅行でいったニューヨークはいい風が吹いていましたよ~
老後、皿洗いでもして住んでみたいとも想ったんですよ・・・
  • 2009-01-24 21:20
  • ヘルブラウ
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[C93] >ヘルブラウさん

ありがとうございます!
私も映画の紹介にかこつけて、いろいろ排出してしまっている一人です(笑)。

私も一度だけ、ニューヨークに行ったことがあるのですが、、、やっぱりいい風が吹いてました。お金を持ってくと(そんなに持っていったわけじゃありませんが)、優しい街かもしれませんね(笑)。

ニューヨークも住んだら面白そうですが、ハンブルクも落ち着いてて、とても住みやすそうな街ですね。





[C94]

>道端に倒れた人がいても見向きもしようとしない歩行者たち・・・

わかります!
私も学生の頃 自転車で帰っていて、
よりにもよってコンビニの前で派手に転んでしまったことがありました(恥)
無造作に入れていたバッグの中身もふっ飛んで、最悪なことになってたのですが、
普通に誰しも素通りでしたねー・・・
まぁ、私の場合恥ずかしさが勝ってたので、早くみんな立ち去ってー!って感じだったのですが(苦笑)

映画の内容にまったく触れないコメントで申し訳ありません・・・(汗)

[C95] >葉月さん

みんな薄情ですねぇ(笑)。
でも、もしかすると恥ずかしがってるんじゃないかと思って、みんな見て見ないふりをしてたのかもしれませんよ...たぶん、私も助けないと思います(笑)。

困ってそうな人に声かけるのって、なぜか意外と勇気がいるんですよね。すっと声かけられるときもあるんですけど、少しでも躊躇するととたんにハードルが上がる気がします。不思議ですね。




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「氷壁」(1958)を観ました。穂高のロケ撮影が素晴らしい!

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2011年イラスト・カレンダー
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「劔岳 点の記」を訪ねて
その後のシネマ・イラストレイテッド in TSUTAYA
「夜叉」を訪ねて
「ツィゴイネルワイゼン」を訪ねて(その2)
2014年イラスト・カレンダー
「砂の女」を訪ねて
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