おそるべし、四回目にしてまた迷う

今から十二年ほど昔、それまで勤めていた会社を退職し、次の職場に移るまでの三ヶ月ほど、自由な時間ができました。遅ればせながら、そのときに観たのが、ブームに遅れること7~8年、デヴィッド・リンチのTVドラマ、「ツイン・ピークス」。レンタル・ビデオ屋で、最初の1・2巻を借りてきたところ、錯綜するナゾといかにも思わせぶりな展開に嵌りまくってしまい、もうどうにも止まらなくなって、次から次へと借りてきては観て、観ては返しの一週間を過ごし、果ては貸し出し中のビデオが返却されるのを待つことができず、わざわざ違う店の新規会員になってまで、一気に観きってしまいました。
とはいっても、そのストーリーについていけたのは、かろうじて、ローラ殺しの解決あたりまで。その後の壊れまくった展開には、ただただ戸惑いが増す一方で、オカルトチックなエンディングにいたっては、なんじゃこりゃ?と呆れ返ってしまったものです。しかしそれでも、最後まで投げ出さずに(しかも凄い勢いで)観たのがなぜかといえば、それはつまるところ、その"思わせぶり"なドラマから立ちのぼる、リンチ・ワールドの蠱惑的な妖気と瘴気に、いつの間にか、すっかり中毒してしまったから。
リンチ・ワールドの完成形、「マルホランド・ドライブ」
そんな、デヴィッド・リンチによる2001年公開の映画が、「マルホランド・ドライブ」。「ツイン・ピークス」によって、リンチ=意味不明(あるいは破綻)という先入観を刷り込まれてしまったこともあり、暗闇にバチバチと光の明滅する、いかにも思わせぶりなオープニングを観た瞬間、ほらきたコレもだ、などと構えて観はじめたのですが、ところがどっこい、その予想はいい意味で裏切られ、ストーリーが最後まで壊れることなく、かなりすっきりと収束したことに、驚いてしまいました。そして、そんな洗練すら感じさせる構成の一方で、「ツイン・ピークス」に充満していた、"壊れているからこそ"と思えた中毒性の高い妖気と瘴気はそっくりそのまま保たれていて、「マルホランド・ドライブ」はいうなれば、きっちり閉じられた世界に思わせぶりな謎と仕掛けを真空パックした、まさに"リンチ・ワールドの究極の完成形"。
――とまあ、ハナからわかったようなことを書いてますが、初見時に理解できたのは、実のところ、せいぜいドラマのアウトラインくらいのもの。なんだかんだで、まったく意味不明のシーンやカットが山ほどあって、要するに、よく解らないけど壊れていない、いや、そんな気がする、たぶん...といった程度でありました。しかしだからこそ、私にとって「マルホランド・ドライブ」は、一度目よりも二度目、そして二度目よりも三度目が、面白かったのですね。ストーリー全体の流れを把握した上で観返すと、一度目には意味不明だったり、無意味に思えたあれこれのシーンの意味するところがくっきりと浮かび上がってきて、それが三度目ともなると、さらにトリビアルなカットにも注意を向ける余裕がでてきたりもして、おお、こんな細かい仕掛けがあったのか、と、霧がぱっと晴れるような快感を、何度も味わったのです。要するに、私にとって「マルホランド・ドライブ」は、「太陽がいっぱい」(1960)の記事で書いたような、ひとつひとつの映像にこだわりまくった観方をしてこそ、より楽しむことができる映画の典型なのですね。と言いつつ、実は未だに訳の解らない箇所が、けっこうあったりもするのですが。
そもそも、この映画の中に辻褄アワセのピースがすべて揃っているのかどうかすらもよく解らず、仮に揃っていたとしても、果たしてそれをリンチの意図した通りに組み立てられるだけの手がかりが、映画の中で提示されているのかどうか、それもまた、よく解りません。そんなわけで、私の頭の中には、(一部欠けてはいるものの)映画の中のピースを勝手に再構築して自分なりに辻褄を合わせた、"マイ・マルホランド・ドライブ"とでもいうべき物語があるのですが、しかしそれが本当に的を得ているのかといえば、それはもちろん、藪の中。もしかすると、かたちの合わないピース同士を無理やり、ぎゅうぎゅう嵌め合わせているだけなのかもしれません。
リンチの思惑通りに踊らされる
「マルホランド・ドライブ」のDVDに収録されたインタビューで、デヴィッド・リンチは、何を質問されても、解釈どころか内容についての言及をいっさい避けて、「観て感じたままの自分の直感を信じてほしい」と述べています。それは、映画に限らず、広く創作物に対する鑑賞者のあるべきスタンスについての正論だと思えるし、それなら、オレはこう観た、ということでよいともいえるのですが、しかしリンチはその一方で、DVD付属の「この映画の謎を解く、監督からの10のヒント」と題するノートで模範解答の存在を仄めかし、ヒント(手がかり)に沿った見方と理解の努力を誘って(煽って)いたりもします。このノート、もしかすると、あくまで商業的な要請に基づいたものであって、リンチの本意ではなかったのかもしれませんが、しかしこれ、ずるいといえば、かなりずるい。自分の直感を信じろと云う一方で、この映画、さっぱり意味解んない!で済ませることはむろん、あやふやな辻褄アワセや、とにかくオレはこう思った、で片をつけるという思考停止を許さず、少なくともヒントに対する整合性はとってね、と云っているようなものだと思うからです。しかもその一方で、実はこうでした、という答えあわせをするつもりは毛頭ないという...

およそ、あらゆる創作物、中でも"芸術作品"と呼ばれる類のものは、みな多かれ少なかれ、さまざなまな解釈を許容するものでしょうし、逆に、人それぞれに見たいものを見、感じたいことを感じられるからこそ、"芸術作品"足りうるのだろうとも思います。とはいえリンチの場合、作家が創意の湧くままに作った結果として、抽象的なもの、あるいは他人にとっては難解なものができたわけではなく、"意図的に解釈の幅を持たせた含みのある作品"を作ること自体に、その職人的な狙いがあるというか、芸風の真骨頂があって、そしてその幅の上で、ああでもないこうでもないと鑑賞者を右往左往させることこそが、まさに、彼のやりたいことなんだろうと思うのですね。
「攻殻機動隊」(1995)の押井守監督が、「ブレードランナー」(1982)に言及した「押井守、『ブレードランナー』を語る!」というインタビューの中で、リンチの作風にも通じる、製作者のキモについて語っているのを見つけました。ちょっと引用してみると...
"ええ、1回や2回見ただけではわからないようにする。それは『2001年宇宙の旅』も同じなんだけど、お客さんに親切にわかりやすく作った映画というのは、あっという間に消耗する。『ブレードランナー』というのは様々なメタファー(隠喩)とか寓意がありますよね。意味ありげな折り紙とか。「あの折り紙って何なんだろう」「あのユニコーンは何なんだ」と(省略)"
"(省略)観客が勝手に想像する方が、映画としてははるかに楽しめるわけですよ。このデッカードという男って何なんだろう、どうして特捜班を辞めたんだろうとかね。そういう仕掛けをいろいろ作っていく、つまり「ある程度わかりにくくする」ことで映画は長生きするんですよ"
(以上、バンダイ・ヴィジュアルのウェブサイトより引用)
「マルホランド・ドライブ」は、押井監督の述べているところの"仕掛け"だらけで出来上がっているような作品であり、繰り返しになりますが、細部にハマり込んでああでもないこうでもないと考えること自体が、リンチの思うツボなわけです(ヒントを提示するということも、その"仕掛け"のひとつといっていいかもしれません)。そして、押井監督の云うように、そうやってあれこれと、本当に辻褄が合うのかどうかさえ解らないままに、堂々巡りしながら頭を捻ることこそ、実は、この映画のいちばんのお楽しみどころ―醍醐味だったりするのかもしれません。
おそるべし「マルホランド・ドライブ」、四回目にしてまた迷う(以下ネタバレ)
と、ここまで書いたところで、また「マルホランド・ドライブ」を観なおしてみました。リンチの掌に乗って、未だよくわからない箇所についてのナゾ解きをすべく、ビデオの一時停止と巻き戻しボタンを駆使しながら、目を皿のようにして観てみたのですが―そして確かに、四回目にして初めて、ああこんな映像が!という、この映画の鑑賞時にすっかりお馴染みとなってしまった発見の悦びがあったりもしたのですが―ところがその一方で、なんと、これは鉄板と思い込んでいた解釈に水を差すような、ヘンなことに気づいてしまったではありませんか...ガーン!
それが何かというと、詳しく観てる人からは、何を今さら、と云われてしまいそうですが(逆に未見の人にとっては、何のことかさっぱりわからないと思いますが)、最後に拳銃自殺するダイアンと、前半の"夢"(と"夢"から覚める一瞬前)に出てくる死体の服装が違っているということ。そもそも、この映画のグランド・デザインに対する私の理解は、
前半: 死体(ダイアン)のみている"夢"
幕間(クラブ・レンシオ): "夢"から覚める一瞬前("夢"の中で、"夢"をみていたことに気づく瞬間)
後半: ダイアンが死体になるまでの経緯(現実に起こったこと)
というわけで、前半の"夢"に出てくる死体はとうぜん、拳銃自殺したダイアン自身のなれの果ての姿だと思っていたわけですね。ところが、死体の格好はノー・スリーブのシャツにショート・パンツ姿であるにもかかわらず、(後半で)拳銃自殺したときのダイアンは、ガウンを羽織っているではありませんか。なんで??
とうぜん、両者は同じ格好をしているもの、と思い込んでいたのですが、これが異なる格好をしているとなると、いったいどう解釈すればよいのか。これまで輪郭がハッキリ見えていたものに、みるみる霞がかかっていく...死体はダイアンじゃないってこと??となるとあれはいったい誰??まさか亡くなったというルースおばさん??(なわけがない)
いや、待てよ。あ、そうか、死体のイメージはダイアン(の死体)がみた"夢"の産物に過ぎないわけだから、実際に死んだときのダイアンと服装が違っていてもいいのか!
そうかそうか。なんだ、焦って損した。そういえば、"夢"の中で、死体の名前はちゃんと"ダイアン"になっていたけど、しかし、"夢"の中でダイアン自身は"ベティ"を名乗っているわけだから(=死体のビジュアルがダイアンじゃおかしいから)、誰か別の人のイメージが死体にあてがわれているというわけだ。危ない危ない、不必要に迷うところだった。よかったよかった、すっきりした。すっきりしたということにしておこう...
というわけで、おそるべし「マルホランド・ドライブ」。四回目にして、いまだ、アタマがこんがらがりそうになります。こうなると、また観返したくなったりするわけで...ホント、リンチの思うツボ。もう完全に、「マルホランド・ドライブ」の虜です。
ちなみに、今回観て気づいたトリビアルな映像、それは、終盤近くでカウボーイが現れる場面。ベッドの上でうつ伏せになった女性の短いカットがあり、続いてカウボーイが部屋の入り口に登場、女性に向かって「起きる時間だ」と告げたあと、またベッドの上の女性を映した短いカットに変わります。何に気づいたのかというと、それは、構図やポーズは一切そのままで、ベッド上の女性の皮膚の様子だけが、カウボーイのカットの前後で変化しているということ。前のカットでつやつやとしていた肌が、後のカットでは、腐乱死体のそれに変わっているのです(静止画像で確認)。長い"夢"を見ていた死体が、カウボーイ(私の理解では、死体のダイアンが抱いている死神のイメージ)によって目覚めさせられた(=自分が死んでいることを思い出し、死体に戻った)という意味を補強する映像だと思うのですが(本当にそうなんだろうか)、しかしホント、"仕掛け"が細かい。
そして四回観ても、未だに意味不明のところがあって、それはたとえば、ピンキーズから殺し屋と一緒に出てくる女性(とその思わせぶりなタバコのおねだり)はいったい何なのか、だとか、自殺したダイアンや浮浪者のまわりに立ちのぼるスモークはいったい何なのか、だとか。どうでもいいといえばどうでもいいことばかりで、夢だから、とか、妄想だから、で片付けてしまえないこともないのですが、前述のような細かい"仕掛け"の施されていることを思うと、なにか、それなりの意味があるのでしょう、きっと。この先いつか、あっ、そういうことか!と思えるときがくればいいと思っていますが、ひとつの個所の解釈が変わると、連動してほかの個所の解釈も変わってしまったりするので、そのあかつきにはもしかすると、「マルホランド・ドライブ」という映画全体に対する解釈もまた、がらっと変えなくてはならなくなるのかもしれません。
まあいずれにしても、この映画の世界の神(創造主)たるデヴィッド・リンチが語ってくれないかぎり、正解など存在しないわけで、結局のところは、10のヒントなる道しるべを無視しない範囲で、自分自身が納得のいく"マイ・マルホランド・ドライブ"を頭の中で妄想すればそれでよし、ということでしょう。オーソン・ウェルズは、初めて映画スタジオを訪れた際、「(映画は)どんな子供も持ってない巨大な鉄道玩具のセットだ」と云ったそうですが、それはクリエーターにとってだけでなく、鑑賞者にもあてはまる感想です。(リンチが黙し続ける限り、)私にとって「マルホランド・ドライブ」は、いつまでも飽きずに遊べる、最高に楽しいおもちゃであり続けることでしょう。
死体が語る映画、死体が夢みる映画
ブログの再開にあたって書いたことですが、2月の上旬に、ロサンゼルスのサンセット大通りとマルホランド・ドライブを訪れる機会がありました(こちらの記事)。マルホランド・ドライブを上り詰め、路肩にクルマを止めて、ハリウッドの街並みと通り抜けてきたばかりのサンセット大通りを見下ろしているとき、そういえば「サンセット大通り」(1950)は、ハリウッドの中心にいた往年の大スターをめぐる悲劇であり、「マルホランド・ドライブ」は、ハリウッドという世界の住人になることを夢見てかなわなかった女性の悲劇だということに、ふと思い至りました。しかも、「サンセット大通り」は死体が独白する話であり、「マルホランド・ドライブ」は死体が夢をみる話(おそらく)。
ハリウッドを象徴する、サンセット大通りという煌びやかなストリートと、その外縁を縫うようにして延びる山道のマルホランド・ドライブ。「サンセット大通り」と「マルホランド・ドライブ」という二本の映画は、いずれもハリウッドの暗い影を描いたポジとネガのようなものであり、そしてタイトルもまたそれを象徴していたのだなあ、と、しばし妄想に浸ってしまったのでした。
マルホランド・ドライブ(原題: Mulholland Dr.)
製作国: 米国、フランス
公開: 2001年
監督: デヴィッド・リンチ
製作総指揮: ピエール・エデルマン
製作: メアリー・スウィーニー/アラン・サルド/ニール・エデルスタイン/マイケル・ポレイル/トニー・クランツ
脚本: デヴィッド・リンチ
出演: ナオミ・ワッツ/ローラ・ハリング/ジャスティン・セロー/マイケル・J・アンダーソン
音楽: アンジェロ・バダラメンティ
撮影: ピーター・デミング
美術: ジャック・フィスク
編集: メアリー・スウィーニー
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管理人: mardigras

やはり映画は(とても単純な発想なのですが)何度も見たくなるというのがいい映画のような気がしますね。
マディさんの記事を読んでいるとすぐにリンチ監督のDVD作品集を借りにいかなくっちゃ~と焦っています。(汗、笑)