戦争の狂気と恐怖-こんな描き方もある 登 場人物たちの歌う主題曲、"Suicide is painless" (「自殺は苦痛じゃない」)の切ない調べにのせ、血まみれの傷病兵を横たえたヘリが、あとからとから、緑の山々を越えて飛来してきます。ロバート・アルトマン監督の「M★A★S★H マッシュ」 (1970)は、そんな、コメディの空気から程遠い、ドキュメンタリーと見まがうような、リアルでシリアスな映像でもって幕を開けます。 「M★A★S★H マッシュ」は、全編を貫くような核となるストーリーの存在しない、ロバート・アルトマンお得意の群像劇です。"MASH"とは、Mobile Army Surgical Hospital、米軍移動野戦外科病院のこと。ドラマの舞台は、米国が30万人以上の兵力を投下した朝鮮戦争真ッただ中、38度線からほんの5キロしか離れていない山間に設けられた、第4077野戦病院。前線で重傷を負った兵士たちが陸続と運び込まれてくる、文字通り"戦場のような"野戦病院における、従軍医師とスタッフたちの慌ただしい日々が、ヒステリックな笑いに彩られたエピソードの羅列によって、散文的に綴られていきます。 読み終えるのが惜しく、観終えるのも惜しい「マッシュ」 私 がこの映画を初めて観たのは、高校生の頃、日本語吹き替え版の深夜テレビでした。そのほんの少し前に、原作(「マッシュ」 )を読んでいて、それがいかに面白かったかといえば、これがもう、読み終えるのが惜しかったほど。文庫の背表紙には、映画のスチル写真が載っていて、映画も観たい!と思っていたところ、実にタイムリーなタイミングでのテレビ放映に、喜んだ覚えがあります。 映画の感想もまた、小説とまったく同じものでした。"ホークアイ(くせもの)"ピアース、"トラッパー(すけこまし)"ジョン、"デューク(伯爵)"フォレストという、(いちおうの)主人公三人をはじめ、エキセントリックでクレージーな登場人物たちのアンサンブルが、とにかく愉快痛快。彼らのハチャメチャな行動に笑い転げているうちに、あっという間に時間が過ぎ(のちにビデオを見て、テレビ放映版はかなりカットされていたことを知った)、帰国命令を受けた主人公たちが戦場をあとにするラスト・シーンには、まるで自分が置き去りにされてしまったような、なんともいえない物足りなさと寂しさを感じてしまったものです。 この映画、米国で大ヒットを記録し、そして私と同じように、彼らとこれだけでおさらばするのはあまりに寂しいと感じた人が、たくさんいたのでしょう。のちにテレビ・ドラマ化され(配役は別)、結果として1972年から1983年の10年以上の長きにわたって続く、人気番組となりました。いつの間にか浮かび上がる戦争批判のメッセージ 朝 鮮戦争を題材とした「M★A★S★H マッシュ」が公開されたのは、ベトナム戦争が泥沼化していた、1970年のことです。間接的にベトナム戦争を批判した映画だと評され、またアルトマン監督自身も、DVDに収録されたメイキングでそう語っています。とはいえ、この作品に厭戦気分を煽るような戦闘場面はなく、また登場人物たちが戦争を声高に批判したり、戦場に駆り出されたことを露骨に嘆いたりするようなセリフも一切ありません。にもかかわらず、おふざけの過ぎる下品なマッシュの日常と、うって変わった真剣さの漂うリアルな手術場面を交互に見せられるうち、画面にじわりと浮かび上がってくるのは、戦争に対するまぎれもない憤りと嫌悪のメッセージ。これまで戦争批判をテーマにした映画をあれこれ観ましたが、これほどユニークなアングルで戦争を風刺する作品は、ほとんどお目にかかった記憶がありません(キューブリックの「博士の異常な愛情(以下省略)」 (1964)くらいかな)。戦争の狂気に対抗する狂気の笑い 映 画に描かれる、従軍医師たちやスタッフが繰り広げる野戦病院の毎日は、軍隊とはとても思えぬほど、規律と風紀の紊れまくったものです。だらしない格好に身を包み、階級を無視したあだ名で呼び合い、既婚・独身の別なく自由恋愛にせっせといそしみ、また手術の合間には釣りやゴルフの趣味に没頭、夜ごと酒をかっくらっては乱痴気騒ぎを繰り広げ、そしてときには部隊ぐるみの賭けフットボールの試合を開催し...と、その日々は、まるでパーティ大学の寮生活のような騒々しさと猥雑さに満ち溢れています。 特に主人公の三人は、医師としての職業倫理にひたすら忠実である一方(そして自身の手技に誇りを持つ一方)、いったん手術室を離れれば、軍規を無視し、権威を揶揄し、やることなすこと精神年齢の低い悪ガキのようです。彼らの狼藉はとどまるところを知らず、軍隊組織を妄信する偽善的で鼻持ちならない上官、バーンズ(ロバート・デュバル)をことあるごとに嘲弄し、とうとうマッシュからいびり出したかと思えば、権威主義に染まった"軍隊バカ"の看護師長(サリー・ケラーマン)にセクハラまがいのいたずらを仕掛け、まるで退屈しのぎでもするかのようにおちょくり、からかい抜きます。愚劣と信じるものに対する彼らのその徹底的なやっつけぶりは、痛快である一方、時にちょっと笑えないほどに下劣でしつこくて、特に看護師長に対する嫌がらせは、洒落にならない趣味の悪さと残酷さを感じさせるものだったりもします(それでも看護師長がめげないのが救い)。 一方、これらスラップステックな日常の継ぎ目に挟まれるのが、ドキュメンタリーと見まがうかのリアルな手術場面。実際、朝鮮戦争に軍医として従軍した経験を持つリチャード・フッカーは、素人読者を置き去りにする専門用語過多の描写によって、その手術場面に真実味を生み出していましたが、そんな原作の"ことばのリアリティ"は、映画においては、思わず目を背けたくなる血量過多の映像によって"一目瞭然のリアリティ"に置き換えられ、まるで声にならない患者の苦悶の呻きが聴こえてくるような、そんな緊迫感と迫真性を生み出しています。 そして、普段は不真面目の権化のような主人公たちの、このときばかりは真剣な眼差しとその態度...バカばかりやっているようで、彼らがその実、職務に忠実で真摯なプロフェッショナルであることが、手術場面を通じて一目瞭然で伝わってきます。そんな彼らは、重傷を負った兵士が手術の甲斐なく絶命しても、その死を嘆くこともなければ、また戦争に対する憤りを口にしたりすることもありません。職業的なドライさで、ただ黙々と、次々と運び込まれてくる重傷患者の治療を続けていきます。 こうして、おふざけとまじめのコントラストの強いエピソードに右へ左へと揺さぶられるうち、次第に心に浮かんでくるのは、主人公たちの神経症的な悪ふざけの数々が、実は軍隊という非人間的組織と戦争の狂気に飲み込まれないための、彼らなりのぎりぎりの方便なのではないか、という思い。奇矯すぎる振る舞いと、その結果として発生するブラック過ぎる笑い、それが狂気を感じさせるほどに強烈なものであればあるほど、24時間態勢の過酷な任務の裏に潜む彼らの精神的プレッシャーと恐怖、そしてその胸に抱いているであろう虚しさの感情が、観ているこっちにじわじわと届いてくるのです。「笑え、笑え!これは神様が仕掛けたとんでもないジョークだ」 とは、ジョン・ヒューストン監督の映画、「黄金」 (1948)のラスト・シーンで、とんでもなくショッキングな出来事に気がふれそうになった主人公のひとりが、正気を保とうとして叫ぶセリフ。 治しても治しても、後から後から運び込まれる傷ついた兵士たち。献身的な治療の末、ある者は死に、そしてある者は命を取りとめます。しかし九死に一生を得た者たちも、傷が癒えればまた戦場へ戻っていき、そして今度こそ、命を失う運命が待ち受けているのかもしれません。野戦病院には、ときに味方の兵士たちによって傷つけられた敵国の兵士たちも運ばれてきます。主人公たちはいったい、何のために治療しているのか...戦争というフィルターを通すと、一点の曇りなく尊いはずの医師たちの献身が、このジョーク満載の映画の中でも、とびきり不条理でブラックなジョークに思えてくるのですね。 * * * 帰国命令の下ったホークアイとデューク。まるで自由気ままなキャンパス・ライフをエンジョイするかのような日々を過ごしていたはずの彼らは、しかしいざ帰国が決まると手を打って大喜びし、故郷で待つ家族に思いを馳せ、さばさばと仲間に別れを告げ、嬉々としてマッシュを去っていきます。それは、はたからみてこの上なく面白おかしく思えた彼らのマッシュでの日々が、単に彼らなりのやり方で、不条理な軍隊生活に折り合いをつけていただけのものであったことを雄弁に物語る、彼らの本音がはじめて透けて見える瞬間です。 "戦場での愉快な日々"などというものが、しょせん幻想にしか過ぎないことをわかって観ているつもりでも、しかしそんな彼らの本音を見せつけられた私の感情は複雑で、たとえていうならだらだらと続く飲み会で、実は自分以外、誰もが早く帰りたがっていることに気づいてしまったような気分(ちょっと違うか)。せっかく感情移入して観てたのに、なんだか見捨てられたようなスカされたような気にさせられる、置き去りにされたトラッパーが味わっているであろう寂しさが、ひしひしと伝わってくるようなエンディングです。ドナルド・サザーランドがコワい 「 M★A★S★H マッシュ」の出演者について。主人公の外科医、ホークアイ、トラッパー、デュークを演じるのは、それぞれ若き日のドナルド・サザーランドにエリオット・グールド、そしてトム・スケリット。昔から、このうちの一人、ドナルド・サザーランドという役者がコワくて、観るたび、なんともいえない薄気味の悪さを感じてしまいます(嫌いという意味ではない)。映画の中では、いつもたいていモテモテなので、この人、一般的にはカッコいい人ということになっているのでしょうが、何を考えているかわからない不気味さがあるというか、そのやや吊り気味の青い瞳に、どうにも異常者っぽい光が宿っているように見えて仕方がないというか...彼のキャリアの出だしに近い、このコメディ映画においてすら、早くもそんなオーラを醸し出しています。まあ、それっぽい役柄が多いせいで、そんな印象を植え付けられてしまっているのかもしれませんが、しかしつい最近、「SF/ボディ・スナッチャー」 (1978)を観て、あ、自分の思うドナルド・サザーランドのイメージはまさにこれだ!(=エイリアンにXXXをXXXXされた人。一応伏せておきます)、と思わず心の中で叫んでしまったのでした。 それからもう一人、トム・スケリットについて。今回、この記事を書くにあたって「M★A★S★H マッシュ」を再見したのですが、メイキングでトム・スケリットがインタビュー受けているのを観て、はじめてこの人、「トップガン」 (1986)の教官役、ということはつまり「リバー・ランズ・スルー・イット」 (1992)のお父さん役の役者さんだったということに気がつき、驚きました。実は、「リバー・ランズ・スルー・イット」のお父さんが「トップ・ガン」の教官だったということに気がついたのもつい最近なのですが、あの教官が、まさかデュークでもあったとは。「続・マッシュ」について 先 日、「マッシュ」の続編、「続・マッシュ」 を読了しました。「マッシュ」に続きがあるということを知ったのは一年くらい前のことで、その存在を知った瞬間にアマゾンで中古本をゲットしたものの(「マッシュ」も「続・マッシュ」もとっくのとうに絶版となっています)、読むのがあまりにもったいなくて、これまで取っておきにしておいたものです。続編の舞台は米国メイン州の片田舎。戦地から復員した主人公たちが再結集し(トラッパーも無事帰国)、総合病院設立のために奮闘するというお話です。続編には、正編にあった戦争批判のような骨太のテーマは見当たらないものの、愚にもつかない常識と権威を嘲笑う神経症的でブラックな笑いのエピソードが連続する展開は相変わらずで、ホークアイやデュークをはじめ、思い入れのあるキャラたちとの20数年ぶりの懐かしい再会を堪能しました(そしてつい最近、さらなる続編、「続々・マッシュ」 のあることを知ったのであります)。M★A★S★H マッシュ (原題: M*A*S*H ) 製作国 : 米国 公開: 1970年 監督: ロバート・アルトマン 製作: インゴ・プレミンジャー 脚本: リング・ラードナー・ジュニア 原作: リチャード・フッカー(「マッシュ」 ) 出演: ドナルド・サザーランド/トム・スケリット/エリオット・グールド/ロバート・デュヴァル 音楽: ジョニー・マンデル 撮影: ハロルド・E・スタイン 美術: ジャック・マーティン・スミス 編集: ダンフォード・B・グリーン
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管理人: mardigras
この設定自体も面白くそこでのそれぞれのダイアローグもよく自殺をも回りが正当化することにより生きる気力がでてくるような・・・(うまく説明ができまへん)
このシーンでのバックミュージックと合わせ、歯科医の役の眉が濃いロビーウィリアムスにも似た俳優の顔が思い出されます。アルトマン監督は当時から遊び心がある監督さんですよね。
彼の作品では『ショートカット』が好きかな~、最後に「オリーブのないマティニーなんてぇー・・・」この映画で覚えました。(笑)