オレに話しかけてるのか?

マーティン・スコセッシ監督、ロバート・デ・ニーロ主演の「タクシードライバー」(1976)。以前にも書いたことですが、その昔、いわゆるアメリカン・ニューシネマと呼ばれる一連の作品群に、強く惹かれていた時期があります。その手の作品が名画座にかかるたび、片っ端から足を運んでいたのですが、この有名な一本とは縁がなく、観たのは大学生になってしばらくしてから頃のこと。夏休みに暇を持て余し、山ほど借りてきたレンタル・ビデオのうちの一本がこれ、「タクシードライバー」でした。
鬱屈した主人公の孤独と閉塞感が、なぜクライマックスの凄惨な暴発に繋がるのかがさっぱり理解できず、「タクシードライバー」に対する当時の私の感想らしい感想といえば、その予想外に過激なバイオレンス描写にびびってたじろいだ、というくらいのとても浅いものだったように思います。そしてこの作品が発する、絵空事のドラマを超えた、社会に対する深刻でリアルなシグナルの音色を聴き取れるようになったのは、ずっとあとになってからのことでした。
「タクシードライバー」に対する私の見方が変わったきっかけのひとつは、傍目に見る限り、身勝手な怒りを、社会に向かって無差別に爆発させたとしか思えない、とある現実の事件でした。そのニュースを目にしたときに、ふとこの映画の主人公の姿が頭をよぎり、やがて気が向いたときに映画をぽつぽつ観返すようになって、そしてそれにつれて、この作品の持つ凄みが、じわじわと頭に、というより体全体に、染みこんでくるようになりました。それは、トラヴィスという主人公に共感を抱いたとか、理解できるようになった、ということではまったくなく、彼のような人間が確かにこの世に存在することを認めざるをえないという、いわば戦慄するような皮膚感覚です。映画を観返すたび、トラヴィスの孤独、閉塞、絶望とその果ての暴発のリアリティは強さを増し、絵空事に思えたキャラクターの存在が、次第に実在感を帯びはじめてきた、とでもいった感じです。
この映画、私にとっては年々、鑑賞のためのエネルギーと覚悟が余計に必要となっていくところがあり、観終わったときに感じる憂鬱と不安の度合いは、だんだん酷くなってきているような気がします。「タクシードライバー」に描かれた世界と似た匂いを感じる事件が増えているように思える昨今、製作されてから三十年が経過した映画であるにもかかわらず、トラヴィスの人物像は、私の中でますますリアルなものになっていくようです。観れば暗澹たる思いに捕らわれることがわかっていながら、しかしブラック・ホールに吸い寄せられるように、いつしかまた観ずにはいられない映画―私にとって「タクシードライバー」は、そんな抗いがたい、強烈な負の引力をもった映画です。
「タクシードライバー」のあらすじ/トラヴィスという人間
ドラマの主人公は、ベトナム帰還兵の若者、トラヴィス・ビックル(ロバート・デ・ニーロ)。不眠症に悩まされる彼は、ニューヨークでタクシー・ドライバーの職を得ると、客や行き先のえり好みをせず、仲間のドライバーたちに守銭奴と揶揄されながらも、昼夜を分かたず働きづめに働きます。傲慢な客がバック・シートで横柄な口を利こうと、痴態を繰り広げようと、無表情な一瞥をルーム・ミラー越しにちらりと投げかけるだけのトラヴィスは、一見、ニューヨークという大都会の寡黙な傍観者のよう。しかし彼は、派手なネオンの下、ゴミの散乱する街角にたむろした夜の住人たちを車窓越しに眺めながら、心の中でこんなことを呟いています。
「雨は人間のクズどもを舗道から洗い流してくれる」
「奴らを根こそぎ洗い流す雨はいつ降るんだ」
一日中タクシーを流し、仕事が終わればポルノ映画館に立ち寄り、狭いアパートに帰ってはつまらないテレビを眺め、味気ない食事を一人噛みしめるトラヴィスは、友人も恋人もいない孤独な若者です。仕事仲間とも打ち解けようとせず、事細かに綴る日記だけを唯一の感情の捌け口にして、"長い鎖のように続く漠然とした毎日"を送っています。周囲の人間と社会を蔑む本心を隠し、代わり映えのしない日々の繰り返しに蓄積されていく彼のストレスは、猥雑で汚れた(と彼の眼に映る)大都会にクルマを走らせれば走らせるほど、その強さを増していきます。そんな日常の鬱屈からの脱却を希求し、「オレに必要なのはきっかけだ」と独白するトラヴィスは、自ら社会との距離を置きながら、一方でその代償でもある孤独を引き受けきることができず、社会に対する疎外感と苛立ちをますます募らせていきます。
そんなある日、彼は街角で一人の女性を目にします。それは大統領予備選に立候補したパランタイン上院議員の選挙事務所で働く女性、ベッツィ(シビル・シェパード)。彼女に一目惚れしたトラヴィスは、その姿を毎日、事務所の外に停めたクルマから観察するようになります。そしてそれだけでは飽き足らなくなったある日、彼は意を決して事務所に乗り込むと、周囲の目も気にせず彼女に言い寄ります。
「君はひとりぼっちだ。君は幸せじゃない。君には何かが必要だ。たぶんそれは友だちだよ」
「俺たちの間には強く感じる何かがあった」
独善的な口ぶりと振る舞いの一方で、社会悪を糾弾するトラヴィスの言動に惹かれた感じたベッツィは、なかば押し切られるようにしてデートの誘いを受け入れますが、しかしトラヴィスが初デートに彼女を連れ出した行き先は、こともあろうか場末のポルノ映画館。呆れたベッツィが憤然と席を立っても、トラヴィスにはなぜ彼女が怒ったのかが理解できません。ベッツィはトラヴィスに軽蔑したような一瞥を投げ、その腕を振り払って去っていきます。後日、彼女に電話をかけたトラヴィスは云います。
「君は仕事のし過ぎで気が立っていたんだ」
以来、何度電話しても居留守を使うようになったベッツィを逆恨みしたトラヴィスは、選挙事務所に押しかけると、憤怒の形相でベッツィを指差し怒鳴りつけます。
「おまえのような人間は死んで地獄に堕ちろ!」
「やはり彼女も冷たくてよそよそしい人間だった」というトラヴィスの独白には、自分を受け入れない社会に対する言い知れぬ絶望感と理不尽な(しかし彼にしてみればおそらくこれ以上ないほど正当なものであろう)怨嗟と怒りが滲んでいます。ベッツィにふられ、先輩のタクシー・ドライバー、ウィザードに思いつめた様子で相談を持ちかけたトラヴィスはこんなことを云います。
「ここから飛び出して、何かをやりたいと思ってる。何かをやりたいんだ」
しかし、何をやりたいかは自分でもわからないというトラヴィス。親しいわけでもない彼のそんな曖昧な物言いに、ウィザードは気の利いたアドバイスを返すことができません。やがてトラヴィスは、一線を越えて暴走し始めます。彼は、銃の密売人から何丁もの拳銃とナイフを仕入れると、クスリの摂取をやめ、なまった体を鍛え始めます。ポルノ映画館の暗闇で、薄笑いを浮かべながら、ひとり独白するトラヴィス。
「計画が頭の中でかたちになりはじめていた。真の力。他の者はそれを元通りにできない...」
拳銃を身にまとい、自室の鏡の前に立ったトラヴィスは、鏡の中の自分に向かって一人芝居を始めます。
「オレか?オレに用か?オレに話しかけてるのか?」
一瞬ののちに拳銃を引き抜き、鏡の中の自分に向かって突きつけるトラヴィス。その動作を執拗に繰り返す彼の眼には冷笑が浮かんでいます。そして部屋の壁には大統領選指名候補のパランタイン上院議員の選挙ポスターが。
「よく聞けボンクラども。もうこれ以上我慢できん。わかったかクズども。これ以上我慢できん。あらゆる悪徳と不正に立ち向かう男がいる。絶対に許さん」
勤務明けに立ち寄った食料品店で、トラヴィスは武装強盗に遭遇します。躊躇なく強盗の頭に銃弾を撃ち込んだトラヴィスに、ウィザードに相談を持ちかけたときの迷いはもうありません。

暗殺決行を数日後に控えたある日、トラヴィスは、街角で派手なかっこうをした少女を見かけます。それは以前、ポン引きの手を逃れて彼のタクシーに助けを求めてきたことがある、まだ年端もいかない子供の娼婦、アイリス(ジョディ・フォスター)。彼女のあとを追ったトラヴィスは、ポン引きのスポーツ(ハーヴェイ・カイテル)に金を払うと、アイリスとともに汚いアパートの一室を訪れ、アイリスに向かってこんこんと説得しはじめます。
「君はまだ子供だ。家にいなくちゃいけない」
スポーツを寄生虫と呼び、殺し屋だと決め付け、「そんな最低の人間は始末しなくてはならない」と真顔で力説するトラヴィス。アイリスは困惑しながらも、彼の真情のこもった忠告を耳にして、自らの生活に疑問を抱き始めます。しかしそんな子供のアイリスを、ポン引きのスポーツは手もなく丸め込んでしまいます。
そして暗殺決行の日がやってきます。パランタインの演説会場を訪れたトラヴィスの出で立ちは、サングラスにモヒカン刈りという異様なもの。パランタインの演説を笑顔で聞きながら拍手を送っていたトラヴィスは、演説が終わるやいなや、笑顔を一変させ、凶悪な形相で降壇したパランタインに詰め寄りますが、しかしシークレット・サービスにいち早く気づかれ(なにせモヒカンですから)、目的を果たすことなく、その場から逃走します。家に帰り、狂ったように頭を激しくシェイクさせながら、缶ビールでクスリを嚥下するトラヴィス。
その夜、彼はアイリスのアパートへとクルマを走らせます。トラヴィスは舗道にスポーツを見つけると、その腹に銃弾を撃ち込み、アイリスの部屋へと乗り込みます。彼は狭い廊下で激しい銃撃戦を繰り広げ、ひどい手傷を負いながらも、スポーツに止めを刺し、その仲間たちを無慈悲に射殺します。そして泣き叫ぶアイリスの眼前で、自らの喉元に銃口を押し付け、引き鉄を引きますが、しかし残された銃弾はなく、自殺が叶わぬと知った彼は呆然とした表情でアイリスの横に崩れ落ちます。やがて駆けつけた警官が目にした光景、それは一面血の海となった修羅場のような一室で、呆けたような笑みを浮かべて指を頭に当て、引き鉄を引く真似をするモヒカン刈りの男でした。
やがて事件から数ヶ月が経ったある日。カメラは舐めるように、トラヴィスの部屋の壁に貼られた新聞記事の切り抜きを映し出します。
"タクシー・ドライバー、暴力団と戦闘"
"犯罪組織の構成員、異様な銃撃戦の末に射殺される"
"衝撃を受けた両親、感謝の意を表明"
"タクシー・ドライバー、職場復帰"
そしてその横には、アイリスの両親からトラヴィスへ送られた感謝の手紙が貼られています。
"今やあなたは我が家にとっての英雄です..."
トラヴィスがいる、としか理解できない「タクシードライバー」の理解の限界
同じニューヨークを舞台に、大都会の孤独と閉塞に若者が押し潰されていく様子を描いた、「真夜中のカーボーイ」(1969)という映画があります。「真夜中のカーボーイ」の主人公たちは、職もなければまともな住居もなく、金はおろか日々の食い物にさえも事欠く始末で、その片割れにいたっては健康を害して明日をも知れない身の上です。愚かしい夢に敗れた彼らは、ドラマの最後でニューヨークを捨ててマイアミへと旅立っていくのですが、資本主義経済の階段を上ることができずに社会の最底辺で苦しむ彼らの境遇は、私にとっては一歩道を踏み間違えば自らも足を突っ込みかねないものに思え、人ごととは言い切れない怖さを感じさせるものでした。
翻って「タクシードライバー」の主人公、トラヴィス。大都会で同じような疎外感を噛みしめながらも、タクシー・ドライバーというまっとうな職につき、週に350ドルを稼ぐトラヴィスは、「真夜中のカーボーイ」の悲惨な主人公たちと比べ、少なくとも物質的にはよっぽど恵まれた立場にいます。そしてアタマも遥かによい人間でもあります。なのになぜ、彼は独善的ともお門違いとも思える社会に対する怒りを次第に滾らせていくのか―。大都会に追い詰められた「真夜中のカーボーイ」の主人公たちが、ある意味、人に迷惑を掛けることなく内側に崩れこむようにして自壊し、最終的には自らの過ちを自覚する(遅すぎましたが)のと対照的に、トラヴィスの自己憐憫と自己肯定は肥大化する一方で、そのストレスがもたらす変革(破壊)の衝動は、ひたすら攻撃的に、己を取り巻く外の世界へと向けられていきます。
トラヴィスは、少なくとも経済的には資本主義社会の中で生きていくすべを身につけている人間です。打ち解けることはないにせよ、仕事仲間たちとは必要最低限の会話を交わし、時には饒舌に女性を口説き落とすことができるくらいのコミュニケーション能力をもった人間でもあります。しかしだからこそ、彼の抱える闇は余計に暗く、いくら覗き込んでもその底が見える気がしません。孤独と閉塞を社会のせいにし、自らを省みることはなく、人々を怨嗟し、理不尽としか思えない怒りと敵意を燃やし、初デートの行き先にポルノ映画館をチョイスし、それを嫌悪する女性の気持ちを理解できず、そして自らを悪を糾弾する正義の士に擬え、強盗を平然と射殺し、大統領選指名候補の暗殺を試み、転じてポン引きたちを虐殺し、その挙句に自殺を図るトラヴィス。
果たしてトラヴィスの行動とロジックは、精神医学のボキャブラリーを持ってすれば、説明することができるものなのでしょうか。その方面にうとい私の語彙でいえることといえば、せいぜいがところ、独善だとか身勝手だとか一人よがりだといったところで、トラヴィスという人間の心理と行動を理解するには、到底物足りないものです。自分自身すら理解できないときがあることを思えば、他人を理解することなどしょせん幻想に過ぎないとは思いつつも、しかしそれ以上に、理解したと錯覚することさえ金輪際無理だろうと思わせるものが、トラヴィスにはあります。
トラヴィスの孤独はなぜ爆ぜるのか?
果たしてトラヴィスをここまで追い込んだものは、いったい何なのか。彼はもともとこういう人間だったのか、それともベトナム戦争の影響なのか、あるいは大都会での孤独な暮らしのせいなのか――。
トラヴィスを救うすべはあったのか。彼の暴発は、ベッツィとうまくいけば防ぐことができたのか、あるいはウィザードがもう少しましなアドバイスをすれば彼は思いとどまったのか、あるいは治療を受けることで救われるようなものであったのか――。
そしてトラヴィスは救われたのか。カタストロフィを経て、社会に"ヒーロー"として迎えられた彼の社会に対する怒りと恨みは収束したのか、彼の眼に映るニューヨークの街並みは、もはや嫌悪すべきものではなくなったのか、あるいは何かをきっかけとしてその身中に生まれるストレスは、またとめどなく膨れ上がっていってしまうものなのか――。
エンディングで、トラヴィスはベッツィと邂逅を果たします。タクシーを運転しながら、物静かに彼女と会話を交わすトラヴィスの笑顔は、憑き物の落ちたような表情にも見えます。ベッツィを降ろし、そしてバーナード・ハーマンのメロウなメロディにのせ、タクシーはネオンの輝く夜の街へと走り去っていきます。しかしルームミラーに一瞬映るのは、眉間にしわを寄せた、トラヴィスの険しい眼つきです。
トラヴィスという男の行動と心のありようは、いつまで経っても私の理解の外にあり続け、そして繰り返し映画を観てその理解の及ばなさを再認識するにつけ、メランコリックな思いはますます強いものとなっていくようです。しょせん映画のキャラクター、といってしまえばそれまでですが、しかし世の中には、実際にこの映画に触発されてジョディ・フォスターを尾け回し、大統領暗殺未遂を起こした人間や、無差別に人を殺傷した挙句、その理由をなにも語らないままに自殺して果てたり、あるいは社会への怨嗟を口にしたまま刑場に消えていく人間が数多く存在していたりします(つい昨日も、米国で、家族と口論になった男性が逆上のあまり、無差別に銃を乱射するという事件があったばかりです)。そして、そんな事件のニュースを目にするたび、そのメタファーとして、トラヴィスの険しい目つきがさっと頭の中をよぎるのです。
やたらとヒーローを生み出したがる国のアンチ"アンチ・ハッピー・エンディング"
少女の娼婦、アイリスを助けなくてはならないというトラヴィスの思い込みとその騎兵隊のような救出行動は、ベトナム戦争以降もなんら変わることなく、世界の辺境の紛争に介入していくアメリカという国そのものを彷彿とさせるところがあったりもします。むろん、戦争を始めるのにまた別の理由があるのだろうことは言うまでもないにしろ、しかし"世界のポリスマン"を自任し、"正義"を掲げてときにお節介としか思えない介入を繰り返すアメリカの論理には、トラヴィスのそれと非常に似通った独善を感じてなりません。
そして、そんなトラヴィスがヒーローに祭り上げられてしまうという、「タクシードライバー」のジョークのようなエンディング―。アメリカという国は、何かといえば歴史を創りたがるのと同様、"ヒーロー"を生み出すことにとても熱心な国です。トラヴィスの思考や衝動の本質とまったく別のところで、トラヴィスがヒーロー扱いされてしまうことのアホらしさは、実にアメリカっぽさを感じさせたりもします。正直、はじめて観た頃は、三人の人間を惨殺したトラヴィスがなぜ社会からヒーローとして迎えられるのか、あまりに無理があるように感じられたのであり、それはたとえば、この映画を観る数年前に起きたイラン・コントラ事件の際に議会で虚偽証言を繰り返したオリバー・ノース少佐が、米国世論からヒーロー扱いを受けたことに対する違和感に通じる不可解さだったのですが、しかしアメリカに住み、アメリカ人と接する機会が増えるにつれ、トラヴィスのヒーロー扱いがジョークでもなんでもなく、実にリアリティのあるものであるということが、徐々に実感できるようになりました。この、アメリカン・ニューシネマというジャンルから一歩はみ出した、いわばアンチ"アンチ・ハッピー・エンディング"とでも言いたくなる皮肉な結末が、今となっては"カウボーイ"の国、アメリカの現実を象徴する、実に冴えたものに思えたりもするのです。
タクシードライバー(原題: Taxi Driver)
製作国 : 米国
公開: 1976年
監督: マーティン・スコセッシ
製作: マイケル・フィリップス/ジュリア・フィリップス
脚本: ポール・シュレイダー
出演: ロバート・デ・ニーロ/シビル・シェパード/ハーヴェイ・カイテル/ジョディ・フォスター
音楽: バーナード・ハーマン
撮影: マイケル・チャップマン
美術: チャールズ・ローゼン
編集: トム・ロルフ/メルビン・シャピロ
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管理人: mardigras

確か当時はこの映画に対するANTI、,風当たりは強かったような気がします。
しかし少し時がたつとアメリカンニューシネマの代表作のようにとりあげられました。
ただトラビィスの救いは弱者には銃を向けなかったということです。
でもそれも危うい所で踏みとどまったということかもしれませんが、
しかしにそこに人間の業の救いを感じるのは私だけではないと想います。
それにしてもあなたのイラストと映画評論はいいねぇ~