リメイク不能なサスペンス

プロット、セリフ、キャスト、ロケーション、カメラ、照明、美術、音楽――卓越した要素の相乗効果で生まれた奇跡のスリラー。もっとも好きな映画を一本、と言われれば、キャロル・リードの「第三の男」(1949)。これはもう、どこをとっても完璧な映画ではないでしょうか。この映画の何が好き、というより観るたびその全方位的な完全無欠さに畏敬の念を覚えてしまう、映画好きの端くれとして、とにかくリスペクトせずにはいられない一本です。
私がこの映画を初めて観たのは高校三年の春、場所は今はなきテアトル吉祥寺。土曜の授業が終わった後、数人の友だちと観に行きました。セルジオ・レオーネの「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ」(1984)との二本立て、しかも3時間を越えるこの大作の上映がまず先で、観終わったあとはかなり疲れていたはずですが、ツィターの弦が震えるタイトル・バックにあわせ、"ハリー・ライムのテーマ"が聴こえてきた刹那、あっ、この音楽ってこの映画だったの!?と、その馴染みのあるメロディに、たちまちスクリーンに引き込まれてしまったことを覚えています。
「第三の男」のあらすじ(以下ネタバレ)
ドラマの舞台は、第二次大戦終結直後、米英仏ソ四カ国による分割統治下のオーストリア、ウィーン。主人公は、アメリカ人の売れない三文小説家、ホリー・マーチンス。学生時代の旧友、ハリー・ライムの誘いに応じ、仕事を求めてはるばるウィーンへやってきます。
ところがホリーを待っていたのは、ハリーが自動車事故で死亡したというニュース。折りしも執り行われていた葬儀に立ち会った彼は、居合わせたイギリス軍のMP、キャロウェイ少佐から、ハリーが悪質な闇商売にたずさわっていたと聞かされます。旧友の醜聞を信じられず、またその死因に不審を感じた彼は、キャロウェイに対する反撥心も手伝って、独自に調査を始めます。
ホリーは、ハリーの友人だというクルツ男爵に面会します。クルツは、彼ともうひとりの友人が事故現場に居合わせ、ハリーの最期を看取ったと話します。しかし、ハリーの恋人だったアンナとともに事故現場を訪れたホリーは、たまたま事故を目撃したというハリーのアパートの管理人から、事故直後の現場に、二人ではなく三人の男がいたことを訊き出します。ホリーは、ハリーの死が謀殺だったと確信し、さらに調査を続ける決意を固めますが、そんな矢先、アパートの管理人が不審死を遂げ、また自らも得体の知れない男たちから襲撃を受け、夜の街を命からがら逃げ回る羽目に陥ります。
身の危険を感じたホリーは、キャロウェイのもとを訪れ、ハリーの死をめぐる疑惑を訴えます。しかしキャロウェイは、ホリーにハリーの商っていた闇商品が水増ししたペニシリンだったこと、そしてその劣悪な薬によって多くの子供たちの命が犠牲となったと告げます。数々の証拠を突きつけられ、ホリーはとうとう、旧友が非道な犯罪者だったことを認めざるを得なくなります。
意気消沈し、帰国を決心したホリーは、その夜、いつしか恋情を抱きはじめていたアンナに別れを告げるため、彼女のアパートを訪れます。ところがそんな彼の前に、闇の中から、ついに"第三の男"が姿を現すのでした――。
とまあ、スパイ小説の大家、グレアム・グリーンの手掛けたシナリオは(のちに同名の小説を上梓)、優れたミステリの常道に則り、冒頭からケレン味のある魅力的なナゾを提示すると、テンポのよいメリハリの効いた展開でもって、クライマックスまでの1時間44分を、ぐいぐい引っ張っていきます。冷静に振り返ってみると、突っ込みどころがなくもない筋立てなのですが、よくできたサスペンス映画のならい、スリルの途切れない展開に、観ているあいだはそんなこと、これっぽっちも気になりません。
再現不可能な映像、変幻自在のカメラワーク
古い石造りの街のそこかしこに積み重なる瓦礫の山また山――。戦火に荒廃したウィーンの市街地でロケ撮影された「第三の男」のドキュメンタルな映像は、まさしく圧巻のひとことです。それはどんなセットをもってしても再現不可能な、歴史の真の姿を映画の後景として永遠にフィルムに定着させた、いわば貴重な映像遺産というべきものです。
廃墟、崩壊した石畳、人気の絶えた深夜の広場を見下ろすおどろおどろしい彫像。光と陰のコントラストに彩られた楽都の情景には、人類の悲劇と愚行の残像が透かし絵のように浮かび上がり、その一方で復興の芽吹きがところどころに感じとれたりもして、その映像に映り込んだ死と再生のリアリズムには、優れたドキュメンタリーを観たときと同じ興奮と感動を覚えずにいられません。
「第三の男」の撮影は、本作でアカデミー撮影賞を授賞したロバート・クラスカー。変幻自在のカメラ・ワークが捉えた、平衡感覚を狂わすような斜角のショットには、言葉もままならない異国の地で主人公が味わう不安と不信感が迸り、一度見たら忘れることのできないインパクトを残します。そして、そんなケレン味たっぷりの構図で切り取られた映像の一コマ一コマが、これまた額縁に入れて飾りたくなるほどに美しい。「第三の男」は、映画はカラーが当たり前と思っていた高校生の頃の私に、モノクロ映像の、そしてクラシック・フィルムの素晴らしさを教えてくれた一本でもあります。
「第三の男」の血流
ドラマの流れに合わせて鑑賞者の感情を自在にコントロールしてみせる、アントン・カラスが爪弾くチターの調べ。ときに甘く軽やか、ときに切なく感傷的に奏でられる音色には、ホント、何度聴いてもうっとりさせられます。そして、サスペンスフルな場面で激しく掻き鳴らされる、荒々しい弦の響きのなんとスリリングでショッキングなことよ。
この映画の音楽をどうするか悩んでいたキャロル・リードは、撮影開始の四日前、ウィーンのホイリゲ(居酒屋)でアントン・カラスの演奏するチターを耳にし、"「この音楽だ!」と稲妻のごとく心の中で閃いた"そうです(アントン・カラスの長女、ウィルへルミネ・チューディックの証言。内藤敏子著「「第三の男」誕生秘話-チター奏者アントン・カラスの生涯」より)。
撮影終了後、ロンドンに招かれたアントン・カラスは監督の自宅に滞在し、三ヶ月以上にわたる難産の末、"ハリー・ライムのテーマ"を含む多くの楽曲を作曲、やがて仕事場を映画スタジオに移すと、監督とともに場面場面に合わせて録音を進め、結局、彼のロンドン滞在は、映画のプレミア試写会の翌日まで、なんと半年間にも及んだそうです。
よい映画にはたいていよい音楽がつきものですが(「番外編: いとしの映画音楽」参照)、「第三の男」ほど、映像と音楽が分かちがたく結びついていると思える映画は滅多にありません。「第三の男」といえばチター、チターといえば「第三の男」。この映画の映像が肉体だとすれば、アントン・カラスの爪弾くチターの調べは、身体の隅々まで張りめぐらされた血管のよう。この映画の生は、このメロディあってこそのものと言っていいのではないでしょうか。
希代の怪人、ハリー・ライム
オーソン・ウェルズが演じる、というよりオーソン・ウェルズが生み出したというのが相応しい、ハリー・ライムという希代の怪人物には、何度観てもぞくぞくさせられます。悪ガキがそのまま大人になったような、どこか甘えの滲む憎めない貌つきは、これぞまさしく"人たらし"。ドラマの中盤、物陰に隠れたハリーの足元に猫がじゃれつき、その異相が暗闇に浮かび上がる瞬間は、この映画の真の幕開けと言っていい。まるで悪戯を見つけられた子供のような、上目遣いでニヤッと笑う表情を目にすれば、もう一瞬にして、この信用ならない極悪人の虜になること必定です。
104分にわたる上映時間の中で、オーソン・ウェルズの出番は、実はほんの10分足らずに過ぎません。にもかかわらずオーソン・ウェルズは、その圧巻の存在感でもって、この映画のすべてを掻っさらっていきます。その数少ない登場場面のひとつ、ハリーとホリーが公園で会合する場面は、まさにオーソン・ウェルズの独壇場。絢爛たるアフォリズムに彩られた、この映画のハイライトです。
水増ししたペニシリンを市場に流し、大勢の罪なき子供を犠牲にした非道をホリーに詰られたハリーは、観覧車の高みから地上の人々を見下ろしながら、こううそぶきます。
「あのケシ粒のひとつ、ふたつがこの世から永遠に消えたからといって、いったい何が悲しいんだ?あれをひとつ消すごとに2万ドルが手に入るとする。お前はそれを断るのか?あといくつ消すことができるか、数えてみようとは思わないのか」
「人類のことなんて誰もかまっちゃいない。政府ですらそうなのに、なんで俺達が気にしなきゃならないんだ」
また自らの行為を正当化し、こんなことを口にします。
「ボルジアの支配下にあった30年間、イタリアでは戦火が絶えず、テロや殺人の流血沙汰が日常茶飯事だった。だが一方でミケランジェロやダ・ビンチといった偉大な芸術家が生まれ、ルネサンスが花開いた。ところが500年も平和と民主主義が続いた同胞愛の国、スイスがいったい何を生み出したというんだ?せいぜいハト時計だろ」
この、映画史上に残る名セリフ、もともとシナリオにあったものではなく、オーソン・ウェルズが撮影現場で提案したものとされています。
「第三の男」から遡ること二年、チャーリー・チャップリンの「殺人狂時代」(1947)が公開されています。この映画でチャップリンは、金のために次々と未亡人を殺す青髭に扮し、終盤、逮捕されたこの殺人者に、「私の殺人はビジネスだ。世界中の大事業の歴史をみてみろ。戦争、闘争...みんなビジネスじゃないか。一人を殺せば悪党だが、百万人を殺せば英雄と呼ばれる。数が殺人を神聖化するわけだ」と言わせ、痛烈な戦争批判を行っています。
金のためなら人が死んでもかまわない、というハリー・ライムの身勝手なロジックは、「殺人狂時代」における、殺人者の開き直った捨てゼリフに通じるところがあります。「第三の男」という優れたスリラーに、戦争批判のような政治性は一切感じませんが、「殺人狂時代」の原案がオーソン・ウェルズである(とされている)ことを考え併せると、希代の悪党、ハリー・ライムのセリフには、単なる気の利いたレトリックにとどまらない、オーソン・ウェルズという人間の思想が反映されているように思えたりもします。
野暮で鈍感なアメリカ人。昔はさっぱりわからなかったアンナの心
一方、ハリー・ライムとは対照的な"善きサマリア人"、ホリー・マーチンス。登場人物の中で唯一、戦争の影を感じさせないこのアメリカ人の小説家が、戦禍の犠牲となった街と人を本質的に理解できない、鈍感な人間として描かれていることには、イギリス人であるグレアム・グリーンのアメリカ人に対する揶揄を感じずにはいられません。
現実の世界でも、"いい人"と評される人ほどつまらなくてうっとおしくて魅力がなかったりするものですが、善意で動けば動くほど空回りするお節介で野暮でひとりよがりのホリーは、たとえ二枚目のジョゼフ・コットンが演じていても、最後の最後まで徹底的に間抜けです。
そして、そんなホリーが岡惚れしてしまう、アリダ・ヴァリ演じるハリーの情婦、アンナ。ハリーが死んだと思い込んでいた彼女は、「ハリーを愛していたのか」とホリーに尋ねられ、その複雑な感情をこんな風に表現します。
「もう過去のことだからわからない。でも私も死んでしまいたい」
そして、ハリーが実はまだ生きていて、その正体が極悪人だったと知ったあと、まだハリーに未練があるのかと問われ、こんなひとこと。
「まったくないし、会いたいとさえ思わない。でも彼はいまでも私の一部なの」
男の正体を知り、しかも自分に対する愛情のどこまでがいったい真実だったのかすらわからなくなってなお、想いが残る女心、そして矜持。正直、高校生の頃はさっぱり理解できず、つまり要するに、あの有名なラスト・シーンの味わいもわかったようでわかっていなかったというわけですが、しかしあれから幾星霜、男と女はこういうものだということが、少しは理解できるようになった気のする今日この頃です。
いつか行きたや、「第三の男」のロケ地めぐり
巨大な彫像がエントランスを飾るハリーのアパートメント(ヨーゼフ広場のパラヴィッチーニ宮殿)。ホリーが滞在する英国軍接収のホテル(ザッハートルテで有名なホテル・ザッハー)。ホリーとクルツが待ち合わせるカフェ(モーツアルト・カフェ。ただし、実際のロケ地は別。バブル華やかなりし頃、このカフェを日本の百貨店が買ったなんてニュースを仄聞した覚えがありますが、その後、どうなったのでしょう)。アンナの出演していた劇場(ヨゼフシュタット劇場)。ハリーと友人たちが会合する吊橋(ドナウに架かるライヒスブリュッケ)。ハリーの顔が暗闇に浮かび上がる物陰(ウィーン大学旧館近くの路地)。ハリーとホリーが出会う遊園地の観覧車(プラター公園)。ハリーを待ち伏せする警官隊の前に、風船売りの巨大な人影が伸び縮みする広場(ミヒャエル広場)。クライマックスの逃亡劇が繰り広げられる、迷路のような下水道。そしてホリーがアンナに思い切りシカトされる、墓地の並木道(中央墓地)――。
訪れてみたい映画のロケ地は数あれど、「第三の男」に出てくるウィーンほど、強く惹かれる場所はありません。戦火に荒廃した街並みはもはや遠い昔であるにしろ、さすが石造りの都。上記に列挙した、映画の象徴ともいうべきモニュメンタルな建造物とランドスケープは、今なお当時の面影を残しているようです。下水道をはじめ、映画ゆかりの地をめぐるツアーもあるようで、ウィーンを訪れる機会があれば、ぜひ参加してみたいと思っています。
* * *
スリル、サスペンス、アクション。一目観たら忘れられない映像。一度聴いたら忘れられない音楽。いつまでも記憶に残るキャラクターと名ゼリフ。月並みな言い草ながら、「第三の男」は映画のあらゆる魅力が詰め込まれた、まさに映画の中の映画です。人類史上最大の戦争なくして生まれ得なかった「第三の男」は、いみじくもハリー・ライムの云うルネサンスの偉大な芸術作品と同じように、きっとこの先何百年も、人々に愛され続けるのではないでしょうか。
第三の男(原題: The Third Man)
製作国 : イギリス
公開: 1949年
監督: キャロル・リード
製作: キャロル・リード/デヴィッド・O・セルズニック/アレクサンダー・コルダ
脚本: グレアム・グリーン
出演: ジョゼフ・コットン/オーソン・ウェルズ/アリダ・ヴァリ/トレヴァー・ハワード
音楽: アントン・カラス
撮影: ロバート・クラスカー
編集: オズワルド・ハーフェンリヒター
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管理人: mardigras

第三の・・・いいですよね。音楽もすぐ頭の中に流れてきます。♪
オーソン・ウェルズわずか10分くらいしか出てなかったのですね。
クライマックスの地下の排水溝?影を追うシーンの撮り方なんか良かったです。
(アングルって言うのでしょうか)
あとブレードランナー、設定された未来に圧倒されました。
私も劇場で観ましたが、何版だったのでしょう。?
核爆弾か何か???の影響でずっと雨が降っているのですよね。
楽しく拝見しました。また伺います。