レスラー

かくてランディは宙を舞う
「レスラー」のイラスト(ミッキー・ロークその1)

ずらしく、最新作のご紹介です。ダーレン・アロノフスキー監督、ミッキー・ローク主演の「レスラー」(2008)。いや~、感動しました、マジで。この映画、もしもっと前に観る機会があったなら、マイ・ベストのかなり上位の一本として、きっととっくの昔に採り上げていたことと思います。最近では滅多にない映画館での鑑賞だったということもあるし、また観たばかりで印象が強いということもあるとは思うのですが...でもそんなもろもろを割り引いたとしても、この映画に描かれたひとりのレスラーの生き方は、いろいろな意味で胸にぐっとくるものがありました。

リング上のファンタジスタ、プロレスラー。観客たちの憧れの対象として、あるいはストレスのはけ口として、またあるときは怒りの代弁者として...さながら声援(罵声)を送る大衆の念を一身に引き受ける依り代のように、自らの肉体を過剰に痛めつけることで輝く男たち。そんなプロレスラーとしての誇りと矜持を胸に、しかしこれ以上ないほどにボロボロとなった肉体を抱えた男の哀しくもしゃんとした生を、ドキュメンタリー・フィルムのようなタッチで綴ったドラマ、それが「レスラー」という映画。プロレスをテーマにした映画の最高傑作は、私にとって長らく「カリフォルニア・ドールズ」(1981)だったのですが、もうこの作品が完全にオーバーしました。ベタベタのありがちなストーリーでありながら、プロレスの世界を描いてこれ以上の作品が作られることは今後もうありえないのではないか...思わずそんなことを言いたくなるくらい、キャラクターのリアリティに圧倒されてしまったのであります。


"プロレスラー"という職業

"バンプ(Bump)"、というプロレス用語があります。"受身"という意味のスラングで、相手の技を受けるというプロレスにおいて、欠かせないムーブを指したことばです。

プロレスラーは、相手の仕掛けた技をかわしきれずに受身を取るのではなく、文字通り、相手の技をあえて受けてみせます。彼らがなぜそうするかといえば、それはプロレスが相手の技を交互に受けあうことで成り立たっているから。殴られれば殴られ、蹴られれば蹴られ、投げられれば投げられてみせるのがプロレスラーで、相手の技をダメージなく、しかしこの上なくダメージがあるかのように受けてみせるのが彼らの真骨頂です。やらせてはやりかえし、やりかえしてはやらせ、と、リング上のレスラーたちはピンチとチャンスを即興で演出し、お互いに見せ場を作りあいながら、協同作業で会場を熱狂の渦へと巻き込んでいきます。彼らの勝敗は、あらかじめ決められた試合結果自体にあるのではなく、いかに観客をヒートさせ、彼らのエモーションを搾り出し、へとへとになるほどの満足感を抱かせて家路に着かせるかにあります。試合が盛り上がれば二人とも勝者、そうでなければ二人とも敗者...いわば、プロレスは格闘技というよりも、演劇の要素を多分にもったエンターテインメントといった方が相応しく、プロレスラーは格闘家というよりも、鍛え上げた肉体を駆使したパフォーマンスでもって観客の感情を自在にコントロールする、サイコロジーに長けたアーティストとでもいうべき存在なのであります。

しかし、たとえそれがお互いの合意に基づいたパフォーマンスであろうと、いや、格闘技と違ってあえて相手の技を受けなくてはならないからこそ、プロレスはプロレスラーにとって危険です。そこになにがしかの手加減やフリがあろうと、またいかに受身を取るのが上手かろうと、頭や背中を激しくマットに叩きつけられるような試合を繰り返せば、その肉体にダメージの蓄積されないわけがありません。しかもボクシングのような格闘技と違い、プロレスの試合はほとんど毎日のように行われます。今日はこの町、明日はあの町と旅を続けながら、レスラーたちは連日連夜、リングに上がり続けます。身体が痛もうが体調が悪かろうが、興行人気を背負うトップ・レスラーになればなるほど休息は許されず、彼らは鎮痛剤を服用し、痛みをごまかしながらバンプを取り続け、そしてその身体にさらなるダメージを蓄積していくのです。

そしてプロレスラーの人気というものが、強さそのものではなく"強さの幻想"にあるがゆえ、彼らには"いかにも強靭そうな魅せる肉体"を作りあげ、維持することが求められます。かくて、フィジカル・トレーニングだけでは物足りないと考えるレスラーたちは、分厚い筋肉に覆われた鎧のような体を作るため、アナボリック・ステロイドのようなホルモン剤を服用し、その無理に肥大化させた肉体に副作用のリスクを背負いながら、ファンの熱狂に応えて、ますます激しいバンプを繰り返していくのです。

デビッド・フォン・エリック、ブルーザー・ブロディ、アドリアン・アドニス、ジャンクヤード・ドッグ、マイク・フォン・エリック、ジノ・ヘルナンデス、ディック・マードック、デービーボーイ・スミス、アンドレ・ザ・ジャイアント、テリー・ゴディ、バズ・ソイヤー、エディ・ギルバート、ブライアン・アダムス、ホーク・ウォリアー、オーエン・ハート、ケビン・フォン・エリック、ザ・ウォール、クラッシャー・ブラックウェル、クリス・アダムス、リック・ルード、ビッグ・ジョン・スタッド、ジェイ・ヤングブラッド、カート・へニング、クリス・べノワ、バンバン・ビガロ、ヨコズナ、ジョン・テンタ、ヘラクレス・ヘルナンデス、ビッグ・ボスマン、ゲーリー・オブライト、エディ・ゲレロ...いずれも1980年代から2000年代の初めにかけて米国を中心に活躍した、私がテレビあるいは会場でその試合を1度でも観たことのあるトップ・レスラーたちです。彼らにはひとつの共通点があります。それは全員が、50歳に達することなく、働き盛りの真っ只中の年齢で、この世を去ってしまったことです。殺人や交通事故死といった外的な要因によって亡くなったレスラーも含まれますが、しかしその死因の3分の2近くを薬物の副作用によるとみられる心疾患が占めていることには驚かされます。そしてこの信じられないほど長いリストは、私の知らないレスラーを加えれば、さらに長いものとなるのです。

と、客観的な書き方をしていますが、中には私自身がファンだったレスラーも何人か含まれていて、強さの象徴のようなレスラー、特に自分のひいきのレスラーの突然の訃報に接したときに味わったショックと喪失感の大きさは、プロレスを観なくなって久しい今となっても、ちょっとことばにしづらいものがあります。いずれにしろ、プロレスという職業が、文字通り命懸けのものとなってしまっている事実には、改めて背筋が寒くなる思いです。



レスラーを描いたもう1本の映画

ロレスラーたちはなぜ、命のリスクを負ってまでプロレスにその身を捧げるのか...それはおそらく、プロレスラーである彼ら本人たちにしかわからないことでしょう。しかし、そんな彼らの心情を門外漢の私たちがちらっと垣間見ることができる、1本の映画があります。それが、「ビヨンド・ザ・マット」。人気プロレスラーたちの公私にわたる生活の光と影をありのままにフィルムに収めた、2000年公開のドキュメンタリー映画です。

この映画には、3人の有名なプロレスラーが登場します。かつてニューヨークの檜舞台で一世を風靡しながら、麻薬に溺れてその光を失い、弱小団体の興行で細々とプロレスを続けているジェイク"ザ・スネーク"ロバーツ。自らの肉体を極限まで痛めつけるフリークなパフォーマンスで一躍人気者となった"マンカインド"ミック・フォーリー。膝の怪我に苦しみながら、何度も引退してはカムバックを繰り返す"テキサス・ブロンコ"テリー・ファンク。映画は、ドレッシング・ルームで試合の打ち合わせをするレスラーたちの姿といった衝撃的な暴露映像を挟みながら、プロレスラーであることの過酷さとその壮絶な実生活の素顔を赤裸々に捉えていきます。孤独な生活に疲れ、長年音信不通だった娘との再会を果たすジェイク、泣きじゃくる幼い娘と妻の面前で、観客の罵声を一身浴びながらこれ以上ないほど危険なバンプをとるミック、ドクター・ストップがかかり、今度こそはと自分に言い聞かせ、老いた身体で数度目かの引退試合にのぞむテリー...既に「レスラー」をご覧になった方なら、ぴんとくることと思います。そう、「ビヨンド・ザ・マット」に登場する3人のレスラーの姿と生き方は、まさに「レスラー」の主人公、"ザ・ジャム"というニック・ネームを持ったレスラー、ランディ・ロビンソンのそれそのものなのです。

プロレスという虚構の世界に生きるリアルなレスラーたちのリアルな生態を、プロレスラーの最大公約数のようなキャラクターに凝縮し、起承転結をつけたフィクションの物語に昇華してみせたのが「レスラー」という映画です。そしてそこには、亡くなったレスラーの長いリストをみながら感じざるを得ない最大の疑問、なぜレスラーは命を削ってまでレスラーであることをやめようとしないのかという問いに対するひとつの答えが、強い説得力を持って描かれています。まるで、ランディ・ロビンソンというプロレスラーが実在したかのような錯覚さえ抱いてしまうリアリティと存在感...プロレスを主題として、もうこれ以上の物語(映画に限らず)はありえない、と思うゆえんです。



「レスラー」のあらすじ(以下ネタばれ)

ラマの主人公、ランディ"ザ・ジャム"ロビンソンは80年代のプロレス界を席巻したスーパースター。しかしそれから20年、いまではスーパー・マーケットでパート・タイムの仕事をこなしながら、週末に行われる場末の大会に細々と出場する日々。リビング・レジェンドとしてレスラー仲間から敬意を払われ、試合会場ではオールド・ファンにサインをねだられたりもしますが、長年のファイトで体はボロボロ、ホルモン剤や鎮痛剤に頼りながら、トレーラー・ハウスの家賃の支払いにさえも事欠くかつかつの生活を送っています。

そんな彼はある日、激しい試合の終了後、ドレッシング・ルームで心臓発作をおこし昏倒してしまいます。バイパス手術によって一命は取りとめたものの、医者からの勧告を受け、引退を考えざるえなくなったランディ。術後の傷も癒えず、やることのない日々の中、彼は次第に孤独に苛まれるようになります。そんな彼が胸のうちを打ち明けられる相手は、彼を客としかみてくれないお気に入りのストリッパー、パムだけ。彼は彼女のアドバイスで、唯一の肉親でありながら長年絶縁状態にあった娘のステファニーに連絡を取りますが、しかし彼女からは「私が必要としたときにあなたはそばにいてくれなかった」と激しい憎悪をぶつけられ、けんもほろろに追い返されてしまいます。

プロレスからきっぱりと足を洗う決心がつかないまま、ずるずると過ぎていく日々。そんなある日、彼は往年の名レスラーを集めたサイン会にゲストとして招かれます。閑散とした寒々しい会場、車椅子や杖の世話になっている、年老いたレスラーたちの侘しい姿...そんな厳しい現実に触れ、ランディはついにきっぱりと引退を決意します。

ドラッグともワーク・アウトともすっぱりと縁を切り、人生第二のリングと見定めたスーパーでの仕事に精を出し始めるランディ。彼はステファニーとの仲を修復すべく、パムのアイデアで贈り物をすることにします。買い物に付き合ってくれたパムを無理にバーへと誘い、ビールをおごるランディ。店に流れるRattの"Round And Round"に身体を揺らしながら、「ニルヴァーナの登場でお気楽気分は消し飛んじまった。80年代最高、90年代は最悪!」と意気投合し、盛り上がる二人。そして彼らはいつしか抱き合い、キスを交わします(80年代の素晴らしさについてはこちらの記事参照→ビバ?1980'-「バック・トゥ・ザ・フューチャー」)。

「レスラー」のイラスト(エヴァン・レイチェル・ウッド)

再び愛娘のもとを訪れるランディ。彼のプレゼントに、ステファニーの頑なだった心は開き始めます。幼い頃に訪れた思い出の場所を歩きながら、語り合う二人。「俺の人生はズタボロだ。当然の報いだが...しかしお前にだけは嫌われたくない」と静かに涙を流し、積年の赦しを請うランディ。ステファニーはそんな父親の真情溢れる姿に心を打たれ、わだかまりと憎しみを捨て、彼の謝罪を受け入れます。

こうして、リングの外に確かな居場所をみつけつつあったランディ。しかし、彼の幸福感はそう長続きしません。パムと心が通い合ったと信じるランディは、クラブを訪れると仕事中の彼女に交際を申し込みます。しかし、彼の意に反してパムの答えはノー。9歳になる子供の母親でもある彼女は、自らの恋愛感情を恐れるように、ランディをことさら客扱いしようとします。そんな彼女の態度に「君も特別な何かを感じていたはずだ」と怒りをぶつけるランディ。売り言葉に買い言葉、二人は激しく罵りあい、喧嘩別れしてしまいます。

パムにフラれて自暴自棄になったランディは、仲間のレスラーたちと飲んだくれて行きずりの女性と一夜を過ごし、ステファニーとの食事の約束をすっぽかしてしまいます。その夜、ステファニーの家を訪れたランディに向って、彼女は泣き腫らしたあとの冷たい表情できっぱりと告げます。「これからはあなたを愛しもしないし憎みもしない。もう二度とその顔を見たくないし声も聞きたくない」

逆回転し始めた歯車は止まりません。ささくれだったランディの神経を、もともと気の進まなかった仕事が逆撫でします。陰険でこうるさいマネージャーに厭味を言われ、わがままな客に右往左往させられ、彼がかつての人気レスラーであることに気づいた客の好奇の視線に晒されるうち、ついにランディはキレてしまいます。マネージャーを突き飛ばし、棚の商品を片っ端からぶっ飛ばし、「こんな仕事は辞めてやる」と叫びながら店を飛び出すランディ。手が届きそうで手が届かなかった幸せ、手に入りそうで手に入らなかった普通の生活、変えようとして変えることのできなかった生き方...彼はプロモーターに電話すると、手術前にオファーされていた、かつてプロレス・ファンを熱狂させた伝説の試合、アブドゥラとの20年ぶりの再試合のマッチ・メイクを直訴します。

カムバックに向け、日焼けサロンに通い、髪を染め直し、クスリの服用を再開し、体を鍛え始めるランディ。吹っ切れた顔つきの彼には、もう平穏な生活への未練もなければ迷いもありません。そして迎える試合当日。ビッグ・ショウに気合の入るレスラーたち、大一番を前に盛り上がるフル・ハウスの会場。バック・ステージで静かに出番を待つランディ...

前座の試合が終わり、リングに向かおうとするランディの前に現れたのは、仕事を放っぽり出して駆けつけてきたパムでした。ランディに愛を告白し、彼を制止しようとするパム。しかしランディはリングを指差して言い放ちます。「俺には外の世界の方がツラい。あそこが俺の居場所なんだ」。彼女を振り切り、花道へと出て行くランディ。大音量で流れる彼のテーマ曲は80年代の名曲、Guns N’ Rosesの"Sweet Child O' Mine"(エンドロールにアクセルへの謝辞があります)。そして雨のように降り注ぐ大歓声...リングへ上がった彼はマイクを手に取り、観客に語りかけます。「俺はいま、好き勝手にやってきたツケを払いながら生きてる。すべて自業自得だ。でも誰にも俺に引退しろなんていう権利はない。そんなことを言えるのはここにいるみんな、ファンだけだ。みんなが俺の家族なんだ!」。大観衆の喝采と拍手の渦の中、いよいよ試合が始まります。ランディは果たして、最後までリングに立ち続けていることができるのか-。



落ちぶれた境遇にあってこれっぽっちも惨めにみえないランディという男

つて満場の大歓声を浴びていた男が甘受する、職場のくだらない上司のつまらない当てこすり。どこかの小学校の体育館らしき場末の閑散とした試合会場。高価なクスリ代に消えていくすずめの涙ほどのファイト・マネー。大男には狭過ぎるおんぼろのトレーラー・ハウス。そしてそんな家の家賃も払えずにクルマの中で背を丸めて横になる一夜...客観的に言えば、要するにランディという男は、"落ちぶれた人生を送る元スーパー・スター"です。

しかしランディは、そんな表面的なことばから想起される惨めさや悲壮感といったものを、不思議なほどに感じさせない男です。彼の立ち居振る舞いには、どこか乾いたユーモアや健全さが漂っていて、とても同情や憐憫を必要としているような人間には見えません。それがなぜかといえば、彼がいかにもレスラーらしいアバウトさやデタラメさに満ち満ちた楽天的な男だから...ということもありますが、おそらくそれ以上に、ランディという男が、己を取り巻く厳しい現実を誰のせいにするでもなく、そのすべてを自分が好きなように生きてきた"ツケ"として受け止めている、自己憐憫の一切ない人間だからです。たとえば、繋がりともいえないような繋がりを頼ってパムに苦悩を打ち明けるランディの姿には、確かに孤独をかこつ人間の切なさと哀しみが滲んでいます。しかし、胸のうちを淡々と、ありのままに吐露する彼の姿には、彼女の同情を引こうとしたり、あわよくば甘えてやろうというような弱さやべとべとした下心がまったく感じられず、その背筋は、驚くほどにしゃんとしているのです。しかしなんといっても、プロレスという確固たる生きがいを持っていること、ランディが落ちぶれた生活を送っていてもちっとも惨めに見えない理由は、その一点に尽きるのかもしれません。

そんな彼が、プロレスという生きがいを失いならも自分を嘆くことなく、前向きに変わろうとする姿のいじらしさには心打たれるものがあります(しかし一方で、「男はつらいよ」の寅さんが改心して真面目に働こうとしているのを眺めるおいちゃんのような気分になったりもします。"いつまで続くかな~"というやつです)。派手なコスチュームの代わりにエプロンとヘア・キャップを身に纏い、スーパー・マーケットの惣菜売り場へと足を運ぶ彼の耳にはリングへと向かう花道の大歓声がこだまします。そして彼は世間に身の丈を合わせようと、不器用ながらも必死にバンプをとってみせます。かつてAWAというプロレス団体で、長いことチャンピオンを務めていたニック・ボックウィンクルという名レスラーが、"私は相手がワルツを踊ればワルツを踊り、ジルバを踊ればジルバを踊る"という名言を残しました。ニックの言い方になぞらえれば、ランディは実にプロレスラーらしく、そして実にいじらしく、厭味なマネージャーを相手にワルツを踊り、わがままで気まぐれな客たちを相手にジルバを踊ってみせます。しかし案の定、それは彼にとって、たとえ身体を痛めつけることはなくても、代わりに心がぐさぐさとささくれ立っていく、あまりにもキツいバンプでした。

結局のところ、寅さんがどうしても堅気になれないように、彼も変わろうとして変わることができません。平穏な人生プランが早々に破綻したきっかけはパムやステファニーとの仲たがいでしたが、しかし仮に彼女たちとの人間関係が順調だったとしても、彼は早晩、プロレスに帰っていくことになったのではないでしょうか。なぜなら、身を縮こまらせてせせこましく相手の小技を受け続けるばかりで、彼が見栄を切るチャンスが金輪際訪れるとは思えない一方通行の不完全燃焼が続くガチンコ・ワールドに、リングのカタルシスをこれでもかと味わってきた彼のプロレス心がそう長く耐えられるはずもないように思えるからです。

リングから遠ざかった途端、胸のうちに澱のように沈殿していく屈託に、彼は、観客たちの穢れを祓う依り代としてリングに上がりながら、彼自身もまた、リングの中で浄化されていたことに気づきます。終盤、彼はリングの上から観客に向かって、俺に引退しろと言える権利があるのはファンだけだ、みんなが俺の家族だ、と絶叫します。しかしそれはあくまでも方便であって、彼は、金のためでもファンのためでも誰のためでもなく、ただただ自分が自分であるため、リングへと戻っていったように思えます。

生命を賭けてまでレスラーであろうとするランディの生き方は、環境にあわせて変化することを苦にしない要領のよさをもった人間からみれば、あまりにも愚かしいものかもしれません。しかし、世の中には変わりたくても変われない不器用な人間もいて、そんな人間が自分のやれることをまっとうしようと覚悟する潔い姿には軽々しく否定することのためらわれる、一種侵しがたい尊厳が漂っています。再びリングに上がる悦びを胸に、クスリの服用を再開し、ワーク・アウトに励むランディを観て湧き上がる感情は、自身の手に自身の人生をしっかりと握りしめることを決意した男に対する、畏敬の念です。ランディ"ザ・ジャム"ロビンソンというレスラーは、同情や憐憫などが似合うような惨めな男でも可哀想な男ではなく、勝敗を度外視して自分自身の人生を生きることを決めた、その背中に拍手を送りたくなるような、これぞザ・レスラーといいたくなるような、勇気と気高さとそして突き抜けたバカさを持った男なのです。



本物のプロレス以上にリアリティを感じさせる「レスラー」のプロレス

ロレスのエッセンスが格闘ではなく演劇性にあるのだとすれば、鍛え上げた肉体を持った俳優は最高のプロレスラーとなる資質を備えているといえるかもしれません。映画製作にあったって、3ヶ月間プロレスの特訓に励んだというミッキー・ロークの鍛え上げられた、しかしいかにも老レスラーらしく崩れかけた肉体とそのムーブはほとんど完璧であり、映画の中で描かれる実際のレスラーを相手にした試合の様子は、その編集の力もあって限りなくリアルなプロレスのようにみえます。特に、心臓発作を起こすきっかけとなる、ネクロ・ブッチャーという実在のレスラーとの間で繰り広げるハード・コア・マッチの迫力には目を背けたくなるものがあります。ボクシングのようなスピードを身上とする格闘技と違い、ダイナミックに"作られた"プロレスのオーバー・アクションは、そもそも映画と相性がよいというか、限りなく本物そのものに見える試合をスクリーンに再現することが可能なように思えます。

「レスラー」のイラスト(ミッキー・ロークその2)

そしてそれ以上に凄みを感じるのは、ボロボロの体を酷使するレスラーの痛ましさがひしひしと伝わってくる、ミッキー・ロークの迫真的な演技です。相手を引き立てるため、レスラーは掛けられた技がさも効いているように苦しんでみせますが、ここでミッキー・ロークが演じているのは、このフリの演技に加えてさらにそのもうひとつ裏側にある、ランディという心臓に爆弾を抱えた男のリアルな肉体の軋みです。彼が激しくバンプをとってみせるたび、フェイクの痛みの裏に隠された、ランディというレスラーが本当に味わっているであろう激痛の苦しみがスクリーンを通して伝わってきます。

"底が丸見えの底なし沼"...かつてプロレス雑誌の編集長を務めていた故・井上義啓氏は、虚実ない交ぜのプロレス世界をそんなふうに表現してみせました。まさにどこからどこまでがフェイクでどこからどこまでがリアルなのか、ミッキー・ロークはその苦痛にゆがめた表情と全身のパフォーマンスでもって、肉体を痛めつけることによって魅せる(観客の感情をコントロールする)レスラーの恍惚と悲哀を、本物のレスラー以上にも思える表現力でスクリーンに焼き付けています。



ミッキー・ロークのビッグ・カムバックとマリサ・トメイのこと

ーレン・アロノフスキー監督は、この映画を企画した当初から、主人公のランディ役としてミッキー・ロークの起用を念頭においていたそうで、プロデューサー・サイドの反対にあっても頑として譲らず、予算を減らされてまでミッキー・ロークの起用に拘ったそうです。結果、映画は見事ベネチア国際映画祭の金獅子賞を受賞、ミッキー・ロークもゴールデングラブ賞の主演男優賞をはじめとする数々の賞を受賞し、アロノフスキー監督は見事その賭けに勝ちます。ミッキー・ロークが人気の絶頂にあった時代とその後の低迷を知っている観客が、彼の実人生をランディの人生に重ね合わせてしまうのは否も応もないことであり、アロノフスキー監督の拘ったキャスティングはまさによくできたプロレスのアングルそのもののようです。そして前述の通り、ミッキー・ロークは最高の役作りでもってこのアングルに命を吹き込み、見事ビッグ・カムバックを果たします。変わることのできないランディという男を演じることによって、結果としてミッキー・ローク自身が大きく変わってみせたというのも、思えば本当によくできたゴッド・アングルです。

「レスラー」のイラスト(マリサ・トメイ)

ところで。スーパーの惣菜売り場に立つランディを目にし、どこかで見たことがある気がするとしきりに首を捻る客が出てきます。実は私も映画を観ながら、同じようなことを考えていました。それがクラブで扇情的に腰をくねらせて踊る、ちょい年増のストリッパー、キャシディことパム。どこかで観たことがあるような...と気になっていたのですが、ランディの買い物に付き合う彼女を見てようやく、それがマリサ・トメイだったということに気がつきました。私が彼女をスクリーンで観たのはもう十五、六年近く前、「忘れられない人」(1993)を観て以来。なぜかこの映画にハマっていた友だちの都合四回目の鑑賞に無理やり付き合わされたのですが、クリスチャン・スレーターの相手役として清純なヒロインを演じていた彼女が、若い客たちに年齢をからかわれながら、年齢相応の顔立ちで文字通りその肉体をさらけ出す姿には、ある意味、ボコボコになってしまったミッキー・ロークの面構え以上の凄みと年月の経過を感じました。レスラーに負けず劣らず、俳優というというのも凄い人たちだなと改めて思います。



余談: あるプロレスラーの思い出

つて、プロレスラーの価値がその"うまさ"ではなく、"強さ"でもって語られる時代がありました。前述したような、プロレスが受けの繰り返しによって成り立っている筋書きのあるドラマであることが公然と語られだしたのは、それほど昔のことではありません。ほんの10年くらい前まで、表面的な闘いの裏側にあるプロレスのメカニズムをうすうす感じながらも、プロレス・ファンはプロレスラーに強さの"幻想"を視て、真剣勝負と呼ぶにはあまりに不可解に思える数々のお約束ごとに目をつぶりながら、××こそがいちばん強いといった思い入れを抱いて、お気に入りのプロレスラーに熱い声援を送っていたのでした。で、かくいう私もそんなひとり。今思えばほとんど洗脳されていたかのようにプロレスラーの強さに憧れを抱き(まさに信じる者は救われる)、中学の頃から20歳になる頃までの10年間近く、テレビ中継を欠かさず観るのはもちろんのこと、ときには会場へと足を運んだりして、プロレスというプロレスを観まくっていたものです。

ランディ・ロビンソンというプロレスラーの姿に、「ビヨンド・ザ・マット」というドキュメンタリーに登場する3人の実在のレスラーの人生が投影されているであろうことは前述の通りです。しかしこの映画を観ながら、私の頭の中には、まったく別のある一人のレスラーの姿が思い浮かんでいました。そのレスラーの名前はダイナマイト・キッド。プロレスに夢中になっていた若かりし頃、私がもっとも好きだったレスラーです。

イギリス出身の小兵レスラー、"爆弾小僧"ことダイナマイト・キッドは、観客の声援に手を挙げて応えるような媚を一切みせることのない、いつも不機嫌そうな顔をしたレスラーでした。当時プロレスの実況中継を担当していた古館一郎が"全身これ鋭利な刃物"と評した、剃刀のようにシャープな肉体とキレのいいスピーディな動きが身上の、技を掛けるときも掛けられるときも、必要以上の勢いで自らの身体をマットに叩きつけるような、そんな過剰なバンプを思い切りよくやってのけるレスラーでした。

カナダのカルガリーを主戦場とし、初代タイガー・マスクのライバルとして日本のマットでも名を馳せたダイナマイト・キッドは、その後ジュニア・ヘビー級のチャンピオンになるなどして日本での人気を不動のものとすると、さらにはニューヨークを本拠地とするアメリカ最大のプロモーション、WWF(現WWE)に活動拠点を移し、1986年、従兄弟のデービーボーイ・スミスとタッグを組んで世界タッグ・チャンピオンにまで登り詰めます。しかしそれからしばらくしてのち、彼は試合中に脊柱に大怪我を負って入院、手術に成功してリングに復帰するも、元のような激しいファイトができない身体となってしまいます。

やがてWWFを離脱したダイナマイト・キッドは、デービーボーイとともに、1989年、実に足掛け4年ぶりで日本マットに姿を現します。数年前まで、来日するたびに一回りずつ分厚くなっているかのように思えたダイナマイト・キッドの鎧のような身体は見る影もなく、以来来日を重ねるたび、その身体はますます小さく萎んでいきます。再来日を果たした時点で既に、おそらくダイナマイト・キッドは一人で試合ができるような体のコンディションではなくなっていたのだと思います。彼の試合は常にタッグ・マッチとなり、しかもその試合時間の大半をタッグ・パートナーに任せるようなスタイルが、彼の試合の定番となっていきました。

それからさらに2年後の1991年、彼はついにプロレスからの引退を表明します。しかしその後も日本のプロモーションの招きに応じて何度か来日すると、かつての勇姿を知る者にはとても見るに忍びない、痩せ衰えた身体で試合をこなしていましたが、1997年、とうとう彼は以前に負った脊柱の怪我が元となった合併症で歩くことができなくなり、以来、車椅子での生活を余儀なくされるようになってしまいます。

後年出版された自伝「ピュア・ダイナマイト」の中で、彼は身体を大きくするためにアナボリック・ステロイドに頼っていたことを悪気もなくカミング・アウトしています。当時の公称180cm、実際は175cmもなかったと思われる彼の上背で、大男たちと対等に渡り合いながら(渡り合えるという強さの幻想を演出しながら)チャンピオンにまで上りつめるには、過剰なほどの筋肉を纏うしかほかに術はなかった、というのが彼の言い分です。ダイナマイト・キッドから本名のトム・ビリントンに戻った彼は、自伝の中でそのキャリアにおいて後悔することは何もないと言い切り、生まれ変わったらまたレスラーになって、まったく同じことをすると述べています。

ちなみにダイナマイト・キッドの相方、デービーボーイ・スミスは1990年にキッドとのタッグを解消した後、ブリティッシュ・ブルドッグの名前でWWFに復帰、シングル・プレイヤーとしてトップ・レスラーの仲間入りを果たしましたが、2002年、心臓発作により39歳で亡くなっています。

*        *        *

ダイナマイト・キッドのフィニッシュ・ホールドは、コーナー・ポストの最上段から、マットに寝転ぶ対戦相手に向かって思い切りよくダイブして頭を叩きつける、"ダイビング・ヘッド・バッド"と呼ばれる大技でした。大きく手を広げ、頭から無防備にマットに突っ込んでいく彼の身体はマットに着地した瞬間、ゴム鞠のように大きくバウンドするのが常で、プロレスの仕組みを認識している今となっては、彼が対戦相手にダメージを与えないよう、自らの首と全身でその100kgの落下の衝撃を吸収していたことに思い至ります。仕掛ける本人もリスクのある大技、なんて言い方がありましたが、ダイビング・ヘッド・バッドという"必殺技"のリスクを負っていたのは対戦相手でもなんでもなく、ほぼ100%、仕掛ける当のダイナマイト・キッド本人だったというわけです。

ランディ・"ザ・ジャム"ロビンソンは、私にとってはダイナマイト・キッドというレスラーそのもののようにもみえます。映画のラスト・シーン、ランディはその得意技、"ラム・ジャム"を繰り出すべく、コーナー・ポストによじ登ると両拳を高々と掲げ、マット上に寝そべる相手めがけて思い切りよくダイブしていきます。その姿が私には、ついには歩行不可能になるほどのダメージを負ってまで空を飛び続けた、ダイナマイト・キッドに重なって見えて仕方がありませんでした。ランディ・ロビンソンという架空のレスラーの生に感動しながら、私はダイナマイト・キッドというレスラーを思い出し、彼がいかに凄みをもったレスラーだったのか、そしてそんな彼の姿から、当時の自分がどんなにいろいろなものを受け取っていたのかを心の中で改めて噛みしめていたのであります。



レスラー(原題: The Wrestler
製作国 : 米国
公開: 2008年
監督: ダーレン・アロノフスキー
製作: ダーレン・アロノフスキー/スコット・フランクリン
脚本: ロバート・シーゲル
出演: ミッキー・ローク/マリサ・トメイ/エヴァン・レイチェル・ウッド
音楽: クリント・マンセル
撮影: マリス・アルペルチ
編集: アンドリュー・ワイスブラム


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コメント

[C229] ありがとうございます。

私もこの映画を見て大変感銘を受けました。
でもプロレスの知識も無く、上手く言葉にできない漠然とした点がありなんとなくもやもやしてました。
こちらの記事でその説明しがたい部分がすっきり解消した気分です。本当に良い記事をありがとうございました。

[C230] >lifeonmarsさん

はじめまして、コメントありがとうございます。
私もプロレス観なくなって久しいので、あまりわかったようなことを言う資格がないのですが、でもこの映画は、プロレスとレスラーのとても普遍的なところを描いていたと思います。

lifeonmarsさんの記事も読ませていただきました。
最後の、パムが会場に駆けつけて制止、それを振り切って出て行くランディ、というシーンはご指摘のとおり任侠モノの定番ですし、それに「あしたのジョー」というマンガのクライマックスにも似ていて、おなじみの男のロマンというか理想の展開というか、男の私にとってはとてもわかりやすいシーンでした...おっしゃるとおり、どちらかというとプロレスファンや男向けの映画なのかもしれませんね。でも、lifeonmarsが感動されたように、プロレスに興味がない方にも間違いなく届くもののある映画でもありますよね!

[C232] この映画は、観てみたい!

ご無沙汰しております。(ペコリ)

今年のアカデミー授賞式で取り上げられていた作品群の中でも、
私も群を抜いて期待してしまっている作品です。

ミッキー・ローク・・・高校生時代のアイドルでした。
それがいつも間にやら、”恥ずかしい古傷”とでもいった存在になっていて、
亭主から、「シン・シティとか、いいぞ。」などと云われながらも、今ひとつ、再会するのが怖かったのですが、
やっと、再会のメドがついた感じです。(笑)

映画館に行くことは、当面無理そうですが、
なんとしても、見逃したくない作品!という想いを、
Mardigrasさんの、アツイ記事を読んで、
新たに致しました。。。
  • 2009-06-26 21:07
  • シネマで現実逃避
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[C233] >シネマで現実逃避さん

おお、お久しぶりです。お元気そうでなによりです!

恥ずかしい古傷(笑)、誰にでもありますが...でもミッキー・ロークはぜんぜん恥ずかしくはないのでは??男からみても、あの頃のミッキー・ロークはちょっと飛び抜けてたと、いまだに思います。

そしてこの映画のカムバックで、古い傷でもなくなったような...「シン・シティ」のときは、特殊メイクもあってほとんど以前の面影を読み取れませんでしたが(でも役も演技もイイですよ!)、この映画、(顔かたちはかなり変わってしまったものの、)あの頃に漂わせていた匂いがふとした拍子に微かに感じられたりして、いいぞ、いいぞ、という感じです。でも、"アイドル"だったということは、顔も重要ですかね、やっぱり...

お忙しそうですが、早く再会の日がきますように。そしてそのときはぜひ記事の方も!

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[C518]

Mardigras さん(^^)こんにちは!
いつもありがとうございます。

自分もこの作品を観ました。とても良かったです。(^^)
自分はミッキ-・ロ-クが昔、とても好きでした。それとやっぱりプロレスは小学校の頃にクラスでも流行り、熱中していたものでした。
Mardigras さんがプロレスにお詳しくてこの記事を見入ってしまいました。ダイナマイト・キッドも懐かしいと思いましたよ。

自分はスタン・ハンセンと「テキサス・ブロンコ」テリ-・ファンクが大好きでした。(^^)

この映画は昔、夢中になっていたプロレスの世界、そしてレスラ-達の姿にせまっていて本当に見応えがありました。ミッキ-・ロ-クも「復活」と言われていた通りの素晴らしい演技と雰囲気で、ランディという本物のレスラ-を追った映画と思えるほどの出来だったのに感銘を受けました。

Mardigras さんの記事は本当に見応えがあり、とても楽しませて戴きました。イラストも良いシ-ンを本当にお上手に描いてらっしゃいますね。こちらも見入ってしまいました。


いつも本当にありがとうございます。(^^)

[C519] >ユウ太さん

ユウ太さん、こんにちは。コメントありがとうございます!

おお、キッドをご存知とはうれしい。ユウ太さんもミッキー・ロークとプロレスがお好きだったんですね~!だとしたら、この映画はもうたまらんですよね。ハンセンとテリー、私も好きでしたよ~。でもブロディとドリーがさらに好きでした(笑)。

この映画のミッキー・ロークは、まさにホンモノのプロレスラーの佇まいそのものでしたね。観てないのですが、去年ホントにプロレスのリングに上がったみたいで、なんだかそのあたりのノリがとてもミッキー・ロークらしいなあと思いました。

[C874] ランディは 悲しいな

はじめまして 

友達とDVDでみました。レスラー人生もピークを過ぎ、娘とは絶縁状態、ステロイドの影響で心臓は弱っているありさまの中年レスラー ランディー。

>パムにフラれて自暴自棄になったランディは、仲間のレスラーたちと飲んだくれて行きずりの女性と一夜を過ごし、ステファニーとの食事の約束をすっぽかしてしまいます。
 そんな理由で娘さんとの約束すっぽかすのは さすがにマズイよ~(´Ц`)

自分には「この場所しかない」不器用な生き方しかできないランディーは やはり 悲しい男です。


  • 2012-01-02 01:10
  • zebra
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[C877] >zebraさん

こんにちは、コメントありがとうございます。

ホント、悲しいですよね~、ランディ。zebraさんのコメントのタイトルを見て、そうそう、「悲しい」という表現がぴったりだな~と頷いてしまいました。

家賃を払えなくてロックアウトされるのも、真昼間から子供とテレビゲームで遊んでるのも、そして「この場所しかない」=もうほかに何も可能性が残されていないのも、もうなにもかも悲しい。しょーもない理由で娘を深く傷つけたり、ぶちきれて職場放棄したりと、要するに社会人としてダメ男なんですけど、でも最後にコーナーポストから迷わず飛翔するランディには、中途半端にぶすぶすとくすぶり続けるばかりの自分には到底見つけられそうにない、過程はどうあれ自分の真の居場所を思い定めることのできた男に対する、そこはかとないジェラシーを感じてしまったりもするんですよねぇ。。。
  • 2012-01-02 13:02
  • Mardigras
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