ザンパノは悔い改めない(と思う)

フェデリコ・フェリーニの「道」(1954)。高校三年生の時、教育テレビの世界名画劇場で観たのが初鑑賞でした。私にとってこれが初めてのフェリーニで、同じフェリーニでも途中で爆睡してしまった「8 1/2」(1963)あたりと比べて話の筋がはっきりしていて、そのわかりやすく泣けるドラマに感動したものです。ただ、進んでまた観たい!というほどではなかったことも確かで、二度目の鑑賞に至るまで十年近く間が空いてしまいました。
ちなみに初鑑賞時に最も強く印象に残ったのは、"ジェルソミーナのテーマ"。公開当時にヒットした曲だったとDVD収録のノートで知りましたが、さもありなん、映画の中で繰り返し流れる美しく哀切なメロディはシンプルで覚えやすく、何かツラい目にあうと、ふざけ半分で口ずさんだりしたものです。それからもうひとつ記憶に残ったのが、ザンパノという、アンソニー・クインが演じた旅芸人の名。イタリア人がどう感じるのか定かではありませんが、少なくとも私の耳には、ザンパノという名前の響きが、この登場人物のイメージにこれ以上ないほど相応しく感じられ(残酷のザンだからか?)、あとあとまで妙に頭にこびりついてしまったのでした。
十年前とまったく印象が変わってしまった「道」
とまあ、この映画の初鑑賞時の思い出は、斯様にその本筋とまったく関係なく、要するに、泣ける物語に感動しながらも、それだけタッチの度合いは浅かったんだなあと思います。ところが久しぶりに観てみると、大筋はともかく細部の印象や理解が記憶と異なっていて、あれ、こんなお話だったんだ!?と驚きました。"泣ける物語"であることに変わりありませんが、しかしなんというか、泣ける場面だとか、悲しみの質といったものが、思っていたのとまったく違っていたというか。そしてそれから何度か観なおすたび、心の中で感動の染みわたる範囲がじくじく広がっていくようで、今となってはこうしてご紹介している通り、私にとってかなり愛着のある一本となっています。
初鑑賞のときに感じた悲しさをひとことで言えば、ザンパノに"ロバのようにこき使われる"ジェルソミーナがひたすらかわいそう、といったものでした。この映画、ただぼーっと観ているだけでも、万華鏡のようにころころと変わるジェルソミーナの心の動きを巧みに表現するジュリエッタ・マシーナの演技だとか、全編にわたってあざといくらいに哀しみが滴るニーノ・ロータの音楽だとか、鑑賞者の琴線を掻き乱さずにはおかない、鉄板ともいうべき"感動強制装置"があちこちに散りばめられていて、嫌も応もなく泣かされてしまうところがあります。高校生の頃の私の心を揺り動かしたのはまさにそれらなのですが、しかし振り返ってみれば、果たして当時の自分がこの映画の味わいをどこまでキャッチできていたのか、かなり怪しいというか、実は本質的なところはほとんどわかっていなかったんじゃないか、という気がします。
ジェルソミーナの不幸がはじまるとき
そもそも高校生の私は、ジェルソミーナという、少し知的障害のある、無垢な心を持った女性の心の裡を、かなり誤解してとらえていたようです。"犬にだって芸を仕込める"と云う旅芸人のザンパノに端金で買われ(母親に売られ)、実際に犬のような扱いを受け、最後はぼろきれのように捨てられて死んでしまうジェルソミーナは、ただひたすら不幸だったと思い込んでいたのですが、観返してみると、決してそんなことはないのですね。
ジェルソミーナは、金で売られて家族と離れ離れになることを悲しむより、むしろ芸人になれることを喜んでいるし、実際に人前で喝采を浴びて芸をしているときの彼女は明るく、誇らしく、とても幸せそうです。またジェルソミーナは、ひたすらザンパノを恐れ、嫌っていたとも思い込んでいたのですが、むしろ彼女が女としてザンパノを愛しているらしいことに気がついて、驚きました。オート三輪の荷台でジェルソミーナがザンパノに無理やり抱かれる場面は、最初観たときには痛ましさしか感じられなかったものですが、改めて観てみると、ジェルソミーナは涙を流しながらも、愛しそうな表情でザンパノの寝顔をみつめていて、あ、これ悲しいだけの涙じゃなかったんだ、ということに気がつきました。彼女は自分に男ができたと思って、抱かれたことにむしろ悦びを感じているのですね。そう思ってみると、ザンパノと寝てからのジェルソミーナは、何か女としての自信が生まれたかのように生き生きとしていて、ザンパノから仲間に女房だと紹介されたときなど、その顔は幸せに輝いて、実に美しくみえたりするのです。
しかし、ジェルソミーナはザンパノが自分にちっとも関心を持ってくれないこと、そして女とみれば見境なく寝る男であることを知って、悲しみに暮れるようになります。要するに、彼女の不幸は海辺の貧村でザンパノに売られたときに始まったのではなく、ザンパノという男を愛してしまったときから始まったのですね。
そしてジェルソミーナの愛は枯渇する
とはいえそんな彼女も、ちっとも思いやりのないザンパノに絶望し、いったんは彼の元を逃げ出します。すぐにとっ捕まって連れ戻されますが、しかしその後、サーカスの一団に誘われ彼の元を立ち去るチャンスがあったにもかかわらず、結局、ザンパノから離れようとしません。それは、綱渡り芸人のイル・マットから、「こんな小石でも何かの役に立ってる。お前だって何かの役に立ってる」と諭され、孤独なザンパノに寄り添うことに生きる意味を見出すからなのですが、実はそんな会話を交わす前から彼女は逡巡していて、その裏には、どうしようもない男だとわかってはいるけれど、どうしても離れることができず、離れない理由を探しているだけのような、ある意味お馴染の、他人からは窺い知ることのできない、例の不思議な女心が滲んでいるようにも感じられます。
イル・マットに、「あいつは本当はお前に惚れてるのかも」といわれ、ジェルソミーナはハッと顔色を変えます。旅の途中で立ち寄った海岸で、ジェルソミーナはザンパノに向かって云います。「前は家に帰りたくして仕方なかったけど、いまはもうどうでもよくなったわ。あんたといるところが私の家だわ」。修道院で明かす驟雨の一夜、彼女はほの暗い灯りの下でザンパノに問いかけます。「なぜ私と一緒なの?」。「少しは私のことが好き?」。
今となっては、この、ジェルソミーナのナイーブ過ぎる女心にいじましさと痛ましさを感じるわけですが、恋愛経験ゼロどころか女性と口を利く機会さえ一切なかった男子校の高校生に、このあたりの男女の機微がわかるはずもなく、"十年早い"とは、まさにこのことでした。
しかし、そんな彼女の中に微かに残っていた、ザンパノを愛しいと思う(あるいは愛そうと努力する)気持ちは、ザンパノにことごとく無視され、踏みにじられるうち、とうとうすっからかんになってしまいます。修道院を立ち去る朝、修道院に残ることを勧める修道女の誘いをジェルソミーナは断ります。彼女の手には、イル・マットと話をしたときの小石が大切そうに握られています。悲しそうな顔で下を向いたまま、オート三輪の荷台から、いつまでもハンカチを振り続ける彼女を支えているのは、もはやザンパノのそばにいることで自分も何かの役に立っているという、いじましい決意だけのように感じられます。そして、ここから先のジェルソミーナは、まさに最初に観たときの記憶にある可哀想なジェルソミーナそのものであり、ザンパノに寄り添おうとする使命感と、ザンパノに対する嫌悪感の間で心をばらばらに引き裂かれてしまうジェルソミーナの哀れな姿は、今観ても、ただただ痛ましいばかりです。
ザンパノの行く「道」
一方、下種で野卑で非道なクズ人間、ザンパノ。初めて観たときは、ラストで泣き崩れる彼の姿を観ても、人を殺したくせに、なぜ警察にも捕まらず、最後までのうのうと生き延びることが許されるんだ、などという感想しか持てなかったものですが、しかし改めて観てようやく、このラストでザンパノが受ける罰が、いかに痛烈なものであったのかを知りました。
ザンパノという人間は、野獣のような生命力に満ち溢れた男です。それゆえ、自らの力を恃むところが強過ぎ、威張りくさるばかりで、人と真に繋がることができない孤独な男です。しかし、生命力の強さにまかせて、孤独など歯牙にもかけない男でもあります。彼にとって、自分以外の人間はみな自己の欲望をかなえるための存在でしかなく、誰だろうと、係わるほどに損してしまうようなヤツです。
イル・マットは、「あいつは本当はお前に惚れてるのかも」などと迂闊なことを云って、ジェルソミーナをぬか喜びさせますが、はたしてどんなものでしょう。実は、以前に観返したとき、イル・マットの云うとおり、ザンパノは優しいことばを口にすることができないだけで、その実、ジェルソミーナを愛してるんじゃないかなどと思ったこともあったのですが、今回改めて観て、やっぱりそれは違う、と思い直しました。なぜなら心の中でどう思っていようと、相手にその気持ちを伝えることばを持っていないどころか、行動ですら表現できないのであれば、何と言おうと、結局は愛してないのと同じだと思うからです。そうして客観的にみる限り、ザンパノにとってジェルソミーナは、仕事を手伝わせ、身の回りの世話をさせ、ときには夜の相手を務めさせる便利な道具でしかないようにみえます。
ザンパノは、何かというとすぐに腕力に訴える粗暴な男という印象がありましたが、観返してみて、むしろ、その精神的な仕打ちがいかに冷酷なものであるかということに思い至りました。ジェルソミーナが話しかけるたび、彼はことごとく、ことばと態度で必要以上に彼女を傷つけますが、そこには不器用だからで済ますことはとうていできない酷薄さが滲んでいます。ザンパノに寄り添おうとするジェルソミーナの健気な心を知った上で、彼はことごとくそれを踏みにじり続け、ついには彼女の心を修復不可能なまでに破壊してしまいます。そしてそんな彼女をザンパノは、まるで壊れて使い物にならなくなった道具を捨てるかのように、道端に置き去りにしてしまうのですね。
そんな人でなしの男が、ジェルソミーナの最期を耳にした途端、打ちひしがれて夜の海岸の波打ち際に突っ伏して号泣するラストシーンは、前述のとおり、高校生の自分にとっては、なんだかとても唐突というか、勧善懲悪のカタルシスがこれっぽっちも感じられず、まったく納得できなかったものです。しかし今となっては、この突き放したようなエンディングに一種、凄みのようなものを感じてなりません。なぜならザンパノは、ザンパノという人間にとって、もっともツラい罰を受けたんだということが、よーくわかるからです。
ザンパノという男は、己の生命力の逞しさに突き動かされるようにして、傍若無人を通してきた人間です。何をしても後悔するということを知らず、独りでいることにこれっぽっちも痛痒を感じなかった男です。しかしそんな彼にも、生命力の衰えはじめるときがやってきました。鬢に白いものが混じり、それでも相も変わらず鎖切りの芸をして糊口をしのいでいるザンパノの姿には、老いはじめて獲物をうまく捕ることのできなくなった肉食動物に感じるような哀れさが漂っています。自らの衰えを自覚する中で、ジェルソミーナの死を知った彼は、ここに至って初めて、独りで生きていくことの心細さを噛み締めるようになります。あれほど腕力に自身のあった男が、酒場で酔いつぶれ、店の外にたわいもなく突き転がされ、「友だちなんかいらん!ひとりでもちっともさびしくなんかねえ」と負け惜しみの吼え声を上げ、そしてとうとう浜辺に突っ伏して、惨めに嗚咽を漏らすのです。
独りで生きることになんら困難や苦しみを感じていなかった人間が、とうとう己の孤独を自覚し、そしてその孤独に心をポキリと折られてしまったこと、それがザンパノが受けた第一の罰です。そしてその孤独の中で、かつて彼に無償の愛情を捧げようとしていた、しかし永遠に失われてしまったジェルソミーナという女性の存在の得がたさを悟ってしまったことが、第二の罰です。
孤独に負けて涙するザンパノは、いうなれば自らのアイデンティティともいえる野獣性の喪失を認めてしまったのに等しく、もはや彼が彼らしく生きていくことはできないという白旗を掲げてしまったようなものです。ではそんな彼が、悔い改めてまっとうな人間性を回復できるかといえば、それは?です。なぜなら私の知る限り、彼のようなタイプの人間は、なにもかもを人のせいにするばかりで、自己反省することができないからです。そしてそんな人間に限って、自己憐憫の情は人一倍強かったりするものです。私には、彼の流す涙がジェルソミーナに赦しを求めるものではなく、単に独りぼっちの己を哀れむ憐憫100%の涙のようにみえます。
彼は、ちっとも変わることが出来ずに、手負いの肉食獣が呻り声を上げるように弱々しく吼え続けながら、ますます衰えていく肉体を抱えて死ぬまで孤独な人生を生きていくはずです。そしてそんな彼の行く手には、酔うたびに、自己憐憫のクダを巻く、惨めで苦い日々が待っているはずです。ザンパノはこうしてツケを払いながら、苦しい道のりをひとりで歩んでいくはずなのです(と思いたいのです)。
* * *
とまあ、突き放したような書き方をしましたが、今回改めて観なおしてみて、このザンパノという男の描写に、一種、身につまされるような思いが湧き上がってきて、少しドキリとさせられました。特に、華麗な綱渡りを披露して満場の観衆のやんやの喝采を受ける一流芸人のイル・マットが、「ヤツをみるとなぜかからかいたくなる。なぜかな?自分でもわからん」と云いながら、顔をあわせるたびにザンパノをコケにし、からかい抜く一連のシークエンス。もう少し若い頃は、どちらかというと、この、ザンパノの存在を徹底的に揶揄したくなるイル・マットにシンパシーを覚えていたものですが――なぜか今回は、できる男の容赦のない残酷さを感じてしまったりして、からかわれるザンパノの屈辱や悲哀というものが妙に胸に迫ってきたというか、あと数年経ってまた観返したりしたら、かなりツラくなってしまいそうな、なんだかそんな予感がしたのでした。
道(原題: La Strada)
製作国 : イタリア
公開: 1954年
監督: フェデリコ・フェリーニ
製作: ディノ・デ・ラウレンティス/カルロ・ポンティ
脚本: トゥリオ・ピネリ/フェデリコ・フェリーニ
出演: アンソニー・クイン/ジュリエッタ・マシーナ/リチャード・ベイスハート
音楽: ニーノ・ロータ
撮影: オテッロ・マルテッリ
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フェリーニーの奥さんでもあるジュリエッタ・マシーナの演技が素晴らしく、どうしてここまでこんな男についていくの・・・といらついて女の弱さの無常観を感じ、観ていて歯がゆくなりました。
離れられない男と女の繋がりはまだ理解できない頃(今でもわかってないけど・・・笑)に観ましたからね~・・・
ヴィスコンティーの映画は同じものを何度も観たのに、まぁ2回は観ていますが、『自転車泥棒』はその倍は多分観ているので私にとってはみずらい映画だったようです。
アンソニー・クィーンの色濃い男っぽさがまだよくわからなく好きになれないということも大きかったのか、でもあの役柄は憎しみしか生まれませんでしたけどねぇ~・・・笑
なんか、まとまらない感想でごめんなさい。