今度は眠らずに観ましたとも!

わざわざお金を払って映画館まで出かけておきながら、不覚にも寝てしまった映画がこれまでの人生で三本ほどあります。それが「トータル・リコール」(1990)、「8 1/2」(1963)そして本作「2001年宇宙の旅」(1968)。「トータル・リコール」の場合、前日徹夜でフラフラになりながら観に出かけたせいで、開巻5分とたたずに前後不覚となり、フと気づいたらなんとエンドロールが流れていたという、自分でも驚くほどの爆睡だったのですが、まあこれはあきらかに作品うんぬんとは何の関係もありません。その一方、「8 1/2」と「2001年宇宙の旅」。それぞれ観る前から難しい映画と耳にしていたのですが、案の定よくわからなくて、いずれも気持ちよく眠り込んでしまったのでした。そんな二本のうちの「8 1/2」については五、六年前に再見し、その素晴らしさにやっと気がついて、いまや最高に好きな映画の一本になっていたりするのですが、さてもう一方の「2001年宇宙の旅」。思えば私にとってこれが初めてのキューブリック映画で、その後ほかの作品を観るにつけ、神経を逆撫でするような描写ーー平穏な心を揺さぶるような表現にどうも苦手意識を感じてしまい、そんなこともあって「2001年宇宙の旅」にも再び手が伸びることもなく、再見するまでについ二十数年が経ってしまいました。
で、そんな映画をこのたびこうして再見することになったのは、いちにもににも「映画鑑賞の記録」のサイさんのお陰。実はBSで放映したものをDVDレコーダーのハードディスクに録画してニ年半も放置しっぱなしだったのですが、サイさんの素敵な記事を拝見したことで、今度こそこの映画を再見しよう!という気持ちにさせてもらったのでした。しかも、サイさんをはじめほかの多くのブロガーの皆さんと同時鑑賞することになり、この、とにかく何が何でも観るぞ!という強い縛りができたお陰で、放ったらかしにすることなく、しっかりと再鑑賞を果たすことができました。
ところでこのブログ、そもそもマイ・ベストの映画をご紹介していて、紹介する映画も順番も初めから決めています。そんなわけで、この映画の感想は番外編として書こうと思っていたのですが、しかし久しぶりにおそるおそる観た「2001年宇宙の旅」は、はっきりいってベスト10に入れたくなるくらい、本当にスリリングで素晴らしかった!というわけで、近いうちに紹介するつもりだった同監督の「博士の異常な愛情」(1964)に代わり、この映画をマイ・ベストの一本として、久しぶりに観た感想をつらつら書いてみたいと思います。
映画ならではの快感と興奮
「2001年宇宙の旅」を初鑑賞したときに強く印象に残ったのは、そのあまりに先進的かつ斬新な宇宙空間の特撮映像。1977年製作の「スター・ウォーズ」を初めて観たときにもその壮大なビジュアルに興奮したものですが、それより十年近い昔に既にこれほどのものが作られていたとは!と激しい衝撃を受けてしまったものです。この映画の製作年である1968年といえば私の生まれた年ですが、幼少の頃の自分を取り巻いていた世界のセピア色の記憶に思いを馳せるとき(テレビで観ていた「ウルトラマン」シリーズのような特撮モノの映像の記憶も含め)、あの時代にこの映画の映像表現を可能にしたテクノロジーが存在していたというというのは、ちょっと別世界の出来事のような気さえします。そしてその印象は、製作から四十年以上を経た今観てみてもまったく変わることなく、いや、本物の宇宙の映像をテレビを通じて目にする機会が増えている昨今だからこそ、余計にこの映画の宇宙映像の先進性を再確認させられるとともに、そこに感じる時間の流れだとかスピード感が、いかにリアルなものであったのかということに気づかされます。
宇宙船内の装備だとか宇宙服だとかコンソールの造形だとか、モノそれ自体の意匠は現代の目で見たときに古めかしさを感じてしまうのもであることは否めず(しかしその洗練されたレトロチックなデザインの数々は、ときに機能的でときにポップで実に美しい)、また宇宙船や宇宙ステーションのデザインも2009年の現実世界で見られるものとはかなり違うものであったりもするわけですが、しかし、漆黒の闇にそれらの人工物が浮かび、スローなリズムで滑るように動くその遥か向こうに、地球が明るく輝いている宇宙の映像描写や宇宙船内の無重力描写は、今日テレビで目にする本物の映像と見比べてもなんら違和感のないものです。CG技術もなければ宇宙科学の情報量も格段に少なかったであろう四十年以上も昔に、こんな本物の宇宙そのものに見える映像を作り出していたというのは、まさに映画のマジックとしかいいようのない素晴らしさであり、今回改めて観て、そのクリエイティビティのレベルというか、クリエーターたちの美意識と見識の高さに理屈抜きに感動してしまいました。
そしてなんといっても、この美しい特撮映像の訴求力を幾倍にも押し上げている、"美しき青きドナウ"の優雅なメロディーーゆったりと回転する宇宙ステーションや滑るように進む宇宙船の映像にこのワルツ、という発想こそが、まさに映画的というか、こんなことを思いつくからこそキューブリックは天才と言われるんだろうなあ、と素直に肯けるのであり、この映像と音楽の融合した詩的表現には、ホント興奮させられてしまいます。
そして「2001年宇宙の旅」は、随所にこれと似たような、映画という総合的メディアならではの悦びが満ち溢ふれている作品です。それは同じSFテイストの作品でも、「スター・ウォーズ」のような冒険ファンタジーに覚える興奮とは一味違った、静かに知的(笑)に心が揺さぶられるようなたぐいの興奮です。今思えば、何事であれアドレナリンを誘発する刺激物に嗜好が偏っていた高校生の頃の自分にとって、この映画の発信するシグナルの周波数はほとんど受信不可能だった気がするのですが、それとともにもうひとつ、当時の自分がこの映画にぴんとこなかった理由らしきものに思い至ります。それは、映画的経験の圧倒的な乏しさ。「2001年宇宙の旅」に描かれた映像表現が、いかに画期的でただならぬ凄みを持ったものであるかというのは、数多の映画を観てきた今だからこそ気づくことのできるものだったと思うのです(あくまで私の場合)。振り返ってみて、この映画に覚えたのと同質の"映画的"興奮をこれほど感じさせてくれた作品はほんの一握りしかなかったのであり、ゆえにこの映画の放つ輝きの価値に気がついた、とでもいったところでしょうか。"映画的"というのは、要するに、映像単体ではなく、音楽や美術単体でもなく、はたまたドラマや役者の演技だけでもなく、すべての要素が渾然一体となった、ほかのメディアでは決して感じることのない、映画ならではの興奮、というニュアンスです。
たとえば、"美しき青きドナウ"と同じような興奮を感じさせる場面に、猿人が動物の骨を叩きつけながら、人類史上最大の発見ともいうべき"道具"の存在に気がつく場面があります。これまた着ぐるみ感のまったくないリアルな猿人の見た目と動き、さらにはここぞといった感じのスローモーションの素晴らしさもさることながら、その美術と演技と演出に被せられた決定的な"ツァラトゥストラはかく語りき"のメロディ。道具を発見した猿人の高揚感と恍惚感のみならず、人類が原始の時代からまったく異なるステージへと踏み出す黎明の瞬間の興奮を、ことばも効果音もなしに、まさに観て聴いて感じてしまった以上はもうこの曲しかありえないと思われる交響詩に代弁させて、まったくうっとりさせられます。
そしてもうひとつ、この映画で味わった最高の"映画的"興奮が、猿人が中空に投げ上げた動物の骨にパッと宇宙船がオーバー・ラップする場面。道具を使うことを覚えた人類が、宇宙に船を浮かべるまでに進化した、気の遠くなるような長い歴史の過程を一切描くことなしに、400万年を一気に飛び越えてしまう、この"史上最大の省略"とでもいうべき発想ーー。何も知らずに観た高校生の自分にとって、ほとんど置いてきぼりをくらうぎりぎりの唐突感だったわけですが、しかし今改めて観ると(前後のつながりを理解した上で観ているということもあって)、そのあまりにも鮮やかな、軽々と時空を飛び越える、まさに映画ならではのダイナミックなマジックに、もう理屈抜きに惚れ惚れとしてしまいます。観た直後ということで印象が強過ぎるせいもあるかもしれませんが、このシーンほどに壮大な"映画的"カタルシスを感じさせる表現は、これまで観た映画の記憶をいくら辿っても、ちょっとほかに思いつかないくらい。まったくそのアイデアと手際に畏敬の念を覚えてしまうような、実に偉大な場面転換なのです。
恐怖映画としての「2001年宇宙の旅」
今回「2001年宇宙の旅」を観なおして、かなり驚いたことがあります。それはこの作品に"恐怖"を感じさせるエッセンスが満ち満ちていたこと。以前観たときの印象として、"コワい"という感情を覚えた記憶はまったくなかったのですが、しかし改めてみて、この映画、ほとんど恐怖映画といってもいいくらいにコワさの詰まった映画だったということに気がつきました。この作品に私が感じた恐怖の源泉は、"無"。"無限"とか"無音"とか"無機質"といったものです。
そもそも無限に広がる漆黒の宇宙空間自体がかなりコワいものですが(作業船に弾き飛ばされた宇宙飛行士の体が無音で無限の闇の向こうに小さく見えなくなっていくシーンの心細さと絶望感いったら...どこまで堕ちていっても、その体がどこかにドスンと落ち着くことはなく、おそらく未来永劫、その肉体は朽ちることもないままに宇宙を漂うのです)、宇宙ステーションや宇宙船内といった有限の空間も相当にコワさを感じさせるものです。白を基調にした清潔感と機能性溢れるそのインテリアは、いかにも宇宙船という感じのものである一方で、なんだか「時計じかけのオレンジ」(1971)に出てくる隔離病棟のそれのようにも思え、また一個人としての人間の極小さと矮小さをやたらと感じさせるロング・ショットが多用されているせいか、「シャイニング」(1980)のホテルに満ち満ちていた不気味な静謐さを思い出してしまったりもします(2009年の現在、テレビで観る実際の宇宙ステーション内の映像はもっと狭くてごちゃごちゃとしていて、一種の賑やかささえ感じさせるような気がするものですが、しかしそれにしても地球を離れた宇宙で何ヶ月も暮らす宇宙飛行士の精神力は一体どんだけ強靭なんだ?と思わずにいられません)。
猿人たちの中に突然現れる真っ黒なモノリス(石碑)の存在が、やたらと不気味なものに感じられてしまうのは、猿人たちの不安に満ちた叫喚もさることながら、その背景に流れるリゲティの"レクイエム"の必要以上に緊張を煽る旋律のせいです。音楽一つで、本来、プレーンなものであるはずの無機質でソリッドな物体がやたらとおどろおどろしいものに見えてしまうのが面白いところですが、このような見せ方をされると、背景の澄み渡った青空さえもが気味の悪いものに思えてくるようで堪りません。私がキューブリックを苦手だと感じる、心の平安を掻き乱されるような、直接神経に触れてくる遠慮会釈のない描写というのは、まさにこの手のもので、心臓を鷲づかみにされてゆさゆさ揺さぶられるかのような、強い不安感を覚えてしまいます。この"レクイエム"は、その後、人類がモノリスと遭遇するたびに流れるのですが、その陰鬱で不快なメロディを耳にすると、人類の決定的な進化を促す触媒のような存在、いわば人類にとって"善"と看做すべきと思えるモノリスとその裏にいるはずの知的生命体の存在が、まるで"悪"であるかのような直感を否応なしに抱かされてしまい、頭の中で理屈と感情の整合性が取れなくなって混乱させられます(実際のところ、その善悪は最後まで観ても私にはよくわからない)。
そして、モノリスの不気味さ以上に恐怖を感じてしまうのが、人工知能、HALの存在です。人間よりも高度な知能を持ちながら、目に見えるはっきりとしたシェイプを持たないHALの存在は、高校生の頃の自分にとってはおそらく抽象的な存在すぎて、そのあたりに物足りなさと退屈を感じてしまっていた気がするのですが、改めて観て、その姿かたちの見えないHALに"生命体"としての存在感をまざまざと感じとり、震えがきました。なにせこの人工知能、ミッションに疑問を抱いたり、盗み聞きをしてみたり、叛乱を起こしてみたり、命乞いをしてみたりと、ほかのどの登場人物よりもよっぽど"人間くささ"を感じさせるのです。
宇宙船の運航をめぐるすべてをコントロールしている、実体がないはずのHALの存在は、コントロール・パネル上の赤いモノ・アイによって擬人化されています。宇宙飛行士たちがHALに語りかけるときはその赤い単眼を覗き込み、そしてHALがしゃべるときは点滅(まばたき)もせず、ただぼうっと灯り続けるその赤い単眼がクローズ・アップで画面に映し出されるのですが、このHALのなにがコワいといって、観ているうち、単なる無機物であるはずのモノに、次第に(そして無意識のうちに)人格めいたものを感じてしまっているという、自分自身の認識がコワい。前述の通り、HALがしゃべるとき、その赤いモノ・アイはただ灯りっぱなしなのですが、この赤い光に一切変化のない様子が能面のようで、その"無表情さ"が次第に不気味なものに思えてくるのです。しかしそう思った直後、今度は、無表情が当たり前のはずのモノが無表情であることに不審を抱いてしまっているという、自身の認識のオカシサに気づいて慄然とするのですね。要するに、その無表情さを気味悪がっている時点で、自分はHALをすでに"生命体"として認識しているとも言えるわけで、この無機質な物体に生命が宿っていることをあっさりと無意識に認めてしまっていることに、理屈抜きのコワさを感じてしまうのです。
ほかにも、はじめは暢気にさえ聴こえたHALの淡々とした落ち着いた声音が、会話の内容や事態の切迫さなどと一切関係なく不変であることに、次第に不気味さを覚えてしまうことにもまた、前述したのと同じ類のコワさを感じてしまうのであり、それはいうなれば、"生命"とはいったい何ぞや、という根源的な難問をキューブリックから知らないうちに突きつけられ、自分でも知らないうちにその問いに答えを出してしまっていることにハッと気がついた、とでもいった空恐ろしさです。
映画はそんな恐怖をさらに煽るように、ついにはHALの目線そのものといえるような、ほの暗い穴の中(モノ・アイの奥)から乗組員たちを捉えたロング・ショットを映し出します。無機質のモノであるはずのHALが意識をもった存在であること(そして自分の中の無意識の解釈に従えば、HALは生命体に他ならないこと)の疑いがますます高まり、思わず背筋がそそけ立つ場面です。そしてその後、叛乱を起こしたHALが、船長にシステムの回路を次々と切られていきながら、その行為をやめさせようとコトバで必死に(しかしあくまでも淡々と)説得する場面においては、HALは感情さえ持っている存在であるかのように思えてくるのです。人間を次々と葬り去ったことに罪悪感を持つことのない非人間性の一方で、自らの"生命"に汲々とする、この上なく"人間的"にみえてしまうその行為のたとえようのない薄気味の悪さ...歌を歌いながら意識を失っていくようにみえるHALの最期は、単なるON/OFFではなく、まさに生命体が"死んでいく"かのように描かれているのですね。ああコワい...
HALの叛乱が、実際にHALが意識を持った存在であるがゆえのものだったのか、あるいはHALが言うように、ヒューマン・エラーに基づくシステムの不具合だったのかどうか、はたまた知的生命体によるなんらかの介入によるものだったのか、映画を最後まで観ても私にはわかりませんでした。しかしいずれにしろ、人間の利便に貢献するための存在であるはずのモノが想定外の反応をみせるという現象、さらには人間がコントロールしきれないそのような存在に自らの生殺与奪を握らせてしまっているということには、映画の世界を超えた、より現実的な恐怖を感じてしまいます。レベルの違いはあれど、2009年の現実の世界でいえば、たとえば遠隔管理された運転手のいないモノレール(「ゆりかもめ」です)に乗ったときに感じるような不安...もっと大げさに言えば、クルマを運転していて、ブレーキを踏んだら本当に減速してくれるのだろうか、これまではちゃんと止まったけれど、いつかそのうち、どんなに踏み込んでもスカッと抜けるような反応しか返ってこなくなるような時がくるのではないか、とでもいった機械に対する不信感...今日、人間はそのメカニズムに対する理解なしに、いかに根拠のない信頼を機械に抱いて生活しているかということに思いいたり、ぞっとさせられてしまいます。もっとも2009年の現時点では、機械に対する信頼=その機械をつくったり動かしている人間に対する信頼なのだとは思いますが(HALの言うところのヒューマン・エラーというやつですね)、しかしいつの日か、映画に描かれているような自ら考える力を持った人工知能が実際に創り出されたとして、果たしてそれを人間が100%制御することは可能なのでしょうか...「ブレードランナー」(1982)だとか「ターミネーター」(1984)だとか「マトリックス」(1999)だとか、意識(のようなもの)をもった"モノ"が暴走するオモシロ映画はいろいろとありますが、「2001年宇宙の旅」を観た上で改めて思うと、荒唐無稽だったはずのそれらの物語世界が、なんだか妙にリアルさを増したように感じられてしまったりもします。
ヒトはどこから来てどこへ行くのか?
文明の進歩の先に何が待っているのか、ひいてはヒトはどこから来てどこへ行こうとしてるのかーー。改めて観ると、どうやら映画を通じ、そんな壮大過ぎる問いかけがなされていたらしいことに、ようやく気がつきました。道具を使うことを覚えた人類は、400万年という気が遠くなるような時間をかけて進化し続け、ついには宇宙に船を浮かべるまでになり、そして映画の中でははかりしれない情報処理能力のみならず、単なるプログラムを超えた"意識"と"感情"さえ持っているかのように思える人工知能を産み出すまでに進化しています。科学的に"無生物"と"生物"を隔てるものが何なのかはあずかり知らず、映画の中で描かれるHALの存在は、前述の通り、あくまで直感的に感じたままを言えば、私にとっては生命が宿っているとしか思えない存在です。創造主を神とよぶのであれば、この映画に描かれた人類はまさに人類が神と呼ぶレベルに限りなく近い存在へと進化しているともいえるわけで、道具を使うことを覚えたヒトは、創世記が語るところの神様が泥をこねてアダムを作ったように、とうとう無機物から生命を生み出すという進化の果てといえるような段階へと到達しているのです。
現実の世界において、このような人工知能の研究がどこまで進み、またどこまでが現実可能性のあるものとされているかはわかりませんが、少なくとも宇宙に衛星を浮かべるところまでは現実となっていて、現代がこの映画世界の一歩手前まで来ていることは確かです。20XX年、現実の世界が映画の世界に追いついたとき、果たしてヒトはどこへ向かっていくのか、思いを巡らせても詮無いことでありながら、この映画を観てそんなことを考えさせられてしまいました。
この答えのないような問いに、映画ではひとつの可能性が示されています。人類の進化は地球外の知的生命体によってインスパイアされたものであり、またその知的生命体の再度の導きによって、人類は進化の果てのどん詰まりから、まったく新しい存在(いわばHALと同様、物理的なシェイプを持たない生命体)へと転生していく、というのが映画を観たまんまの私の理解です。転生した新人類が意識を持った存在なのかどうかとか、また人類は新たな存在としての新たな進化を始めるのかどうかとか、人類を導く地球外知的生命体の意思や目的がどこにあるのかとか、そもそも400万年前には全人類の進化が促されたのに対し、なぜ木星に招かれて転生するのは一人だけなのかとか、正直、今後何度映画を観直しても答の見つからなそうに思える謎もあります。しかし、この映画で描かれているのは、誰も答を知らない問いに対するキューブリックとアーサー・C・クラークによる一つのファンタジックな可能性でしかないのだ思うと、そのあたりの疑問は観たそのままで放っておくということでいいように思えたりもします。むしろ前述の通り、「2001年宇宙の旅」前夜ともいえる現実世界の人類がこの先どこへ向かうのか、興味はそちらの方へと逸れていきます。人類は今や、他の生物への影響どころか、恐ろしいことに地球という惑星のありよう自体に影響を及ぼすまでの力を持つまでの存在となっています。ホント、人類はこの先どこへ向かうのでしょう。映画で描かれる、存在自体のありようを変化させる"転生"のような、"道具を使う"ということと同等レベルで語ることのできるエポック・メーキングな進化なんてものがこの先人類に起こりえるのでしょうか。あるいはこれ以上の進化を遂げる前に、人類は滅んでしまったりするのでしょうか...しつこいようですが、まったく考え出すと興味は尽きないところです。
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今回観直して、以前の鑑賞で眠り込んでしまった時間が、思っていたよりもかなり短かったことに気がつきました。いったいどこで寝てしまったのだろうと考えながら観ていたのですが、どこまでいってもなんとなく覚えているシーンばかりで、なんだ、けっこうしっかりと観ていたんだなと思った次第。結局のところ寝てしまったシーンというのは、はじめからほぼ2時間が経過したところで、宇宙船が木星に到着してしばらくしたところから。モノリスが宇宙空間に現れ、船長が真っ白で静謐な部屋へと導かれるまでの、カラフルな光はさまざまなシェイプで明滅するイメージ画像が数分間にわたって延々と氾濫するシーンです。このイメージの出だしは覚えていて、あ、ここで耐え切れなくなって寝てしまったんだ、というのをまざまざと思い出したのですが、正直なところ今回もやっぱり退屈で、危うく寝てしまいそうになりました。
木星に到着した船から転生を果たす部屋への移動を描くのに、なんらかの飛躍的な表現が必要であることは理解できるし、もしかすると公開当時は斬新な映像技術だったのかもしれないとも思うのですが...しかし今(高校生の頃も)観るとやはり陳腐な感じは否めない、というのが恐れを知らない私の正直な感想です(とはいえこれ以上少しでも具体的なイメージを喚起するように作り込まれた映像を当て込んでいたりしたら、どうやっても安っぽいものになってしまったであろうことは想像に難くなく、その意味で、転生の部屋の描写が"地球"のどこかにあるそれそのものであることの発想の凄みも今となってはよくわかる気がします。これまたそれっぽい洗練された宇宙人の部屋をどんなに想像力をめぐらして拵えたとしても、おそらく致命的に安っぽくなってしまったことでしょう)。で、このあとはというと、部屋の中で船長が食事しているシーンからの記憶があって、だとすれば、寝てしまったのは実はほんの数分でしかなかったことになります。おそらく当時、寝起きの私は、船長が部屋に招き入れられてから、赤ん坊に生まれ変わるまでにもっと長いエピソードがあって、その間寝込んでしまったと思い込んでいたのだと思うのですが、実はあんなに短いあっさりしたエピソードだったとは!
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前述のつい退屈してしまったイメージ映像を観ながら、同じSF映画の「惑星ソラリス」(1972)を思い出してしまいました。「惑星ソラリス」も、「2001年宇宙の旅」に負けず劣らず眠気を誘ってくれた映画でしたが(無理に誘った友だちは寝てしまった)、たしか主人公が宇宙港へと向かうシーンで、代々木から赤坂見附あたりの首都高速の映像が、未来の幹線道路の映像として使われていて、なんだこりゃ?と思った覚えがあります(未来都市の映像と気づくよりも先に、まず何でいきなり東京が出てくるの??と首を捻った)。しかしそれは、80年代の東京在住の人間が、その首都高の近くの新宿の映画館で観ているからこそ感じた違和感と失笑感であって、公開当時のソビエトの人たちにとってみれば、おそらくそれは紛れもなく"未来風景"だったのでしょう。そんなわけで、「2001年宇宙の旅」のあの映像も、封切り当時に観た人たちにとっては、異空間そのものに感じられるエキサイティングな映像だったのかもしれない、と改めて思ったりもするのです。
2001年宇宙の旅(原題: 2001: A Space Odyssey)
製作国: イギリス、米国
公開: 1968年
監督: スタンリー・キューブリック
製作: スタンリー・キューブリック
脚本: スタンリー・キューブリック/アーサー・C・クラーク
出演: キア・デュリア/ゲイリー・ロックウッド/ダグラス・レイン/ジェフ・ゴールドブラム
撮影: ジェフリー・アンスワース
美術: トニー・マスターズ/ハリー・ラング/アーネスト・アーチャー
編集: レイ・ラヴジョイ
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管理人: mardigras

確かにありますよね。観ていると画面のなかに吸い込まれてしまいそうな、視覚と聴覚だけでなく全てを揺さぶられるような感覚に陥ることって。
わたしもこの作品でまず頭に浮かぶのが、美しく雄大な宇宙空間の映像です。
次に思い浮かぶのはやっぱりHAL。
怖いし不安を掻き立てる存在なんですが、なんだか切なくなってしまいます。
我ながらおセンチですよね。
参加してないのにコメント一番乗りでスミマセンでした~。