映画と原作の脳内相互補完

もう二十年以上も昔、フジTVの深夜枠で、単館上映系の優れた映画をノーカット、CMなしで放映する番組がありました(確か岡部まりがナビゲーターを務めていた)。TVの映画放映といえば(教育テレビの世界名画劇場をのぞけば)、吹き替え、カットあり、途中にCMが当たり前だった時代に、かなり思い切った企画だったのではないかと思います。
毎回欠かさずに観ていたわけではありませんが、ビクトル・エリセの「ミツバチのささやき」(1973)だとか、ジム・ジャームッシュの「ストレンジャー・ザン・パラダイス」(1984)だとか、ヴィム・ヴェンダースの「ハメット」(1982)だとか、フェデリコ・フェリーニの「ジンジャーとフレッド」(1985)だとか、この番組のお陰でめぐりあうことができた名作・佳作がたくさんあって、そういえば、この番組枠だったかどうかはあやふやなのですが、予告編だけをまとめて一晩中流すという、映画ファンの心をくすぐるナイスな企画もありました。今のように、ビデオや衛星放送でより取り見取りの映画を観ることができるというのは、当時からすればホント、夢が現実になったようなものですが、逆に選択の自由のなかった当時の方が、放映予定の一本一本をそれこそ心待ちにして(ついでに一期一会に近い緊張感もあって)、大事に大事に観ていたような気がします。
で、今回ご紹介の「ブリキの太鼓」(1979)もまた、この深夜番組が放映してくれたうちの一本。背徳的な内容と奇想天外なイマジネーションの奔流にぶっ飛び、なんだこりゃ!?と激しい衝撃を受けてしまったものです。
「ブリキの太鼓」-映画と原作の関係(以下ネタバレ)
原作は、ドイツのノーベル賞作家、ギュンター・グラスの出世作といわれる長編小説、「ブリキの太鼓」。"一つの時代全体を、その狭い小市民階級のさまざまな矛盾と不条理を含め、その超次元的な犯罪も含めて、文学形式で表現すること"とグラス本人が述べているとおり(集英社文庫の解説より)、ナチス・ドイツによるポーランド侵攻の火蓋が切られた街、自由都市ダンツィヒ(現ポーランドのグダニスク)をその主な舞台として、ファシズムが台頭する激動の時代を背景に、三歳の誕生日に自らの意思で肉体的成長を止めてしまった主人公、オスカルとその家族をめぐる、猥雑で奇矯なエピソードのあれこれが、数珠繋ぎで描かれていきます。
三幕に渡る長い長い原作のうち、映画化されたのは、第一次世界大戦の終わりから第二次世界大戦が終戦を迎えるまでの時代を描いた第一部と第二部。生れ落ちた瞬間に母親の子宮に戻ろうとして戻ることができず(へその緒を切られてしまったので。笑)、三歳の誕生日に覗き見た大人たちの世界の醜悪さに辟易し、永遠の三歳児として生きるべく自ら成長を止めたオスカルが、戦火の時代を経て、また自らの意思で成長することを決意するまでの約20年間を、原作の世界ほぼそのままに映像化しています。
オスカルとダーヴィット・ベネントのこと
アゴタ・クリストフの「悪童日記」に描かれた"ぼくら"と肩を並べる欧州文学史上最凶(?)のピカレスク少年、オスカル。生き抜くためにより早く成長しようとする「悪童日記」の"ぼくら"の持つリアリティと引き比べ、そもそも三歳児が自らの意思で肉体的成長を止める、という「ブリキの太鼓」の設定は思い切り荒唐無稽です。ところがそんなオカルト的ともいえる物語世界の映像に問答無用の強いリアリティを与えているのが、主役俳優、ダーヴィット・ベネントの存在。現実世界でも、両親の離婚に際して成長を止めてしまったといわれている彼の映画撮影時の実年齢は十二歳だったそうですが(DVDの解説より)、その幼児的な容姿としぐさは、三歳児、とまではいかなくとも幼い子供の見た目そのもの。その一方で、そんな彼の映画の語り部としての冷笑的ですっとぼけた語り口は実年齢以上の成熟と知性を感じさせ、大人世界を"下から見物"しているときにみせる冷酷な表情は、その整った顔立ちゆえに悪魔的でさえあります。
ダーヴィット・ベネントは、幼児性の発露としての罪のない無邪気さを装いながら、時に子供の悪戯では済まされないやり方で大人の世界に介入していくオスカルの愉快犯的反抗(犯行)を、悪意紛々の瘴気を画面いっぱいに撒き散らしながら、実に不気味に演じてみせます。ブリキの太鼓を打ち鳴らすことで思考し、記録し、追想し、語り、感情を表現するという原作に描かれたオスカルの抽象的な所作は、ことあるごとに暴力的なリズムで太鼓を乱れ打ちし、神経を逆撫でするような奇声をあげてガラスを粉々に打ち砕くダーヴィット・ベネントの鬼気迫る演技と表情によって、この上なく具体的でわかりやすいものへと変化しています。
凡庸なものの何ひとつとしてないこの映画の数々のエピソードの面白さは、多分に原作の面白さによっているといえるのですが(映像で表現されたディテールは、原作において微に入り細を穿つような執拗さで描写されている)、しかしそれもすべて、オスカルという映像化が不可能にも思える怪物を見事に具象化してみせたダーヴィット・ベネントの存在があったればこそのものでしょう。はっきりいってこの映画、ダーヴィット少年演じるオスカルの一挙一動を観ているだけでも見飽きることがないのです。
オスカルが見物する光景
オスカルが"下から見物"する大人の世界はただひたすらにエロティックで、グロテスクで、そして滑稽です。そんな大人社会を嫌悪するがゆえに成長を止めたオスカルですが(と本人が申告している)、しかし観察者としての彼の興味は、ひたすらその嫌悪の源泉となった人間社会の醜さにのみに惹きつけられているようで、本来、美醜さまざまの側面をもつはずの人間と人間社会は、その暗部のみに過剰に焦点が当てられていきます(物語が進むにつれ、オスカルが成長を止めたのは、醜いものに対する嫌悪感ゆえではなく、むしろそれらをいつまでも眺めていたいという倒錯した覗視趣味によるものではないかとさえ思えてくる)。
オスカルの覗きみるインモラルな光景が連続するこの映画、もうすべての場面が印象的といってよく、ひとつひとつ感想を書いていくとキリがないのでやめておきますが、そもそも三歳の誕生日、オスカルが成長しないことを決心するきっかけともなった、両親たちがカード・ゲームに興じるテーブルの下を覗きみる場面は、オスカルの目線の高さを一目瞭然に描き出していて、実に象徴的です。ダイニング・テーブルの横線一本を挟んだ上半分で繰り広げられる健全で陽気なやり取りの一方で、テーブルの下で隠微に進行する猥褻な行為...誰が何をしているかは赤面してしまうので書きませんが、その上半身と下半身の行為のギャップの破廉恥さ以上に、その行為に子供が目を剥いて釘付けになっているということ、そしてそのことに大人たちがちっとも気づいていないということ、さらにはそんな光景のすべてを画面を通じて眺めているということに、観ているこっちが、図らずもひどく背徳的な行為に加担しているような決まり悪さを感じてしまうのです。
「ブリキの太鼓」に描かれる民族関係の縮図のような人間関係
"奇妙なことに、ロシア人の後にやって来たのは、今度はプロイセン人でもスウェーデン人でもザクセン人でもフランス人でもなく、ポーランド人だった"(「ブリキの太鼓」第二部より)
「悪童日記」の"ぼくら"が極めて実在的でありながら、その時代背景と舞台が巧妙にぼかされていたのに対し、「ブリキの太鼓」で描かれる奇矯なエピソードの背景は、非現実的なオスカルの存在に反し、史実に極めて忠実です。多民族の入り乱れた歴史的背景をもつダンツィヒという街のメタファーででもあるかのように、オスカル少年の出自は複雑で、西スラブ系少数民族のカシューブ人、アグネスを母に持つ彼には、"推定上の"父親が二人います。ひとりはラインラント地方出身のドイツ人であり、アグネスと結婚した法律上の父親であるアルフレート。そしてもうひとりが、アルフレートとの結婚前からアグネスと愛人関係にあり、アグネスの結婚とともにポーランド国籍を取得した従兄弟のヤン。彼らオスカルを取り巻く大人たちの関係は、まさにダンツィヒをめぐる民族関係の縮図のようであり、二つの大戦の合間、束の間の自由を謳歌するこの街で、そんな三角関係の下に産み落とされた赤ん坊がオスカルなのです。
ダンツィヒを取り巻く時代のうねりに歩調を合わせるように、オスカルの守護者である彼ら三人の運命も激しく変転していきます。不倫関係の果ての罪悪感に押しつぶされるかのように自滅していくカシューブ人の母、アグネス。ポーランド郵便局に立てこもり、侵攻してきたドイツ兵に殺されるポーランド人のヤン。ナチス党員であったことが仇となり、敗戦を迎えた日の防空壕の中でロシア兵に銃殺されるドイツ人のアルフレート。ついでにアグネスに想いを寄せていた玩具屋、ユダヤ人のマルクスは、彼女の死後、日増しに色濃くなるファシズムの影に絶望し、自殺して果てます。一方、三歳児の容姿でもって戦争をスルーし、激変する社会に慌てふためく大人を尻目に狡猾に危機をすり抜けていくオスカルは、まるで全知全能の神が高みの見物でもするかのように(原作において、オスカルはときに"イエス"を自称します)、彼らの運命を無表情に眺めおろしつつ、偶然に、あるいは時に確信的な悪意を抱いて、彼らの運命の歯車を(悪い方向へと)回転させる役割を担ったりもするのです。
大衆を象徴する善人、アルフレート
オスカルを取り巻く三人の大人の中で、私にとってもっとも印象深い人物は、陽気で、働き者で、お人よしで、鈍感で、デリカシーのないアルフレートという男です。要するに、一見どこにでもいそうな善人(あるいは小市民)の典型なのですが、そんな彼がいつの間にか、居間の壁に飾られたベートーベンの肖像画をヒトラーのそれに架け替え、ナチスの党員集会に参加し、総統のパレードに欣喜雀躍して声を張り上げる姿には、ファシズムの台頭を許したものがいったいなんであったのかという、作者の密かな、しかし痛烈な告発(あるいは自らも親衛隊に所属していた過去に対する自己批判)の声を感じてなりません。
やがてドイツの敗色が濃厚となった頃、アルフレートは"ベートーベンはやはり天才だ"などと言いながらヒトラーの肖像を火にくべるのですが、なんといっても空恐ろしいのは、ことここにいたってもまだ、彼には、時代の気分に流されてしまった自らの信念のなさに対する自覚が決定的に欠けていることです。アルフレート個人は遠からず命を失う運命にあるのですが(アルフレートがナチ党員であることを、オスカルが滑稽な、しかしこの上なく残酷な方法でロシア兵に"告発"する)、しかしアルフレートに象徴される批判精神の欠如を自覚しない大衆は、いずれまたいつの日か、違う仮面と衣をまとった怪物を生み出してしまう可能性があるのだ、ということがほのめかされているかのようで、思わずはっとさせられます。ちなみに原作では、戦後を描いた第三部に、オスカルの友人として、ランケスという俗物根性の塊のような男が登場します(ランケスは、映画の中で、オスカルがナチの慰問団に加わっていたときに、海岸の砲台で出会った伍長です)。アルフレートという"時代の気分"を象徴する一般大衆キャラは、彼なきあと、このランケスという人物に引き継がれているといってもいいでしょう。
「ブリキの太鼓」の妙な公平感覚
アルフレートという人物の描写に作者の密かな告発の声を感じる、ということを書きましたが、これはあくまでも例外というか、映画も原作も、「ブリキの太鼓」はなんらかの(たとえば政治的な)主張というものをほとんど感じさせない作品です。前述のとおり、オスカルは、ナチ党員であるアルフレートがロシア兵に射殺されるきっかけを作りますが、偶発的とはいえ、もう一方の推定上の父、ポーランド人のヤンを死地に追い込むきっかけも作ります。また彼はあるとき、ナチスの党大会に紛れ込み、太鼓のリズムで行進曲をワルツに変えて大会をめちゃくちゃにしてしまいますが、これもまたファシズムに対する間接的な批判というよりも、オスカルの退屈凌ぎの愉快犯的犯行でしかないように描かれています。オスカルのノンポリ性は、のちに彼がてらいなくナチスの慰問団に参加することにも明らかで、斯様に物語は奇妙な公平性を堅持しながら、時代の流れをあるがままに(ただしオスカルの目線という特殊なスコープを通じて)描いています(公平性といえば、三歳児の皮を被ったオスカルが、大人社会をするすると器用に泳いでいく一方で、子供同士の間ではひどいいじめの対象となり、なすすべもなくやられてしまうエピソードがあります。また家庭内において、お荷物でしかないオスカルは、慰問団に入った途端、"スター"として下にも置かれない好待遇を得るようになって、このあたりも、実に面白いバランスの取り方だと思うのですね)。
"木しか見えない森"、「ブリキの太鼓」
とまあ、何だか、かなり雑駁でとりとめのない紹介文になってしまったのですが...そもそも映画だけを取り上げて書くことができず、原作小説の感想とごちゃ混ぜになってしまいました。というのもこの作品、映画を観たのがまず最初で、それからのちに図書館で原作を借りてきて読んだのですが、前述のとおり、物語の背景に史実が織り込まれている分、映画の情報量だけでは理解しきれなかったところがあって、映画の文脈を原作の情報で補完して理解したところがあるからです(たとえば原作ではダンツィヒの歴史的背景が詳しく言及されている)。逆に、原作は原作でどうにもこうにも読みにくい代物で(特に映画の原作となっている第一部と第二部)、辟易するくらいに隠喩の多用された饒舌な文章は、おそらく映画で観たイメージを先に持っていなければ、途中で放り出してしまっていたことでしょう。
そんなわけで、これまでに何度かこの映画を観なおしているのですが、そのたびに原作も読み返していて、私にとって「ブリキの太鼓」という作品のお楽しみ(と理解)は、映画と原作が不可分のセットになってしまっているところがあります。要するに、いったいどこまでが映画の感想で、どこまでが小説の感想なのか、もう自分でもわからなくなってしまっているのですね。
* * *
感想がとりとめのないものになってしまったのは、もうひとつ、理由があります。
"...かつて川村二郎が指摘したように、「さまざまな奇矯なイメージの、それぞれに寓意をはらんでいるようないないような曖昧さが、時として読者に、木しか見えない森の中にさまよい入ったような混迷を味わわせる」からだろう。「それにもかかわらず、森は存在しているのだ」"(文庫解説より)
この言にはもう120%頷いてしまうところがあって、この物語、奇抜なエピソードのひとつひとつを味わうだけでもう十分に観応え(読み応え)があるわけですが、しかしそのエピソードを繋げた先にぼんやりと見える"森"の存在を、うまくことことばにすることができないというか、ことばにできない以前の問題として、その"森"がいったいどんな"森"なのか、いまだによく理解できていないのですね。そんなわけで、どうにもまとめようがなく、この記事も、とりあえず目にとまった"木"のいくつかについて、思うことをだらだらと並べてみたわけですが、自分で読み返してみても、う~ん、"混迷を味わわせられている"なあ、としみじみ思ってしまいます。
とはいえそれもまた正直な感想...というわけで、とりあえずとりとめのないままに載せてみました。この作品、いずれまた観返し、そして読み返すことがあるだろうと思うのですが...しかしいつまでたっても、グラスの仕掛けた罠からは抜け出せそうもないというか、"木しか見えない森"でさまよい続けてしまいそうな気がしたりもするのです。
ブリキの太鼓(原題: Die Blechtrommel)
製作国: 西ドイツ、フランス、ポーランド、ユーゴスラビア
公開: 1979年
監督: フォルカー・シュレンドルフ
製作: アナトール・ドーマン/フランツ・ザイツ
脚色: ジャン=クロード・カリエール/フォルカー・シュレンドルフ/フランツ・ザイツ
原作: ギュンター・グラス(「ブリキの太鼓」)
出演: ダーヴィット・ベネント/マリオ・アドルフ/アンゲラ・ヴィンクラー
音楽: モーリス・ジャール
撮影: イゴール・ルター
美術: ニコス・ペラキス
編集: シュザンヌ・バロン
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冒頭に仰ってた、「フジTVの深夜枠で、単館上映系の優れた映画をノーカット、CMなしで放映する番組」というのは、ミッドナイトアートシアターではありませんか?
私も、あの番組のおかげで、自分の意志や趣味だけでは出逢えなかっただろう名作たちと出逢うことができました。
もう、ああいう良質の深夜番組はできないんでしょうかね…。
解説と本編の間の、予告編も良かったですよねー。
それにしても、Mardigrasさんが、この作品をお好きだとは、少々意外でした。
どちらかといえば、お嫌いかなぁ…というイメージを勝手に持っていたようです。
Mardigrasさんの意外な一面に触れた想いで、ちょっと興奮しました。
(まぁ、あくまで、こちらの勝手なイメージなのですがね。)
この映画の、「変に洗練されていないカオスぶり」を、Mardigrasさんのレビューを読んでいて思い出すことができました。
これは、近々、再見したい作品ですねー。
また、原作は未読だったのですが、こちらにも食指が動いています。(笑)