Well, I guess we talk.

映画を観て何かを学んだ、などと思うことは滅多にありませんが、シドニー・ルメットの「十二人の怒れる男」(1957)は、観終わったあとに、いや観ている間にも、なんだかとても大切なことを教えられている気にさせられた映画です。
自分の価値観に少なからず影響を受けたという意味で、この映画こそベスト・オブ・マイ・ベスト、といってもよいのですが、いざこうして好きな映画ランキングの48番目に紹介しようとすると、たとえばなぜ「ジュラシック・パーク」(1993)よりもこの映画を下にしたのだろう...と、約一年前に何を思ってこの順位に決めたのか、さっぱり思い出せません。
ストーリーの面白い映画、テーマに共感する映画、語り口の斬新な映画、映像の優れた映画、音楽が美しい映画、演技に感動した映画、あるいは観たときの思い出も込みで、思い入れのある映画――とまあ、ある映画を好きになる理由はいろいろあるわけですが、これまで採り上げてきた映画にも、どの要素も平均点以上と思える総合評価の高い作品もあれば、どれかひとつの要素が突出して優れた作品もあり、はたまたそんな作品自体の出来不出来を越えたところで偏愛している映画もあったりします。そんな、尺度の違うもの同士を比べることの不毛さもさることながら、その時々の気分やコンディションによって、面白さを感じるポイントも刻々と変わるわけで、まったく考えれば考えるほど、順位付けが無意味に思えてくるのですが、、、でもリスト作りが好きなんですね、私。
舞台劇のような映画のいかにも映画らしい工夫
狭くて暑苦しい裁判所の一室で、十二人の男たちが額を寄せ集め、口角泡をとばしながら、汗まみれになってただひたすら喧嘩腰の議論を戦わせる映画、「十二人の怒れる男」。
私がこの異色の法廷劇を初めて観たのは高校生の時でした。とはいえこのオハナシの存在はそれ以前から知っていて、というのも中学生のときに読んだ、手塚治虫の「七色いんこ」という戯曲をモチーフにした連作マンガの中に、「十二人の怒れる男」を採り上げたエピソードがあったからです。
そんなわけでこの作品、てっきり戯曲の映画化だとばかり思い込んでいたのですが、つい最近、実は舞台よりも映画の製作が先だったと知って驚きました(正確にはテレビドラマがオリジナル)。なぜならこの映画、オープニングとエンディングの数カットを除き、ドラマの舞台が裁判所の一室(と洗面所)に限定されていて、いかにも舞台劇そのものといった趣きがあるからです。とはいえその舞台劇っぽさにもかかわらず、いかにも映画ならではの工夫があれこれ施されていたりもして、その意味で、実に映画らしい映画でもあります。
たとえば陪審員たちの評議が白熱するにつれ、扇風機の壊れた室内が息苦しいほどに蒸し暑くなっていく様子の描き方。陪審員たちのシャツに、汗染みが次第に広がっていくところをクローズアップで捉えたり、あるいは雷雨で真っ暗になった窓の外から大粒の雨が吹き込んできたり、と手を変え品を変え、まさに映画ならではのやり方で、蒸し蒸しムービーの最高峰、「夜の大捜査線」(1967)に勝るとも劣らない、窒息しそうな暑っ苦しさのストレスを表現しています。
そして一転、評議が終わり、解放された陪審員たちが三々五々、雨上がりの街中へと散っていく場面の晴れ晴れとした開放感。これはもう舞台劇では演出しようのない、屋外撮影の効果を最大限に活かした、まさに映画ならではのカタルシスといっていいものです。
またほかにも、狭い部屋をダイナミックに使って陪審員たちが犯行の再現実験をしたり、あるいは何度も繰り返される評決をめぐる投票の仕方にバリエーションを持たせたり、室内劇という限られた状況を逆手に取った意表を突くアクションがいろいろと盛り込まれていて、この上なく単調な舞台設定であるにも関わらず、まったく退屈することがありません。
精緻な会話で組み立てられたアーム・チェア・ディテクティブ・ストーリー
「十二人の怒れる男」の核心は、練りに練られたシナリオと磨き抜かれたダイアローグにあるといっていいでしょう。誰の目にも有罪間違いなしと思えた、スラム街に住むヒスパニック系青年にかけられた父親殺しの嫌疑をめぐる十二人の陪審員たちの評議の一部始終が、彼らの会話だけを通じて描かれていきます。有罪を支持する十一人の陪審員が、無罪を主張するただ一人の陪審員を説得しようとして逆に説得され、決を採るたび、翻意する陪審員がひとり、またひとりと増えていくのが見どころで(一人の陪審員の卓越した推理と洞察によって、残りの陪審員たちがロジカルにやり込められていく)、思えばこの作品、一種の"安楽椅子探偵"モノといっていいかもしれません。
この、十二人の陪審員の間で交わされる議論の展開が、まるで1ミリの隙間もなく積み上げられた堅固な石垣のようで素晴らしい。わざとらしい説明調や、ご都合主義に陥ることなく、審理されている事件の内容はむろん、陪審員たちの心変わりしていく心理が、彼らの会話を通じて、手にとるように、あくまで自然に語られていきます。しかも、会話の中に仕込まれた大小さまざまの伏線が、ドラマが進むにつれ、時々、小爆発を起こすかのようにぴしりぴしりと弾け、さらには前述のとおり、ここぞというタイミングで評決をめぐる投票(山場)が何度か繰り返されたりもして(そのたびにスリルとカタルシスが再生産される)、その間然するところのない展開に、何度観ても惚れ惚れしてしまいます。
「十二人の怒れる男」の十一人の普通の男たち
そんな、精緻に編みこまれた対話劇に命を与えているのが、個性豊かな十二人の陪審員たちのキャラクター。出自も職業もてんでばらばらなその構成は、もちろん意図してのことでしょう、まるで社会の縮図のようです(ただし、全員が白人男性。当時のアメリカ社会=白人男性の社会だった、ということでしょう)。
各々の人物の性格は、その発言と態度を通じて描き分けられ、大人数であるにも関わらず、一人ひとりの個性は際立っています。インテリ、労働者、リタイアした老人、スラム街の出身者に移民、そして中には、本来、陪審員選別のプロセスで除外されてしかるべき偏見に凝り固まった差別主義者(陪審10番)や個人的感情で目の曇った人物(陪審3番)も混じっていて(陪審員を選別する国選弁護士が裁判に熱心でなかったという設定)、ヘンリー・フォンダ扮するデモクラシーの神様のような奇跡的人格の陪審8番(建築家)は別として、いかにもそこらにいそうな"普通の人々"の見本市、といった趣があります。

この映画、最後は、あやうく有罪になりそうだった被疑者が無罪となり、あたかも陪審制の素晴らしさを高らかに謳い上げるようなかたちで締めくくられますが、しかしその一方で、職業裁判官ではない、市井の人々に裁きを委ねることの問題点をわかりやすく浮き彫りにしてもいます。それは、ひとことでいえば、陪審員という名の"法の素人"に、果たして人を裁く資質があるのか、という問題です。
前述のような偏見に満ちた人物は問題外としても(ドラマの終盤、差別主義者の陪審10番はただ一人、誰からも愛想を尽かされる)、陪審団の中には倫理観の欠如したおふざけ半分の人物(陪審7番)や、冒頭で判事が述べるところの人を裁くことの責任をまったく自覚していない、物見遊山な気分の人物(陪審12番)も混じっています。
これらのタイプの人間は、それこそどこにでもいそうなだけに(そして選任プロセスから除外される可能性が低いだけに)、露骨な差別主義者よりも、ある意味タチが悪いといえるもしれません。真剣味の欠如に比例して、彼らの態度は日和見的であり、ドラマの終盤、議論の形勢が逆転するにつれ、彼らは何の信念もなく、おそらく単に評議から早く解放されたいがゆえに、有罪から無罪へ、ころっと意見を転じます。
羽振りのよさそうな広告マンである陪審12番は、民主社会の恩恵を十二分に享受し、人並み以上の経済的成功を収めているようにみえるだけ、その自らが拠って立つ社会に対する貢献意識の低さというか、ノブレスオブリージュの欠如に強い憤りを覚えずにはいられない人物です。
またヤンキースの熱狂的なファンで、いかにもアメリカに生まれてアメリカで育ったらしい陪審7番は、野球観戦に行くために早く議論を終わらせることだけを考えている、身勝手極まりない人間です(陪審7番が、アメリカ国民であることに強い誇りを抱いている移民の陪審11番によって、そのいい加減な態度を厳しく糾弾される場面は、この映画のハイライトの中のハイライトといっていいでしょう。アメリカ人にとって、民主社会は生得的なものではなく、国民ひとりひとりの自覚と倫理観の上に成り立っているものだというメッセージがひしひしと伝わってきて、ひときわ強く印象に残ります)。
これらのわかりやすい問題人物たちと並び、もう一人、陪審員に期待される精神から大きく逸脱しているように思える人物がいます。それが、いちばん最初に有罪から無罪へと意見を変える、陪審9番の老人。いったん被告を有罪とみなしながら、たった一人で無罪を訴える陪審8番の勇気に打たれたという理由で無罪に与するこの老人の、いわば逆日和見主義的な態度が、結果的に冤罪判決を食い止める契機となるわけですが、評議内容それ自体とは別のところで発揮される彼の正義感は、制度の趣旨を考えたとき、やっぱり心得違いなのではないか――という気がしてなりません(この皮肉な展開は、おそらく製作者の意図したものでしょう。評議が長引くことを迷惑に思わない、"暇で孤独な老人"という彼のキャラクターは、のちに目撃証言をひっくり返す伏線ともなっていて、つくづくよく練られたシナリオだと思います)。
とまあ、評議の内容以前の問題として、陪審団のうち半数近くまでが、そもそも陪審員に求められる資質、態度を逸脱しているように思えるのですが――それでは残りの面々が、果たしてどれだけ"人を裁く"陪審員として信頼に足るかといえば、これまた大いに心もとない限り。有罪と考える根拠をしどろもどろでうまく説明できない陪審2番。うまく説明できないどころか説明することを保留する陪審5番。"考えることはいつもボスに任せている"という陪審6番――とまあ、市民としての真摯な正義感を持つ、善きサマリア人たちであることは確かであるにせよ、ひとりの人間の生死を左右する評決という重責を担うには、その判断能力や自立心が、あまりに役不足であるように見受けられる人たちばかりです。
とはいえ、陪審8番や4番のような冷静さと賢さでもって、法の原理原則から外れることなしに判断を下せる素人がそんじょそこらにごろごろいるとも思えず、それこそ2番や5番や6番のような人たちが、現実の世界でも平均的な陪審員の姿なのではないかと思われ、そしてそんな一般市民の手に裁きの一端を委ねることこそが、陪審制の意義そのものだったりするわけですが――しかし陪審8番のような奇特な人物(わざわざ事件現場を訪れ、独自に証拠物件を探すようなことまでしており、つまるところ陪審8番は、本来であれば弁護士がすべき役割を担っている)がいなければ、陪審団の評決はものの5分足らずで有罪に決まり、被告は死刑台送りとなっていたはずなのです。
もう二十年近くも昔の話ですが、実際に陪審裁判って何ていい加減なんだろう、と思わせられた刑事裁判がありました。それは、映画とは正反対のケースながら、元NFLプレーヤーの黒人俳優、O.J.シンプソンが白人の元妻を射殺したとして逮捕、起訴された事件の刑事裁判です。当時アメリカに住んでいたのですが、全米中のメディアがこの事件に夢中になっていて、O.J.がハイウェイを逃走する逮捕時の空撮映像が、テレビでうんざりするほど、繰り返し流されていたことをよく覚えています。
で、全米中が固唾を呑んで見守った裁判の顛末は、証拠が明らかで有罪間違いなしと言われていたにもかかわらず、無罪(一部の証拠にでっち上げがあったとされている)。このとき、十二人の陪審員のうち九人が黒人でしたが、あまりといえばあまりの結末に全米中がひっくり返り、私もまた、陪審制という制度はなんていい加減なんだ、と強い不信感を抱いてしまったものです(ちなみにのちの民事裁判では有罪判決が下された)。
民主主義とは多数決にあらず
前述のとおり、陪審8番という奇特な人物がいたお陰で、さらに皮肉なことに陪審9番による制度の精神とは反する態度によって、冤罪(の可能性)は危ういところで回避され、映画は結果として、陪審制がこれ以上ないほどビューティフルに機能した、というオチでもって締めくくられます。
しかし現実には、陪審8番のような、裁判関係者のすべてが見逃していた手がかりを掬い上げる観察力と洞察力、そして残りの十一人を説得する卓越したディベート能力とずるがしこいとさえいえる機略、さらにはわざわざ証拠探しまでする底知れぬ善意と行動力を兼ね備え、そしてなんといっても民主主義の精神にここまで忠実である人間がそうそういるはずもなく、仮にいたとしても、そんな傑物が、たまたまこのような冤罪含みのケースの陪審員として選ばれる確率は、ほとんどないはずです。
その意味で、この映画のプロットは、陪審裁判のシミュレーションとしては特異すぎ、陪審制の利点の描かれ方は、その問題点の描写ほどに、普遍的なリアリティを持ちえていないのではないかと思います。しかしそれでもなお、「十二人の怒れる男」という映画から、陪審制という制度、ひいては民主主義の精神に宿るグローリアスな神々しさがひしひしと伝わってくることも、また確かなのですね。
記事の冒頭、「十二人の怒れる男」から、何かとても大切なことを教えてもらった気がすると書きましたが、それはつまり、民主主義とは何ぞや?についての答、といって言い過ぎであれば、理解を一新させてくれたことです。
この映画を観るまで、民主主義イコール多数決、くらいに思っていましたが、陪審制の評議が多数決で決まるものではなく、最終的に一人でも反対意見の者がいれば、評決不能として陪審の選任を一からやり直すものだと知って、目からうろが落ちる思いがしました。評決に全員一致を求めるということは、しぜん、そこに議論が生まれなくてはならないはずで(陪審員がいい加減でないという前提のもとで、ですが)、要するに、結果的に多数決で決まることはあるにせよ、民主主義とは少数派の意見を無碍に押しつぶすのではなく、まず議論を尽くすことこそが大切であること、そして陪審制は、その大原則を評決不能というルールによって担保しているということを知って、感銘を受けたのですね。
ドラマの冒頭、ただひとり無罪に投票した陪審8番が、他の陪審員から、さてこれからどうすると言われ、話し合いましょう、と答えます。これこそが、このドラマのキーワードであり、ひいては陪審制、そして民主主義のキーワードでもあって、つまり全編"話し合い"から成り立っている「十二人の怒れる男」という映画は、いわば民主主義の教科書みたいな映画なのですね。
ちなみに教科書みたいな、という表現は、決して単なる比喩ではなく、大学のビジネス法のクラスで、"beyond a reasonable doubt"(合理的疑いを越えて――要するに"疑わしきは罰せず"という大原則のこと)という、英米法における刑法の基本概念を説明する際に、先生がこの映画に言及していたことを覚えています。
意識して観返すと、なるほど、このことばがいろいろなバリエーションで繰り返し表現され、"合理的思えるな疑いがあるなら有罪とすることはできない"というセリフが、念押しされるかのように、何度も登場します。そして陪審8番は、その意見表明において、はじめから終わりまで、"彼は無罪だ"と言い切ることが一切なく、あくまで、"無罪の可能性がある"(よって有罪にはできない)という言い回しを貫いています。この原則、逆の言い方をすれば、有罪の人間を無罪放免にしてしまうおそれを内包しているともいえますが(映画の中の少年も、実際は父親を殺したのかもしれません)、無罪を有罪とする可能性の高い社会と有罪を無罪とする可能性の高い社会のどちらがよいかと訊かれれば、それはやはり、後者でしょう。
この、民主主義の対価とでもいうべきジレンマは、映画の中でもしっかり言及されています。ドラマの中盤、陪審8番は、他の陪審員にその点を突かれると、困ったような表情を浮かべるだけで、何も言い返すことができません。この、"困ったような表情"には、有罪を無罪とすることは、無罪を有罪にしてしまうよりはまだマシという"疑わしきは罰せず"という概念が、決して完璧なものではないことに対する製作者のもどかしい思いがひそかにこめられている気がしてならないのですが、考え過ぎでしょうか。
実際のところ、プロフェッショナルではない一般人が、どこまで感情を排し、"beyond a reasonable doubt"の精神に忠実になれるものなのか(そもそもどこまで理解し咀嚼できるのか)、わが身に置き換えて考えてみても、かなり難しいことのように思われます。
他人事ではなくなった「十二人の怒れる男」の世界
とまあ、他人事みたいな目線でもって書いていますが(実際、日本人にとってはついこの間まで他人事だったわけですが)、この映画を初めて観たころには想像もしなかった裁判員制度が、今年から日本でも導入されました。
「十二人の怒れる男」を初めて観た数年後、「12人の優しい日本人」(1991)という邦画を観て、そのオリジナルとは比べるべくもない浅薄さと、そもそも日本に存在しない陪審制度という設定に、しゃらくささを感じた覚えがありますが(パロディとしてよくできていると思ったものの、オリジナルにこめられていたメッセージに感動しすぎていたせいか、不愉快の感情が勝った)、まったく時代は変わるものです(しかもつい最近、実は日本でもかつて陪審制度を導入していた時期があったことを知って驚いた)。
アメリカの人種間対立ほどのメガ対立軸が社会に存在せず、比較的、同じ価値観や日常感覚が共有されているように思われる日本において、裁判員制度は案外相応しい制度かも、という気がします。しかし、その導入プロセスが、例によってお上からのお仕着せであるように思えてしまうのも、偽らざるところです。なんというか、日本人の民度向上の証としての司法への国民参加というより、この映画に描かれていたところの根本の精神をどこかに置き去りにしたままの、民主主義のうわべをなぞっただけの制度に思えてしまうのですね。要するに、私たち日本人は、いつそんなことを望んだのか?(それこそ話し合ったのか、議論は尽くされたのか?)という違和感です。
しかしまあ、いったん法として定められたら、それに従うのもまた、法治国家に生きる市民の務め(ということを「アンタッチャブル」(1987)に教えられた)。とはいえ、自分がもし裁判員に選ばれたとしたら、果たして本当に務まるのか、個人的感情を排し、"beyond a reasonable doubt"の精神でもって、人を裁くことができるのか、これっぽっちも自信がない、というのが正直なところです。
今現在、裁判員裁判は量刑判断が焦点となるもののみで、事実関係が争点となるケースはまだないようです。いずれは映画のような、被告が起訴内容を否認する事件や、あるいは被告の責任能力が焦点となるような事件も出てくるはずで、そんなケースに選任された裁判員には、相当な覚悟とエネルギー、そして知見が求められることでしょう。
陪審8番のように、というのは無理としても、せめて、論理とそれに基づく信念でもって、最後の最後まで、有罪を主張する陪審員4号くらいの冷静さと合理性を保ちたいものですが、何の訓練もなしに、素人の自分にそんなことがいきなりできるかといえば、やはりちょっと難しいだろうな、と思ってしまうのですね。
十二人の怒れる男(原題: 12 Angry Men)
製作国: 米国
公開: 1957年
監督: シドニー・ルメット
製作: レジナルド・ローズ/ヘンリー・フォンダ
脚本: レジナルド・ローズ
出演: ヘンリー・フォンダ/リー・J・コッブ/E・G・マーシャル/ジャック・ウォーデン
音楽: ケニヨン・ホプキンス
撮影: ボリス・カウフマン
編集: カール・ラーナー
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個人的な偏見を排除するのはいつも難しい。 1957年(12 ANGRY MEN) 製作国:アメリカ 監督:シドニー・ルメット 製作:レジナルド・ローズ 原作:レジナルド・ローズ 脚本:レジナルド・ローズ 撮影:ボリス・カウフマン 音楽:ケニヨン・ホプキンス amazon.co.jpで詳細を見る。...
こんなところで好みがかみ合うなんて・・・・。
感激です★
この映画を初めてみたのは、中学生の時
たった一部屋で展開して行く話に
どんどん引き込まれて・・・・・。
映画ってすごい!!と思ってしまいました。
裁判員制度がはじまる時にも
何か参考になる映画があればと思い
この映画を紹介しました。
私はこの作品をきっかけに
映画にのめり込んでいったので
とても嬉しかったで~す★