デスパレートな"夫婦善哉"

70年代の米国アクション映画を観ると、そのいかにもパルプなドラマとシャビーな映像、ジャジーなメロディのざらざらした質感に、なんともいえない懐かしさが込み上げてきます。たとえば「フレンチ・コネクション」(1971)だとか、「ダーティハリー」(1971)だとか、「狼よさらば」(1974)だとか、「コンドル」(1975)だとか、「マラソンマン」(1976)だとか、あるいは「ダーティ・メリー、クレイジー・ラリー」(1974)だとか――。
といっても、これらの映画がロードショウにかかった頃、私は映画のえの字も知らない幼稚園児。実際に観たのはテレビで、中学生になるかならないかのときでした。そう、映画を映画として認識しはじめていた頃の私に、その面白さをこれでもかと教えてくれたのが、キナ臭い硝煙の匂いが漂う、ちょっと翳りをまとった、これらアメリカのアクション映画の数々だったのです。そして、そんな中でもとりわけ強く印象に残ったのがこれ、サム・ペキンパー監督の犯罪アクション映画、「ゲッタウェイ」(1972)。
ペキンパーにしてはアクが弱目、「ゲッタウェイ」
ペキンパーの作風を評して、"暴力の美学"なんていうフレーズがあります。そんなことを知ったのも、「ゲッタウェイ」を観たときのことでした。ゴールデン洋画劇場の高島忠夫だったか、それとも月曜ロードーショーの荻昌弘だったか、いずれにしても解説者が口にした、その奇抜なフレーズの響きは、鮮烈な映像描写とともに、深く記憶に刻み込まれたものです。
たとえば主人公が悪党に向かって拳銃を連射する場面の、射撃と弾着をスピーディに繋いだカットバック。あるいはショットガンがあらゆるものを粉々に吹き飛ばしていく、壮絶な銃撃戦を捉えたスローモーション。テレビドラマではお目にかかったことがない、ドキリとするほど暴力的な映像であるにもかかわらず、そこには洗練されたリズムと破壊のカタルシスがあって、なるほど"暴力の美学"とはこれか!と問答無用で納得した覚えがあります(ちなみに人が撃たれて真っ赤な血の飛び散る演出が、ここまで徹底的かつ律儀に施された映画を観たのも、おそらくこれが初めてでした)。
とはいえ「ゲッタウェイ」は、ペキンパーファンの間で、"ペキンパーらしさ"という点において、やや評価が低いようです。他の作品をいろいろ観た上で、改めて「ゲッタウェイ」を観ると、確かにアクが弱めというか、暴力描写や残酷表現のどぎつさが、割合薄めだったことに気がつきます。でもまあ私にとっては、このくらいのやや抑え気味の過激さが、ほどよかったりするのですね。
剥き出しの獣性が人間の尊厳を蹂躙する、ペキンパーのバイオレンス
アクション映画にお約束のファンタジックなバイオレンスは、それがどれだけ激しいものであろうと痛くもかゆくもありませんが、ペキンパーが、そのフィルモグラフィを通じて執拗にこだわっていた、リアリズムをまとったバイオレンス――剥き出しの獣性が突如として平穏な日常に襲いかかり、人間の尊厳を完膚なきまでに蹂躙する、生々しい暴力描写が苦手です。ペキンパーの作品が、いずれも見ごたえのあるものであることに異論はありませんが、時に、そんな根源的なバイオレンス描写によってもたらされるストレスがキツすぎて、耐えきれなくなるところがあります。ペキンパーは、かつて原田眞人のインタビューを受けて、
"自分の映画は、尊厳を喪失した人間がそれを取り戻すプロセスだ"
と、語ったそうです(原田眞人「黒澤明語る」より)。ペキンパーが、まず"人間が尊厳を喪失する"過程として好んで描くのは、襲われる女性の痛ましさと同じくらいに愛する女を目の前で蹂躙される男の苦痛をモチーフにしたかのような、黒澤明の「羅生門」(1950)に描かれた、真砂が多襄丸に襲われる場面をより直截的で身も蓋もなくした、仮借のない、サディスティックなレイプシーンです(ちなみにペキンパーは、「羅生門」こそが最高の映画だと述べている(「黒澤明語る」より))。
そこには、監督自身にこのモチーフに対する強迫観念があったのではと邪推したくなるほど、血を吹くような生々しさと執拗さがあって、これらの場面を観ると、娯楽映画を観るお気楽さとは程遠い、実にイヤな、重苦しい気分がこみあげてきます。
たとえば「ガルシアの首」(1974)に描かれる、ピアノ弾きの情婦が旅の途中で遭遇した無頼漢二人にレイプされる場面。必死の抵抗むなしく殴り倒され、あきらめきって悪党の意のままにならざるを得ない女性の恐怖と苦痛もさることながら、制圧されて手も足も出せず、愛する女が弄ばれようとしているのを歯軋りして眺めるしかない男の絶望的な無力感。
あるいは「わらの犬」(1971)に描かれる、気弱なインテリの夫に愛想を尽かした妻が、昔なじみの粗野な田舎者と浮気しようとして男に裏切られ、その友人と二人がかりで輪姦されてしまう場面。夫を見下し嘲弄している男に、妻が進んで身を任せようとする構図の意地悪さに加え、妻もまた男に裏切られ、その思惑を超えたかたちで凌辱されてしまうという、陰湿で悲惨な展開に滲む、救い難い屈辱感。
とまあ、男としては否応もなく、尊厳を傷つけられた男たちの精神的苦痛に共振せざるを得ないところがあって、観ていてとても平静ではいられなくなります。ペキンパーは、こうして男の理性が限界に晒される最悪の状況を繰り返し描き、どうだ、こうなったらもうブチ切れるしかないだろ、と、暴力に対する肯定を、世の男たちに向かって激しくそそのかしているかのようだったりもします。
そして「ゲッタウェイ」にも、実は、似たシチュエーションのエピソードがあります。主人公に撃たれ、手負いの野獣となった悪党(演じるのはアル・レッティエリ。"野獣"という形容詞がこれほど相応しい俳優はいない)が、たまたま出会った獣医夫婦を脅しあげ、夫にクルマを運転させて、主人公の後を追いかけます。そしてその道中、気弱な獣医に愛想を尽かした妻が、夫の前で男といちゃつきはじめ、なにかと夫を小バカにしはじめるのですね。夫は男に抗するすべを持たず、ついに耐えきれなくなって、自殺してしまいます。
最悪の屈辱を前にして、暴力か、さもなくば死か。かくてペキンパーのモチーフは、(過剰にカリカチュアライズされて生々しさが希薄であるにせよ、)こうしてこの映画にも、しっかりと埋め込まれているのです。
デスパレートな二人の"夫婦善哉"
「ゲッタウェイ」の筋立ては、銀行強盗のプロが、妻とともに最後の大仕事で奪った大金を手に、仲間割れした相棒や警察に追われながら、メキシコを目指して逃避行を続ける、というものです。
頭が切れて腕も立つプロフェッショナルの強盗、主人公のドク・マッコイを演じているのは、スティーブ・マックイーン。ドクは、所詮は金のことしか頭にない、しがない小悪党なのですが、スティーブ・マックイーンが演じると、いかにも深みのあるシブい人物然として、黒いスーツでキメた寡黙でソリッドな佇まいが、子供の目にもかっこよく見えたものです。
そして、か細く、女らしく、しかしドクよりよっぽど精神的にタフな妻、キャロルを演じているのが、ちょっと翳のある女優、アリ・マッグロー。

おとなしそうな佇まいと妙にぎこちない演技は、一見ミスキャストのようでありながら、その生硬さが、夫に隠しごとをしているがゆえの後ろめたさのせい、と見えなくもなかったりして、絶妙です。いずれにしても、ラテン系にも東洋系にもアフリカ系にも見える褐色の肌に漆黒の瞳、長い髪としなやかな背中がセクシーで、国籍不明のミステリアスな魅力があるというか、ホント、"イイ女"なのですね。
で、この主人公二人が、恋人ではなく夫婦という設定が、新鮮でいい。ちょっと普通じゃない、デスパレートな夫婦の、しかしいかにもありふれた夫婦っぽさの哀歓が、とてもいい。既婚ゆえのいかにも大人の距離感があって、全編に滲む、ストレートな愛だの恋だのといった感情の先にある、情の移りあった男女の絆の機微が、味わい深いのですね。ときに睦みあったり、和みあったり、じゃれあったり、喜びを分かち合ったり、しかし実は、妻には夫に言えない隠しごとがあって、そんな妻に対して夫がわだかまりを覚えたり、はては深刻な痴話喧嘩の末、お互いに対する不信感で心がばらばらになり、別れる寸前までいってみたり――とまあ、愛憎こもごもの複雑な感情を抱きあいながら、でも結局、どこかで一本、目に見えない細い糸が繋がっているというか、切れそうで切れない絆のしぶとさに、なんだかんだで夫婦ってこんな感じ――という、"ラブ"オンリーではない、アクチュアリティが漂っています。
そして映画は、そんな彼らそれぞれに、アクションとは別の次元で、"男"であること、"女"であることの見せ場を用意しています。
たとえば刑務所に収監されていたドクを釈放させるため、保釈委員長を務める悪徳政治家(ベン・ジョンソン)にキャロルが身を任せていたことを知ったドクが、ハイウェイの路肩にクルマを乱暴に停め、キャロルを二発、三発と平手打ちする場面。それが単なる不貞ではなく、献身ゆえのものだったことを頭ではわかっていながら、どうしても女を許すことができない、男の情けなくも痛ましいエゴ(ここにもまた、尊厳を失った男がひとりいる)。ドクのゆがんだ表情から、自分のちっぽけさに、さらに傷ついている様子がひしひしと伝わってきて、これが切ない。
あるいは詐欺師に騙され、金の詰まったバッグを盗まれてしまったキャロルが、駅の待合室のベンチで、身じろぎもせず、詐欺師を追いかけていったドクの帰りを、何時間も待ち続ける場面。金を盗まれた屈辱とドクに対する愛憎がごた交ぜになった感情の嵐に耐えながら、どこへも行くことができず、ただひたすら、じっとベンチに座り続ける姿が、とても哀しい。
そしてドラマの終盤、よりを戻した二人が肩を抱き合いながら、ゴミ処理場をゴミまみれになって歩いていく、夫婦再生の場面。この世にほかに頼れるものも信じられるものもなく、いろいろあったけど、そしてやっぱり信じられないところもあるけれど、でも二人で乗り越えていくしかない、みたいな夫婦二人きりの心細さと心強さが同時に伝わってきて、強く印象に残ります。
そんな二人を描いた場面に決まって流れる曲が、トゥーツ・シールマンスの奏でる、すすり泣くようなハープのメインテーマ。これがまた、ちょっとよすぎるくらいにいいんですねぇ。アレンジを変えながら何度も繰りかえされる、この、哀切な曲の印象があまりに強すぎて、こうして今改めて観ると、「ゲッタウェイ」という映画は、アクションはあくまで添え物にすぎず、そもそも主人公夫婦二人の絆を描いたラブストーリーだったとすら思えてくるほどです。この曲の流れるエンディングの動画がありましたので、貼っておきます。
「ゲッタウェイ」(原作)について
この映画、1994年にロジャー・ドナルドソン監督よって、同名のタイトルでリメイクされています。主役を演じているのは、アレック・ボールドウィンとキム・ベイシンガー。観たことないので、映画について言えることは何もありませんが、ひとつ、「ゲッタウェイ」がリメイクされて、とてもありがたかったことがあります。それは、リメイク版の公開にあわせ、長らく絶版となっていたジム・トンプスンの原作小説「ゲッタウェイ」が、再版されたこと。
リメイク版の公開から5、6年経った2000年前後、ノワール・ブームが到来し、雨後の筍のごとく、トンプスンの作品が立て続けに翻訳されはじめました(同じ作品が、ほぼ同時に、異なる出版社から異なるタイトルで刊行されたりもした)。それ以前に入手可能なトンプスン作品といえば、「内なる殺人者」だけで、この「内なる殺人者」が、ちょっとほかでは読めない、独特の異常さを持った強烈な作品だっただけに(そして、そのほとんど破綻ぎりぎりの異常さこそが、彼の作品に共通するテイストであったということを、のちに知る)、書店で「ゲッタウェイ」を見つけたときは、嬉しかったものです(そして現在はまた、絶賛絶版中)。
「ゲッタウェイ」は、ある意味、トンプスンの作品とは思えないほどノーマルで、映画のドラマ展開も、小説の内容をほぼそのままなぞったものです。ところが映画と小説ではまったく異なるところがひとつあって、それがエンディング。終章ぎりぎりまで、ほとんど"普通の"犯罪モノといってよかった小説の「ゲッタウェイ」は、ドクとキャロルが無事、メキシコの国境を越えたところで終わる映画と異なり、その先に、これぞトンプスンといいたくなる、アイロニカルで意地の悪い、途轍もなくデモーニッシュなバッドエンディングを用意しています(二人が逮捕されるとか、死んでしまうとか、そんな甘っちょろいものではありません)。
映画では、果たしてこの二人は本当に逃げ切れるのか(あるいは幸せになれるのか、と言い換えてもよい)、というひりひりした緊張を孕みつつ、最後の最後まで暗い予兆に包まれながら、しかし何も起こることなく、国境の向うへ二人の乗ったクルマが走り去っていく場面で終わります。エンドロールが流れだした瞬間、緊張が解けて、思わずほーっと吐息が漏れるような、つまりハッピーエンドと言っていい締めくくりなわけですが、しかし小説を読んでからは、あの先に二人を待ち受けているであろう運命が頭にちらついて、後味が、かなり変わってしまいました。それはそれで、この映画の味わいに、いっそうコクが深まったといっていいくらいのものですが、とはいえ、あの、良い意味で予想を裏切る終わり方だったからこそ、子供の頃の自分はこの映画を好きになったのであって、もし原作どおりの結末だったりしたら、おそらくほかのペキンパー作品と同様、二度と観返すことはなかっただろうと思うのです。
ゲッタウェイ(原題: The Getaway)
製作国: 米国
公開: 1972年
監督: サム・ペキンパー
製作: デヴィッド・フォスター/ミッチェル・ブロウアー
脚本: ウォルター・ヒル
原作: ジム・トンプスン(「ゲッタウェイ」)
出演: スティーブ・マックイーン/アリ・マッグロー/ベン・ジョンソン/アル・レッティエリ
音楽: クインシー・ジョーンズ
撮影: ルシアン・バラード
編集: ロバート・L・ウォルフ
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管理人: mardigras

>1970年代のパルプな米国アクション映画を観ると、そのジャンクでシャビーな映像と音と物語の質感に、なんともいえない懐かしさが込み上げきます。
映画を大好きだった「男の子」のレビューだなぁって感じです☆
70年代のそういう映画を、テレビの日本語吹き替えで見た、そういう印象は、きっと・いつまでも・ずっと・mardigrasさんの「根っこ」に、あるのでしょうね~!
私のブログも、映画のタイトルではきっと懐かしさを引き起こしてもらえると思うけど、肝心の私自身が、女性中心の映画しかホトンド覚えていないので・・・!!!(でも、読んでね)
親知らずは、何かあったら、恐いですよ~~!
申し訳ないけど、お医者を変えて、診てもらうほうが良いと思うのですが・・・。