アレンジ
椿三十郎
おもしれぇ、やる気か!?
ご
存じ、黒澤明の
「椿三十郎」
(1962)。痛快時代劇、いや痛快娯楽映画といってこれに並ぶ作品は、古今東西、もはや同じ三十郎が主人公の
「用心棒」
(1961)しか思いつきません。黒澤映画には好きな作品が山ほどありますが、ベストを挙げろと言われれば、「椿三十郎」。なぜならこれが初めて観た黒澤映画だったから。そして邦画にもこんな面白い映画があったのか!と教えてくれた作品だったから。
私がこの映画を初めて観たのはテレビでした。フジテレビのゴールデン洋画劇場で、時間枠を拡大した"ノーカット"放送。黒澤監督は、
「白痴」
(1951)を作ったときに会社の命令で短縮版を作らざるを得なくなり、
"どうせ切るなら、フィルムの始めから終わりまでずっと縦に切ってくれたほうが、よっぽど気持ちがよかった"
なんてことを師匠の山本嘉次郎監督に宛てた手紙に書いたそうですが(
「文藝別冊[追悼特集]黒澤明」
所収の
「黒澤明フィルモグラフィ&全作品解題」
より)、この、シネスコサイズで撮られた「椿三十郎」のテレビ放映は、時間だけでなく横長の画面もノートリミングで、まさに文字通りの"ノーカット"。それまでお目にかかったことのない、上下に黒い帯のついた細長い画面(いわゆるレターボックス)の醸し出すホンモノ感が、やたらとありがたかった覚えがあります。
コレ観たのいつだっけ、と気になりググってみたところ、どうやら放映日は1985年6月1日。私が高校三年生のときでした。高校三年といえば、
「乱」
(1985)が封切られた年でもあり、そうそう、そういえば「椿三十郎」とほとんど同じタイミングで「乱」を観たんだよなあ、同じ時代劇なのに、まったく違うテイストでずいぶん驚いたっけなあ、と黒澤映画を知ったばかりの頃の気分を懐かしく思い出しました。またちょっと気になり、「乱」の封切り日を調べてみると、なんとこれが「椿三十郎」の放映日と同じ、1985年6月1日。おお、どうりで同じタイミングで観た気がするはずだ、「乱」を観たのは公開初日の朝いちだったから(
こちらの記事
)、要するにこの二本、同じ日に観てたんだ、そうかそうか。
あれっ!?...ってことは、もしかして私が最初に観た黒澤映画は「椿三十郎」じゃなくて、「乱」?
いや~、ずいぶんと長い間、すっかり勘違いしていたことに、ひょんなことから気づいてしまいました。というわけで、いまさらながら黒澤映画の中で「椿三十郎」がいちばん好き、であることの理由がなくなってしまったのですが、でもまあ、
椿でも蘭(乱)でもいいじゃねぇか
(三十郎調)ってことで――。
かたっくるしいこと言いっこなし、痛快至極のアクション時代劇
注
文仕事がほとんどないとされる黒澤映画は、ときに人間の実像や理想像を追及するモラリスティックな作品、またときに政治的・社会的なメッセージの色濃く滲む作品、あるいは古今東西の名作に材をとった格調高い文芸作品、はたまたかたっくるしいこと言いっこなしの観客サービスに徹したエンターテインメント、さらには監督自身の画家志向や心情が強く反映された私小説的な作品、とまあ、そのテーマやジャンルが呆れるほどバラエティに富んでいて、作風をひとことで言い表すことばが見つかりません。黒澤明という映画作家の関心の広さと造詣の深さ、そしてその飽くなきチャレンジ精神に、改めて畏敬の念を覚えずにいられませんが、しかしなんといっても凄いのは、ほぼどのタイプの作品群にも、そのジャンルの頂点を極めたような作品が(ひとつならず)存在することです。
まさに"映画の神様"だとか"世界の巨匠"という呼び名がふさわしい、真に万能感のある映画監督だと思うわけですが、とはいえその真骨頂は、やはり巧みなストーリーテリングの才を十二分に発揮した、とにかく観客を楽しませることに力のすべてを注ぎ込んだ、純度100%のエンターテインメントにあったのではないか。なぜなら黒澤明ほど完成度の高い娯楽映画を高打率で連発した映画監督は、エンターテインメントの総本山ハリウッドを見渡してみても、ほとんど見当たらないと思うからです。
そしてそんな黒澤オモシロ映画の中でも、「用心棒」と並んで一、二を争う、ただひたすら娯楽に徹しきった作品が、この「椿三十郎」。軽妙洒脱なコメディタッチのドラマに切れ味鋭いアクションをミックスさせた、日本的な土壌で生まれたとは信じがたい、それでいてまぎれもなく日本的な美しさに彩られた、湿っぽいところのまったくない、からっとドライな時代劇です。
「椿三十郎」の原作について
全
三十作を数える黒澤映画のおよそ半分には原作があります。「椿三十郎」もそのうちの一本で、山本周五郎のいわゆる滑稽モノと呼ばれる短編時代小説、
「日日平安」
がそれ。映画の全編に漂う、ぬるま湯にのんびり浸かったような雰囲気は、この原作の持つ味わいそのものといっていいものです。「日日平安」は、もともと堀川弘通が監督する予定で黒澤明が脚本を執筆したものの、お蔵入りとなってしまい、のちに「用心棒」の続編の企画が持ち上がったとき、あれが使えるぞということで、
"血が一滴も出ない話だった"
ものを
"血なまぐさい"
三十郎モノ"として大幅に改稿した、という経緯があるそうです(堀川弘通著
「評伝 黒澤明」
より)。
藩政を壟断する奸物たちを、志ある若侍たちが、行きずりの浪人の助けを借りて成敗する、というプロットのアウトラインは、ほぼ原作そのままといっていいものですが、主役のキャラ変更にあわせてエピソードの数々が書き換えられ、ところどころに激しい立ち回りを散りばめたものへと刷新されています。原作の主人公、菅田平野は、三十郎と違って腕前はからっきしの食い詰め浪人で、仕官したいがために涙ぐましい一計をもって騒動に首を突っ込み、知恵を絞って、その解決に手を貸します。映画では、小林桂樹の演じるとぼけた侍に、そのイメージが反映されていますが(「日日平安」の企画段階では、小林桂樹が主役候補だった)、三十郎の性格が「用心棒」のときよりいくぶん柔らかくなっているように感じられるのは(「用心棒」に比べ、腕にモノを言わせるのと同じくらい、当意即妙の知恵で立ち回るシーンが多い)、三十郎にも、菅田平野のDNAがほんのちょっぴり混じっているからでしょう。
もっともユーモラスでもっとも凄惨
「
椿三十郎」は、黒澤映画の中でもっともユーモラスな作品であると同時に、もっとも凄惨な作品でもあります。この映画のなにより優れていると思うところは、その弛緩と緊張の、とんでもない落差にあります。柔らかなドラマと凄みあるアクションの振り幅、そして、その相反するムードを一息に縮めるキワの滑らかさとスピード感――おっとりしたムードのドラマに油断していると、とつぜん、つむじ風が巻き起こるように怒涛の立ち廻りが始まって、アッと息を呑まされるのです。
前作の「用心棒」も、ところどころにギャグの仕込まれた作品ですが、「椿三十郎」は、原作の影響か、続編ゆえの余裕か、それこそドラマ全体が、心地よいユーモアにくるまれた作品です。
"死ぬも生きるもわれわれ九人"
の生真面目だけど浅はかな若侍たちが、シネマスコープの横長の画面にずらずらっと雁首を並べ、
"金魚のうんこ"
のように一列に繋がって右往左往する構図の道化じみた可笑しさは、ほかの黒澤作品では、あまりお目にかかれないものです。
そしてそこに加わる、
"いや、十人だ"
の三十郎。三船敏郎という、おっかない面構えをした役者の見せる喜劇的な表情やしぐさは絶品で、若侍たちとの掛け合い漫才みたいなやり取りはむろん、この怖いものなしの男が、城代家老の奥方にだけは調子を狂わされてしまうのが、なんとも愉快。馬草小屋の乾草に寝転んだ奥方と息女が、窮地にあって暢気な会話を交わしているのを、乾草の陰からひょこりと顔を覗かせた三十郎が、困った表情を浮かべてそっと聞き耳を立てている様子だとか、椿屋敷に乗り込む直前、襖の文字をぐじぐじなぞりながら、女性二人ののんびりしたやり取りをガマンしている様子だとか、画面のユーモラスな構図の効果もあって、何度観ても笑えます。
そして、そんなおっとりムードをいきなりぶち破る、ときに痛快、ときにとんでもないおそろしさの立ち廻り。たとえば、城代家老の屋敷に軟禁された奥方と息女を救出する場面。植栽の陰に隠れて様子をうかがっていた三十郎と若侍たちが、いざ行かんとするその瞬間、室戸半兵衛(仲代達矢)の姿を見つけて慌てて引っ込むコミカルな展開から一転、半兵衛の姿が消えた途端、それともやれとも言わずに全員がさっと立ち上がり、勇壮でリズミカルな音楽に乗せて、疾風のごとく三人の見張りを急襲するという、その静から動、緩から急への胸がすくような転調。
また大目付の屋敷に捕縛された若侍たちを助けるため、三十郎がその場にいた大目付の配下を片っ端から、無抵抗の門番をも含めて一息に皆殺しにしてしまう、あっと驚く非情で残酷な展開。
そしてなんといっても、城代家老(伊藤雄之助)の馬面を肴にした脱力のエピソードの直後に用意された、脚本に
"これからの二人の決闘は、とても筆では書けない"
と記された、三十郎と室戸半兵衛の、まさに息が詰まるような、クライマックスの居合勝負――。
初めて観たとき、このクライマックスにはホント、度肝を抜かれました。なぜなら、春風駘蕩たる雰囲気を漂わせたこの映画の最後の最後に、こんな凄惨な場面が待っていようとは、これっぽっちも思わなかったから。若侍たちが見守る中、両者ともぴくりとも動かないままに過ぎていく、とんでもない長さの睨みあい。観ているこっちの息が切れそうになったその刹那、突如として切り結ばれる居合い抜きの技は、あまりに早すぎて、いったい二人の刃がどう交錯したものか、その太刀筋はさっぱり見えません。そしてその一瞬後、刀を振り下ろしたままのかっこうで、噴水のように血潮を吹き上げながら絶命する、室戸半兵衛――。
静から動、緩から急、ここに極まれりの衝撃。この場面の異様な緊張感は、何度観返しても、一向に衰えることがありません。とにかくこんな爆発力をもった殺陣は、あとにも先にもこれっきりです。
無敵の男、三十郎の人間味
「あの男、何をしでかすかわからん。化け物だぜ、ありゃ」
機略縦横にして無類の腕っ節、豪胆でふてぶてしくてユーモアもあって、実は人情家で、何ものにも縛られない余裕綽々の男、
"もうすぐ四十郎"
こと三十郎を評して、田中邦衛が演じる若侍の一人が口を尖らせながら、そうつぶやきます。
出自も経歴も本名さえも不明、
「七人の侍」
(1954)の勘兵衛以下七人全員を足して割ったかのような、規格外の浪人の肩書きとして、"化け物"とは、これほど的を得た表現はないでしょう。弱きを援けずにはいられない倫理観の持ち主でありながら、三十郎が(スーパーマンのようなわかりやすい正義漢ではなく)"何をしでかすかわからない化物"であるのは、その桁外れの行動原理と容赦のなさにあります。なにせ三十郎は、前作の「用心棒」で、ほとんど退屈しのぎのオモシロ半分で、ひとつの宿場町をぶっ壊してしまうのです。
とはいえ、そんな三十郎の"何をしでかすかわからない化物"性は、
"てめぇらのやることは危なっかしくて見ちゃいられん"
と、初心な若侍たちに行きがかりの同情心から与するこの映画において、かなり"何をしでかすかわかる"ものになっていたりします(ただし相変わらず、"容赦"はない)。たとえば、「用心棒」で怖いものなしだった三十郎は、この映画では、
"少し足りねぇのさ"
というくらいにイノセントな城代家老の奥方を前にすると、まるで借りてきた猫みたいに頭が上がらなくなってしまいます。そしてこの奥方が、
「あなたは、なんだかギラギラしすぎてますね。抜き身みたいに。あなたは、鞘のない刀みたいな人。よく斬れます。でも、本当にいい刀は、鞘に入ってるもんですよ」
などと箴言めいた忠告をすると、実にバツの悪そうな渋面を浮かべ、押し黙ってしまうのです。"抜き身の刀"という表現は、どちらかといえば「用心棒」の桑畑三十郎に相応しいのであって、「椿三十郎」の三十郎には、言われるほど、その切っ先がどちらを向いているのかわからないようなアブなさが、感じられません。
にもかかわらず、この、"化物"とか"抜き身の刀"という表現に激しく納得してしまうのは、三十郎を演じる三船敏郎が、その表情と佇まいから、それこそ"ギラギラした抜き身の刀のような"尋常でないエネルギーを発散し、何もかもを見下して余裕綽々、無敵の"化物"のような貫禄を漂わせているからです。要するに、三船敏郎だからこその説得力というか、三船敏郎が三十郎を演じているからこその"化物だぜありゃ"であり、また"あなたは抜き身の刀みたいですね"、なのですね。
黒澤映画の虚構を支えるリアリティ
黒
澤監督は、"嘘"をつくのが滅法うまい監督です。言い換えれば、虚構の世界をもっともらしくみせる演出が抜群に上手な監督です。もっともらしさとは要するに、作りごとであることを忘れさせてくれるリアリティのことであり、そしてそんなリアリティは、演出や脚本のみならず、演技から撮影から音響からセットから衣装から小道具からロケーションから、それこそスクリーンを通じて目と耳に伝わるすべての要素から生み出されるものでもあります。
リアリティを感じられるかどうかは、その映画の世界にのめり込めるかどうかの分岐点です。自身の経験や知識、モノの考え方や感じ方といった主観的な物差しと(無意識のうちに)照らし合わせて、その虚構を支えるリアリティがあまりに不自然だったり不完全なものだったりすると、途端に興醒めしてしまうというか、ドラマに夢中になりようがないというか。逆に、よくできた映画に感じるリアリティは、それ自体がひとつの経験値となって、以降に観る映画に期待するリアリティのハードルを、一段アップさせてしまったりもします。そして、これがよくできた黒澤映画ともなると、ハードルの高さが一気に何段分も上がってしてしまうような、段違いのインパクトがあるのですね。
私にとって「椿三十郎」は、まさにそんな一本。この映画を観たせいで、時代劇に期待するリアリティのハードルが、地面すれすれから天井近くまで、一気に跳ね上がってしまいました。なにせ当時の私にとって、時代劇といえばテレビの一時間ドラマだったところに、黒澤明の「椿三十郎」。わかりやすい正義の味方、「銭形平次」とはひと味もふた味も違う、捻くれたヒーロー像。毎度変わりばえのしないドラマ展開の「水戸黄門」とは異なる、練りに練りこまれた理詰めのストーリー。そして「遠山の金さん」や「大岡越前」とはずいぶん趣を異にした、登場人物たちの立ち居振る舞いや見た目、風景、風俗。とまあ何から何まで、あまりといえばあまりの違いに、それまで観ていたテレビ時代劇の世界が、一気に陳腐化してしまいました。はっきり言って、こんなの観てしまったら、ハードルが上がりすぎてしまって、もう二度と、「水戸黄門」の世界になんて戻れやしないのです。
巨大なセットのスケール感に宿るリアリティ
黒
澤映画の醍醐味に、大規模なオープンセットや広大なロケーションを観る楽しみがあります。この映画でいえば、たとえば大目付の役宅のあっと驚く巨大な門構えをはじめ、どーんと幅の広い往来に沿って延びる、おそらく五~六十メートルは続いているであろう、背の高い塀囲い。辻の四方に建ち並ぶ武家屋敷や、その画面の奥に見える掘割に掛かる木橋、さらには段差のある漆喰壁にぐるりと取り囲まれた椿屋敷や、松林に囲まれた街道筋の黒藤別邸、そしてクライマックスの舞台となる広々とした街道辻――とまあ、どれもこれも、テレビ時代劇ではお目にかかったことがないスケール感。
黒澤映画の巨大なオープンセットや広大なロケーションは、それが時代考証的に正しいサイズなのかどうかはさておいて、巨大であること、広大であること自体に、作り物であることを忘れさせる力が宿っています。そして、そのいかにも手抜きのなさそうな(お金のかかっていそうな)説得力ある質感と、巨大なものをさらに巨大に、広大なものをさらに広大に感じさせるローアングルのカメラワークとあいまって、これ、本当にその時代に撮影された映像なんじゃないか、とみまがうようなリアリティを醸し出しています。
時代風俗のリアリティ
登
場人物のメイクが、テレビ時代劇のそれと大きく異なっていたことにも、ずいぶん驚かされました。たとえば鬘(かつら)。テレビ時代劇の髷(まげ)といえば、たいてい蒲鉾みたいにぶっとくて大きいものと相場が決まっていて、侍も町人もみな同じかたちなのですが、「椿三十郎」では、総髪の三十郎はともかく、冒頭から登場する若侍九人からして、みな月代(さかやき)の広さや剃り際のかたちが微妙に異なっています。さらに志村喬や藤原釜足が演じる年寄りとなると、年齢なりの髪の量に応じた細く小さい髷がちょこんと乗っていたりして、これを観てはじめて、確かにこうじゃないとおかしいよな!と気づかされたものです。
この映画に描かれた女性のメイクはさらなる衝撃で、入江たか子が演じる城代家老の奥方が眉毛を剃り落とし、加えて、口の中が真っ黒だったことには、ホント、ギョッとしました。なにせ、銭形平次のおカミさんも大岡越前の奥方も、眉毛はふさふさ、歯は真っ白で、江戸時代の既婚女性に引眉だとか鉄漿(おはぐろ)なんて習慣のあったことを、まったく知らなかったからです。
そして、そんな奥方や娘のおっとりした所作に、間延びした口調――武家の女性って、きっとこんなだったんだろうなあ、と、実際はどうだったのか知らずとも、思わず納得してしまう雰囲気があって、テレビの時代劇や昨今の時代劇映画に出てくる女優が、いくら髷を結って着物を着ていても、現代女性のコスプレにしか見えないのは、鉄漿や引眉はともかく、結局、このあたりの立ち居振る舞いやしゃべり方が、いかにも現代人のそれだから、なのだと思います(いや、それは男の俳優も同じですが)。
フィジカル表現に宿るリアリティ
前
述のとおり、映画の終盤近く、捕らえられた若侍たちを救出するため、三十郎が二十人ほどの大目付の郎党を、一息に斬り伏せるシーンがあります。その、一気呵成の殺陣の迫力と凄みもさることながら、今観ても感心してしまうのは、かたをつけたあとの三十郎が、肩でぜえぜえはあはあと、大きな息をしていることです。桃太郎侍も金さんも助さんも格さんも、およそテレビ時代劇のヒーローは、どれほど大人数を相手に立ち廻ったあとでも呼吸ひとつ乱さず、ここぞとばかりに見得を切っていましたが、よく考えてみれば、そんな激しく動き回ったあとで涼しい顔をしていられるはずがないのであり、つまりこのぜえぜえはあはあが、たった一人が二十人を一気に切り伏せるという虚構を支えているのだなあと思います。
そしてこの後、三十郎は興奮冷めやらぬ憤怒の形相で、
「てめぇたちのお陰でとんだ殺生をしたぜ」
と、救け出した若侍たちを怒鳴りつけ、怒りに任せて撲り倒します。人間離れした荒業の直後に描かれる、この、血の通った人間味。こうしたディテールの演出こそがリアリティを分厚くするのであり、ソツがないというか、まったく隙がありません。
チャンバラのリアリティスタンダード
日
本刀を振り回したことのない人間にとって、"チャンバラ"は結局のところ、どこまでいっても現実味の薄いものでしかありませんが、大目付の役宅で大立ち廻りを演じる三十郎が、一人を斬り伏せるごとに、返す刀で二太刀目を浴びせる迫真性には、う~ん、芸が細かい、と唸らされてしまいます。そしてDVDに収録された殺陣師による再現を観ると、クライマックスの居合勝負が、いかにリアルに振付けられたものだったのかがよくわかります(それから改めて本編をスローで何度も観返すと、速すぎて何がなんだかよくわからなかった刃の交錯が、振付け通りに実行されたものだったことがわかる)。同時に抜いたはずの三十郎が勝つという結末は、主人公を勝たせるご都合主義などではなく、きちんと筋の通った(つまり三十郎の刀が理詰めできっちり半兵衛の先を取る)、リアリティを徹底的に追求する姿勢がコンマ数秒に凝縮されたものだったのですね。
また、時代劇の斬り合いで、ズブッとかブスッといった、いかにもそれっぽい擬音が被さるようになったのも、あるいは斬られてバッと血が噴き出るようになったのも、すべてはこの作品の前作、「用心棒」から始まったのだそうです(DVDのコメンタリーより)。どちらも今となっては、時代劇に限らず、殺陣のリアリティを演出する手段として、当たり前すぎるほど当たり前となっているものですが、特に殺傷音は、これみよがしのオーバーにもほどがある音を入れているせいで、本末転倒というか、かえってリアリティを損ねてしまっている映画やドラマを見かけたりもします。
とまあ、黒澤映画には、殺陣に限らず、また時代劇に限らず、リアリティのスタンダードともいうべき独創的な発明や趣向を凝らした工夫、そして一見しただけではとても気づけないほどのディテールへのこだわりがいろいろとあって、ドラマそれ自体とはまた別の次元で、面白さを味わわせてくれます。
三寒四温の季節感
黒
澤監督は、季節を描くのがとても上手な監督です。映画の中に描かれる花鳥風月に、四季の微妙な移り変わりを感じることは、自分が日本人だからでしょうか、特に邦画を観るときの大きな楽しみのひとつであり、またその季節感自体が、リアリティを生み出す大きな要素となっていたりもします。「椿三十郎」も、ほかの黒澤映画と同様、季節感が見事に表現された作品で、映画全体を通じ、春の足音が聞こえはじめた時候の水ぬるむ気配と空気感が伝わってきて、うっとりしてしまいます。
まずはなんといっても、タイトルにもなっている、"椿屋敷"の庭に咲きほこる、実に壮観な、紅白とりどりの椿。黒澤監督は、椿の赤にパートカラーを使おうとしたものの、技術的に、どうしても不可能だったそうです。いや~よかった、技術的に不可能で。
「天国と地獄」
(1963)のように、ストーリーの展開上、パートカラーであることが必要不可欠なわけでなし、もしこの映画の椿だけに赤く色がついていたら、かなり不自然だったのではないでしょうか。
そして、そんなアイデアよりも遥かに感動的なのは、椿をより椿らしく見せようという工夫。モノクロで見たときに、より赤く見える黒の色をいろいろと研究した上で造花に色付けし、すぐダメになってしまう椿の葉の代わりに榊の葉をくくりつけ、それでも1日でダメになるので毎朝200個ほど新しい花を用意しなおして、目立つ位置にある花を付け替えていたのだそうです(DVDのコメンタリーより)。いや~、すごい。まったく、そこまでやるからこそ、あの、春が匂ってくるような季節感が生まれるのでしょう。
この椿、クライマックスでの使われ方が鮮やにもほどがあるのはいうまでもありませんが、もはやこれまでと覚悟した大目付がガックリと項垂れるのに合わせて挿入される、一輪の椿がポトリと泉水に落ちるカットが、切腹して果てる(=介錯されて首を落とすことになる)大目付を暗示して、見事というほかありません。
また、若侍たちが身を隠す、庭に疎水の流れる寺田家の風情がいい。この映画とちょうど同じ頃に観た、溝口健二の
「武蔵野夫人」
(1951)もまた、こんこんと清水の湧き出る"庭に流れのある家"が舞台となっており、どちらも微かなせせらぎが聞こえてきて、実に風流。「椿三十郎」では、水の音とともに、椿の生垣から鶯(うぐいす)の囀りが響き、うららかな早春の季節感を演出しています。かと思えば、夜の辻を走る若侍たちの足元に吹く一陣の風に、木の葉がぴゅーっと舞い上がる様子をローアングルで捉え、まだ春になりきらない時節の夜の寒さを演出していたりもします。
そしてこの映画の鳥といえば、なんといっても忘れられないのが、クライマックスの決闘場面。三十郎と半兵衛が無言で睨みあいを続けるその後ろで、長閑に雲雀(ひばり)が囀っているのです。ただでさえ息が詰まるようなとんでもない緊張感を、二倍にも三倍にも膨らまそうかという、自然を取り込んだ、おそるべき対位法。もう、ニクいほどに効果的です。
モノクロだからこそのリアリティ
「
椿三十郎」に強いリアリティを感じるもうひとつの理由――それは、この映画がモノクロであることです。これはもう、極めて私的な感覚でしかありませんが、私の場合、描かれている時代が古いほど、どうやらモノクロ映像の方が、しっくりくるようです。
自分の生まれた頃(ちょうどテレビの映像がモノクロからカラーに切り替わる頃)を境に、それより昔の時代は色がない世界だった、と心のどこかで思い込んでいるというか、視神経に刷り込まれているというか。昔のリアルな世界の映像(あるいは写真)をモノクロでしか見たことがない、というのがその理由であるような気もしますが、ホントのところは自分でもよくわかりません。
以前、
「映像の世紀」
という、20世紀を映像で振り返ったNHKの特集番組がありました。その、貴重なフィルムライブラリーの中に、GHQが撮影したという、敗戦直後の日本のカラー映像がありました。そんな映像が存在していたことに驚く一方で、終戦直後の焼け野原や田舎の風景に色がついていることに、妙な違和感を覚えてしまったものです。
ところが面白いことに、こんなことを感じるのはあくまで邦画に対してだけであって、古い時代を描いた色つきの洋画を観ても、特にこれといった違和感がありません。日本人の私にとって、日本と地続きでない世界の過去は、ハナからファンタジックなものだからかもしれません。
* * *
全三十作を数える黒澤作品、むろんすべてが上手に嘘をついているものばかりではありませんが、無条件に面白い作品は、それがいかに荒唐無稽なオハナシであろうとも、あの手この手の"もっともらしさ"の演出によって、それがまるで実際にあったことであるかのような、またそのキャラクターが実在していたかのような、もっといえば、その映画がその時代の記録映像であるかのような、ふとそんな錯覚を覚えてしまうリアリティがあります。そして、この上なく破天荒でファンタジックな、「椿三十郎」という時代劇の無類の面白さもまた、妥協のない完璧主義によって積み重ねられた、リアリティのあるディテールの賜物だと思うのです。
* * *
半兵衛との決闘を制し、若侍たちを怒鳴りつけ、肩をひとつくいっと捻り、
「あばよ」
とどこかへ去っていく、三十郎の後姿を捉えたエンディング。「用心棒」の、あの、うきうきするようなテーマ曲が、高らかに、誇らかに響きわたります。これ、「用心棒」の終わり方とまったく一緒なのですね。ああ、黒澤監督に、この調子で三十郎の三作目を作ってほしかった――。この映画のエンディングを観るたび、そんな詮無いことを思ってしまうのです。
椿三十郎
(英題:
Sanjuro
)
公開: 1962年
監督: 黒澤明
製作: 田中友幸/菊島隆三
脚本: 菊島隆三/小国英雄/黒澤明
原作: 山本周五郎(
「日日平安」
)
出演: 三船敏郎/仲代達矢/加山雄三/田中邦衛/小林桂樹/入江たか子/伊藤雄之助
音楽: 佐藤勝
撮影: 小泉福造/斎藤孝雄
美術: 村木与四郎
@
2009-12-09
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[
C
429
] やっぱり三十郎ですよね
これは私も大好きな作品で、Mardigrasさんの愛のこもった記事に、”うんうん、わかる!”と最初から最後まで共感しっぱなしでした。
イラストも、写真と見間違えてしまいそうな丁寧な描きこみで、ほんとにお好きな作品なぁと思いました。
わたしはこの作品を観て「こんなにも理想的な主人公がいたのか」と時代劇に興味を持てるようになったんですよ。これを観なければ「百万両の壷」とも出会わなかっただろうし、本当に観てよかったと思える作品です。
それにしても、椿の花にそんな苦労があったとは・・・。制限された中でより良いものをと工夫すればこそ、このような素晴らしい作品が生まれるのでしょうね。
2009-12-09 11:58
宵乃
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[
C
430
] >宵乃さん
ですよね~(笑)。やっぱり三十郎です!
イラストを描こうと思ってはじめて実感したんですが、この映画、背景の細部までピントが合っているので、ついつい細かく描きたくなってしまったんですね(笑)。それに、どの場面をとってみても、これ描きたいな~と思う美しい構図の映像ばっかりで、ホントすごい映画だな~と改めて思わされてしまいました。
宵乃さんの記事もさきほど読ませていただきました。まさに時代劇おそるべしですねぇ~!私も時代劇観るようになったのは「椿三十郎」のおかげです。そして笑える時代劇といえば...やっぱりコレと「百万両」が双璧ですね(笑)。
椿の花の苦労...それにしても赤より赤く見える黒を、って発想がそもそもすごいです。ホンモノ=リアルってわけじゃないことがよ~く伝わってくるエピソードだと思いました。
2009-12-09 22:39
mardigras
URL
編集
[
C
431
] やっぱり三十郎ですよねぇ~ (笑)
こんばんは☆
mardigraぶし健在ですねぇ~☆
大分読むのも早くなりました。(笑)
名画座で観ている気分で・・・・。
うん!うん! とうなずきながら拝見させていただきました。
日本映画に疎い私には、良いきっつかけになった映画です。
。。。papaさん乱入
痛快娯楽時代劇の最高傑作と言えば
「椿三十郎」と「用心棒」
時代劇といえば東映でしたが、それとは全く違う泥臭い
人間味のある主人公で殺陣もすばらしく、
やはり黒沢明の演出は見事ですね!
Mさま~★
この映画にYAMANEKOんち飛びつくと思ったでしょう
その通り~~☆
。。☆ あばよ ☆。。
(笑)
2009-12-10 02:54
harunayamaneko
URL
編集
[
C
432
] >harunayamanekoさん
はは、釣れた釣れた~(笑)。
というのは冗談ですが、やっぱり三十郎!なので今回は特に長くなってしまいました。次からもっと短くなる予定です(笑)。思えば私も、これ観たころから、日本映画の名作をいろいろと漁って観始めるようになりました。
papaさんへ
「用心棒」と「椿三十郎」は、どっちも面白すぎて、実際のところ、甲乙付けがたいです。二つセットで最高傑作という感じですね!東映っていうと任侠モノってイメージなのですが、そのさらに前は、時代劇で一世を風靡していたんですねぇ...
2009-12-11 03:14
mardigras
URL
編集
[
C
433
] 黒澤明の
時代劇ではやはり『7人の侍』が一番好きで、末期の『影武者』や『乱』は好きでないけど、『用心棒』と『椿三十郎』は好きです。どちらかというと『用心棒』の方が好きです。たぶん山田五十鈴が演じたあの女性像の印象が強いからだと想います。そして映画で表現されたアウトサイダーたちの生き方が当時かっこよく映りました。
山本周五郎の本は好きでいまでも本棚にならんでいます。
もっと彼の他の本、例えば『天地静大』とかの原作で時代劇黒澤映画を作って欲しかったとおもいます。Mardiさんもおもわれるように『椿三十郎』のシリーズ続けて撮って欲しかったですよねぇ~
この一枚目の絵の三船敏郎は実像よりすてきな気がします。
最後の絵はあの『どですかでん』の頭師佳孝?ですよねぇ~
黒澤映画の出演俳優はもう鬼籍に入った人の方が多くなってるとおもうのですが、彼もそうなんでしょうか?・・・、左ト全と同じで存在感があるようでないような面白い役者さんだったような気がします。
あまり『椿三十郎』とは関係ないことばかりのコメントで失礼しました。
2009-12-12 05:54
ヘルブラウ
URL
編集
[
C
434
] ひょっとすると
最後の絵は年代からいっても仲代達矢かもしれないと思い直しています。
記事も斜め読みして、かなりいい加減ですんまへん!
2009-12-12 06:07
ヘルブラウ
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[
C
435
] >ヘルブラウさん
ヘルブラウさんは「七人の侍」、そして「用心棒」ですか...私はどちらも観たいのに観れない状態がかなり長く続いて(当時はレンタル・ビデオ屋もなかったので)、観れたときはうれしかったですね~。そして期待以上の面白さでした。「用心棒」のキッつい顔した山大五十鈴、確かによかったですね~。
山本周五郎は、年をとるごとに面白くなっていく気がします。日日平安の収録されている短編集も今回改めて読み返したのですが、あれ、こんなに面白かったっけ?と味わい深くて驚きました。私も「天地静大」大好きですよ!読んだのが学生の頃だったので、ひときわ印象深かったです。黒澤監督で映画が作られていたら、主役は誰がよかったですかね...う~ん、加山雄三でしょうか...
三十郎みたいに好きなキャラクターは絵を描いてても楽しいです。
最後の絵はひょっとしての方、仲代達矢です(笑)。たしかに鉢が開いてて、頭師佳孝にも似てますね。私は、実は描いてて、加山雄三みたいだと思ってました。いや~まだまだ修行が足りません(笑)。そういえば「どですかでん」も原作は山本周五郎ですね。ちなみに頭師佳孝は存命で、テレビに映画にご活躍のようですよ~(笑)。
2009-12-13 03:08
mardigras
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[
C
988
]
世界の黒沢、三船コンビは最高ですね。今観ても新鮮です。
やはり、初期のエンターテイメント作品はしびれますね。
2013-03-15 03:07
根保孝栄・石塚邦男
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[
C
991
] >根保孝栄・石塚邦男さん
黒澤・三船コンビの作品群は、ホント信じられないくらい、綺羅星のごとき傑作のオンパレードですね...
両者の気合が呼応しあって、画面に渦巻く気が伝わってくるようです。「赤ひげ」以降、袂を分かってしまったのがホント残念です。
2013-03-17 19:06
Mardigras
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[
C
996
] 黒澤監督と椿三十郎の魅力
黒澤映画の醍醐味は「七人の侍」のキャラクターと劇つくりの面白さだろう。
出演者のいかんにかかわらず、シナリオや舞台設定が面白いので、誰が出演しても、魅力ある映画になる。
椿三十郎も舞台設定、キャラクター、シナリオがしっかりしてるので面白い。
2013-03-21 18:57
根保孝栄・石塚邦男
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[
C
1002
] >根保孝栄・石塚邦男さん
おっしゃるとおり、「七人の侍」の醍醐味は、あの前半の仲間集めにあると思います。各々のエピソードも面白いし、観るたびに、あの前半があるからこそ、後半のドラマにあれだけの分厚さが生まれてるんだな~と思います。
2013-03-24 10:18
Mardigras
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イラストも、写真と見間違えてしまいそうな丁寧な描きこみで、ほんとにお好きな作品なぁと思いました。
わたしはこの作品を観て「こんなにも理想的な主人公がいたのか」と時代劇に興味を持てるようになったんですよ。これを観なければ「百万両の壷」とも出会わなかっただろうし、本当に観てよかったと思える作品です。
それにしても、椿の花にそんな苦労があったとは・・・。制限された中でより良いものをと工夫すればこそ、このような素晴らしい作品が生まれるのでしょうね。