己の事ばかり考える奴は、己をも亡ぼす奴だ!

黒澤明の代表作、というより日本映画の代表作といっていい、「七人の侍」(1954)。こんな年の瀬に、ぬくぬくとこたつに入ってみかんでも食べながら、観終わるのに半日かかるような、しかし退屈する瞬間のまったくない、抜群に面白すぎる映画をだらだら眺めてると、つくづく、あ~日本人に生まれてきてよかった!なんてことをしみじみ思ってしまいます。
この映画、私にとっては観たくてもなかなか観ることのできなかった一本。高校生の頃に「椿三十郎」(1962)を観て以来、とにかく黒澤映画が観たくて観たくて、名画座に黒澤映画がかかると片っ端から足を運んでいたのですが、よりによってこの「七人の侍」だけは、まったくお目にかかる機会がありませんでした。当時、ぽつぽつと目にするようになってきたレンタルビデオ屋にもなければ(そもそもビデオが未発売だったことを後に知った)、またテレビで放映されるようなことも一切なく、というわけで、この映画の凄さを喧伝する評論や記事をさまざまな本で読むにつけ、いったいどんだけすごいんだ!?と、お預けを食らわされた犬さながら、ただひたすらに期待と妄想を膨らませていたのでした。
日本で観ることができずにアメリカで観た「七人の侍」
そんな鑑賞困難だった(私にとっての)幻の映画をようやく観ることができたのは、それから数年ののち、なんと日本ではなく、アメリカで暮らしていたときのこと。ある日訪れた町外れのレンタルビデオ屋で、"Seven Samurai"と題された、二本組みのビデオが何気なく陳列されているのを見つけたのです。そもそも本国で未発売のビデオがなぜアメリカに!?日本人が観たくても観れない作品をなぜアメリカ人が!?という驚きと割り切れない思いを抱きつつ、あまりに意外な場所での意中の作品との出会いに興奮し、さっそく借りて帰りました。
このビデオ(どうしても欲しくてのちに購入)、音質が酷すぎて、特に百姓たちのぼそぼそとこもった声や野伏せりの絶叫調のセリフがほとんど聴き取れず、(英語の)字幕がかえってありがたいくらいのものだったのですが、しかしそんな品質うんぬんは、些末なこと。ダンダンダンダンダンダンダンダンと打楽器が不気味な低音を奏で、筆文字を画面に思い切り叩きつけたかのような荒々しいタイトルクレジットを目にしたときの、ああやっと、「七人の侍」を観ることができる!という数年越しの望みが叶った幸福感といったら、いまだに忘れられないものがあります。
そして「七人の侍」は、そんな数年がかりで上がりに上がっていた私の天井知らずの期待値のハードルをいともあっさり飛び超える、その名声に恥じない、とてつもない映画でした。練りに練られたストーリー、隅々まで血の通ったキャラクター(正直、三船敏郎の役柄に三十郎のようなイメージを勝手に抱いていたので、その点想像と違ってはいたのですが)、ケレン味溢れる名セリフの数々、スペクタクルにもほどがあるアクション、とまあ3時間半という長尺にもかかわらず、どこをとっても隙がなく、とにかくその面白さの厚みといえば、それまでに観たいかなる映画を思い浮かべてもちょっと比類なさすぎで、かつてこれほど凄い映画が日本で作られていたことに、そしてそんな映画のビデオがアメリカのド田舎のレンタルビデオ屋に置かれていたことに、日本人として、なんともいえない誇らしさを感じてしまったものです。
「七人の侍」の製作にあたり、黒澤監督は、"ビフテキの上にバターを塗って蒲焼をのせたような映画"を作りたい、とその抱負を述べていたそうです(DVDのメイキングより)。なるほど確かに、こんな何もかもがてんこ盛りになったような映画を観せられ、お腹いっぱいにならない観客は、日本はおろか世界にもいやしなかったことでしょう。この映画の制作費は2億1千万円。またその撮影日数は148日。当時の平均的な邦画製作にかかるコストと時間の数倍の規模だそうですが、そんな、日本ではもう二度と実現不可能に思えるスケール感を知ると、この映画の空前絶後感は、また一段といや増す感じです。未見の人にとって、どれだけ期待しても期待を裏切られることのない映画、「七人の侍」は、そう断言してしまっていい作品です(...と思ったのですが、念のためレビューサイトをいくつか覗いてみたら、まったく評価していない人もちらほらいましたので、やっぱり断言するのはやめておきましょう)。
"創造は記憶だ"
「七人の侍」の骨格は、"野伏せりの襲来に怯える百姓たちが侍を雇って撃退する"、とまあ、ひとことで言ってしまえるほどにシンプルですが(とはいえ骨太)、その筋肉の分厚さにはとんでもないものがあります。なにせ主役の侍の人数からして七人、さらに主役に劣らない見せ場をもった農民の数が六、七人。そんな十数人に及ぶ群像ひとりひとりの人間が緻密に描かれるとともに、深彫りされたキャラクターのアンサンブルが生み出す、ディテールに凝りまくったエピソードの数々がうねりあい、絡み合い、またそのエピソードがさらなるエピソードを実に自然に紡ぎ出しながら、しかし一瞬たりとも"野伏せりの襲来に怯える百姓たちが侍を雇って撃退する"という底流が淀むことなく、ただひたすら理路整然と、すべてのエピソードが渾然一体となって、徐々にその流れの太さを増しながら、怒涛のクライマックスに向かって突き進んでいきます。
「七人の侍」に原作はなく、その"神がかった脚本"(by 井上ひさし)は、前作「生きる」(1952)でもトリオを組んだ黒澤明、小国英雄、橋本忍(第一稿)の共同執筆によるオリジナル。そもそも、侍の一日を通して侍とは何かをリアルに描いた映画を作ろうという発想からはじまり、紆余曲折の末、このように大胆かつ精緻な群像劇が生み出されたそうですが(DVDのメイキング収録の橋本忍のインタビューより)、このあたりの構想の稀有壮大な膨らみっぷりというのは、まさに共同執筆というシステムならではの成果でしょう。
同じくDVDのメイキングでその一端が披露されている、共同執筆にあたって黒澤監督が準備していた、表紙に"七人の性格"と殴り書きされた創作ノートは圧巻です。映画に観られる七人の原型となる、見た目や性格やしぐさ、さらにはいかにも口にしそうなセリフの数々が、ときにイラストまで添えられて、事細かに箇条書きで綴られているのです。そしてそんな人物造形を見事に裏打ちし、物語を分厚くすることに貢献している、それ自体が抜群に面白いエピソードの数々...
「誰かが言ってたと思うけど、創造というのは記憶ですね。自分の経験やいろんなものを読んで記憶に残っていたものが足がかりになって、何かが創れるんで、無から創造ができるはずがない」
著書、「悪魔のように細心に!天使のように大胆に!」で、黒澤監督は自らの考えるクリエイティビティの本質をそう述べています。また「どですかでん」(1970)で助監督を務めた河崎義祐が、東宝時代の黒澤監督が病の床にあっても、「メシを喰わなきゃ、クソは出ねえ!」と言いながら枕元にうずたかく本を積み上げて読み続けていた、というエピソードを披露しています(キネマ旬報特別編集「黒澤明 集成」収録のエッセイより)。
「七人の侍」もまた、さまざまな"記憶"がその"足がかり"となっていて、これは原作をもたないオリジナル作品だからこそ、余計にそうであるのかもしれません。たとえば前半で繰り広げられる、あの、なんとも楽しい侍探しのエピソードのいくつかは、江戸時代に書かれた「本朝武芸小伝」をはじめとする剣豪伝がその元ネタ(村井淳志著「脚本家・橋本忍の世界」より)。子供を人質にして農家の納屋に立てこもる盗人を、勘兵衛(志村喬)が僧衣をまとって救い出すのは上泉伊勢守(この、冒頭で勘兵衛の実力をさくっと説明する語り口には、ジョン・フォードの「荒野の決闘」(1946)の影響も感じます)、物陰に隠れて木刀を構える勝四郎(木村功)を察知した五郎兵衛(稲葉義男)が、「ごじょうだんを」と破顔一笑するのは塚原卜伝、久蔵(宮口精二)が荒寺で浪人と果し合いをするエピソードは柳生十兵衛(ただし橋本忍はそのモデルは宮本武蔵だとDVD収録のメイキングで述べている)、というわけで、いかにもそのキャラクターに見合ったエピソードをうまいこと探し出し、加工し、そしてストーリーの一部として巧みに取り込んでいるのですね。
ロシア文学と「七人の侍」
また黒澤監督は、山田洋次と井上ひさしとの対談で、「七人の侍」の脚本の根底には、トルストイの「戦争と平和」、それにファジェーエフの「壊滅」があったことを述べています(「映画をたずねて 井上ひさし対談集」に収録の「『七人の侍』ふたたび」より)。
なるほど、彼我の兵力に圧倒的な差のある勘兵衛たちが野伏せり集団に対抗するヒット・アンド・アウェイ戦法は、「戦争と平和」において、"戦争のいわゆる規則からのもっとも明白で有利な逸脱の一つは、かたまりあっている人々に対する、ばらばらな人々の行動である"としてトルストイが称揚した、ロシアのパルチザン部隊による、フランス占領軍に対するゲリラ戦法そのものであり、いやそもそも、緻密にデッサンされた個性豊かな群像ひとりひとりの人間をめぐる多彩なドラマの連鎖が、ひとつの壮大な絵を形作る「七人の侍」の肌触りには、"現象の無数の条件の複雑きわまるからみあいを見きわめること"によって歴史上の事件(ナポレオンのロシア戦役)の全貌を描こうと試みた、「戦争と平和」の重層的にもほどがある読み応えに通じるところがあります。そして、そんなグランドデザインのお手本となっただけではなく、"創造は記憶だ"を実証して余りある、これらの文学から借りてこられたのであろう、具体的なセリフとエピソードの数々。たとえば、「戦争と平和」のこんなセリフ。
「おい!泣きごとを言ってもむだだよ!」(中略)「首をはねられてから、髪の毛を惜しんでもはじまらねえさ」(工藤精一郎訳)
ロシア軍が撤退し、フランス軍に占領されたモスクワで、兵士たちの略奪におびえる商人が士官に泣きつくのを見て、仲間の商人が口にする警句ですが、そう、それは言うまでもなく、「七人の侍」における、助っ人の侍たちが自分の娘にちょっかいを出すのではないかと心配する村人の万造(藤原釜足)を、"じさま"こと村長がたしなめるセリフ、「野伏せり来るだど!首が飛ぶっつうのに、髭の心配してどうするだ!」の元ネタでしょう。
あるいは、単身、野伏せりのねぐらを襲って"種子島"を奪ってきた、しかし手柄を誇るでもなく平然としている久蔵に、勝四郎が目をキラキラさせながら、「あなたはすばらしい人です。私は前からそれを云いたかったんです」と伝える場面は、「戦争と平和」において、戦場に憧れてやまない少年兵が、フランス軍の真っただ中に乗り込み、大胆にもその陣容をスパイして戻ってきた古強者に向かって口にする、「あなたは真の英雄です。ああ、なんというすばらしさだ!まったく感激です!ぼくは、ぼくは、大好きです」というセリフとそこに込められた感情、そしてシチュエーションをそっくりそのまま借りたものでしょう(黒澤監督は、前出の「『七人の侍』ふたたび」で、これに近い場面がファジャーエフの中にあると述べていますが、おそらく「戦争と平和」の記憶違いと思われます)。
また、ソビエト極東での国内反革命軍と日本の干渉軍に対するパルチザン部隊の闘争を描いた「壊滅」には、こんなセリフが出てきます。
「おれは百姓ってやつが嫌いだ、何だか気にくわない」(中略)「やつらはけちで、ずるくって...何もいいこたあありゃしねえ!」(中略)「なんだってびくびくしたり、ずるしたり、けちけちしたりするんだろう?」(蔵原惟人訳)
これもまた、どこかで聞いたことのあるセリフですね。そう、「七人の侍」で、三船敏郎演じる百姓出身の"偽侍"である菊千代が、"ホンモノの侍たち"に向かって泣き喚きながら百姓の心情を訴えるセリフ、「百姓ってのはな、けちんぼで、ずるくて、泣き虫で、意地悪で、間抜けで、人殺しだっ!」にそっくりです。しかしこのセリフ、「壊滅」においては、坑夫あがりの兵隊が、仲間たちに向かって、何かと反目しあっている農民あがりの兵隊たちに対する嫌悪の感情を吐露したもので、つまり表面的にはほとんど同じセリフなのですが、使われている文脈が、まったく異なっています。「七人の侍」において、「だがな、そんなケダモノつくりやがったのはいったい誰だ!おめえたちだよ!侍だってんだよ!」と続く、菊千代の血を吐くような反語的セリフの方が、意味合いはずっと重く、またその状況も遥かにドラマティックになっていて、しかも菊千代というキャラクターが口にするセリフとしてこれほど相応しいものはないというくらい、ぴったりです。換骨奪胎ここに極まれりというか、よくもここまで見事に一致するピースを引っ張り出してくるものだというか、"創造とは記憶だ"とはなるほどこういうことか、と深く頷いてしまいます。
とはいえ、博識であることが面白い脚本を書くための十分条件であるわけがなく、"記憶"という"足がかり"は、あくまで"創造"というマジックのほんの一部に過ぎないはずです。小国英雄、橋本忍、黒澤明という、一人でもすごい当代の名ライターが協同で、その膨大な"記憶"をぎりぎりと絞りに絞りながら、ああでもないこうでもないと取捨選択を繰り返し、そしてオリジナルな発想と飛躍でもって練りに練り上げたからこそ、ここまで分厚い面白さをもったシナリオができあがったのでしょう。
戦国時代の"プロジェクトX"
「...前は畑、田に水を引くまでは、どこからでも馬で攻められる...四方に備えるだけでも四、後詰に二名、どう少なく見積もっても、儂を入れて七名...待て待て、儂は引き受けたわけではないぞ。たとえばの話だ」
野伏せりから村を守ってくれという百姓たちの頼みを「できん相談だな」と断りつつも、勘兵衛はうなだれる百姓たちに背を向けて空を見つめつつ、問わず語りに戦術を考え始めます。この、勘兵衛という"負け戦ばかり"を経験してきた"運の悪い"いくさのプロフェッショナルが、なかば頭の体操として野伏せりとの戦いに思いを馳せ、ついそのフィージビリティ(実行可能性)を検討してしまう場面、自らの仕事に関することとなるとつい心を奪われてしまう職業人の生理が描かれていて、とても共感できるものです。
「七人の侍」は、"まったく名利をかえりみず、哀れな百姓たちの為に闘った七人の侍の話"(DVD収録の予告編より)なわけですが、自分も仕事をするようになってから観ると、ほぼすべての侍たちの"名利をかえりみない"ことのモチベーションが、"哀れな百姓"を救うという崇高な武士道的精神というよりもむしろ、困難な仕事に挑戦し、やってのけたいという職業人としての本能的欲求というか、いくさ自体に自らのアイデンティティを見出す侍たちの、自分が得意とする仕事にかかずらうことの悦びにあるように感じられたりもします。言い換えれば、勘兵衛の人柄に心服したという五郎兵衛と絶賛食い詰め中の平八(千秋実)はさておいて、武者修行中の勝四郎や"己を練り上げることに凝り固まっている"兵法者の久蔵、"ホンモノの侍"になりたがっている菊千代に「いいか、いくさというものはな...」が口癖の七郎次(加東大介)...とまあ、主人公の侍たちの半数以上が、困難ないくさそれ自体を求める思いをそれぞれ心のどこかに持った者ばかり、と思えるのです(そしてその方が、私の中ではむしろ、"名利をかえりみない"理由としての説得力があったりします)。そしてそんな思いは後半、侍たちが生き生きと、そして楽しそうに村人たちの訓練に精を出す様子を目にし、ますます強いものとなっていきます。
侍たちのチームバランスは実に絶妙です。精緻な企画力と大胆な実行力を兼ね備え、峻厳さと慈愛を併せ持ったリーダー、勘兵衛。リーダーが全幅の信を置く温厚なナンバーツー、五郎兵衛。高い忠誠心をもった古参兵、七郎次。圧倒的な業務遂行能力を携えた久蔵。実力はいまひとつでも"苦しいときには重宝な"ムードメーカー、平八(現実世界ではこの人が怒られ役だったりしますね)。使い走りをしながら日々成長を重ねる若者、勝四郎。そして困難を突破する型破りなエネルギーをもった異端児、菊千代...とまあこの七人の構成、戦闘集団としてどうか?というのはよくわかりませんが、仕事目線でみたとき、普遍的に有効なプロジェクトチームの理想型であるといってもいいのではないでしょうか。個々が自立心を持ちあわせた集団として、べたべたとしたところのない、さらりと乾いた彼らの関係は観ていて気持ちよく、いくさはともかく、こんな組織の一員として仕事をしたら、さぞかし楽しいだろうことよ、なんてことを思ってしまいます。
勘兵衛と五郎兵衛が村を見回りながら、村の見取り図を使って防衛戦術を論理的かつ具体的に検討する様子や、いよいよいくさが始まって、斃した野伏せりの数を正確に記録していく"きめの細かい"描写には、まるで困難なプロジェクトに挑む男たちのPDCA(計画、実行、評価、改善)をじっくりと描いたリアルなドキュメントを観ているかのような趣きがあります。それが意図したものであったかどうかはともかく、一体感のあるプロジェクトチームが困難な仕事に没頭しているときの、艱難辛苦をひっくるめたその挑戦行為自体に図らずも生きてる実感を味わってしまうかのような、あるいは金銭的な報酬とは無関係にやりがいと幸福を感じてしまうような、名もない"地上の星"((c)中島みゆき)である侍たちの心意気と心情が、画面の中に、巧まずして表現されているような気がするのですね。
そしていくさが終わり、勘兵衛が非業の死を遂げた四名の墓を見上げながら、「また負けいくさだったな。勝ったのは百姓たちだ。儂たちではない」と呟くラストシーン。百姓たちに三拝九拝で請われ、野武士たちと戦った彼らの戦前・戦中の浮き浮きしているようにさえみえた高揚感は、おそらく最後の野伏せりを斃した瞬間に、雲散霧消してしまったはずです。彼らの切ないところは、志半ばで仲間が死んでしまったことによって、困難な仕事をやってのけた達成感も、ひと仕事終えた打ち上げの悦びも、すべてが予め、帳消しとなってしまっていることでしょう。とはいえ誤解を恐れずにいえば、賑やかな鉦太鼓にあわせて田植えに精を出す農民たちと真に喜びを共有することができない彼らの外様としての悲哀感は、たとえ四人の仲間を失うことがなかったとしても、おそら拭い去ることのできないものだったように思います。この、侍たちが仕事の最中に感じる高揚感と自負心、そして仕事が終わった後に感じる不要感と疎外感...およそコンサル的な側面をもつ仕事をしたことがある人ならば、多少なりとも心覚えのあるものではないでしょうか。
クライマックスの豪雨はいかにして降り始めるのか
「椿三十郎」の記事にも書きましたが、ときに物語の雰囲気を盛り上げ、またときに登場人物たちの心理をわかりやすく託した、季節感溢れる自然描写のあれこれは、この映画においても実に鮮やかです。
時節は風薫る早苗月。前述の農民の喜びと侍の悲哀を象徴させた田植えの場面を始め、勘兵衛登場の場面でびゅうびゅうと吹く大風に音もなくわっさわっさと踊るように揺れる竹林や、久蔵と浪人の息詰まる決闘の背後で長閑に囀るヒバリ(「椿三十郎」のクライマックスとまったく同じ効果!)、あるいは村への道中、一行が休息する脇にどうどうと流れ落ちる清涼感溢れる滝の水音や、野伏せりの襲来を待ちながら、なすこともない侍たちを鬱勃とさせる五月雨。また勝四郎と志乃が出会うきっかけとなる、きらきらと輝くヤマツツジの群生に、村の防衛戦術とも深くかかわる麦刈りと田んぼの水入れ。そして勝四郎と志乃の燃え上がる思いを代弁するかのようにかっかと燃え盛るかがり火と、そんな詮無い思いに文字通り水をぶっ掛けるかのように、炎の上にぽつりぽつりと落ち始め、やがて土砂降りとなっていく雨――。この、夜半に降り出した恋の火消しの雨こそが、日本映画史上最高のスペクタクルといっていい、「残るは十三騎!これはぜんぶ村に入れる!」で始まる、こんなカオスをよくシステマティックに撮影できたな~と思ってしまう、あの泥田のような村の辻での人馬ともにぐちゃぐちゃとなった、最終決戦の土砂降りの降り始めだったりもします。
どの自然描写をとってみても、そのすべてが映像的に優れているだけでなく、ストーリー展開や登場人物の心理状態と密接に絡み合っていて、まったく感嘆してしまうことしきりです。そしてバードウォッチャーの端くれとして、ついついチェックせずにはいられない鳥の声。「七人の侍」では、前述のヒバリに加え、菊千代たちが野伏せりを捕縛しに向かった裏山でカッコウが爽やかな新緑の季節の訪れを告げ、そしてかがり火の焚かれた夜の森の中で、フクロウが闇の不気味さをいや増すかのように、寂々とした鳴き声を響かせています。
「ひゃはーっ!来やがった来やがったーっ!」
どこをとっても名場面ばかりに思えるこの映画ですが、特に好きなエピソードや場面がいくつかあります。まずは、なんといっても冒頭のイラストに描いた場面。茂助をはじめとする川向こうの離れ家三軒の住人たちが、自らの家を捨てて村を守らなければならないことに反発し、槍を捨てて集団から離れようとしたそのとき、勘兵衛が顔色を変えて刀を抜き放ち、立ち去ろうとする村人たちにだだだっと駆け寄ると、「己の事ばかり考える奴は、己をも亡ぼす奴だ!」と、裂帛の気合でもって彼らを列に押し戻す場面です。志村喬といえば、「生きる」の主人公の印象が強く、冴えないたらこくちびるのおじさん、というイメージだっただけに、この映画を初めて観たときは、三船敏郎ではなく志村喬の演じる勘兵衛が最重要人物であることに、少なからず不満を感じてしまったものです。ところがそんな思いは、腰を落とした姿勢で走り出す勘兵衛を見た瞬間、どこかへ吹き飛んでしまいました。それまで温厚一辺倒だった勘兵衛が、初めて歴戦のいくさびととしての厳しさを表に出すのですが、このときの志村喬が見せる威厳と貫禄たるや凄まじいものがあり、しかもその直前まで、菊千代のおどけた振る舞いに村人たちが笑い転げていただけに、この、黒澤映画にお馴染みといっていい、観賞者の虚を突いた緩から急への転換には、横っ面を張り飛ばされたような衝撃を受けてしまいました。これもまた、「壊滅」に元ネタらしき描写がありますが(パルチザンのリーダーが、命令に従わない部下に銃を向け、弛緩した部隊全体の空気を引き締め、兵隊たちの尊敬を勝ち取る)、やはり映画の方が、オリジナルに比べて遥かに印象的な場面となっているのですね。
そしてもうひとつ、山塞への奇襲で死んだ平八の土饅頭を囲んだ侍と村人たちがしょげかえる中、悲壮感漂う顔で利吉の家の屋根に旗を立てた菊千代が、西の丘に野伏せりの一団が姿を現したのを発見して顔色を一新、小躍りして、「ひゃはーっ!来やがった来やがったーっ!」と叫ぶ場面。それまでの沈鬱な空気が一瞬にしてどこかへ吹き飛び、戦闘開始の興奮が、一気に画面に吹きこぼれるのです。静から動への転換が鮮やかであるのは言うまでもなく、丘の斜面を駆け下ってくる騎馬軍団を超ロングで捉えた映像が、ダイナミックで素晴らしい。広い空を背景に、丘の頂上に並んだ騎馬の黒いシルエットが、あとからあとから雪崩か津波のように丘の草原を駆け下りてくるさまは、まさに"来やがった来やがったーっ!"という幕開けの興奮に満ち満ちていて、何度観てもわくわくさせられます。
それから侍たちが集まり、一路、村を目指して街道を旅するエピソードも、昔からのフェバリット。ほんの数場面、時間にして数分なのですが、知り合ったばかりの、しかし意気投合しあった六人の侍(と勝手についてくる菊千代)と百姓たちが、のどかな田舎道を和気藹々と旅する雰囲気は、まったくロードムービー好きにはたまらないものがあって...なーんて書いてると、いつまでたってもキリがないのでこのへんで。
* * *
というわけで、この記事を書いているうちに、いつの間にやら年の暮れも押し迫ってしまいました。勘兵衛のセリフではありませんが、「人間、ひょんなことから知己を得ることもあるだでな」というわけで、ブログをご覧いただいてる皆さま方におかれましては、今年一年、「シネマ・イラストレイテッド」にお付き合いいただきありがとうございました。どちらさまも、どうかよい年をお迎えくださいませ!
七人の侍 (英題: Seven Samurai)
公開: 1954年
監督: 黒澤明
製作: 本木莊二郎
脚本: 黒澤明/橋本忍/小国英雄
出演: 志村喬/三船敏郎/加東大介/宮口精二/稲葉義男/千秋実/木村功
音楽: 早坂文雄
撮影: 中井朝一
美術: 松山崇
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管理人: mardigras

イラストの躍動感も凄いなぁ・・・このまま動きだすんじゃないかとまじまじ見つめてしまいました。
「七人の侍」はほんとに、中身ぎっしりの見ごたえある作品だと思います。わたしもセリフが聞きづらいのには苦労したんですが、観終わったときの満足感にそんなささいな事は忘れてしまいますよね。
それにしても、初めて観たのがアメリカとは・・・日本に居たらもっと後になっていたかも!?
運命的な出会いですね(笑)